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2024-03-21 10:12

父の遺産

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父が亡くなった時、わけわかんないですよね。水族館から帰ってきたら、救急車が止まっていて、一生やすいに死んでいて。
正直言って、何言ってんの?って感じだったですよね。
それが、多分みんなそんな感じだったんじゃないかな。
だから、その鎮痛な空気を発祭なりに感じ取って、すっごいこれもまた何故か覚えてるんですけど、
私は、なんかここは泣き声を上げるべきだって思ったんですよ。
で、うわーって言ったんですよね。
それが、今この空間において正しい、私の取るべき行動だと。
父の8歳の長男であるところの私がやるのはこれだって思ったんです。
うわーって言って、だから涙とか出てないですよ。
それをすごく覚えてますね。
感情をそこで爆発させるべきだって、最初に考えてからスイッチを入れてやったのを覚えてますね。
そしたら祖父に、めちゃくちゃ優しい、怒られたことないですよ、一回も。
祖父に一括されましてね、「うるさい!」って言われて、すぐ黙って。
だって別に悲しくて涙が出るって感じじゃないんだもん。
あとはもう事の推移をひたすら見守るしかなかったですけどね。
なんかね、ここは動きの一瞬のところだけしか覚えてなくて、
全くおぼろげですね、その後どうなったのか。
ただ覚えてるのは、結局その父の墓っていうのは東京にあるわけですよ。
東京の人ですからね、世田谷の人なんで。
だから遺体を東京に運ばなきゃいけないんですよね。
それも手配したんでしょうね。
霊柩車には母が乗って。
霊柩車ですよ、やっぱり名古屋から東京に運ぶのね。
東京に行って、私はおじね、母の弟。
おじに妹と私は車に乗せられて。
小3の頃ってね、乗り物用意する時期なんですよね、三半期間が未発達だから。
だからすごい途中でやっぱり気持ち悪くなって、
サービスエリアでジュース飲んだの覚えてますね。
夜中だったな、あれな。
だからやっぱりその日じゃないのか、その次の日ぐらいにはね、
移動しなきゃいけなくて、通夜とか通りとかやんなきゃいけないですからね。
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そうか、てんやわんやだったと思いますけども。
ただ当時はまだ私の近くに頼れる人たちがたくさんいた。
祖父祖母がまず全然、母の父母ですね。
長屋の祖父祖母元気でしたし。
それから、年の子でいうといくつなんだ。
私が8歳だから、母は40ってないですよね。
父が死んだ時に39だから37とかですね。
お父さんお母さんが60いったかいってないかぐらいの感じだから、
それはまだ元気ですよね。
東京の方、つまり父方の実家の方にも父の弟がいるんですよ。
2人いるんですけれども。
がもちろん当然健在でいましたし、
父はもう亡くなってましたね。
父の母は病院に入院してたな。
東京型の手筈を整える人もたくさんいてくれたんで、
いろんな人に助けられてですね。
私の母代であるところの世田谷隆雲寺で葬儀が行われたんですけど、
葬儀の日のことは覚えてますね。
結構でかい葬式だったんですよ。
父は若くして死んでる39歳じゃないですか。
会社とかからもすごい東京新聞社ですね。
たくさん人が来ていて、でかい花いっぱい並んでて。
大きな葬式の、私はでも母の隣にいるわけですよ。
自分で今俯瞰してその様子を考えると、
写真とかもいくらか残ってて、全部処分しましたけど、
残ってたのを見ているので、
つまりもう少し大きくなってから葬儀の様子っていうのを
写真で自分の頭に記憶してるんですよね。
とにかく参列者の数も多かったですし、取材先も含めてね。
ああそうだわ、当時の父がね、警視庁公安団終わって、
芸能部だったかな、文化部か、文化部で、
今でもNHK放送センターっていうね、
渋谷区陣南にあるNHKの建物の中に
放送記者クラブってありますよね。
私は行ったことないんですけど、
放送業界、テレビですね、取材をする新聞の記者とかがいる
そういうところがあるんですけど、そこの所属なわけですよ。
だからね、その放送業界からの
花とか見物、すごい参列者の方も多かったわけですよね。
だからまあ多いんですよ。
やっぱりそういうね、現役時代に人が死ぬと
葬式にはたくさん人が来る。
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こんな言い方もなんですけどね。
だから寿命を全うした人っていうのは
比較的こじんまいした葬儀になるんですよね。
そのわたしは記者として葬儀っていくつも
外から眺めることになりますけれどもね。
っていうところがありますよね。
だから葬儀は切っちゃった方がいいです。
で、そういう葬儀がありまして
慌ただしく日々が過ぎていくわけですけれども
私はまた例の3年生のA先生の
女王の教室に戻っていくわけなんですけれども
夏休み開けた後からとかって
よくわかんない感じでしたよね。
まず母親はすごい忙しそうにしてるし
私と妹としては妹なんか1年生ですよね。
そんな母の様子を見てますから間近に。
それを邪魔しないっていうことが第一でしたし
それからひっきりなしにいろんな人が
うちに親族が来てましたよね。
父方の私のおじい、母方のおじいとかね。
私の様子は多分母方の婆ちゃんとか
見てくれたんじゃなかったかな。
なんかそういう横浜にいた時にも
見てくれてましたからね。
っていうね、もうバタバタですよね。
ただやっぱり東京では
暮らし続けることができないので
一旦名古屋に実家に引っ越すっていうね。
で名古屋で家を探すっていう形になりました。
ただだからね、これも本当にね
運命の綾って感じしますけど
父親はね、直前にね
生命保険に入ってたというか
正確に言うと額を上げてた。
なんか元々ね、1000万円の生命保険に入ったのを
なんか保険の営業を受けて
掛け金を上げて
直前にね、2000万だか3000万だかに
上げてるんですよね。
っていうのが一つと、あとね
家、マンションを買ってたんですよね。
時代はね、ちょうどバブルの前ぐらいですよ。
1983年とかですね。
80年代は本当にまだ土地神話とかが
生きている時代で
不動産って買えば必ず値段が上がるみたいな
時代なんですよね。
なので、うちの父も家買った時37とか8とかですよね。
私より全然若いですけれども
ローン組んで家買ってるんですよ。マンションね。
東京、上馬、三原寺や小間田の
ちょうど中間ぐらいにある
交通の便のいいところですよ。
電車の駅こそそんな近くにはないけど
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まあね、国道246号と
環状7号線、環7号が交差するところですから
夜回りとかは最適だったと思いますけどね。
上押し都交3号線も走ってるっていう場所でしたね。
新聞記者らしい、なんか家の選び方だと思いますけど
買ってんですよね。
買った直後に死んでるでしょ。
団体信用なんとかに入ってるから
ローン防引になるんですよ。
あれ生命保険なんで。
当時買ってさらに値上がりをして
そんな大したマンションじゃなかったですけど
今もありますから、住人の方に失礼ですけど
売れたというか、まあ売れたんですよね。
なんでその母子家庭としてはですね
金銭的な不自由というのは
あまりない状態になったっていうのが
おそらく父がね、最後に私に残していった
ものっていうことなんでしょうね。
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