怒りの話。
怒りの話。
そうそう、私が怒り。
そうね、あの循環ですごい大事にしているのがすべてあるっていう世界観っていうところなんだけども、
何だろうな、吉田さんがその原理っていうタイトルで残されているドキュメント、
私今日拝見してて、そこに怒りについて書かれているところがあったんですよね。
私普段多分怒りまくっていて、いろんな人に、社会に対してとか自分に対してとかっていうところに結構怒りを感じていて、
それを怒っちゃいけないっていうことを思うことも、なんか良くないって思うのもなんか違うなっていうのを思ってた。
なので、怒っている自分を受け入れたいなっていう気持ちで普段過ごしてたんですけど、
そこには人の究極の幸せの状態は怒りがない状態であるっていうふうに吉田さんが書いてあって、
それについていろんな話を今してたところかなっていうふうに、
最近のサイン戦の候補者の人が怒りで本当はすごく世の中を良くしたいという思いでやってるんだけど、
怒りに任せてやってるがためにそこがあんまり伝わってないというか、
エネルギーを下げてしまうようになっているんじゃないかっていう話だったりとか、
それで怒りについてこのデキャンターを、吉田さんがこの仕組みについてお話しされていたりとか、
怒りをすることによって、怒りという形で自分のエネルギーを発揮することによって積んでいた徳が全部なくなってしまう。
だから発揮の仕方は全部変えたほうがいいんじゃないかっていう話をされたんですけど、
ちょっとその辺をもう一回。
もう一回。
いやいや、もういいよ、そういう無自然な流れで。
もう一回じゃなくていいですし、今湧いているものをシェアしていただければ。
怒るっていうことを我々のエゴは肯定したいんですよね。肯定したがる。
だから怒りは苦しいから苦しみを発散して、そして自分が楽になるっていうことは肯定したいわけです。
しかし怒るっていうことと、自分の心とか意識のシステムをそのままあるがままに眺めてみると、
怒るっていうこと、もし我々が幸福というものを目指すならばより自由であり、
そして平和な存在になる。
そして知恵のある状態になる。
そして至福を感じられるという状態に向かいたいと思うのであれば、
怒るということは完全に無意味である。
怒るという手段は完全に間違っている。
それを理解した。
怒るというのはエネルギーが溜まっていて、
このエネルギーというのは純粋なエネルギーだから別に良いも悪いもない。
全ての創造的なエネルギーなわけです。
でもそれを怒るという手段で発散してしまう。
エネルギーが溜まっているから苦しくて、エネルギーがパンパンになっている。
自分の中にパンパンに溜まっている状態になっていて、
だからこそこのパンパンになって苦しいからそのエネルギーを抜きたい。
少し楽にしたいと思っているわけだけど、
我々の器が小さすぎるからこのエネルギーはすぐに溜まってしまって、
そして低い状態にあるからすぐに怒りという手段になってしまう。
怒ればそこからエネルギーがぼっと漏れるから、
この充満していたエネルギーの溫度が少し圧力が下がって楽になったというふうに思うわけだけど、
でもそれはその怒るということで人を攻撃したり、人を貶めたりするという、
人を苦しめる、自分の苦しみを相手に渡すわけ。
相手に受け取ってもらうということをやることでそれがなされるわけだから、
この世の中の仕組みとしてはやったことはやられるという構造になっているから、
それをやればまた誰かから、誰かの苦しみを私は引き受けなければならない。
誰かの怒りを私のお子さき、お子さきとして私は受け取っただけで、
それをすることは幸福なことにはなりません。
誰かの怒りが私に向いてくるわけだから、それは幸せなこととは言えません。
