1. 神田大介の経験
  2. 水泳はできた 足は遅かった
2024-06-03 10:05

水泳はできた 足は遅かった

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私とスポーツっていうことでね、少しお話をしようかと思うんですけど、皆さんスポーツを好きでしょうか?
見るスポーツ、やるスポーツっていうのはね、それぞれありますよね。 私は、前にも言いましたが、とにかくスポーツは苦手というか、運動神経が悪いっていうね、言い方を今でもするんでしょうか。
まあそのような子供でしたね。 まず太ってたってのはありますけどね。いつから太ってんだろうな。かなりでも幼稚園児時代からすでにそういった傾向はありましたよね。
肥満児的なね。でね、最初に多分スポーツをしたのは、小学校よりも幼稚園だ。もう幼稚園の年長さんの時には、私も水泳教室っていうのに通ってましてですね。
で、それがね、私当時神山ってところに住んでたんですけど、スイミングスクールは駒沢にあったからバス乗って行ってたよな。
なんかね、スイミングスクールで何をしたかよりも、そのバスに乗っていたっていうことの記憶の方がありますね。東急バスに乗られてね。
四分十一あるいは四分十二ですよね。渋谷駅を出発して田園町府に行くバス、もしくは双子玉川園行きのバスに乗ってね。時には多活営業所行きもありましたけどね。
知るかよって。2465線、そういうのがあってね。なんかそういうスピードで持ってですね。スピード?バスで持ってですね、行きまして。
で、習ってました。だから水泳は私は昔から得意ですね。たぶん小さい時から習ってたっていう以上で何も理由はないと思いますけれども。
なんで、小学校になると学校のプールがあるじゃないですか。スイミングスクールはね、ドルフィンクラブって名前だったなぁ。
屋内のね、プールだったんですよ。それに対して学校のプールって当然炎天下なので、そういうところでやるプールってまたこれ気持ちがいいですよね。
夏休みなんかに水泳するってのは実に楽しいものですよ。そう、だから夏休みは毎日のようにプール行ってましたね、学校のプールにね。
ただらしいね、なんせ。で、泳ぐことは得意だったので、何でもできるじゃないですか。
なんかそうだなぁ。旧があるんですよね。つまり平泳ぎができると南旧みたいなやつ。クロールができると南旧みたいなね。
で、それが終わるとダンがあって、ダンっていうのかなぁ。なんかね、うちの学校の場合、三原寺小学校の場合は赤い線、黒い線を水泳キャップにつけていくっていう、そういう仕様だったんですよね。
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なんかしらその、よくわかんないですけど、帽子は確か黄色かったかなぁ。黄色だと思います。
これどう説明するんだ。なんか布、テープ違う。細長い布ですよ。例えば靴紐みたいな。紐か、紐って言えばいいのかな。
紐、紐じゃないんだよなぁ。でも短い。指の関節で言うと2本分ぐらいの感じ。2関節分ですよね。ぐらいの感じの長さの紐。幅としては多分靴紐とそう変わんないですね。
水泳キャップに縫い付けるっていう。わかりますかね。なんかそれが、だからあれですよ。第二次世界大戦とかの撃墜をって呼ばれている人たちなんかが、飛行機の機体に、Fなんとか戦闘機の機体に、撃墜した数だけ星のマークを入れるみたいなのがあるでしょ。
ああいう感じで帽子に紐でマークを入れるっていうのがありました。これが最初赤で始まって赤い紐を入れるんですけれども、それが黒い紐に変わって、黒4。だから赤1、赤2、赤3、赤4から黒1、黒2、黒3、黒4。黒4っていうのが4本黒い線が入ってるっていうのがもう最高なんですよ。最も優れた泳ぎ手っていうことですね。
ここに私はもう到達していたので、そこからはさらにスピードの勝負になっていくんですよね。フェルトを海パンに縫い付けるっていう方式になって、そこは私はいかなかったんですけど、黒さんが確か500メートルを泳ぎ切るなんですよ。
途中休憩とかなしにひたすらターンして500メートル泳ぐだったんで、それはできましたね。小1か小2でできましたね。だってたくさん泳げばいいんだもんね。だから当時から私はそういう瞬発力タイプではなくて、どっちかというと持久力型だったのかなって気がしますけれども。
