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2026-02-10 16:12

『2666』文学と殺人が交錯するめまい

サマリー

ロベルト・ボラーニョの小説『2666』では、文学的なミステリーとメキシコの架空都市サンタテレサでの連続殺人事件が交錯し、読者に衝撃を与える構造が描かれています。作品は5つの独立したパートで構成され、文学と現実の恐怖が融合することで、読書体験が特異なものとなります。このエピソードでは、ロベルト・ボラーニョの小説『2666』における文学と犯罪の交錯を探求しています。特に、サンタ・テレサという都市の背景と、マイナーな作品の存在意義に触れながら、文学が持つ深い問いを考えます。

2800文字の文学的ミステリー
さて、今回取り上げるのはですね、ロベルト・ボラニオの2666。
いやー、来ましたね、ついに。大作が。
ええ、長編小説です。
で、情報源がですね、ある熱心な読者の方が、YouTubeに投稿した一本の書評動画なんですけど。
これがまたすごい熱量なんですよね。
そうなんですよ。投稿者の方、3ヶ月かけてこれを読破したそうです。
3ヶ月?
で、感想が、これほどの本に出会えるのはなかなかないと。ただの面白かったじゃないんですよ。
うんうん。
めまいがするような体験だったとまで語っていて。
めまいですか?
ええ。なので今回は、単なるあらすじ紹介じゃなくて、この巨大な小説が読者に与えるっていう衝撃、その源泉は一体どこにあるのかと。
なるほど。
ええ。その書評を手がかりに、一緒に解き明かしていけたらなと。
いや、これは非常に挑戦的なテーマですね。
というのも、その書評者さん自身が、全てのセリフ、全ての描写が2666の全てだって言ってるわけですから。
ああ、言ってましたね。
ええ。つまり、どこかを安易に切り取って、これが確信ですって言えないそういう作品なんですよね。
確かに。
でも、だからこそ面白い。今回はですね、書評者の方が特に重要だと指摘していた3つの柱に注目を当ててみましょうか。
3つの柱ですか?
はい。まずは2つの謎、それから語部構成の得意な構造、そして作品の確信に触れる哲学的な問い、この3つからその目前の正体に迫っていきましょう。
なるほど。分かりやすいです。では早速、その物語の骨格になるという2つの謎からお願いします。
はい。
この小説の面白いところって、まず大きな謎が2つあるっていう点から始まるんですよね。
そうなんです。
1つはすごく文学的なミステリー。アルチンボルディっていう誰も姿を見たことがない作家がいて。
えー、複面作家?
まるで都市隣説みたいな。その正体は誰で、今どこにいるのかっていうのを文学研究者たちが追い求める話がまずあると。
はい。それだけならまあちょっと高尚な文学ミステリーとして成立しますよね。
そうですよね。
でもボラーニョはそこにもう1つ全く異質で恐ろしく現実的な謎をぶつけてくるんです。
と言いますと?
