一冊の本をお茶とともに味わう読書Podcast「本茶本茶」。
今回は柚子種焙じ茶を淹れながら、岡潔『春宵十話』を紹介します。
▼ 今回のテーマ
学問の中心には情緒/よく考えて迷うところなく行う/緊張と緩みから生まれる
世界的な数学者が語る「情緒」と「学問」の世界を、お茶を片手にゆっくり味わいます。数学や哲学、学びのあり方に興味がある方におすすめのエピソードです。
▼ noteで読む
🍵 本日のお茶
TEA BAG BLEND 柚子種焙じ茶
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📕 本日の本
『春宵十話』岡潔(著)
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👤 話し手
Fuyuto
「静けさのデザインとケア」をテーマに、コーチング・プログラム開発を行うStudio Stillness代表。
note → https://note.com/honcha_honcha
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サマリー
本エピソードでは、世界的な数学者である岡潔氏の著書『春宵十話』を紹介します。学問の中心は頭ではなく「情緒」にあると説き、その情緒とは対象への細かい心配りや善行の実践であると解説します。また、数学的思考は形式にとらわれず結果を信じて未知に向かう姿勢であり、発見は緊張と緩みのプロセスを経て、自然からのインスピレーションを受け取ることで生まれると論じます。AI時代においても、学問や発見の本質として情緒や自然との関わりが重要であると示唆しています。
はじめに:本茶本茶と『春宵十話』の紹介
こんにちは。本茶本茶へようこそ。
毎回一つのお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけに、生き方の問いを一つ持ち帰る時間です。
静けさのデザインとケアを通して創造性の器を育む、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。
毎週水曜日19時に更新しています。
岡潔氏と『春宵十話』の概要
今日ご紹介するのは、岡潔さんという方の書かれた春宵十話。
春の宵の十の話という一冊になります。
これ、確か前回の沢会の最後にも、今読んでいる本としてご紹介したかなと思うのですが、
この岡潔さんという方は、ご存知の方も多いのですが、数学者の方です。
もうお亡くなりになっている方ですが、世界中の数学者が解けなかったジャンルで、
多変数複素関数論という、これは7字熟語ぐらいのものがあるのですが、
それを一人で解決したというとても偉大な数学者の方です。
聞いたところによると、あまりにも難しい問題を一人で解決してしまったので、
海外からは、岡潔というのは一人の人じゃなくて、
何人かのグループが同じペンネームを使っているのではないかと思われたというほど、
偉大な功績を持っている方になります。
本の中でもわかるのですが、岡潔さんは、もちろん数学の話、
その専門ではあるのですが、それだけではなくて、
教育の在り方ということだったり、日本人の精神性のお話であったり、
あるいは芸術みたいなところも含めて、さまざまな話をこの随筆集にまとめています。
紹介したいポイントは今日も3つあって、
1つ目が学問の中心には情緒。
2つ目がよく考えて迷うところなく行う。
そして最後に緊張と緩みから生まれる。
その前にまずは一緒に楽しむお茶から。
本日のお茶:柚子種焙じ茶
本日は桜井バイサ研究所さんのティーバッグブレンド、
柚子、種、ほうじ茶をいただいています。
これは柚子の種を焙煎してほうじ茶とブレンドしたブレンドティーになっていて、
すごい種の香ばしい香りがするおいしいお茶になっています。
本当は忙しない毎日の中でも、
急須でお茶を入れるぐらいの時間の余裕は日々持っていたいなと思うところなんですが、
たまにはこういうふうにお湯を注ぐだけでもおいしくお茶をいただけるというのがありがたい。
そんな桜井バイサ研究所さんのお茶になっております。
ではここから本の紹介に戻ろうと思いますので、
みなさまもお気に入りの飲み物と一緒にお楽しみください。
第一の切り口:学問の中心には情緒
この春秋十話という本は、
冒頭にもあったように、天才と言っていいでしょうね。
天才数学者の岡清さんという方が、
もちろん数学についても語っているのですが、
そこから学問であったり、教育であったり、
その奥にある人の心みたいなところについて語った随筆集になります。
実際はこれ、岡さんが話したものを、
新聞社の方が文章にまとめたというような本になっているそうなんですけれども、
一貫しているのはですね、情緒という単語ですね。
学問であったり、人の中心はこの情緒から生まれているんだというのが、