だから胸板は最初から、小さい頃から厚かったですね。単純に太ってただけじゃなくて肺が大きかった。それは後に高校生になってからですね、肺活量の測定をしたときに、私多いんですよ肺活量が。いくつだったかな、6000メートルまではいかないんですけど、5500メートルみたいな感じだったんですね。
これは結構大きくって肺活量としては、おそらくは水泳をやっていた影響なんじゃないかなというふうに思いますね。という水泳をやっていたのがおそらく習い事で運動をしたっていうことの始まり。
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皆さんご存知の通りですね。小さい頃、幼稚園小学生、男子のヒエラルキーを決めるのは足の速さ、かけっこの速さですよね。かけっこ早かった記憶はありませんね。幼稚園の時に3位、3位というのは4人中3番目ということですね。
ビリじゃなかったぐらいのことで、年中が3位で年長が4位だった気がしますけれども、とにかく足が速いってことで褒められたことはないですね。ビリか、ビリの一個でブービー賞みたいなことですね。
何でしょうね、足が速いとかっこいいっていう風潮はね。そんな調子だったんで、ただ確かに脚力っていうのは色々なものを象徴しているのかもしれませんけれども、走り高跳び、走り幅跳びみたいなことも何もかもね。
あとだから体操がありますけれども、マットで前転したり後転したりとか、あと鉄棒、縄跳びとか、軒並み全然ダメでしたね。何なんでしょうね。どういうことなんだと思いますよ。
だってみんな苦労せずにやれてることを俺はめちゃくちゃ苦労しなきゃできないわけじゃないですか。逆上がりの練習したな、小2の時めちゃくちゃやりましたね。結局できなかったですもんね。あんな練習したのにね。できるやつはクルクルクルクル回るじゃないですか。
でもなんでもそうなんでしょうね。音楽とかね。歌は歌うのとか私得意でしたからね。勉強はそうですよね。勉強は私は別に誰に教わらなくてもできるんだけど、全然やってもやってもできないなっていう考えてみればね、体育なんてできなくったってね、お給料はもらえますけれども、よっぽど特殊な職業でもなければね。
あれだけど勉強できないとな、就職試験に受かるための入試、大学入試、高校入試とか大変ですからね。そういう意味でありがたいってことなのかもしれませんけどね。
だから運動は苦手っていうような記憶しかないんですよ。別に苦手、嫌いだったわけじゃないんですけどね。なんかよく体育嫌いな人っていますよね。別に私もそう好きじゃないけど、あんまり体育の授業が来るのが嫌でしょうがないみたいなのがあったかと言えば別にそういうことはなかったですね。
運動会とかも活躍をする場ではないんだけど、運動会が嫌いかって言うと別にって感じですよね。なんだろうな、好きでもないですけどね。
ただ騎馬戦とか、一応自分のポジションが与えられると、騎馬戦とか自分が馬になるわけですよね。体が太ってたこともあったし、身長も後ろから3番目か4番目ぐらいが定位置だったんで、でかいんですよ。
どうすると、騎馬戦みたいなのではそれなりに居場所があったりするし、嫌いではなかったですけどね。活躍の場はなかったな。ただそれで拗ねるとかもなかった。劣等感もあんまり感じてなかったっていうのはどういうことなんですよね。感じろよっていう話ですよね。
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なんか早く走らなくて泣いたとかっていう記憶は全くないですもんね。淡々と事実を受け入れていた感じがしますね。そこは別に活躍できなくてもいいって思ったのかな。
子供の世界では、足が遅いとか運動ができないとか、結構致命的にヒエラルキー低くなるものなんですけど、当時からあんまり私ってそういうヒエラルキーの拉致害にいるというか、なんかみんなの輪の中にあんまり入ってないんですよね。
よくないですよね。だけど事実そういう生き方をしてるからしょうがないですね。
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