メキシコの架空の都市サンタテレサ。ここでは若い女性ばかりを狙った連続大量殺人がもう何年もずっと続いてるんです。
うわー。
おびただしい数の被害者が出ているのに犯人は一向に捕まらない。警察も腐害していて捜査もまともに進まない。
なんかもう救いのない話ですね。
ええ。この底なし沼のような生々しい現実の犯罪。この2つが物語の両輪になってるんですよ。
文学界のスターを追いかけるある種きらびやかな話と誰にもこだめられない女性たちが殺され続ける話。光と闇というかあまりにもかけ離れてますよね。その2つの世界が。
そうなんです。普通に考えたらどうやったってつながるはずがないじゃないですか。
5つの独立したパート
ええ。全く想像がつかないです。
まさにそこがポイントで、この2つの謎がどう工作していくのか。あるいはひょっとしたら最後まで工作しないこと自体に意味があるのか。読者はその巨大な問いにずっと揺さぶられ続けることになるんです。
ああ、なるほど。その不安定な感覚こそがさっき言っていためまいの第一歩なのかもしれないですね。
おそらくそうだと思います。
その2つの巨大な謎を物語はどうやって私たちに見せてくれるんでしょう。構成に何か秘密があるんですか。
ええ、それこそが第2の柱ですね。書評者の方が全く雰囲気が違うと面白がっていたのが、この小説が5つのほぼ独立したパートに分かれている点なんです。
5部構成。
はい。まず第1部が批評家たちの部。これはさっきの謎の作家アルチンボルディに浸水する4人の文学研究者たちの話で。
はいはい、作家を探す人たちですね。
ええ、彼らがヨーロッパ中を駆け回って痕跡を探すんですが、書評では意外にも恋愛ドラマみたいと評されているんです。
へえ、恋愛ドラマ。
そう、人間関係のもつれとかそういうのが中心に描かれていて、なので比較的こう入りやすいパートだと言えますね。
なるほど、導入は意外とキャッチーなんですね。そこからどうなっていくんですか。
第2部はアマルフィターのノブ。ここで舞台がメキシコに移ります。
お、ついに。
ええ、サンタテレサの大学で教える哲学教授の孤独で試作的な日常が描かれる。書評者はこれを実存的なインテリのドラマと表現してました。
ふむふむ。
そして第3部がフェイとノブ。今度はアメリカの黒人雑誌記者が主人公です。
また全然違う人物が。
そうなんです。彼はボクシングの取材でサンタテレサを訪れるんですけど、そこで偶然連続殺人事件の存在を知ってしまって、ジャーナリストとして興味を惹かれていく、と。
面白いですね。別々の物語に見えて、ちょっとずつサンタテレサっていう不穏な場所に収束していく感じがしますね。
まさに。
特に第3部で記者が事件に興味を持つってことは、いよいよ連続殺人の闇に本格的に踏み込んでいくってことですか。
その通りです。そして読者はここで、この小説の心臓部であり、同時に最もおぞましい部分に文字通り叩き込まれることになります。
それが第4部。
ええ、犯罪の部。
書評でも非常に巨大な章だとかなり強調されていましたね、このパートは。
そうでしょうね。このパートは物語じゃないんです。
え、物語じゃない?
はい。サンタテレサで発見された100人を超える女性たちの殺害記録そのものなんです。
記録ですか。
被害者の名前、年齢、服装、遺体の発見状況、死法解剖の結果、そういった事実だけが感情を一切廃したまるで警察の報告書のような冷たい文体で何百ページにも渡って延々と淡々と記述されていくんです。
ちょっと待ってください。報告書のように淡々とですか?何百ページも?
ええ。
それは、いや想像するだけで精神的にかなりきついですね。書評者の方はこの部分をどう乗り越えたんでしょうか?
まさにそれが作者の狙いなんだと思います。
読者は最初、事件の一つ一つにショックを受けて怒りを感じる。
はい、そうでしょうね。
でも、余りの数に、そして余りの無機質さに、次第に感覚が麻痺してくるんですよ。
感覚が麻痺。
ええ。一人一人の女性が持っていたはずの人生が、ただの名前とデータに変わっていく。
その恐ろしさ、その非人間的なプロセスを、読者自身が体験させられる構造になっている。
なるほど。
書評者の方は、この麻痺させられる感覚こそが、社会に蔓延する悪の凡庸さとでも言うんでしょうか、その本質を突きつけてくると感じたようです。
