グローバル文学の背景
日本の小説がニューヨークで、チリの小説がロンドンでベストセラーになる。
こういうことって、今ではもう当たり前になりましたけど、その裏側で一体何が起きてるんでしょうか。
今回は村上春樹とロベルト・ボラニョという、全くタイプの違う2人の作家を手がかりに、グローバル文学という現象のその奥深くへとさむっていきます。
へえ、今回あなたが共有してくれた資料がまた面白いんですよね。
このテーマをめぐる批評家たちの、あの熱い議論を分析した学術論文とか、謎大き作家ボラニョの創作の秘密に迫る解説、それから村上春樹さんが西洋文学とどう格闘してきたかを読み解く論文、これらをこう並べてみると、一本の線が見えてくるんです。
今回のミッションはまさにその線をたどっていくことですね。
今の文学が巨大なマーケットの力、それから翻訳という現実の壁、そして作家個人の、なんていうか狂気に見た執念、そういったものにどう形作られているのかを解き明かしたいなと。
そもそもグローバルって言葉、聞こえはいいですけど、これってとんに大衆向けっていう意味の新しい言い方に過ぎないんでしょうか。
まさにそこから始めましょうか。
その点がこの議論全体の出発点なんです。
ではまずこのグローバル小説っていうちょっと厄介な言葉から解き明かしていきましょうか。
批評家のキム・パークスが言い出した、退屈な新しいグローバル小説っていう批判があるそうですね。
一体何が退屈だっていうんでしょう。
カロリーナ・バトロバの論文がこの批判を詳しく分析しています。
で面白いのは、この批判の矛先が主に非西洋圏の作家、例えば日本の村上春樹さんとか、トルコのオルハン・パムクさんなんかに向けられていることなんです。
彼らの作品は西洋のマーケットで大成功を収めている。
でも批判家たちは言うわけです。
それは彼らの作品がものすごく翻訳しやすいからだと。
翻訳しやすい?それって普通は良いことのように聞こえますけど。
そう思いますよね。
でもこことのニュアンスはちょっと違うんです。
つまりその国の文化的な固有性とか、母語ならではの複雑な言い回しとか、そういう翻訳しにくいものを意図的に避けているんじゃないかと。
なるほど。
世界中の誰が読んでも分かるような無国籍でニュートラルなスタイルで書いているんじゃないかってことなんです。
わあ、なるほど。
それってすごく厳しい批判ですね。
なんていうか、まるで海外の観光客向けに味付けをマイルドにしたなんちゃって日本食みたいなものだって言われているような感じがします。
まさにそういうことです。批判の核心はこれが輸出用に書かれた文学だっていう点なんです。
結局はアメリカの巨大な出版マーケットがこういうのが読みたいと無言の圧力をかけていて、
それに合わせて世界中の作家が作品をチューニングしているんじゃないかというかなり厳しい見方なんです。
ボラニョの執念
一種の資本主義的な文化の覇権争いの現れだと。
西洋で成功するために自国の文化の面白い部分を削り落として、ある種商品化された異国情緒として差し出しているというわけですか。
そういう非なんですね。でもここからが面白いところでバトロバの論文はこの見方にちょっとマッタをかけるんです。
彼女が問いかけるのはこの批判って本当に文化的なパワーバランスの問題なんだろうかと。
むしろこれってハイブローつまり高尚なものとローブロー低俗なものっていう昔からある文学エリートたちの言い分が形を変えただけなんじゃないかって言うんです。
どういうことでしょう。
つまり南海でその土地の文化に根差していて翻訳困難なものこそが本物のエリート文学だと。
一方でわかりやすくて世界上で読まれるグローバルなものは結局のところ大衆文学だっていうそういうレッテル張りをしているだけじゃないのかと。
このグローバル小説批判は文学の価値をめぐる古い戦いの現代版に過ぎないのかもしれないって指摘しているんです。
なるほど。つまり問題はどこに向けて書いているかだけじゃなくて誰がその価値を決めているのかっていう視点ですね。
これは一筋縄ではいかない。
じゃあその議論の中心にいる村上春樹さん本人に焦点を当ててみると何が見えてくるんでしょうか。
日本の研究論文読むとこの市場への傲願とは全く違う話が展開されているんですよね。
鈴木匠さんの論文がまさにそれです。
この論文を読むと村上文学の根っこにある動機は市場がどうとかそういう話じゃないことがわかるんです。
もっと個人的で切実な問題。
つまり集団主義的な日本社会とか旧来の日本文学から距離を置いて一個の独立した個人としての自我を確立すること。
それが彼の創作の原点にあると。
旧来の日本文学というと特に私小説ですか。
そうです。私小説というのはご存知の通り作家が自分の身の回りの出来事をあからべらに描く日本の伝統的なスタイルですよね。