苦しい状態になります。
だから自分から誰かを痛めつける、自分の怒りを誰かに向けるということはやることに根本的に意味がある。
自分の幸福を目指すな。
自分に良き現実がもたらされるということを望むならば、
誰かを怒り攻撃して打ち負かすということをどれだけ努力したとしても、
どれだけ勝ち続けたとしても、それは一時的なものに過ぎる。
決して絶対的な至福には至ることはない。
だから無意味なんだ。
私はアンガーマネージメントという言葉が嫌いなんですね。
いろんな嫌いなものが言われています。
怒りを否定されるというのもちょっと違和感を持っていたんですよ。
でも我慢することと違うとおっしゃっていたじゃないですか。
怒りを我慢すれば我慢することが強化されるから、
怒りはあるということをちゃんと自分で受け入れる。
受け入れるというのは、さっき90秒間我慢するということではなくて、
待つということじゃないですか。受け入れるということ。
消えてなくなっていくんだから、それをただ見てもらう。
見るっていうことですね。
さっきのロックンロールの話じゃないですけど、
それ自体美しいものってあるっていうふうに私は思いたいというか、
最近えみさんって田原雅人さんの奥さんが書いた名前が
夜空、夜をめくる星かなっていう最新版があるんですけど、
風舌があるんですけど、そこの主人公は
すごいドロドロとした色んな諸説なんですけど、
要は人を殺すまでは行かないんですけども、
速攻の手前まで行くような、そういうようなシーンとかがあって、
あまり言うとネタバレになっちゃうかもしれないですけど、
でも速攻自体をやっぱり自分の中にずっと鬼を飼ってるっていう風に
私は捉えてて、私もそういう鬼があるっていうこともあるし、
人を殺したことはないですけど、
自分にもそれぐらいのものがあるなって思うこともあるんですよね。
で、その時にその主人公に寄り添った人がいて、
寄り添った人、あまり言うとダメだな、寄り添った場合になっちゃう。
寄り添い方としては、要はそんな怒りなんかないよとか、
お前は鬼になっちゃダメだよっていう寄り添い方じゃない、全然なかったんです。
彼女は美しいっていう寄り添い方だったんです。
だからその鬼である自分自身を受け入れるというか、
なんかそういうこと自体が、私は大事にしたいというか、
鬼である自分自身も自分の一部として受け入れるっていう、
美しいっていうのはね、いろんな主観というか、
人によって感じ方が違うと思うので、
絶対受け入れられないっていう人も絶対いると思うんですけど、
なんかそういうこともあるんだっていうことを、
自分は受け入れたいなっていうのがあって。
そういう目、そういうふうに見えるような自分の状態を作っていくということですね。
そういう状態があるんです。
どんなものを見ても美しい、歓喜であるというふうに感じられる意識の状態ってのがある。
それはそれを経験したら、本当にこの世の中に神しかいない。
それをブッダとかも経験してるわけですよね。
経験してるけど、その時代の市民っていうのは、
それをうまく理解できなかったから、
ブッダが神について話をしなかったこともある。
でも、ブッダが神を見てると知ってる、そこまでが一定なんです。
だからそういう状態に自分の心の中、
心の純粋性、透明度を引き上げていくということをやっていくと、
その鬼のあなたが美しい、
でありたいなと思うんですけど。
手法としてはきっと効果があるような気がします。
そういうふうに考えること。
無限が作られている中でもそんな感覚ってあるんじゃないかなと。
そうですね。そんな感覚。
でもなんかね、怒ってる人を描くのも好きなんですよ。
出てくるんですか?
