主人公の内面的葛藤
全力疾走して、痛いのも快楽ですとか、怒って本気でそんな風にやってますみたいなのが、イキリマンかよと思ってたら、途中で、俺が自分を賢い人間だと思うのは、ひょっとすると生涯で何一つ始めることも終えることもできなかったという、ただそれだけのためかもしれないから、みたいな。
そう、イキリマンじゃないのよ。ずっとアクティブなのよ。 イキリマンしてると思ったら、首の上でしか生きれない。そういうこと? うん。
つらーと思ってさ、一気に話すとんじゃけど、第2部の最後の方でさ、リーザー?リーザー? リーザーか。公文社の古典新訳文庫で、リーザーが結婚できたような感じになるじゃない?いろいろあって。
そしたらさ、なんか、いや俺お前じゃないんだみたいなさ、え、どうしたみたいな。リーザーかわいそうっていうのと、お前多分一生幸せになれないみたいなさ、あの感じで最後終わっていくのを見てさ、こいつーみたいな。怖いーみたいな。
私、この1部と2部が、1部が40歳くらいの時にの認識を書いて、2部が20年前の出来事を振り返って書いてるみたいな感じじゃん。 だから結局、幸せになれてない。一生幸せに実際になれてないということが先にわかってるし、
1部は先に読んでるから、そんな20年前のちょっとしたことを今でもグジグジグジグジ言ってるんだっていうのがより哀れで、なんかとても良い可能性だなって思った。やっぱこれを時系列中に書いてまず出来事があって、その結果今こういう振り返りをしてますじゃないのがとても素晴らしいと思ったんだよね。
なるほど。確かに逆なら全然印象変わるかもね。25の時に友達にちょっとハブられて、傷つきました。
で、お金払って女の子と一緒になろうってなったら、これが俺の妻にすんねんって勘違いしていろいろあって、うんぬんうんぬんあり、ダメでしたの後に、さあ40歳になっても地下室で手記を書いてますは全然印象違うかもね。
そうか確かにこれ構成が良いかもね。俺めっちゃ翻弄されたもんな、第一部の最初で。大翻弄。俺ドストエフスキーと仲良くなれないかもしれないと思っちゃったもんな。
これ初期の作品だしね、ドストエフスキーの地下室の試験。その後に罪と罰とかカラバドフの兄弟とか書いて死んだみたいな感じだもんね、確か。
万年の作品。
作家としていろいろ自分のなりのコンセプトを練り上げていく中で、これができて罪と罰とかに生きていくんだ。
で、なんか私これを書いた時にあまりに発砲下がりっていうか、主人公が誰かと対話をしたりとかちょっとでもさ、人に油断したり信じてみるみたいなことをしないせいですごい展開がないじゃん。
そりゃそりゃそうだよみたいな。お前みたいなやつは友達もないし誰からも相手にされないしくて、もうそのまま死んでいくんだよみたいな感じで終わっちゃうじゃん。
だけど罪と罰とかカラバドフの兄弟は結構人と交流する中でちょっと考えていったり、少し変化が起きていったりとか。
揺られてみるみたいなことも起きるから面白くなっていくんだろうなって思った。
そういうエッセンスがちょっとずつ。
でもめちゃくちゃこういう性格の人が全員出てくる。カラバドフの兄弟とか。
コア登場人物、主人公大体これなの?
カラバドフの兄弟の主人公、こいつ。
ほぼこれ?マジか。
それを人に、俺はダメだとか慰めてくれとか言える。一応人に。
なるほど。主義に書くんじゃなくて、他人に向かってはいくんだ。
あと兄弟とかもいるから、交流をするって感じになる。
この人たち主人公の一番胸くそ悪いところは、
全てを自分の脳内で完結するための自分の理解の素材みたいにしてるところじゃない?