村上さんはそれとは全く違うものを書きたかった。
そのために彼は西洋特にアメリカの作家のスタイルを徹底的に学んで自分の文体を作り上げていったんです。
ということは1984なんかに見られるあの独特のスーッと頭に入ってくる読みやすい文章もその文脈で理解できるということですか。
まさに論文では彼の文章作法をエゴを削り落とす作業だと分析しています。
あの極めてリーダブルなスタイルはグローバル市場に媚びた結果じゃなくて彼自身の美学のど真ん中にあるものなんです。
えっとじゃあ私たちが村上春樹って読みやすいよね。だから世界中で売れてるんだって思ってたこと自体が実は見取り違いだったのかもしれないってことですか。
そういうことになりますね。
海外に受けるためじゃなくてむしろ日本の文学の伝統から抜け出すための個人的な戦いの結果があのスタイルだったと。これは面白いなあ。
そうなんです。そしてその戦いがただ日本国内で完結しているわけじゃない。
彼が西洋文学とどう対峙したかを示す象徴的な例がIQ84で非常に重要なモチーフとして使われるプルーストの失われた時を求めてなんです。
プルースト。難解な小説の代名詞みたいな作品じゃないですか。
2人とも記憶、時間、自我っていうテーマを探求するんですが、村上さんはプルーストが出した結論を真っ向から伏そうとするんです。
プルーストにとって愛っていうのは芸術を生み出すためには邪魔になる不知の病みたいなものだった。
でもIQ84の主人公たちにとっての愛は失われた時を取り戻し、バラバラになった自我をもう一度確立するための究極の目標として描かれます。
一見するとよくある恋愛物語のようにも読めますけど。
ええ、でも鈴木さんの論文によれば、これは日本的な集団性の中からたった一つの個人を救い出そうとするものすごくラディカルな試みとして読めるんです。
うわぁ、その視点は全くありませんでした。じゃあ、あの読みやすさは読者に媚びていたんじゃなくて、むしろ自分自身のための必然だったということなんですか。
ということは、海外の批評家ま、退屈でグローバルと片付けたあのスタイルは、実はプルーストのような西洋の巨大な古典とガチンコで向き合って、それも乗り越えることで新しい日本文学を作ろうとする、極めて個人的で文学的なプロジェクトだったのかもしれないんですね。
ええ。
外から見えている現象と、その内側にある動機が全く違う。
そうですね。村上が内面へ、つまり自我の確立へと向かったのに対して、全く逆のアプローチでグローバルな舞台を使ったのが、チリのロベルト・ボラニオですよね。
ええ。
2666の社会的影響
彼の関心は、個人の内側ではなく、社会に存在するどうしようもない悪そのものに向かっていました。
彼は、作家になるより殺人事件の刑事になりたかったとまで語っていますもんね。
慰望することに執念を燃やしていた。
まるで事件現場を操作する刑事のように。
まさに。マルセラ・バールデスの解説を読むと、ボラニオの作品を貫くテーマは、常に芸術と悪、そして作家と権力の関係だったとありますね。
アメリカ大陸のナチ文学とか、遥かな星とか、独裁政権みたいな厚生的な権力に対して、作家がどう振る舞うかを描いている。
ええ。
そして、その彼の執念の集大成が、死後に出版された1000ページを超える巨大な小説2666です。
この作品の核になっているのは、メキシコの国境都市シューダ・フワレス。
作中ではサンタ・テレサですが、そこで90年代から実際に起きている女性連続殺害事件。
これは極めてローカルで悔いのない悲劇です。
これはグローバル小説批判が指摘するような、ローカルな複雑さを避けるという動きとは全くの正反対ですね。
現実の最もあんくておぞましい部分に正面から飛び込んでいっている。
まさに。でもちょっと待ってください。ボランニョは当時スペインに住んでいましたよね?
はい。
なぜそんな遠い国の、しかも悔いのないような淫算な事件に、そこまで執着したんでしょうか?
何か個人的な接点があったんですか?
そこが彼の衆言深いところなんです。
バルデスの解説に詳しく書かれていますが、彼はこの事件に遠くから取り憑かれてしまった。
へえ。
そして、現地の事情に詳しいジャーナリスト、セルフィオ・ゴンザレス・ロドリゲスに協力を求めたんです。
小説家がジャーナリストに協力を、具体的にはどんなこと?
ボランニョが求めたのは、小説家とは思えないほどの驚くべき性格性でした。
ボラーニョの暴力の探求
ロドリゲスは、現地の麻薬カルテルがどういう組織で、どんな車に乗っていて、使っている銃のメーカーや型番、弾丸の光景に至るまで、超極端とも言えるような詳細な情報を提供したそうです。
まるで警察の捜査資料みたいですね。
それだけじゃないんです。
ボランニョは、検視報告書のコピーまで送ってほしいと頼んだそうです。
え?
