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背比べに負けた尾張富士の山頂に小石を届けよう!
2026-07-13 18:42

背比べに負けた尾張富士の山頂に小石を届けよう!

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東海地方の情報サイト「いちのトレッキングブログ」の山行記事を元にしています。

生成元 :https://ichi-trekking.com/owari-fuji/

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あのー、標高ってたった275メートルなんですよ。 あー、ずいぶんと小規模な山ですね。
ええ。でも、もしその山が、自分は隣の山より背が低くて悔しいって、 あのしくしく泣いていたら、あなたはどうしますか?
いやー、それはちょっとびっくりしますね。 ですよね。ようこそ、あなたのためだけの情報の深掘りへ。
今回はですね、私たちが普段どれだけ数字とかスペックに縛られているかっていうのを、 もう見事に打ち砕いてくれる、愛知県犬山市にある
尾張富士という小さな里山に、あなたをお礼にしたいと思います。 山の価値は標高とか難易度で決まるっていう、私たちのその無意識の思い込みを根底から覆す場所ですよね。
本当にそうなんです。で、今回の総数なんですけど、 登山歴が10年で登頂も200座以上という、
息水の自然愛好家、市市が運営する、市のトレッキングブログというブログなんですが、 私、あの彼の情熱的なレポートを読んでいて、完全に心を奪われてしまったんですよ。
ほう、完全にですか? そうなんです。市市の目線を通して、この山のルートをたどると、
ただのハイキングが、なんかとんでもないエンターテイメントに変わるんですよ。 あなたもこの深掘りが終わる頃には、間違いなくクローゼットの奥から登山靴を引っ張り出したくなっているはずです。
よし、これを紐解いていきましょう。 楽しみですね。その百戦錬磨の登山家が、なぜわざわざ標高275メートルの山を登山の楽しさが2割増しになるとまで絶賛しているのか、
その理由を解き明かしていきましょう。 はい、まず私がブログを読んでいて、最初に手を止めたのが、そもそもこの山に登る目的なんですよ。
目的ですか? 景色を楽しむためとか、体を鍛えるためじゃなくて、神様の悔し涙を拭くためなんですよ。
これどういうことですか? ああ、そこがこの尾張富士の最も得意な点ですよね。
はい。 麓にある大宮三万神社の最神で、小木情姫という有名な神様がいるんですが。
ええ、よく聞こうな声ですね。 悔しいと嘆いたというセクラベ伝説があるんですよ。
いやー、日本神話に登場するようなすごい娘様が、まさかの身長コンプレックスで泣くっていうのが、なんというかすごく人間臭くて驚きました。
確かにそうですね。
でも、そこで村人たちが取った行動がさらに面白くて、じゃあ俺たちが石を運んで山を高くしてやろうって言い出したんですよね。
ええ、そうです。
これが現在も続く献石という風習の始まりだと。毎年8月には石上祭りっていう祈祭もやってるらしいじゃないですか。
そうなんですよ。ただここで私たちが注目すべきなのは、なぜ人間は神様の個人的なコンプレックスを物理的に助けようとしたのかという点ですね。
ああ、なるほど。なぜ助けようとしたか。
はい。あの日本の自然信仰においてはですね、圧倒的な威負の対象である大自然を人間が理解できるスケールに落とし込むという、まあ心理的なメカニズムが働くんです。
03:11
心理的なメカニズムですか。
ええ、石市のブログにも養老の滝とフワの滝が俺の方がすごいって喧嘩をしたという別の伝説が紹介されていましたよね。
ああ、ありました。滝同士がマウントを取り合う話ですね。
そうです。自然災害をもたらすかもしれない恐ろしい自然に負けず嫌いとか嫉妬といったとても人間らしい感情を投影するわけです。
はいはい。
そうすることで、人々は自然との間に親密なコミュニケーションの糸口を見出してきたんですよ。
なるほど。恐怖の対象をちょっと手助けしてあげたくなるような愛嬌のある存在に変換したわけですね。
ええ、まさにそういうことです。
それでいうと、石市のブログを読むとそのコミュニケーションの始まりがすごくドラマチックなんですよ。
ほう。
駐車場に車を止めたら、まず足元にある手頃な小石を一つ拾うんです。
小石を拾う。
そうなんです。これだけで、ただの週末の散歩が、神話を終わらせるための壮大なミッションにカチッと切り替わるんですよ。
ああ、日常から非日常への切り替わスイッチがその小石を握るという極めてシンプルな動作に集約されているわけですね。
まさにそうです。これって例えるなら、兄弟間で身長を競い合っている壮大な兄弟喧嘩に自分が急に助け人として巻き込まれるような不思議な感覚ですよね。
ええ、面白い表現ですね。
小石を握った瞬間、「よし、私がこの石で日向咲夜姫の悔しさを少しでも晴らしてやろう!」っていう妙な責任感が湧いてくるんですよ。
なるほど。
聞いているあなたも、その場に立って小石を拾ったら絶対にそう感じるはずなんですよ。
その参加型の信仰というのが重要なんですね。傍観者としてただ祈るのではなくて、物理的な重さを伴って当事者になる。
はい。
だからこそ、たった275メートルの山でも特別な体験になるのでしょう。
本当にそう思います。ただ、小石一つで神様を慰めるなんて可愛い話だなーってほっこりしていたんですが。
ええ。
実際に登山道、つまり山道へ足を踏み入れると、その印象がガラッと変わるんですよ。
と言いますと。
なんというか、人間のエゴというか、思いの強さが暴走しているようなとんでもない光景が広がっていて。
ああ、大宮三万神社の境内を抜けて、道が九尾の道と山道に分かれた先のお話ですね。
はい、そうです。
ちなみに神社の境内は縁結びの松があって、男性は右回り、女性は左回りで二周するっていう素敵なルールもあるんですけど。
ええ、生活を守る最神への祈りですね。
はい。で、そこからあえて信仰の道である山道を選ぶと何が現れるか。
何が見えるのでしょうか。
巨大な石碑の群れですよ。
石碑の群れ?
