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2024-06-19 10:12

祖父の影響と雑誌

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さてですね、この本の話、雑誌の話ということになるとね、私の母方の祖父の話をもう少し詳しくせねばなりますまい、と思いますね。
何をどこまで話したか忘れましたが、名古屋に転校しました。小学3年生の二学期です。
しばらくはですね、家探しもしなきゃいけないということで、あと母にとってはね、職探し、これが一番肝心ですよね。
それまでは節約をしなきゃいけないというようなこともあり、あるいは生活の立ち上げが必要だということで、一度にあれもこれもできないですからね。
大変だったでしょうね、一人で職を探し、家を探すってね。
しばらくは祖父の家に預けられていましたし、住んでたんですよね。
あれが初めてだな、じいちゃんばあちゃんと住むっていうね。
じいちゃん家は、だから祖父と祖母が二人で住んでたわけなんですけれども、祖父と祖母はこれは喧嘩が絶えず、というか祖母が一方的に祖父を罵ってる感じでしたけれどもね。
あの時代の人って結構気強い人でしたけれども、祖母もね。最初はそんなことはなかったらしいですよ。
嫁入りの時代ですからね。
で、おとなしくしてたのが、だんだん年を重ねるにしたがって、ちょっと性格が荒っぽくなっていったというか、地金が出たというか、みたいな感じのようですけれども。
それももっともね、祖父の問題もあるようなんで、あんまり詳しく知らないですけれどもね、仕事もあんまりちゃんとやっていないような感じの人だったそうなんで、無弁なのかなというところもありますが。
私が知っているところで描写をしますと、祖父は基本的にちょっと太った感じの人で、白髪頭で、髪の毛がたくさんありましたね。
祖母はもう痩せぎすっていう感じでしたね。
で、祖父は自転車に乗っちゃ、ヨロヨロヨロヨロと乗ってっちゃ、近所の商店街にある本屋さんに行くっていうのが楽しみなんですよね。
祖父の楽しみといえばね、本屋に行くことと写真屋に行くことだったんですね。
飲む、使うは全然やらない人だったんですけれども、だからパチンコに行ったりもしませんでしたが、とにかく写真をまず撮りまくってましたね。
何人かと写真撮るんですけど、ど下手くそで。
カメラ何使ってたのかな、いわゆるコンパクトカメラで、当時のフィルムカメラですよ。
で、撮ってたんですけれども、まずピントが合ってないし、そもそもピントを合わせる気がないんじゃないかって感じでね。
で、年取って太ってもいるから動きがそんなになんか、いわゆる自分の座ってる、いつもドカッと座ってるソファーみたいなのがあるんですけど、そこから撮ってるだけだったりするんで。
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本当に素人のろくでもない写真。写真屋はね、現像するだけ儲かるもんですからね。
しかもどうでもいい写真を焼き増ししたりして、私にくれたりするんですけど、いやいらねえよっていうね、アルバムに入れておくのももったいないみたいな写真しか撮らない人でしたね。
当時はね、いや今やもうこのデジカメの時代なかなか考えられないですけれども、フィルムを現像するのにもそれなりにお金かかってましたからね。
まず根がつくって、そこから焼き増しする枚数とかを決めていくんですけれども、1枚39円とかね、安いところでも19円とかそういう時代ですからね。
もちろん大きく引き伸ばせばお金はたくさんかかるっていうことで、よく儲かったんじゃないですかね。
同じように儲かったであろうというのが本屋さんですね。
とにかくね、たくさん買ってくれるっていうので定期的に本を届けてくれてましたね。
そんな大して1キロぐらいしか離れていないような本屋さんでしたけれども、行かなくてもね。
なんか江戸時代の本とか好きでよく読んでたみたいですし、教養ある人なんですよね。
なんかその私の中でウルトラクイズブームが起きたときに、家族でウルトラクイズのボードゲームみたいなの買ってきて早押しで競ったりしたことがありましたけれども、
結構突然山本勲って答えたりしてね。経験と知識はあるんでしょうね。っていう祖父でしたね。
江戸時代の本とか私全然興味ないし、歴史の本が好きでしたよね。お城がどうとか武将がどうみたいなやつ。