個別の事件への同情とか怒りを超えて、悪がシステムとか日常風景になってしまうことの恐怖を、読書通じて体感させる仕掛けなんですね。
おっしゃる通りです。
これは確かにめまいがそうだ。
そしてその地獄のような第4部を通り抜けた先に、最後の第5部、アルチンボルディの部が待っています。
ここでついに。
ここでようやく、物語の冒頭からずっと謎だった作家アルチンボルディが、本名をハンス・ライターというドイツ人であること。
そして彼がどんな人生を歩んできたのかが、第二次世界大戦の時代から語られます。
おお、一気に時代が遡るんですね。
そうなんです。
書評者が壮絶な世界に入り込む、と評した非常に重厚な歴史小説のようなパートです。
というのとは、これ、ミステリーの犯人探しみたいに、誰がやったのかを知るためにだけに読み進めると、ちょっと片付かしを食うかもしれないですね。
そうなんですよ。
むしろ、全ての事件を目撃した後に、全ての現況とも言えるかもしれない人物の過去が明かされることで、事件の意味合いがガラッと変わる。
その構造自体が作品のメッセージになっている、と。
まさに、これは単なる謎解きではないんです。
読者がそれまで積み上げてきた解釈を、根底から覆すための構造なんです。
悪と芸術の衝突
だからこそ、読み終えた後に強烈な印象が残る。
なるほど。プロットだけじゃなくて、読書という体験そのものが、この小説の重要な要素になっているわけですね。
ええ、そう思います。
その読書体験という点で言うと、書評者の方がもう一つ面白がっていたのが、文体でした。
内容はこんなにヘビーなのに、文章自体は意外にも水みたいに読みやすい、と。
はいはい。サラッとしていると。
そうなんです。
そのギャップがまた、この作品の不気味さを増幅させているんですよね。
ああ、なるほど。
ごく普通の、平易な文章で、とんでもなく異常なことや邪悪なことが語られる。
その断端とした筆地が、かえって怖い。
確かに。
そして、その平易な文章の中に、時折とんでもないものが紛れ込んでくるんです。
書評者の方が指摘していた特徴の一つが、登場人物が語る超絶的な超流し。
超流しですか?
ええ。物語の進行とは一見何の関係もなく、ある登場人物が突然、古代ギリシャの幾何学についてとか、
文学論についてとか、哲学的な読白を延々と始めることがあるんです。
へえ。
これが、意図的に物語の進行を止めて、読者を混乱させる。
殺人事件の調査の真っ只中で、いきなりそんな話が差し込まれるわけですから。
それは混乱しますね。
この緩急、この異物感こそが、読者の現実感覚を麻痺させて、作品世界に深く引きずり込む効果を持っているのかもしれないと、書評者は感じたようですね。
なるほど。リズムを崩されることで、読者も平行感覚を失っていくわけですね。
はい。そしてもう一つの特徴として上がっていたのが、芸術の世界と悪の世界の衝突。
ああ、ありましたね。
文学と犯罪の接点
そうなんです。文学や芸術に人生を捧げる人々の、ある意味で純粋で高潔な世界の、そのすぐ隣にサンタ・テレサで繰り広げられる不気味で終末的な犯罪の世界がある。
ふんふん。
そしてその二つの間には、何の壁もないんです。根全一体となって描かれている。
うわあ。
このヒッチを、書評者の方は上手いだけじゃない、おにき払るものがあると表していました。これは単なる技巧じゃないと。
はい。
芸術は、現実の底知れない邪悪さにどう向き合えるのか、あるいは全くの無力なのか、その根源的な問いを小説全体で突きつけてくるんです。
その根源的な問いに繋がる部分として、書評者の方が特に心を揺さぶられたと語って、自身が朗読までしていた箇所がありますよね。
ありましたね。
ある登場人物の長セリフなんですけど、これが文学の本質に迫るようで本当に面白かった。
あの部分は、この小説のテーマを象徴するような箇所だと思います。
まず、その登場人物は、こうけたり始めるんですよね。
文学は、傑作だけで成り立っていないんじゃない。むしろ、膨大な数のマイナーな作品から成り立っているんだ、と。
ええ。
文学を森に例えるなら、傑作はそこに点在する湖とか虚起、みたいなものだと。