その時自分がどう思ったとか、その人から言われてどう思ったとか、
そういう他者への想像力が全部なくて、
全部後から振り返ってこういうことがあったってことは俺はこうだ、俺はこうだ、俺はこうだ。
イーザーにこう言われたってことは俺はこうだ、みたいな。
他者とのコミュニケーション
全部自分の材料みたいに扱ってるところ。
それがすごい嫌だよね。
読んだ後にさ、私全然このドストエフスキーがわからなかったから、
みきさんが今言うように、ドストエフスキー文脈を理解してみようと思ってさ、
生成AI君とかどういうことなのかな、みたいなことを話をしてたら、
地下室っていうのが近代自画のメタファーであるっていうのが、
そういうことらしいのよ。
閉じ込められて完結しちゃうみたいな。
自分に完結してるみたいなことのメタファーで、
理性と感情っていうちょっと相反するものだったり、
あとは行動をするってことと反省をするっていうことがちょっとずつ距離が出てきて、
自意識ってものが分裂するというか、
結局自分のことばっかり考えて過剰な意識を自分に向けたことによって麻痺しちゃった、
行動できない知性っていうのがこの地下室っていうものの中で起きているっていう。
つまり近代自画ってことに閉じちゃうと、
行動できない知性って自分の、みきさんが言うように頭の中でばっかりわーっと広がっちゃって、
バーンって爆発しちゃうっていう過剰意識っていうのが、
この地下室の主義の地下室の特に第1部の時に出てくるメタファーなんですっていう話が出てきてさ、
いるいるこういう人みたいな。
ほわーって。
基本みんなある程度はそうだしね、近代自画はね。
そうだねー、そうだねー。
あーまあそうだねー。
でもさ、やっぱりちょっと、
あ、どうぞどうぞ。
私がドストエスギが上手いなーって思ったのは、
自分の頭の中でめっちゃぐるぐる回ってる感じは十分だしつつも、
読者にちゃんと解釈の余地というか、
与えるなって思ってて、
例えば、結局リーザにこう言われたとか、
友達にこう言われたとかっていうのって、
本当かどうかはさ、分かんないわけよ。
その人のフィルターを通して描かれてるから。
本当にあんなにビジュアルだったのか、
リーザが本当にはどうだったのかとか、
分かんないわけ、こっちからは。
だけど、事実としてリーザは、
自分が握らせたお札を、
ちょっとの隙にパッて置いて帰った、みたいな。
客観的事実の描写をちゃんとまでとくから、
ある程度ついていけるっていうか、
あ、じゃあまあ確かにそうか、みたいに思わせる余地が
ちょこちょこありながら主機の定を取ってるっていうのが、
めっちゃすごい上手いなって思った。
そうか、ドストエフスキーの上手さか。
分かる、私分かってる。
そういう、それはあなたの感想ですよね、
みたいなことがめっちゃ多いわけだよ、基本的には。
全部が。
なるほどね。
だけど、そこに感想じゃない自律を
少しオリジナル化されてるなっていうのが、
本当の人間は多分感想100になってしまう気がするけど、
自律という体だから、少し多少ちょっとファクトが混ざっているのが上手いなと。
言われてみたら、これだけの痛々しい人だったら、
普通に小説書くと途中で読むの嫌になっちゃうかもしれないけど、
三木さんが書いてるみたいに、
痛々しいのに饒舌だから何か読めちゃうっていうのは、
そういうことなのかもしれないよね。
混ぜ方が上手いっていうのもそうだし、書き方が上手いっていうのもそうなんだろうし。
他者のセリフをちゃんとそのまま他者のセリフとして残しておいてくれてるとか。
自分の中で曲げた解釈として、
なんとかみたいなことを言われたとかってしなくて、
ちゃんとセリフとして残ってるとか。
そうだよな。
自意識マックスマン辛いからな、話をしてて。
野上さんの何か抑え切った気がする。
一番最初の雑談に戻っちゃうんだけど、
テニスアパレルみたいなやつをさ、
自分たちのところでも何か考えようって考え始めた時にさ、
そうなるかどうかわかんないんだけど、
コンセプトとして切り口にしたいなと思ってるのって、
テニスでダブルスっていう試合形式。
2対2でやるんだけどさ、
トッププロのダブルスとか見ると、
2人が1人みたいに見えるの。
分かるかも。
連携取りすぎてるんだよね。
もちろんプレー中もそうなんだけど、
テニスってダブルフォルトって言ってサーブを2回連続失敗すると相手のポイントになるのね。
ダブルスも同じルールなんだけど、
例えば自分のペアのやつがダブルフォルトしたとするじゃない?
そうすると自分は全く何もやってないんだけど、
自己意識の探求
自分のチームが失点するのよってことになるじゃない?
