妻の告白:夫殺しと自害
この時間は、福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
おっとはどんなに無念だったでしょう。が、いくら身もたえをしても、からだじゅうにかかった縄目は、いっそうひしひしと食い入るだけです。
私は、思わずおっとのそばへ、ころぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。
しかし男は、とっさのあいだに、私をそこへけたおしました。ちょうどその途端です。
私は、おっとの眼の中に、なんともいいようのない輝きがやどっているのを悟りました。
なんともいいようのない。私は、あの眼を思い出すと、いまでも身ぶるいが出ずにはいられません。
口さえ一言も聞けないおっとは、その刹那の眼の中に、いっさいの心をつたえたのです。
しかしそこにひらめいていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、ただ私をさげすんだ冷たい光だったではありませんか。
私は男にけられたよりも、その眼の色に打たれたように、われ知らず何か叫んだぎりとうとう気を失ってしまいました。
そのうちにやっと気がついてみると、あの金の水管の男はもうどこかへ行っていました。
あとには、ただ杉の根形に夫が縛られているだけです。私は、竹の落葉の上にやっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。
が、夫の眼の色は少しもさっきと変りません。やはり冷たいさげすみの底に、憎しみの色を見せているのです。
恥ずかしさ、悲しさ、腹立たしさ、そのときの私の心のうちは、何といえばよいかわかりません。
私はよろよろ立ち上がりながら、夫のそばへ近寄りました。それでも夫は忌まわしそうに、私を見つめているばかりなのです。
私は、裂けそうな胸を押さえながら、夫の太刀たちを探しました。が、あの盗人に奪われたのでしょう。太刀はもちろん弓矢さえも、矢部の中には見当りません。
しかし幸い、刺がだけは私の足下に落ちているのです。私はその刺がを振り上げると、もう一度夫にこう言いました。
では、お命をいただかせてください。私もすぐにお供します。
夫は、この言葉を聞いたとき、やっと唇を浮かしました。
もちろん口には、笹の落ち葉がいっぱいに詰っていますから、声は少しも聞えません。が、私はそれを見ると、たちまちその言葉を悟りました。
夫は私をさげすんだまま、「殺せ。」と一言言ったのです。私はほとんど夢うつつのうちに、夫の花田の水管の胸へずぶりと刺がを差し通しました。
私はまたこのときも、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見回したときには、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。
その青ざめた顔の上には、竹にまじった杉村の空から、西日が一筋落ちているのです。私は泣き声をのみながら、死骸の縄を解き捨てました。
そうして、そうして私がどうなったか。それだけは、もう私には申し上げる力もありません。とにかく私は、どうしても死にきる力がなかったのです。
刺がを喉に突き立てたり、山の裾の池へ実を投げたり、いろいろなことをしてみましたが、死にきれずにこうしている限り、これも自慢にはなりますまい。
私のように不甲斐ないものは、大事だひの寒瀬恩母札も、お見放しなすったのかもしれません。しかし、夫を殺した私は、盗人の手込みにあった私は、一体どうすればよいのでしょう。一体私は、私は、巫女の口を借りたる死霊の物語。
盗人の証言:妻の裏切りと夫の懇願
盗人は妻を手込みにすると、そこへ腰を下ろしたまま、いろいろ妻を慰め出した。
俺はもちろん口は聞けない。体も杉の根に縛られている。が、俺はその間に、何度も妻へめくばせをした。
この男の言うことを間に受けるな。何を言っても嘘と思え。俺はそんな意味を伝えたいと思った。
しかし、妻は肖然と笹の落ち葉に座ったなり、じっと膝へめをやっている。それがどうも盗人の言葉に聞き入っているように見えるではないか。俺は寝たましさに身悶えをした。
が、盗人はそれからそれへと巧妙に話を進めている。一度でも妻を怪我したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか。
自分は愛しいと思えばこそ大それたまねも働いたのだ。盗人はとうとう大胆にもそういう話さえ持ち出した。盗人にこう言われると妻はうっとりと顔をもたげた。俺はまだあの時ほど美しい妻を見たことがない。
しかし、その美しい妻は、現在縛られた俺を前に、なんと盗人に返事をしたか。俺は宙に迷っていても妻の返事を思い出すごとに真意に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう言った。
では、どこへでも連れて行ってください。
妻の罪はそれだけではない。それだけならば、この闇の中に今ほど俺も苦しみはしない。
しかし、妻は夢のように盗人に手を取られながら、闇の外へ行こうとすると、たちまし眼色を失ったなり、杉の根を俺を指さした。
あの人を殺してください。私はあの人が生きていては、あなたと一緒にはいられません。
妻は何度もこう叫び立てた。あの人を殺してください。
この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ真っ逆さまに俺を吹き落とそうとする。
一度でもこのくらい憎むべき言葉が人間の口を出たことがあろうか。一度でもこのくらい呪わしい言葉が人間の耳に触れたことがあろうか。
一度でもこのくらいその言葉を聞いたときは盗人さえ色を失ってしまった。
あの人を殺してください。
妻はそう叫びながら盗人の腕にすがっている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さんとも返事をしない。
と思うか思わないうちに妻は竹の落ち葉の上へただ一蹴りに蹴倒された。盗人は静かに両腕を組むと俺の姿へ目をやった。
あの女はどうするつもりだ。殺すか。それとも助けてやるか。返事はただ頷けばよい。殺すか。
俺はこの言葉だけでも盗人の罪は許してやりたい。
妻は俺がためらううちに何か一声叫ぶが早いか、たちまち矢部の奥へ走り出した。
盗人もとっさに飛びかかったが、これは袖さえ捉えなかったらしい。
俺はただ幻のようにそういう景色を眺めていた。
盗人は妻が逃げ去った後、太刀や弓矢を取り上げると一箇所だけ俺の縄を切った。
今度は俺の身の上だ。俺は盗人が矢部の外へ姿を隠してしまうときにこう呟いたのを覚えている。
夫の証言:自害と謎の死
その後はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。
俺は縄を解きながらじっと耳を澄ませてみた。
が、その声も気がついてみれば俺自身の泣いている声だったではないか。
俺はやっと杉の根から疲れ果てた体を起こした。
俺の前には妻が落としたサスガが一つ光っている。
俺はそれを手に取るとひとつ気に俺の胸へ刺した。
何か生臭い塊が俺の口へこみ上げてくる。
が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると一層あたりがしんとしてしまった。
ああ、何という静かさだろう。この山陰のやぶの空には小鳥市はさえずりに来ない。
ただ杉畑の裏に寂しい日陰が漂っている。日陰がそれも次第に薄れてくる。
もう杉畑も見えない。俺はそこに倒れたまま深い静かさに詰まれている。
その時誰か忍び足に俺のそばへ来たものがある。俺はそちらを見ようとした。
が、俺の周りにはいつか薄闇が立ち込めている。
誰か、その誰かは見えない手にそっと胸のサスガを抜いた。
同時に俺の口の中にはもう一度血潮があふれてくる。
俺はそれぎり永久に宙の闇へ沈んでしまった。