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  2. 田中克彦「ことばと国家」 #1
2024-03-19 23:32

田中克彦「ことばと国家」 #1

だれしも母を選ぶことができないように,生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない.その母語が,あるものは野卑な方言とされ,あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか.国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし,ユダヤ人や植民地住民など,無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す.


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・最近のみきさん

・方言のあるなし

・文法との関わり

00:11
はい、準備は万端?
本を読んできました。
最近はいかがですか、Mikiさんは?
最近は、スーパー暇時期にきまして。
結構、本とか読んだり、だらだらしながら過ごしております。
今週も、もう4回ぐらい飲んでるかな、朝まで。
いいなぁ。
今、眠いと?
眠い。2時くらいに寝たかな。
大変眠いということですね。
はい、そうでございます。
その中で読む本としては、ハードルがむちゃくちゃ高いね。
飲み会とすげー相性悪そう。
でも、新書なので、昔の本とは新書なので、読みやすくなったんです。
Nozomiさんは、最近いかがですか?
最近…そうですね。
最近読んだ、ポッドキャストの記事がすごくいい記事だったなと思って。
ポッドキャストって、どのメディアでも聞けるじゃないですか。
SpotifyでもApple Podcastでも。
何なら普通にウェブ上に置いてあるMP3とかMP4のファイルを読めば、ブラウザでも聞けるじゃないですか。
それが一番ウェブを体現してるっていうのを書いている人がいて、
ニューヨークタイムズとかアトランティックとかああいうのって、
もう、公読しないと、そのメディアでしか読めないっていうものがどんどん増えてますよねと。
YouTubeの人はYouTubeでばっかり見てほしいし、みたいな。
なんだけど、どのメディアでもいいから聞いてくださいねっていうのをいろんなポッドキャスターの人が最後に入れるっていうのは、
本来私たちが求めていたウェブってそういうことだったよねっていう。
オープンウェブのルネッサンスってポッドキャストにあるんじゃないっていうのを書いてる人がいて、
すごくいいことを書くな、この人はっていう。
アニルダッシュさんっていうテクノロジーアントレプレナー&ライターみたいな人ですね。
いい記事でしたよ、とっても。
前向きな気持ちで日々生きているという感じですね。
確かに音声メディアってあんまり課金の壁ないっていうか、
ラジオとしても普通に聴けますし、
インターネットラジオでも聴けるし、だいたい最近のラジオって全部配信されてますもんね。
03:04
そうね、TBSラジオも日本放送もみんないろんなメディアに音声乗っかってるもんね。
YouTubeのポッドキャスターもあんまし課金なくなってきましたしね、シームレスですね。
最近広告付けよりはなってきたものの、まだ自由なメディアですね。
なかなか不思議な広告あるもんな。
中間時ですね。
忙しい。確かに忙しいんですかって聞いたら、最近いいポッドキャストの記事を見ましたって言われた。
質問と答えが全然一致してないですけど。
みきさんから、如実にアルコールが残っていることを感じる。
顔で?
そうですか、バレてましたか。
いいじゃないですか、それこそが人生。
うん、最近楽しいです。本もめっちゃ読んでます。小説でばっかり。
楽しい絵。
画本の話しますか?
この本のメモを見ている感じ、みきさんは多分すごく読むの大変だったんだなっていうのを感じるばかりですね。
どの辺から感じました?
なんて言うんだろう、なんていうのかな。
引用して書くっていうのを見ると、頑張って探したんだなみたいな。読めるところを探したんだなみたいな。
なるほど、そうだったかもしれないです。
如実さんの量の多さね。
1個前の100年の孤独は私よりみきさんの方が全然楽しく読んでると思う。
確かに確かに。
この言葉と効果はたぶんみきさんよりも私の方が楽しく読んでるっていう。
楽しく読んでますね。私もその感じすごい感じました。
なので、進めた側は100年の孤独は私が読みましょうって言ってるし、言葉と効果はみきさんが言ってるので、難しい非対称性を感じてますね。
だからこそテアドック賞を取得価値があるというね。
まあね、自分では面白さがなかなか発見するのが難しかった何かについて聞いてみましょう。