この岡さんの話の中心になっています。
もちろん数学もそうですし、教育、日本文化、あるいは日本らしさ、
そういったものの話題が、この情緒という一つのキーワードで語られていく、
そんなような全体の流れになっています。
切り口の一つ目が、学問の中心には情緒というものになります。
本文中から一文引用してみるとですね、
頭で学問をするものだという一般の観念に対して、
私は本当は情緒が中心になっていると言いたい。
そんな一文があります。
これは本当にその数学の難しい多変数複素関数論というものを、
一人で説いたこの岡清さんという方が、
学問は頭ではなくて情緒だと言うと。
そんな一文なんですね。
この情緒が何なのかというのを、少し他の文章も引用してみたいと思うんですけれども、
なんとなくこの今の世の中で言われている、
情緒があるとかですね、情緒不安定みたいな、
感傷に浸るみたいなこととか、感情的であるというよりも、
もう少しですね、対象に対する細かい心配り、
綿密さ、あるいはそういう心そのものを、
情緒と呼んでいるような気がします。
別のパートでですね、岡さんは、
情緒を大切にするとはどういうことかというのを、
善行を行うことと、そんな風に述べています。
この善行というのは、良い行いですね。
引用してみると、絶えず善行を行っていると、
だんだん情緒が美しくなっていって、
その結果、他の情緒がよくわかるようになり、
それでますます善行を行わずにいられないようになるのである。
何かその良い行いであったり、
心配りのある行いというものを行っていくと、
だんだん情緒が美しくなり、
その結果ますます善行が行われるんだと。
まあ確かにこの文章だけを聞いてみると、
差もありなんという気もするんですけれど、
それが岡さんに言わせると、
数学、あるいは学問の中心にさえなるということ。
さらには、情緒の中心の調和が損なわれると、
人の心は腐敗すると書いているように、
人間自体の中心にもこの情緒があるんだと。
そんなようなことを岡さんは話しています。
まあ何かわかったようなわからないようだなと思っていた時に、
この文庫版はですね、解説を人類学者の中澤真一さんが書かれていて、
一つわかりやすいというか面白い解説があったので、
それもご紹介をしておくと、
この解説の中でですね、中澤さんは、
岡清さんの言う情緒というものは、
自然が人間に差し出してくれるものを、
上手に受け取るための心構えであるというふうに話しているんですね。
なので、例えば数学であったり学問みたいなもの、
あるいは人の生活営みというものも、
全てが自分の頭の中から出てくるということではなくて、
自然の側から人間に差し出してくれるものを、
ちゃんと受け取る、そのための器、心構えを持っている必要があって、
それが人の情緒というものと深く関わっているということと理解をしました。
そしてその受け取る器を持っているためには、
自分だけでなくて、人のことを知りながら、
周りに対して善行を行うということであったり、
あるいは自然の中で自分の感覚を育むということだったり、
そういうものが必要なんではないかというふうに、
僕は解釈をしています。
2つ目の切り口が、
第二の切り口:よく考えて迷うところなく行う
よく考えて迷うところなく行うです。
これはですね、確かに情緒が数学の中心にあるといっても、
具体的にはどうやってその数学というものが行われるのか、
思考されるのか、そんなところにヒントとなる場所になります。
一文引用すると、
よく考えて迷うところなく行うという頭の回転様式、
これを数学的というのである。
結果を信じて疑わぬようにするには、形式を重んじないことである。
決まった形式通りにやったら、
その通り結果が出たというのでは数学ではない。
結果というものがあると信じればそれでいいので、
そう信じて結果を出そうとするのなら、どんな出し方でもいいのだ。
岡さんの言う数学的な考え方というのはこういうことだそうです。
個人的にはですね、数学といえば公式みたいなものがあったり、
それを当てはめながらやっていくものという印象を持っていたのですが、
そういう決まった形式通りにやって結果が出たというのは、
これは岡さんに言わせると数学ではないと。
どちらかというと、結果を信じられればどんな出し方でもいいんだ。
そんなことを言っています。
何かですね、この数学というのが未知のものに向かってみる態度みたいな、
そんなようなこと、数学に信じるという言葉が出てくるのはとても面白いなと思いながら、
何回か前、28回の配信ですね。
学びがわからなくなったときに読む本というものがあったのですが、
そこでご紹介したイモイモという思考教室をやっている、
あるいは英工学園の講師をやられているイモトさんの数学の授業にも何か通ずるものを思い出しました。
一つの問題に対していろんな形の解き方を良しとすると。
宿題でさまざまな自分なりの解き方をいろんな人が開発、いろんな生徒が開発をして、