そして、被害者の体にある傷を乗車した部分を、複写してくれ、と。
彼は、ただ物語を創作したかったんじゃない。
暴力がどのように機能するのか、その冷徹なメカニズムを細部に至るまで理解しようとしていたんです。
これはもはや小説家というより、調査報道ジャーナリストがフィクションという媒体を使って報告書を書いているようなものですね?
そうなんです。
現実を単純化するどこもか、その複雑で残酷なディテールを疾走に追い求めている。
そうなんです。
ボラーニュの場合、現実を平板化するのとは真逆。
グローバルな小説という巨大な舞台を使って、地域で起きている恐ろしい犯罪を徹底的に調査し、それを人間存在の普遍的な悪のメタファーにまで高めていった。
これもまた単純なレッテルでは捉えきれない、もう一つのグローバル小説の形と言えます。
グローバル文学の多様性
その通りですね。
ヘクトール・オヨスの書評が指摘している点もここにつながります。
かつてラテアメリカ文学の主要な輸出品といえば、ガルシア・マルケスに代表されるマジックリアリズムでした。
ええ、そうですね。
でも、近年それが麻薬小説、ナルコノベラにとって変わられつつあると。
それは一見すると、グローバルな市場が次は麻薬の話が読みたいと要求して、それに現地の作家が覆っているというふうにも見えますね。
ええ、そういう見方もできます。
でもオヨスは問いかけるんです。
これは本当にそういうことなのかと。
むしろグローバルなシステム、例えば北米の巨大な麻薬需要が引き起こす地域の惨状に対して、ローカルの作家たちが叩きつけている一律な批判なんじゃないかと。
なるほど。
ボラーニョの2666は間違いなく後者の最も強力な例です。
退屈なグローバル小説というたった一つの批判からスタートしましたが、村上春樹とロベルト・ボラーニョという二人を見てくると、その単純なラベルがいかに一面的なものだったかがよくわかります。
全く違う方向からその批判を打ち崩しているように見えますね。
まさにこの二人を並べてみることで、グローバル文学という現象がいかに多面的で複雑であるかが浮き彫りになります。
村上さんにとっての一見すると無国籍でニュートラルなスタイルは、日本の社会規範や文学の伝統から自分を切り離して個人としてのアイデンティティを築くという、文化的にも個人的にも深い意味を持つプロジェクトのための道具だった。
一方でボラーニョの場合は、その道具の使い方が全く違った。
ええ、ボラーニョにとってのグローバルな小説は、現実の暴力を探求するための調査手段そのものでした。
彼はメキシコ国境の街というきらめてローカルな恐怖をジャーナリスティックな手法で徹底的に掘り下げ、それをヨーロッパの歴史の闇とも接続させることで、普遍的な悪の姿として描き出したわけです。
ということは、グローバル小説は輸出用に品質化された退屈なものだ、という批判は、あまりにも物事を単純化し過ぎているということですね。
そう言えるでしょう。その批判は、非西洋圏の作家たちがグローバル化する世界とどう向き合っているか、その多様で、時には正反対の戦略を見過ごしてしまっているんです。
ある作家にとっては、それはアイデンティティを探求するたびであり、またある作家にとっては、社会に存在する悪と対峙するための戦いなんです。
彼らは決して、西洋の史上にただ外交するためだけに作品を書いているわけではない。
輸出向けに味が抜けてしまった文学から始まって、実際には二人の作家がグローバルという舞台をいかに独創的で力強い表現の場として使ったかが見えてきました。
市場の論理と作家個人の譲れないビジョンとの間には、常にものすごい近況関係があるんですね。
ええ、グローバルな市場の圧力が存在することは間違いありません。何が翻訳され、何がベストセラーになるか、そこには巨大な経済的な力が働いている。
でも本当に優れた作家は、その圧力の中で、あるいは時にはそれを逆手にとって、自分自身の文学的な探求をさらに進化させていく。
今日の二人の例は、そのことを鮮やかに示してくれています。
それでは最後に、あなたに考えていただきたい問いを一つ。
ラテンアメリカ文学のブランドがマジックリアリズムから麻薬小説へと変わったという話がありました。
ここで少し立ち止まって考えてみてください。
私たちが世界のどこか他の地域の文学を読むとき、無意識のうちにどのような期待を抱いているのでしょうか。
私たちはその地域特有のらしさ、それが魔法であれ、暴力であれ、ある種の精神性であれを求めてはいないでしょうか。
そしてその私たちの期待が結果として何が書かれ、何が翻訳され、そして最終的に何がグローバルな作品として私たちの手元に届くのかを、どのように形作っている可能性があるのでしょうか。