出てきますよ。いますよ。
怒ってるっていうか喧嘩してる風の観光客のカップルみたいなの。
で、面につくじゃないですか。
それ見るとおもろいなと思って描きたくなるんですね。
ちゃんと盗撮して描くみたいにするんですけど、
描いてるとなんか別にかわいく見えてくるじゃないですか。
なんか面白がれるっていうか、
怒ってる人を見て面白がれるじゃないですか。
なんかそういうことはあって、
で、そうなると自分が怒るときあるじゃないですか。
なんでこういうことすんだよって。
子供がなんかジュースこぼすの分かってて、それやる。
なんでだよって思ったときに、
無限が的な目で自分その自分を可愛いなって思って眺めてる自分がこう出現して、
なんか面白がれるっていうか、
みたいなことはあるなと思って。
怒ってる自分面白いって。
そうそう面白い。
怒ってる自分を空から眺めて、
可愛らしいなって思う。
違う自分みたいな。違うっていう感じ。
なんかそういう無限画を描き続けることで、
なんかそういう目をふってすぐに出現させる筋肉を鍛えてるみたいな感じもありますね。
ちょっと思い出しましたこの無限画のイベントやったときに
みんなで無限画を描いてるみたいなワークをしたときにも。
やっぱりその視点で無限画はあれですよね。
自分の目線での世界を描くっていうよりかは、
本当に宇宙から自分の部屋を眺めてみる。
見たときにどんな風に見えるかってことをイメージしながら、
自分を描いたりとか自分部屋の様子を描いたりとかってするっていうのをして、
こんな風に自分を捉えるっていうか、
メタ認知ってよく言うと思うんですけど、
そういう言い方で自分を見ることってそんなに知ってないだろうなって思います。
いかれるように浸透しているのは、
視観的に感じている自分も、
そのときはそのときで生きてるって多分思っているから、
自分も多分感じているかもしれないなって思いつつ、
やっぱりそこに入りきらないんですけど、
そうやってメタ認知して、
それをやっても無意味だよっていうのは、
多分こっちの自分も思ってるんですよね。
同時にあるんですよね。
今のコーチングの手法そのままなんですけど、
怒りとかを感じきって、
でもずっと感じているのがしんどいので上がってくる。
その後客観にしてもらうんですね。
部屋の外から見たらどうとか、
日本の上空からとか地球からとか、
そうすると全然みんな違う視点が生まれてきて、
結構そこからじゃあどうしたらいいかというと、
前向きな思考が生まれてくるっていうのが、
結構めっちゃ一般的なコーチングの手法で、
それって聞いてて、
自分のエゴとか観念にまみれた今の私じゃなくて、
本当の本来の自分はどうしたいと思っているのか
みたいなところにたどり着く、
ひとつのいい工夫、
そういうのがあったと思いました。
なんか今聞いてて思ったのは、
神画、神画が何かちょっとわかんないけど、
無限画描いてる時、
無限画っていうのは視点と光源がないんですよ。
だから視点、普通にお絵かきすると視点をまず決めて、
消失点決めてそこに線が全部収束していくみたいな、
アイレベルを決めてみたいなことをやるわけです。
その手続きを踏まずに、
視点がないままリアルをそのまま描こうとするっていうのが、
無限画法なんですけど、
昔はそういう絵をずっと自分で描き続けていて、
近代以前はもうそういう絵しか描いてないんだったけど、
近代になってからパースとか視点とかEA法みたいなのが、
やり方が確立されて、
そういうふうに僕らは今絵を描くようになってしまったが、
それ前の目を取り戻したいなと思って、
無限画描いてるみたいなことがあるんですけど、
何の話しようとしたんだっけ、
無限画、何の話しようとしたか忘れちゃった。
真画?
そう、真画。
無限画的な目で世界を眺めてるっていう状態の自分は、
自分なんてないっていう状態なんです。
自分がない。
なんかそんな本があったぞ。
自分がないっていう、本当はないんですよ。
本当はないんだけど、
その本当はないっていうことを改めて確認してる状態に、
無限画を描いてるっていう。
自分を空から見て、
自分の絵を描いてる自分の姿を描いてるっていう時には、
しかもパースを描けてない画面に。
だから視点がない。
ある意味神の視点がない。
でも逆に全部見えてるみたいな。
全部見えてる。
ですよね。
はい。
っていう、その自分、
自分っていうのも違う気がするんですよ。
それが神画なのかなって今話を聞いてて、
思ったっていう。
じゃあ神画って我って書いてるけど、
自分じゃないっていう。
全問答みたいな話ですけど。
自分じゃないっていうか、
すごいぶっちゃけ、
魂の源みたいな、
神様みたいな感じなのかなって。
で僕、なんて言うんですか?