なんでこれがつんどくの中にあったんでしょうか?
これは田中勝彦さんの言葉と効果っていう本が今日の配分なんですけど、つんどくからのレファレンスつんどくなんですけど、
この見えないものに耳をすますっていう大友義秀さん、アマちゃんとかのサントラ作っている大友義秀さんという音楽家の方と
稲葉敏郎さんというお医者さんが対談してるみたいな本がありまして、この本で医療と音楽の間を考える対談集みたいなのがあるんですけど、
この本のおまけコンテンツとして、お二人が無人島に持っていく誤察、無人島に持っていく誤曲っていうのを選んでるんですよ。
で、その中で音楽家の大友さんの無人島に持っていく誤察の中に言葉と効果が入ってました。
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へー。でも音楽家なんですよね。
うん。なんだけど、大友さんって言葉と効果が大好きらしくて、少しググると何回もいろんなインタビューとかでお勧めしてるんですけど、
この本に書かれてるようなことを音楽でも忘れないでいたいみたいなことをよく言ってます。
へー。
これから話せればと思いますけど、生活から言葉が生まれてくるとか、現場から言葉が生まれてくるみたいなこととか、
多分言葉と言葉で上下をつけないみたいなことかなと理解してますけど。
うーん、なるほど。面白いね。それがきっかけってことですね。
そうです。
で、みきさんが紹介してくれたみたいに本の概要のところに書いてある言葉で言うと、
誰しも母がお選ぶことができないように生まれてくる子供には言葉をお選ぶ権利がないと。
その母語があるものはやびの言葉とされ、あるいはけんやの口語とされるのはなぜだろうかと。
それを話の中にはユダヤ人のお話とか、あとはポリネシアの地域とかを取り上げながらいろいろ見ていくっていう本でしたね。
私は超よかったですね。
ああ、そう?
なんでだろう。
じゃあ、まずはそろそろのぞみさんから聞いていきましょうか、感想を。
そうね。
一言で言うとどんな本とかありますか?こんな本だったみたいな、自分の感想として。
内容のさまりの話だと、国と言葉っていうのを一対一させやすい国に生きている日本人の一人の自分として、
多分言葉と国って全然、本来はバラバラのものなんだけど、
今の言葉の成り立ちみたいなことを考えると、国っていう単位で言葉を統制したりとか変わらせたり、
あるいは維持したりっていうことにすごく強い共生力が働くところなんだなっていうのを感じた読書体験でしたね。
確かに確かに。
言われたらそうだなって思うことがすごく多い本でしたと。
例えば日本人と日本語みたいな対応だと、言葉と国家って一致してるなと思うけど、
ユダヤ人ってどうなんだっけとか、スイスってどうなってんだっけとか、
そういうことを考えると自然に確かになって思うし、本の中盤ぐらいで出てくるフランス語のお話とかが、
確かにそんなことあったんですかみたいな驚きもあったし、すごくいい本だったね。
09:06
確かに日本に住んでるとね、ほぼ日本語、日本語だけじゃないけど、ほぼ日本語しか喋ってないから、
それって結構特殊な感覚なんだなっていうか、日本語しか喋ってないのは当たり前みたいなのは思いましたね。
いろんな国の言語の事情を聞いて、だから日本イコール日本語の国みたいに思っちゃうのは、ある種の偏りなんだなってことはすごい思いました。
本の最初の方に言語と方言の話が出てくると思うんですけど、
私、方言もすごい好きっていうか、考えることが多いテーマなんですよ、方言。
長野県生まれて、今関西に住んでるわけですけど、そうすると関西弁を喋る場合は聞くことが多いですよね。
で、みきさん関西弁っていう国が多分一般的で、京都弁とか聞いたことあります?
はい、あります。関西弁の細かい分類で大阪弁、京都弁とかがあると思ってます。
晩襲弁って聞いたことあります?
ないです。晩襲弁?ないです。
晩襲弁。関西の姫路とかの辺りのことを元々晩襲って言うんですけど、神戸のもうちょっと西側、西寄りのことを晩襲って言ったり。
晴間の晴に襲で弁みたいなやつ?
そうそう、その晩襲弁。とか、河内弁って聞いたことあります?
ないです。
大阪の南側に河内長野市っていう行政区があって、その辺に河内弁って言われるんですけど、めちゃくちゃ怖いんですよ。
さっきの晩襲弁と河内弁ってめっちゃ怖いんですけど、なんて言うんでしょうね。聞いたら関西弁だと思われるのかな、どうなのか分かんないぐらい、すごい圧力がある言葉なんですよ。
関西に住んでいると、関西弁をみんな喋ってるはずなんですけど、関西弁を喋ってますって意識する人って多分あんまりいないんですよ。
晩襲弁喋ってます、河内弁喋ってます、京都弁喋ってます、なんちゃらっていう話もあるので、何を喋ってんだろうなっていうのと、