もう、まるで京都の福島稲荷大社で千本鳥を見た時のような、視界を埋め尽くす圧倒的なスケール感なんです。
それはすごいですね。
でも、ここにあるのは鳥じゃなくて、人々の願いが込められた大人の背丈を優に超えるような巨大な建石碑なんですよ。
06:06
大人の背丈を超える石碑ですか?
ええ、むき出しの岩肌を急斜面にそれがずらりと並んでいるんです。
中には、元巨人軍監督の王サダルスさんとか、元横綱の千代の富士の建石もあるって書いてあって、もう驚愕しましたよ。
近道で拾う可愛い小石とは全くスケールが違いますね。
そうなんですよ。
しかし、なぜ人はそこまでして、巨大で重い石をわざわざ山の上へ運びたがるのだと思いますか?
うーん、やっぱり自分の願いはこんなに大きくて重いんだぞって神様にアピールしたいからじゃないですかね。
はい。
正直、ちょっと人間の自己主張の激しさを感じてしまいました。
その見方は非常に鋭いですね。
本当ですか?
ええ。人間は、自分の願いや自分が存在したという証を永遠に残したいと願う生き物ですから。
永遠に残したい。
だからこそ、腐敗すらない、風化しにくい、重くて硬い石を選ぶわけです。
巨大な建石碑は、人間の永遠に対する執着が物理的な形を持ったものといえます。
なるほど。執着ですか。でもここで非常に興味深い描写がブログにあったんですよ。
どんな描写ですか?
いましが山道を登っていると、石のベンチかと思って腰を下ろそうとしたものが、実はぽっきりと折れて朽ち果てた建石碑だったと。
ここで非常に興味深いのはまさにそこなんです。
どういうことですか?
それこそが、この山道が持つ最大のメッセージなんですよ。
つまり、人間が永遠に残ると思って描いた巨大な寄せ描きも、自然や神様からすれば一時の落書きに過ぎなくて。
ええ。
時間をかけてゆっくりと消しゴムをかけられているようなものということですか。
まさにその美しいメタファーの通りです。
うわぁ。
人間の強い祈りや執着が込められた石が、何百年という新域のダイナミズムの中では折れ曲がり、苔なぐし、やがて斜面の土へと帰っていく。
はい。
人間のエゴの象徴が再び自然のサイクルの一部として溶けていくプロセスを、この道は残酷なまでに視覚化しているんです。
深いですね。
いやぁ、その自然な圧倒的な力を前にすると、もう一つブログの中でどうしても腑に落ちなかった不気味な伝説があるんですよ。
不気味な伝説ですか。
ええ。
中宮と呼ばれる場所の近くに、弥生彦に名の手形が残る岩があるというエピソードなんですが。
ああ、人形の肉を食べて800年を生きたとされるあの伝説の女性ですね。
そうです。
彼女がかつて女神琴声だった中宮の奥へ進もうとしたたで、神の怒りに触れてしまって、この岩から手は離れなくなってしまったというんです。
えー、恐ろしいお話ですよね。
いや、ちょっと待ってくださいよ。
コンプレックスで泣いちゃうようの可愛い女神様の山に、どうしてこんなホラー映画みたいな幻覚で恐ろしい伝説が同居しているんですか。
素晴らしい疑問ですね。
実はそれこそが、日本の神道における神様の二面性、和魂と荒魂を表しているんです。
09:06
にぎみ魂と荒魂ですか。
はい。神様は恵みを与え、人懐く寄り添ってくれる親密な存在である和魂であると同時に、
ひとたびルールを破れば容赦なく牙を剥く、荒れ狂う自然の脅威、つまり荒魂でもあるわけです。
なるほど。
弥生彦にの伝説は、ここは神域であるという絶対的な境界線を人面に突きつけているんですよ。
絶対的な境界線。
ええ。どれだけ小石を運んで親しくなっても、自然に対する恐れを忘れてはいけないという安全装置ですね。
なるほど。だからこそこの山には、単なるハイキングコースにはないピリッとした緊張感とか信仰の重みがあるんですね。
そういうことです。
さて、そんな人間のエゴと自然の厳しさが入り混じった山道を抜け、
足揺りに歴史の重みを感じながら、ついに私たちは標高275メートルの山頂、奥宮へとたどり着きます。
ついに到着ですね。
ここで、中場からずっと握りしめてきたあの小石の出番なんですよ。
ついにミッション達成の瞬間ですね。
はい。眼下にはイールカ池から岩見山、蓮山へとつながる素晴らしい眺望が広がっています。
気持ちのいい景色でしょうね。
その景色を見下ろしながら、先人たちが何百年もかけて積み上げてきた膨大な小石の山に、自分の持ってきた小石をそっと置くんです。
ええ。
その瞬間、自分が壮大な伝説のバトンを受け取ったような、ものすごい達成感に包まれるんですよ。
それは素晴らしい体験ですね。
でもね、ここからが本当に面白いところなんですが。
おや、ミッションを終えて、まだ何か起こるんですか?
一師が、ようだまりの石段で一息ついていると、背後から突然、にゃーんという声が聞こえたんです。
えっと、振り返ると。
一匹の猫がいて。
猫ですか。三丁に。
そうなんですよ。しかもこの猫、ただお腹を空かせてエサをねだりに来たわけじゃないんです。
一師が近づくと、少し離れては振り返り、早くついて来いよと言わんばかりに泣きながら歩き出すんです。
まるで先を案内しているようですね。
まさにガイドですよ。
猫に導かれるままに南の石段を降りていくと、けむら道じゃなくて、しっかりとした明瞭な登山道へと案内してくれるんです。
賢いですね。
一師が立ち止まると、ちゃんと振り返って待っているんですよ。
そして林道との合流地点まで来ると、その猫は山の斜面へとふいっと姿を消してしまうんです。
なんだか独りにつままれたような不思議な体験ですね。
いやちょっと待ってください。まだ終わりじゃないんです。
え、まだあるんですか。
最初の猫が消えた直後、なんと別の猫が現れて案内を引き継いだんですよ。
別の猫が。
ええ。気がつけば前と後ろを別の猫に挟まれて、完全に護衛されている状態になって、
一師もブログでジブリの世界みたいで面白いって大興奮していました。
12:04
確かに。
私も読んでいて、まるでアニメのワンシーンが目に浮かびましたよ。
これは単なる偶然の出会いという言葉で片付けるにはあまりにもできすぎていますね。
ですよね。
少し分析的な視点から言わせていただくと、
この奇跡的な体験は先ほどの小石のミッションに対する自然からのアンサーのように思えます。
アンサー?つまり返事ですか?
ええ。あなたは山頂に小石を届けるという行為を通じて、
キホナサクヤ姫の悲しみに寄り添い、彼女を助けるための行動を取りましたよね。
はい。小石を置きました。
厳しい山道に経て祈りを捧げた人間に対し、
大自然が物理的な美しい景色だけでなく、
こうした精神的な癒しとか対話を介してくれた。
精神的な癒し。
もしかするとこの猫たちはミッションを果たしてくれたことへの女神からの使者だったのかもしれません。
女神からの使者。わあ、鳥肌が立ちました。
そう解釈すると素敵ですよね。
私たちが普段、自然をただの風景とか征服する対象として見ているうちは決して起こらない対話ですね。
ええ、その通りです。
神話のストーリーに没入して小石を運んだからこそ、
ただの寄ら猫が神様の使いに変わり、魔法のような時間に変わったんだ。
登山というのは、ただ山頂を目指すスポーツではなくて、
自然との深いコミュニケーションなのだとこのエピソードは見事に証言しています。
はい。私たちが物語をどう捉えるかで、
現実の風景は全く違った意味を持ち始めるんですよ。
ちなみに、極めつけは、ふもとの駐車場に戻ってきた時のことです。
まだ何か?