どうぞ。
うん、そうですけど。
なんかその神画との領域って、
たぶん魂の形って一人一人違うのかなっていう風に思っていて、
だからその人がどういう風に生きてる、
生きる方向性ってたぶん一人それぞれあるんじゃないかなって思うし、
どこで生きるかもそうだし、
どういう人たちとコミュニティを作るかもそうだし、
その方向ってなんかそれぞれ、
生きるっていう次元はここのデータの中身の話だから、
だから生きるっていうことは死ぬこととセットでしょ。
生きるとか死ぬとかを脱ぎ捨てたところに死んだ。
うん。
生きてないし死んでない。
それを永遠の命とか言ったりする。
うん。
生きてないし死んでない。
それを永遠の命とか言ったりする言い方もあったりするけど、
それもまた根本的な肉体を持った我々の感覚からすると超越してるから分からない。
だから神話というものを定義しようとすると間違う。
定義できない。
我々の脳みそではちょっと。
形のあるものではないから。
形のあるものは定義ができる。
形があるっていうのは輪郭が取れる。
そして他のものと分けることができる。
それは全部定義ができる。
それはそれぞれに理由を見つけることができるけど、
神話ってのは理由がない。
理由がないところに生じてる。
理由がないところから我々はこの現実というものを見てる。
理由のない光のようなもの。
光源そのものであって、
我々は光源を通じてその光のフィルター、データ、
心のデータを通じてこの三次元に物質を見てる。
物質的な世界を見てる。
三次元テレビの中に我々は三次元テレビを見てる。
我々のこの人間社会のテレビは二次元で、
私はまさにテレビを見てます。
テレビの枠があるけど、
神が作ったテレビの中に我々いるから、
中というか彼が作ったテレビを見てるから、
三次元、四次元のテレビなんですね。
だからこういう、これまさにテレビを見てるんですよ。
そこには我々の心のデータが流行するようになってる。
心のデータを変化させていくと、
この現実の見え方が変わる。
周りにいる人々が自分に攻撃的なのか、
あるいは貢献的なのか、その姿が変わっていく。
それは自分のあり方と、
交互するように変化していく。
自分がどんな存在かによって、
この世界のいる人たちの存在も変化する。
だから自分自身を変化させることが、
世界を変える鍵であるということに繋がっていく。
いろんな話をしてきたんですけど、
全部スピリアちゃんの話でしょみたいなので、
片付けられたら、トークこれまでだなと思っていて、
でも今自然科学とスピリチャルの世界が出会っているというか、
交差してきているというのはあると思うんですよね。
その辺をうまく融合させていくというか、
どういう風に捉えていくということが大事なのかね。
両方収めることですよね。
この自然科学も理解する。
人間が作り出している社会という科学、
社会的な、社会学的なものも理解する。
つまり人間の関係性、社会の関係性みたいなものも理解する。
それと同時に霊的な、スピリチャルなものも理解する。
それはそれぞれ実践することで、
知識で学んで霊的なものって何か理解はできないんですよね。
あるいはそのまま理解すればそのまま、
ちょっと途中から話が無くなっちゃったんだけど。
いい話だったんだけど。
いい話だったんだけど。
みんな帰ってきた。
僕も一人でよかったね。
後で聞かないと。
ちょっと途中からこうなったけど。
すごい難しそうな感じもするけど、
両方収めるっていうのは難しそうな感じもするけど、
でも要は好きなことをやればって思うんですよね。
本当にやりたいことをやるっていうことを通じて両方収まる感じがしていて。
僕の場合はそうだったかなと思って。
例えば、僕はお絵かき大好き人間だから子供の頃から。
だからお絵かきを通じていろんな世の中、
目の前にあるものをかっこいいなって思って描くじゃないですか。
描きながらかっこよさが外れていくんですよね。
意味が外れていくみたいなことがあって、
っていうのを繰り返して世の中から意味を外していったみたいなこともあるし、