私、長野の北の端っこの生まれなんですけど、なんとか弁と言われるような故障ってあんまり聞いたことがないんですよ。
長野弁じゃないの?
長野弁じゃなくてですね、長野がでかすぎるってのもあるんですけど、縦に長いから、北と南で全然言葉が違う。
でも長野弁って言われて多分イメージされることってあんまりなくて、新州弁というものがあるかというと、それもあんまりない。
12:04
確かに、長野出身の友達いますけど、別に黙ってないわ、普通に。黙ってないっていうか、感じないわ。
黙ってないわ、補正。
でしょ。だから方言って面白いなと思うことが多いので、序盤の言語と方言の区切りってなんだっけみたいな話が最初にあると思うんですけど。
ありましたね、はいはい。
その段階からちょっと楽しいっていう。
だから、もともとその標準とかなかったはずなのにね、いつからこの国家標準はこれでそれが方言ですってなるのかとか、どうやって決まっていくんだろうっていうのとかがちょっと解説されてて面白かったです。
最後の方に方言と言語、特になんか日本語の中での方言っていう捉え方になると思うんですけど、関西弁しかり、いろんな言葉しかり。
その琉球の言葉とアイヌの言葉があったときに、その琉球の言葉の方が生字日本語とちょっと近くて、わかるから方言にされちゃうんだけど、
アイヌの言葉も日本語と違いすぎるから、アイヌ方言とは言われないっていうのが出てくると思うんですけど、それめっちゃ面白いなって思いつつ、
なんだけど方言っていうのを外すと、アイヌ語になるわけじゃないですか。
でも確かに言葉と国家っていうのを対応させるとすると、アイヌっていう国はないのにアイヌ語っていう言葉があるっていうのがすごい不思議な感じになってくると思うんですよ。
そこもでも確かに言葉と国家って、みちさんもメモに書いてますけど、国と言葉を対応させるって、なんとなくこの日本人私にとっては、絶対に正しいかって言われるとわからないけど、結構それが自然じゃないって思っちゃう考え方ではあるんだけど、
アイヌのことを考えると、確かにって思ったりするっていう面白いお話1でしたね。
しかも日本だったら島国だから国境が明確っていうか、この陸があるとこまでが日本ですよってなるから、じゃあここで日本語ってなんかなっちゃう感じはわかるんですけど、
ヨーロッパとか住んでたらなおさな、地続きじゃないですか。だから言葉とかをすごい気にしてないと気づいたら侵食されたり、なんかなくなったりとかしそうだなってすごい思いました。
自分の話す言葉っていうものは現場から生まれてくるものの、明確にこれがこういう言葉ですってできたりとか、文章はこれで書けとか法律で縛ったときにふんわりやっぱり従えちゃうものっていうか、
言葉と国家って一つではねって意識のまま、今日が地続きの場所に住んでたら、すごい簡単にアイデンティティとか揺さぶることができそうと思いました。
だからすごく難しいのは、例えば海外から日本に人が来たとして、旅行とかだったらあれですけど、長く住んでくれるとするじゃないですか。
15:02
そのときに、いや日本に暮らすんだら日本語ぐらい喋ってよっていうことを言ったとするじゃない、あるいは日本国籍を取得するときに日本語で要件がありますみたいなやつも、
それも冷静に考えると言葉と国家の一体化じゃないですか。
この本のことを考えると、別に現地語、日本語全く喋れないけど、日本国籍取らせるって別にいいじゃないっていうふうになると思うんですよね。
私は結構それ派なんですけど、嫌な人めっちゃいると思うんですよ。日本国籍取るんだったら、日本語の検定の何級が少なくても取ってくださいみたいな。
今ってあるんですか、その要件、日本国籍取るなら。
あったはず、あったはず。検定はわかんないけど、試験は受けないといけなかったはずよ。
小学校3年生以上のレベルの日本語能力があれば問題ありませんって書いてるけど、少なくとも必要っていうことですね。
法務局の担当官と面談があって、面談で日本語能力が不十分だと判断されると筆記テストが必要になるっていう。
本当だ。日常生活に事象のない程度の日本語能力、会話および読み書きを有していることが必要。
法律に明記はされてないけど、暗黙なんでしょうね。
かつ、幻覚化されるらしいですよ。
これいつの記事なんだろう、幻覚化されますっていう行政書士の人の文章がある。
2019年のガイドライン改定で、いろんな非漢字研の出身者の場合は日本語の筆記試験を行うと。
だからこういうのを、そろそろそうだろうって思う。
だって話せない、書けないになると日常生活困るし、行政の手続きも困るし、困る人多いからその方がいいじゃんっていうのは超正論なんですけど、
大きく考えるとそういうことだと思うんですよね、言葉と国家の物みたいなことだと思うので。
しかももう日本は日本語の国って馴染んじゃってるからね。
それがこう、本の中だとすごく純度高く言葉と国家っていうのを対応させた国としてフランスが出てきて、
フランス革命の時に本当はフランスって北と南、なんなら東と西に一部あった地域とか、
全然違う言葉を喋っていたはずなのに、このフランス語と定義される、北部フランスの言葉を使わないと金庫系ですみたいなふうにして、
その国の中の言葉を統一していくっていうふうにやっていきました、フランス革命の時にっていう例が。
すごくピュアな言葉と国家対応として出てきました。
逆にドイツっていうのは全然違って国として統一するというよりかはもう少しこう、
ナメみたいなものを使って言葉を統一していくっていうふうに、
その国の中の言葉を統一していくというふうに、
18:04
そのフランスと言う言葉を統一していくというふうに、
逆にドイツっていうのは全然違って、 国として統一するというよりかは、もう少しこう
この著者の田中さんが考えるような言葉の扱い方、 方言という字場にある言葉っていうのをすごく大切にしていて
別にそんなに、そんなみんな同じ言葉を使わなくて良くないですかっていう
ことをドイツはやってるし、さらに行くとスイスっていう国まで行くと、 スイスの言葉っていうのはあるんだけど
公共語ですらないっていう ドイツ語とフランス語とイタリア語が流れしゃべられていて
一応スイスの字場の言葉はあるんだけど、行政文書には全く出てこないと つまり国としての言葉をある種放棄しているっていう国もありますよっていうのが
出てくるのが、なるほど、確かに言われてみると面白いですねって なるというところですね
特に何かいろいろハイライトしてますけど、ここが好きだなぁとかありますか
好き、好きねー
好きじゃなくても
一緒に残ってる
あ、そうねー
いろいろ考えたのは、うみきさんも一部書いてますけど、その文法の考え方
文法の起源って、正しい言葉を誰か他の人に与える人のそのための道具っていうのが文法だったと
つまり元々話しているここで言う母語がその言語の人に対して文法っていうのは別に必要はないと
一からその言葉を学ぼうとする非母語の人に対して、正しい言葉ってこういうことですよっていうことを伝えるための道具が文法だったと
だからまず正しいってなんだっけってことを考えなきゃいけないっていう文法の性質と
あとはその全くその言葉を話せない人に対して移植をしていくための道具であるっていう
2つ文法っていうのを考えたときにすごくいろんなことを考えたんですけど
私新卒で入った会社で君は日本語が喋れないねってめちゃくちゃ言われたなっていうことを言い出しました
はいはいはいそうなんですか?日本語喋れないって言われたんですか?
日本語喋れないし書けないねみたいな、読めないねみたいな話をされて、つらーと思ったんですけど
何かと言うと、私が思っている文法と全然違う文法がその組織の中にはある
あったんだと思うんですよね、今もあるのかもしれないんですけど
正しい文法ってなんていうのかなぁ
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すごく難しいと思うんですよ
それ2つあって、正しさを定義するっていうのがまずとても難しいっていう
その正しさっていうのがこのいろんな場によってだいぶ変わるっていうことだと思うんですよね
新卒で入った会社ってすごくこうまず厳格なわけですよ
たとえばしかしっていう文章、しかしっていう接続詞が出てきたときには
前の言葉と後ろの言葉って絶対違わないといけない
つまり対極的な言葉を言わないとしかしって言葉出てこないわけですよ
反論みたいな接続詞ですもんね
そうそうそうあれは一方でとかそういうものなわけですけど
通常のコミュニケーションを考えるとしかしとか一方でって言いつつ
全然そういうふうになってない言葉ってあるじゃないですか
はい
なんでみたいなこと言われると確かにごめんなさいみたいな
日本語ですけど確かにしかしとか一方でそんなに真剣に考えたことはなかったですみたいなことを思ったり
逆にだから海外の人の言葉とか文章を見るとすっごく厳密にしかしとかそういうのを使ってるんですけど
逆にこうそこまで書かなくてもいいのかないいのになとか
あんまりこう書かなくてもいい一方でとかもあるわけですよ
例えばなんとかっていう人がいますと一方でそうじゃない人もいますみたいなことを書いてくれるんですけど
それ別にわかるから書かなくてもよくないかなみたいなのを思ったりすると
そう思うとこの文法でいる集団によってだいぶ違うなっていう話と
文法を守ったとておかしな言葉になることはとてもたくさんあると
よくあるコンサル語がちょっとおかしいっていうのもそうだし
すごく厳密に文法を守ってくれた海外の人の言葉が文法的にはあってんだけどちょっと違うみたいなことだったり
そこがすごく自分の体験と紐づくことの多い良い文法理解でしたね
23:32

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