なんと、山頂から最初に案内してくれたあの猫が、
先回りしてお出迎えしてくれたんですって。
それはすごい。
お前らどこ行ってたんだよ、遅いぞって怒ってるような顔で待ってたらしいです。
あはは、可愛らしいですね。
こんなVP待遇のガイドつけてもらえる山、他には絶対ありませんよ。
ふふふ、確かに。それは忘れられない体験になりますね。
さて、猫たちのファンタジーから現実のふもとへと戻る道中ですが、
市野氏はキロに山道ではなく、もう一つのルートである、
くひの道を選びます。
のぼりのルートとはまた違う顔を見せてくれるわけですね。
はい。のぼりの山道が巨大な意識が立ち並ぶ、
荒々しくもエネルギッシュな人間の道の道だったのに対し、
このくひの道は全く違います。
どう違うんですか?
高明な俳句碑が静かに囲む廃成園や、
あの広報大使が掘り当てたとされる金明水がある、
とても凛とした、静寂に包まれた空間なんです。
なるほど。同じ一つの山の中に、
人間の執着が渦巻く道の空間と、
悟りを開いたような市野空間が同居している。
ええ。
見事なコントラストですね。
つまりこれらは何を意味しているのか。
聞いているあなたも、日々の仕事や生活の中で、
15:00
常に売上とかフォロワー推移といった数字、
つまり高さばかりを気にしていませんか?
ええ、耳が痛い話ですね。
私たちはKPIを追いかけることに疲れ果ててしまうこともありますよね。
現代社会は、まさに数字という絶対的な指標で評価を下す世界ですから。
でも、この終わり淵はどうでしょう?
たった標高275メートルの小さな里山です。
スペックで言えば決して高くはない。
ええ。
けれど、そこには神様の、
背が低くて悔しいというコンプレックスがあり、
それを愛して小石を運ぶ何百年もの人々の営みがあり、
巨大な意識が自然に帰っていく無常感があり、
そしてニコが案内してくれる奇跡があるんですよ。
弱さやコンプレックスがあるからこそ、
人はそこに寄り添い、物語が生まれ、
何百年も愛され続ける場所になるんですね。
そうなんです。
数字や標高だけでは決して測れない、
本当の豊かさがここにあるわけですね。
だからこそ市の市は、小石を山頂に運ぶだけで、
登山の楽しさは2割増し、
里山では屈指のおすすめしたいお山と絶賛しているんです。
なるほど。
私が彼の目線にすっかり感情移入してしまった理由が、
あなたにも伝わったんじゃないでしょうか。
ええ、十分に伝わりました。
私たちが普段どれだけ目に見える数字にとらわれているか、
そして視点を変え、物語の当事者になることで、
目の前の小さな山がどれほど壮大なテーマパークに変わり得るか。
ええ。
この終わり藤は、それを教えてくれる素晴らしいテキストブックですね。
本当にそうです。
さて、ここまで聞いてくださったあなた、
もし今あなたの心の中で、
あの苔むした巨大な死壁群を自分の目で見てみたいとか、
ええ。
山頂で猫のガイドに会えるか試してみたいとか、
私の一つの小石で女神のコンプレックスを癒してあげたい、
という気持ちが少しでも芽生えているなら、
はい。
今すぐ検索エンジンを開いて、
市のトレッキングブログと入力してみてください。
私たちの音声だけでは伝えきれなかった、
現地の息を呑むような山道の写真や、
愛知県の終わり藤への詳しいアクセス方法、
ルートの詳細がブログにはたっぷりと記されていますからね。
はい。
市の情熱的で丁寧なレポート、
そしてあの可愛い猫たちの写真を読み終わる頃には、
あなたは確実にクローゼットの奥から登山靴を引っ張り出しているはずです。
今週末の予定はもう決まりですね。
ええ、素晴らしい探求の旅になることでしょう。
さて、今回の深掘りはそろそろお時間ですが、
最後に一つ、あなたに考えてみてほしいことがあるんです。
例のセクラベ伝説の結末についてですね。
はい。毎年毎年何百人何千人という人々が、
木花咲愛姫のために小石を運び続けています。
もし、この先何百年何千年とこの風習が続き、
本当に終わり藤に積まれた小石の山が、
隣の終わり本郷山の標高を物理的に超えてしまったら、
物理的に超えてしまったら?
その時、この伝説はどうなるのでしょうか?
非常に興味深い思考実験ですね。
もし本当に背を越してしまったら、
18:00
その時、木花咲愛姫は素直に喜ぶのでしょうか?
そうなんですよ。
背が低くて悔しいというコンプレックスから始まった神話ですが、
もしかすると、彼女にとっての本当の誇りは、
背が高くなることそのものではなくなっているかもしれない。
ほう、何百年もの間、
自分のために人間が汗を流して小石を運び続けてくれた、
その不器用で愛おしい家庭こそが、
彼女にとって最大の宝物になっているのではないでしょうか?
なるほど。目的を達成して神話が静かに終わるのか、
それともそのプロセス自体が全く新しい信仰の形として続いていくのか?
あなたはどう思いますか?
ご視聴ありがとうございました。
18:42

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