でも森の大部分を構成しているのは、名もなき樹木や水たまり、キノコ、といったマイナーな存在だ、と。
うんうん。これはすごく納得できる考え方ですよね。
そうですよね。
一見すると、非常に温等で多様性を認める美しい比喩に聞こえます。どんな作品にも価値があるんだ、というような。
ええ。でも、ボラーニュはそこで終わらない。
そうなんですよ。この登場人物、その考えを自らあっさりと往復して、本当のところマイナーな作品なんて存在しないと断言するんです。
そう。ここからが本当に面白くて同時に少し混乱するところです。マイナーな作品が存在しないとは一体どういうことなんでしょう。
彼の主張はこうです。どんなマイナーな作品にも秘密の作者がいて、その正体は必ず傑作の作者なんだ、と。
ほう。
表向きの名前、例えばまあ、補正ロペスみたいなマイナー作家は真の作者、つまり傑作作家が書くための単なる器や媒体に過ぎないんだ、というとんでもない考えを披露するんです。
つまり、世に溢れる無数の本用に見える作品も実はすべて、名前を隠した偉大な作家が、そのマイナー作家という体を借りて書いていると、そういうことですか。
そういうことです。彼はこれを許容された当作と呼びます。
許容された当作。
表向きの作家の奥さんは、夫が机で苦しむ姿を見るけれど、それは文学の殻を見ているにすぎないと、真に書いているのはその背後にいる秘密の作者なのだ、と言うんです。
いやー。
これはもう、文学におけるオリジナリティとか、作者という概念そのものを根底から揺るがす、ものすごく挑発的なメタハーですよね。
すごい話ですね。さらにその議論の締めくくりに、こんないたつれつなセリフも崩壊されていました。
作家たちがノーベル賞で会おうというのは、地獄で会おうというのと同じことなのだ、と。
強烈ですよね。
強烈です。
この一連のセリフが示しているのは、この小説が単に物語を描くだけでなく、書くこと、そのもののよう、傑作と打作の境界線、作者という存在の本質を深くえぐり出しているということなんです。
なるほど。
小書さんが冒頭で言っていた、全部のセリフ、全部の描写が2666の全てである、という意味が、この引用から少し見えてくる気がしませんか。
いや、本当にそうですね。一つ一つの言葉が、作品全体のテーマと深く共鳴している感じがします。
さて、今回はロベルト・ボランニョの2666に関する、ある読者の熱烈な書評を深盛りしてきました。
謎の作家と連続殺人という二重の謎から始まって。
はい。全く異なる5つのパートを旅して、最後には文学そのものを問う哲学的な領域にまで足を踏み入れた、と。
こうして見てくると、書評者の方が感じたという、めまいの正体が少しずつわかってきますよね。
2666は決して読者を安心させてくれる物語じゃない。むしろ、私たちの価値観とか常識、現実と虚構の境界線を徹底的に揺さぶり、混乱させることを目的としている。
作品の隠された意図
美しい文学の世界と、おぞましい犯罪の世界が何の断りもなく隣接し融合することで、忘れがたい強烈な読書体験を生み出しているわけです。
まさに頭で理解するというよりは、全身で体験する本。そして書評者の方の言葉を借りるなら、その体験は想像を是するものであるということになりそうですね。
では最後に、ここまでの話を踏まえて、一つ思考を深めるための問いを提示してみたいと思います。
先ほど、全てのマイナーな作品は傑作作家による盗作だという、あの挑発的な考えがありましたよね。
もし、この比喩を文学の世界だけじゃなくて、この小説で徹底的に描かれた、あのサンタ・テレサの凶悪犯罪に適応してみたらどうなるでしょう。
犯罪にですか?
はい。一見無秩序で無関係で意味がないように見える、あの数々のマイナーな暴力の一つ一つにも、実は文学の傑作のように、何か隠された一つの巨大な意志、恐ろしい秘密の作者のような論理が存在しているのだと。
この小説はそう示唆しているのではないでしょうか。
サンタ・テレサという街全体を一つの作品とする、邪悪な作家がいるのかもしれない。
そんな可能性を考えさせられる、それこそがこの小説が読者の心に残す、最も深く暗い問いなのかもしれません。
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