だから素人の人とかだとダブルフォルトしたペアにめっちゃキレてる人とかいるわけ。
なんでサーブ入れないの?みたいな。
そうなんだ。
怒ってもしょうがないけど、
でも怒る気持ちもさ、
自分何もしてないから失点。
何もしてないのに失点をするっていうのでさ、
怒りたくなるというか、気持ちは分かるのよ。
でもそれって自分は一生ダブルフォルトしないってことだけどね。
じゃない。でもするのよ、その人も。
そういうのを見てるとさ、
変な言い方だけどダブルフォルトっていい意味で自意識を消すスポーツなのよ。
ちょっと大きくするスポーツ。
2人で1つになるみたいに。
自意識を2人に延長する。
2人で1個にするっていうことだし、
かつそのペアも1年間ずっと巡ってるペアも固定のペアみたいなのもいれば、
その試合でしか組まない2人とかもいるわけ。
だから瞬時に脳を動機させるみたいなことができなきゃいけなかったりもするんだけど。
そういうのってさ、すっごい人間性が出るわけ。
だからテニスもちろんシングルスの方が花形なんだけどさ、スポーツとしては。
現代のこの自己意識過剰な何かだとさ、
ダブルスの方が本来的には必要なんちゃうかっていうのを
アパレルのブランドと一緒にやってる人と話をしててさ、
ちょうどドストエフスキーのこの本を読み終わった直後ってこともあり、
結局我々に必要なのはダブルスの能力なのではないかっていう。
ダブルスコンセプトのやつやりましょうよって話をしてるんだけどさ。
今その話聞いて思い出したけど、
ダブルスもそうだしテニスはもしかしたら勝ち負けがあるから、
シングルスの場合では倒すぞっていう話かもしれないけど、
柔道とか剣道とかってもちろん倒すぞっていうのはあるけど、
なんかこの空間を2人で良いものにしましょうねみたいな、
儀礼があるからかお辞儀とかしてからやるみたいな、
いろんな儀式やってから試合開始されるみたいな。
もちろん勝つ負けるはあるものの、
でも私たち2人でこの空間ですよねみたいな意識があるから、
結構コミュニケーションだみたいなことを言ってる人がいて、
テニスだったらそれはダブルスってことなのかもしれないけど、
他のスポーツだと試合とかでも結構1つ対1つみたいな感覚あるのかなって今思ったわ。
なるほどね。将棋とかだと明確にあるだろうね。
羽生さんの前世紀の時とか、羽生義晴さんとかだと、
相手がちょっと変な手をさすとめっちゃ残念そうな顔するんだって。
そういうことだよね。コミュニケーション。
切ってたせっかく1つの世界みたい。
せっかくこの盤面が綺麗になろうとしてるのに、
なんで君は汚すんだみたいなことはもちろん言わないけど、
でも多分あるんだろうね、その場として。
それが全部ない、勝てればなんでもOKみたいな感じの人がこの初期の主人公。
低世界理解をしてるのが主人公で、そこからアップデートする機会がない。
人と絡まないからっていう感じだよね。
特権としての苦悩
絶対仲良くなれないな、こいつ。
私も仲良くなれないよね、本当に。噂話で聞くぐらいがいいよね。
嫌いに思うのは裏返しっていうか、ちょっと自分の中にあるから、
もしかしたら私もこれになってたかもしれないみたいな気持ちがあるから、
それからカオリにやってくれてありがとうっていう心地よさもある。
複雑な気持ちになる。
そうだね。
自分の中に4個を開けると先にいるって言ってたのは2つあってさ、
1個はミキさんも確かメモで書いてたけど、
この2人が死になるだけの世界には耐えられないっていうさ、
ドストエフスキーっていう人自身が合理主義みたいなことが
満ち満ちたる社会の中で本当にそうなのかいなっていうのを問い続けた作家だっていう中で、
2人が死になるだけの世界、何がおもろいねんっていうのはさ、
ちょっと思うことはあるじゃない。
あともう1個は、
これもセイセイライ君と話をしてるときに、
リーザとのエピソードをどう解釈するかみたいなやつをさ、書いてたときに、
地下室の中にいるっていうのはこの主人公にとっては特権だっていうのよ。
その自意識の中にこもっていられるっていうのはさ、
わかんないけど、普通に生活してると仕事もしなきゃいけないし、
いろんなつながりがあるから、
自分の中に延々とこもってるっていうことはほぼ不可能じゃない。
いろいろ役人として働いていたところもあると思うんだけど、
地下室にこもって手記を書いてるだけで何とかなってるっていうのは、
苦悩する特権を得ているとも言えるじゃない。
世の中で弱い立場にいるっていうこととかさ、
私は虐げられてるんだっていうのが特権で、
それを取り上げられようとしてるから、
その最後リーザとウンって言うっていうさ、
それを放棄するっていうのと、
弱い立場を特権として使いたくなるっていう気持ちは、
まあ4個先にはあるよなっていう、
この2つのドラマさ、宇宙ワーツさ。
なる何かだったね。