同時に描きたいものを描く前に、描いた後にかもしれないけど、
それのことをよく調べるとか、分析するとか、
どういう意味があったのか後から解釈し直すみたいなこととか、
あとは海外の理論を学んで、科学的な光のことを学ぶとか、
マテリアルのことを学ぶみたいなこともやるんだけど、
そういうことって僕はお絵かきを通じて両方やらなきゃいけなくなった。
好きなことを追求するためには、いろいろなことがあったような気がしていて。
それは音楽が好きな人は音楽を通じたそれをやると思うし、
いろんなスポーツが好きな人はスポーツをしているとか、
大好きなことを突き詰めてひたすらそれをやるみたいなことを、
もっとまっすぐやればいいじゃんみたいなことは思っていますね。
それ考えるとさっき吉田さんがおっしゃってたようなことって、
好きなことって結構魂が来るというか、
勝手に自然にそうなっている、宇宙の原理原則じゃないんですけど、
その方向に向かって生きているみたいな感覚に近い気がするんですけど、
そうすると勝手に自然科学の理論がついてくるというか、
これってこういうふうになっているんだみたいなのが、
後からフレームで理解される。
それでより強化されていくような感じがします。
最初に我々とか教育とかというのがあると、
まず自然科学を学ぶわけですね。
自然科学を学んで、それが正しいという前提に自分の人生を考えるわけですけど、
要はそこに向けて最短距離でどういうふうに生きるのか、
効率的なのかということを学ばされるみたいな、
それを本当に自分自身が体感していないから、
正しいのかもわからないし、それが好きなのかもわからないけど、
これが正しいから、そうなっているから学ぶみたいな感じなんだけど、
そうではなくて、あなたは今生きていて一番何が、
どういうところに心が向くかみたいなところを身体で感じながら、
そのままやっていくと、自然に教育的な要素もついてくるというか、
どんどん人格整形線も進んで、知識も進んで、
寝がわくば怒りが、
矛先が他人に向けられないような人間になっていくのがいいかもしれないですけど、
そういうのが自然社会というか最肉理論で自然社会というか、
今の時点で見えている唐突っていう風に描かれているんですけど、
そんなところをイメージしたかなと思うんですけど、
でもうちの足元、うちの息子を見ていると、
その矛先が全部ゲームの方に行ってるから、
すごく不安になっているという。
これいいのかみたいなところで。
でも子どもは集中しますからね。
ものすごく集中してどっぷりと。
その集中力を学んだ方がいいですよ。
そんだけ飯も食わず、眠らずみたいな集中力があるわけじゃないですか。
でも僕らはもう気づいたある時からその集中力がないんですよ。
寝食忘れてみたいなことはやっちゃいけない。
ある時からこんなことをしていただいても、
でもどっぷりとはまれる状態がなくなっちゃう。
でもどっぷりとはまれるというのは非常に安心感があるからはまれる。
この世の中に安心しているから。
それはまだ危険を知らないという幼さもあるかもしれないけど、
その状態を、その集中力をたどりつけるために、
その状態を、その集中力を保ちながらさらなる危険に進める。
それは自動的なことなんですよね。
本人の中で飽きたら次に進むし、飽きたらもっとドラスティックなチャレンジをし始める。
ゲームに没頭していて、一生ゲーム付けにするってある種ドラスティックな挑戦ですからね。
そのデータを、エビデンスをとってみたらどうなるのか。
みんな途中で止めてしまうから、本人はそれで行こうと思ってまさに進んでいるのに、
周りが勝手に心配して、そんなことをしていたらと思って止めちゃうじゃないですか。
その集中をできるだけ止めないような努力というのは親には必要か、環境には必要か。
毎回試みるんですけど、途中で怒りが出てきたりとか。
こちらにはこちらの都合がありますからね。
じゃあ今日はこんな感じでラジオも終わっていきたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございました。