化粧と日常の変化
おしゃべり本棚。 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山本修吾朗作 日本婦道記より
風鈴 その3
それから弥生はしばしば着物や帯を取り替えてきた。 ずいぶん思い切ってごく薄く化粧もし始めた。
そういうことに遠ざかって久しかったから皮膚もなずまないし、なかなか手順がうまくいかなかった。
いくたびやり直しても気に入らず、しまいには拭き取ってしまうことも多かったが、 お城居や紅や香湯などのにおやかな香りに包まれていると、
何やら若い間ウキウキするような気持ちになり、 思わず時の経つのを忘れることもあった。
三重門は格別何も言わなかった。 弥生が今日は美しく化粧ができたと思った時、
一度だけ微笑しながらつくづくと見てくれた。 いいなぁ。
化粧というものは男が威服ばかまを正すのと同じで、 気持ちをシャンとさせるものだそうだ。
これからもそのくらいの化粧はする方がいいだろう。 その時、
弥生は恥ずかしいほど満たされた気持ちで、 夫の前を立ってくるとしばらく鏡を覗いていた。
しかし、 これらのことは長くは続かなかった。
道具のありどころもたびたび変えるわけにはいかないし、 変えてみてもいつもそう新しい気持ちにはなれない。
つましい経済ではおしろいやべにはかなり贅沢につくし、 時間の惜しい時の方が多いので自然手軽に済ませておくようになる。
こうして、 タンスも教台も机もいつかしら元の場所に納められているのを見て、
三重門は何やらほっとした口ぶりでこう言った。
部屋の模様替えも気分が変わっていいが、 やっぱり道具にはそれぞれ末どころがあるものだなあ。
私にはこの方が落ち着いてよい。 目先の変わるのはその時だけのことだし、
なんとなくざわざわしくていけない。 少しは住み心地もおよろしかろうと思ったものですから。
過剰さ半は平凡なほど良いものだ。 あまりそんなことに頭を疲らせないがいい。
試みたことは、 つまるところ何物ももたらしてはくれなかった。
生きがいへの問い
冷える朝の栗屋で水を使いながら、 また
ひょうひょうと風の渡る夜半、凍える指先を温め温め縫い物をしながら、 弥生は再び
生き甲斐ということを思い始めた。 これが
自分の生活なのだろうか。 こうして自分の生涯は経っていってしまうのだ。
同じ着物を縫ったり、といたりしながら、 物見ゆさんもせず、美味に飽くことなく、
ひたすら夫に仕え子を育て、その月その年の乏しい家計をいかに繰り回すかということで、 身も心も疲らせて、
やがて虚しく老いしぼんでしまう。 これでいいのだろうか。
弥生はゾッとするような気持ちでそうつぶやく。 こういうし果てのない困難の克服に、
何か意味があるのだろうか。 もっと本当に生き甲斐のある生活が、
他にあるのではないかしら。 そして、
惑わしのように、 いつか小松の言った言葉が頭に浮かんでくるのだった。
これまでに縫いつくろいをしてきた針の跡を繋いだら、どれほどの長さになるだろう。 おそらくそれは想像を絶する長さに違いない。
しかも、 そこからは何者も残らなかった。
水地や洗濯に使い捨てた水、 かまどや火桶で炊いた薪休み、
それらの量も、たぶん驚くべきかさに違いない。 そしてこれまた、
そこからは何一つとして残るものはないのだ。 しかもそういう苦労をしのいで育てた妹たちから、避難の声を聞くとすれば、
一体何のための苦労かと。 疑いたくなるのは無理もあれまい。
弥生は初めて、 本当に突き詰めて考え抜かなければならぬことに、
行き当たったと思った。 腹ぎる人間がその問題について考えるとき、
必ずそう思うように、 このごろ、
夫への葛藤
なんだか沈んでいるようではないか。 夫があるよ、そう問いかけた。
体の具合でも悪いのではないか。 はあ、
さようなことはございません、そう言おうとしたが、 にわかに感情がたかぶって口が聞けず、
そのまま黙って目を伏せた。 どこか具合が悪いのか?
三重門はいぶかしげにこちらを見た。 もしそうなら、無理をしてはいけない。
医者に見せるとか薬を飲むとかしなければ。 別に、
体が悪いわけではございませんけれど。 なんですか、
気分が重うございまして。 わけもなしに気分の重いということもなかろう。
一度、医者に見てもらったらどうだ。 はい、弥生はふと顔をあげた。
いっそ、 夫にすべてを話してみようか。
夫には夫の意見があるだろうし、それを聞けば、 あるいはこの悩みも解けるかもしれない。
話すならこの機会だ。 そう思って口まででかかったが、
やっぱり、 言葉には出せなかった。
夫は男である。 こういう女の苦しみは、
話してもわかってくれないであろう。 悲しくそうあきらめて、
さりげなくその場を取り繕って済ませてしまった。 霜月に入ると北国の野山はもう雪に覆われる。
小松の訪問と孤独
その年は珍しく寝雪が遅く、月の半ばを過ぎても、 まだ土の見えるところが多かった。
まるで季節が帰りでもしたような、 ある晴れた暖かい日の午後。
小松が使用人に宝物を持たせて、 ひさかたぶりに訪ねてきた。
あの時辞めた土地農へ、ようやく行って参りました。 小松は健康に満ち溢れるような顔に、
いたずらめいた笑いを見せながらそう言った。 やっぱり鶴さんと誘い合わせましてね。
もう雪でしたけれど、かえって客が少なくてようございました。 山鳥を飽きるほど食べましてね。
そして、のびのびと開放された4日間の楽しかったこと。 美しい谷川に臨んだ宿の眺め、
気ままに浸かる温泉の心よい余温に包まれる寝心地など、 絵に描いてみせるように巧みに話し続けた。
でも鶴さんにはびっくりさせられました。 夕下には四度ともお酒をあがるのですものね。
いつも秋沢様のお相手をするので癖になったのですって。 あなたもあがったんですか?
ほんのお正晩ぐらいでしたけれど。 小松はもう一度いたずらめいた笑い方をした。
でもなんだか悲鳴ごとのようで楽しいものですね。 お姉さまもこの次にはぜひいらっしゃらなければ。
悪い方たちね。 そう言いながら、
もし自分にもそんなことができたらどんなに楽しかろう。 疲れた心や体がどんなに休まるだろうと思い、
それが不可能だとわかりきっているだけに。 弥生の気持ちは耐えられぬほどの寂しさに落ち込むのだった。
山鳥を持ってまいりましたの。 お小遣いが少のうございましたから、ほんの形だけのお土産よ。
岡田の訪問と予感
そう言って包みを時にかかった。 その時、
門口に人の訪れる声がした。 出て行ってみると、
環状舞踊の岡田翔平という老人だった。 夫は非晩で家にいる日だったが、
昼食をするとすぐ窯の方を歩いてくると言って、 与一郎を連れて出かけた後だった。
お客様はどなた? お役所の岡田様よ。
そう答えながら弥生は茶の用意をした。 小松は、岡田と聞いて、ああという表情をした。
やっぱり、いらしたわね。 やっぱりって、あなた何か知っておいでなの?
あの話ですわ、きっと。 小松はそっと声を潜めた。
いつかのお役替えのこと。 お兄様はお腰が重いから、先日桃木が直に岡田様に会ってご相談したのですって。
きっとそれでいらしたに違いありませんわ。 ねえお姉様、
今度こそお兄様に一奮発していただくのね。 そして、家内の雲の開けるようにしなければね。
小松を送り出した後、茶を運んで行くと、 岡田老人は日桶へ手をかざしながら、一冊の写本を開いて見ていた。
老人は何か勘に絶えぬ様子で、しきりにページをめくっては、 ぶつぶつ独り言をつぶやいていた。
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