試行錯誤をして、そこから別解、別の解き方ですよね。
とか、間違っている解き方みたいなものをみんなから集めたものをまとめて、
それを生徒に返してみんなで試行錯誤をさらに深掘っていく、
みたいなそんな話をされていたと思います。
もう一文です。引用すると、
ケアレスミスを指摘するのは計算でできることである。
だが、計算能力だけのおさきまっくらな目では、
起こったことを批判できるだけであって、
未知に向かってみることはできないのである。
というふうにも書かれているのです。
なんとなくここで勝手に解釈して、なるほどと思ったのは、
この計算というのと数学というのが違うものであるというのが、
とても僕にとっては面白かったです。
算数とか計算とか数学というのは、
僕の頭の中では全部地通気になっているものですが、
おそらくお母さんに言わせると、
計算というのは、もちろん起こったことを批判できる。
あっているか間違っているかを批判できるのですが、
一方でそれだけでは未知に向かってみることはできない。
まさにこれまで証明されていなかったものを証明するとか、
解けていなかったものを見つけるみたいなものは、
この未知に向かう行為、それこそが数学であり、
その中心には、なので思考だけではなくて、
情緒、あるいは信じるということが必要である。
何かそんなようなことなのかなと受け取った文章になっています。
とした時にですよね、
第三の切り口:緊張と緩みから生まれる
どうやってその偉大な数学の問題というのを解けるのか、
どういう風なプロセスでそれを解いていったかというのは、
とても皆さんの気になるようなところなんじゃないかなと思うのですが、
ここで最後の切り口の緊張と緩みから生まれるというものを言いたいと思います。
もちろんその未知のものに向かうものである。
その中心には情緒が必要であるとか、
信じること、そして公式を当てはめるのではなく、
自分なりに解いていくことが必要である。
確かにわかったような気になりつつ、
いまいちそれを自分ではできる気がしないという時に、
岡さんはこういう話をしています。
まったくわからないという状態が続いたこと、
その後に眠ってばかりいるような一種の放信状態があったこと、
これが発見にとって大切だったに違いない。
この岡さんが新しい数学の発見をするまでには、
やってやってもうやり方がなくなったところから、
一旦少し手放すというか、放信状態になった時に、
意識の仮想に隠れたものが成熟して表層に現れてくる。
そういう眠っていたものが表層に出てきた時には、
もう自然に問題は解決しているんだというようなことを言っているんですよね。
それ以外の部分でも、発見の前に緊張と、
それに続く一種の緩みが必要なのではないか、であったり、
自然の風景に恒骨とした時などに意識に切れ目ができ、
その間から成熟を待っていたものが顔を出すらしい。
そんなようなことを語っています。
とても面白いなと思うのは,こういう発見が,
まさに豆電球に光がつくように,
頭の中でひらめくというよりも,
何か世界の中で成熟していたもの,
世界の中で発光していたものがポッと浮かんでくるような,
何かそういうような感覚なのかなというふうに思います。
ここまで来た時に,先ほどの情緒の解説を,
中澤真一さんがされた言葉,
自然が人間に差し出してくれるものを上手に受け取るための心構えが情緒である,
というところと再び接続するような,
そんなような印象を受けました。
もちろん,今AIとかいろいろできてきている現代において,
これをどういうふうに使っていくかというのは,
少し考えなきゃいけない部分かなと思いますが,
その数学とか学問というものが,
それ自身を頭の中でずっと思考し続けるというだけじゃなくて,
もっとその奥にある情緒みたいなことを磨きながら,
緊張と緩みということを使いながら,
世界や自然との関係の中で答えが出てくるというようなものは,
何かヒントになるものがあるのではないかなというふうに思っています。
まとめと読書への誘い
この春秋十話は結構有名な本ではあるのですが,
内容は,本当,この情緒の話があれば,
途中で野球の話があったりと,
連載された随筆のように,
結構いろいろなところに話題が飛びながら,
僕自身も分かるところ,分からないところありながら,
今の世の中と照らし合わせながら楽しめて読めた本なので,
もしよろしければ読んでみていただけると幸いです。
ということで,今日は桜井敗佐研究所さんの
ゆず種ほうじ茶をいただきながら,
岡清志さんの書かれた春秋十話という一冊をご紹介しました。
ノートでも記事を書いていますので,よろしければご覧ください。
またフォローをどうぞよろしくお願いいたします。
それではまた。
18:27
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