あと日露戦争がどうみたいなやつ。そういうの私全然興味ないんで。
ただ祖父が買ってくる本の中で私が興味あったのは週刊誌ですね。
週刊文春、週刊新潮、週刊朝日、週刊サンデー毎日。この4誌は必ず毎週うちに来てたんで、それは目を通してましたね。
小学校、高学年だけど、グラビアのページ。グラビアってあれですよ。グラビアモデルのグラビアじゃなくて、文春のグラビアって今でもそうですよね。
トップの方ってその時々の事件であったり出来事であったりのグラビアですよね。写真がでっかく載ってる。
そういうのを見たりとか、あとあれですよ。本田克一の貧困なる精神っていうのを最初に読んだのはサンデー毎日でしたね。
よく読んでましたね。ただ中学校時代にはもう明らかに私は週刊誌からネタを仕入れてましたから、それをクラスで喋ったりしてましたね。
そういうのを楽しみにしていた。誰も読んでないですからね。週刊文春とか週刊朝日とか。
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出来事ロジーとか載ってるやつを読んじゃ友達に披露したりして、えつにいってたっていうね。大人っぽく振る舞ってたっていうところでしょうかね。
あとは、これちょっと前に話しましたけれども、古い漫画があったんで。しかしあれ誰が読んでたんだろうな。
昭和40年代の漫画があったってことは、うちの母は昭和22年の生まれなんで、おじがいますけれども。
姉弟なんですけど、上が母で下におじがいてっていう姉弟なんですが、おじと2歳差か。
いずれにしても昭和40年代には2人とももう大学生以上になってるはずなんで、漫画を読む年じゃないですよね。
おそらく祖父の趣味で変わってたんですよね。週刊少年サンデー。週刊じゃねえのかな。何なんだろう。
なんかそういうサンデー。だから主だった作家さんとしては、やっぱ藤子不二雄先生ね。
お化けの九太郎、ドラえもんはなかったですね。お化けの九太郎となんだっけ忘れちゃった。
何故か私が職種が動かなくて読んでないのが伊賀野陰丸ですね。伊賀野陰丸は横山光鶴先生は。
それからね、それから何だっけ。赤塚不二雄はすごいあったよな。天才バカもん、尾瀬松君とかね。
石ノ森翔太郎先生。石ノ森翔太郎時代ですね。石ノ森翔太郎からまた石ノ森翔太郎に戻ったんでしたっけね。
サイボーグ009とかあの辺とかですかね。漫画はいっぱいそう。
加藤芳郎先生、俺はお化けだぞ、千匹の忍者とかね、おなじみの。
もう全部それ祖父のおそらく持ち物ですね。
なんか当時祖父は漫画に対する興味は失ってたみたいで、別に好きに読んでいいっていうことだったんで読みまくってましたね。
で、その祖父の家ってなんか変な構造していて、何だろうな、おもやと離れみたいなのに分かれてたんですよ。
離れの方の2階に祖父はベッドがあって、そこで寝てたんですけど毎晩。
なんかもう離れの方がぐちゃぐちゃでね、ってかだいたい全体的にぐちゃぐちゃなんだけど物がいっぱい溢れてて、昔の人って物捨てられないじゃないですか。
なかったんですよ。
だから包装紙、包み紙の類から、たまにお中元だ、お聖母だって言ってもらい物をして、これもね、我が家にも今は一個も何にも来ませんし、こちらからも送りませんけれども、
糊の缶詰だ、クッキーの缶詰だみたいなのが来るわけですよね。
そしてその缶はまず捨てられないし、缶を包んでいるデパートの包装紙なんかも綺麗に取っておくっていう、そういう世代の人たちですから、
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まあとにかく家の中に物がいっぱい、ちょっとした景品みたいなものからですね、おまけでついてるおもちゃみたいなものからですね、何から蟹からいっぱいあって、手のつけようがない。
さらに家は古いものですから、ネズミとか夜になると走り回るような家でしたからね。
庵が汚いし、基本なんか床とかも油切ってますしね。
よく祖父が祖母に、ああ本当に油ままかかってきてとかってよく怒られてましたけれども、そういう家だったんでね。
ちょっとした引き戸にね、いつも祖父がチョコレート菓子とかを、安いチョコレート菓子ね、かばやとかのやつを入れていて、
それを我々がまたごり食うんで、母にも怒られてね、あんたがそんな風にお菓子あげるもんだから、うちで夕ご飯食べやしないじゃないのって言われたりとかね。
なんかそういう家でしたね。
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