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こんにちは。本茶本茶へようこそ。
毎回一つのお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけに、生き方の問いを一つ持ち帰る時間です。
静けさのデザインとケアを通して創造性の器を育む、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。
毎週水曜日19時に更新しています。
今日ご紹介するのは、青木真兵さんの『資本主義を半分捨てる』という一冊です。
これは、ちくまプリマー新書から出ているものになるんですけれども、
著者の青木真兵さんという方は、何回かこのPodcastでもご紹介したことがあると思うんですが、
奈良県の東吉野村というところで、
私立の施設図書館、ルチャリブロというものを奥様と一緒に10年にわたって開いてきた方であったり、
文化人類学であったり社会福祉、そんなようなフィールドにも足を伸ばしている方になっています。
この本との出会いは、もともとルチャリブロという施設図書館、人文系施設図書館と呼ばれていますけれども、
これをテーマにした「悲願の図書館」という本を以前、青木さんが出されていたのを書店で手に取ったところから始まるんですけれども、
その後、たまたま小規模なオンラインの講演会みたいなものを聞いたり、
直接いくつかご質問させていただく機会を得たりして、
その後の手作りのアジールという本を読んだり、今回の資本主義を半分捨てるという本にも出会いました。
かなり資本主義を捨てるという強めのタイトルではあるんですけれども、
この半分というところがとてもポイントになるそんな本なのかなというふうに思っています。
紹介したいポイントは3つあって、
1つ目が商品化した人生、
2つ目が理性と土着、
そして過剰のお裾分け。
その前にまずは一緒に楽しむお茶から。
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本日は静岡本山という地域の丸高農園さんの出されているみどりごというお茶ですね。
これは本山の香り茶、半発酵茶ということになっています。
この半発酵茶というのは普通の煎茶とちょっと違って、
軽く葉を胃腸させているというか、発酵させている、しおらせている、
その後に釜入りで仕上げているというような工程を経ています。
なので結構甘みがあるというか、ちょっとミルクのような香りだったり、
僕は枝豆というかずんだみたいな、そういう豆っぽさも感じるような、そういうようなお茶になっています。
渋みや苦みというのはほとんどなくて、すっきりと甘い、そんなようなお茶になっています。
これはもともとお茶が好きな友人のお気に入りということで紹介をしていただいて、
あるいは東京の表参道にですね、僕が好きなお茶屋さん、いつというお店があるんですけれども、
そこでも出会ったりする、そんな丸高農園さんのお茶になっています。
半発酵茶というものが、今回のタイトルの資本主義を半分捨てるの、半分半分で面白いかなと思って、
今日は選んでみました。
ではここから本の紹介に戻ろうと思いますので、皆様もお気に入りの飲み物と一緒にお楽しみください。
この本はですね、冒頭の部分で、
ちょうどよく生きることがなんでこんなに難しいんだろうか、というような問いから始まっていく本になっています。
その難しさの根っこには、この社会にあるほとんどのものが商品、市場で価値をつけられて取引される、
そんな商品になってしまっているからだ、というところからスタートをしていきます。
このものはいくらで売れるのか、とか、
ものだけでなくて、自分の労働であったり、
あるいは人の人生自体も、この価値があるかどうか、商品になり得るかどうか、
みたいな、そんな社会になっているところに一つ、生きづらさがあるんじゃないか、そんな話から始まっていき、
それをですね、オーストリアウィーンで生まれて哲学者のイヴァン・イリーチという方を引用しながら、
あるいは青木さん自身の、先ほどの施設図書館みたいな取り組みをヒントにしながら考えていく、
そういうような一冊になっています。
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一つ目の切り口がまさにそのトピックで、商品化した人生というものになります。
一文用すると、なぜ僕たちは、ちょうどよく生きることは難しいと感じているのか。
それは、この社会にあるほとんどのものが、商品として扱われているからです。
商品化されるということは、あらゆるものが交換できるものとして、価値をはかられるということです。
こういったですね、商品として価値があるかどうか、
このことを青木さんは交換価値として定義をしています。
例えば、本もそうですよね。いくらと交換する価値があるのか。
このコンテンツに対して他社はいくら払ってくれるんだろうか。
という、その他社のニーズとどう交換し得るかどうかということが原則。
あるいは他人にどう評価されるかどうかというところをよりどころにしたのが、交換価値というもの。
一方でそれに対して、他社のニーズうんぬんではなくて、自分にとって純粋に意味があるかどうか。
自分の心地よさや違和感にどう根差しているかというものを使用価値、使う価値ですね。というふうに話しています。
本来ですね、この自分が働くとか暮らす、自分の人生みたいなものは、
自分の実感に基づいて自分にとって意味があるかという使用価値で計られていくべきものだとは思うんですけれども、
いろいろなものが商品化をして他社に評価されるかどうかという軸で、
どちらかというと、先ほどの交換価値で計られるようになったときに、
知らず知らずのうちにですね、自分の生き方とか判断の基準というところにまで、
この交換価値的な他社の評価とか、市場の物差しというものを取り込んでしまっているのではないか。
そんな話がされています。
誰かに必要とされなければ価値がない、いる意味がないという思い込みは、
まさにこの使用価値で計るべきものを交換価値だけによって計ってしまう、評価してしまうという考え方で、
例えば就職活動とか仕事、そういうものも全部ですね、この他社ニーズだけに自分を合わせていく、
そんな生きづらさがあるんじゃないかという話をしています。
一方ですね、青木さんは、じゃあそういう交換価値を全部捨てて、
自分にとって意味があるかどうかの使用価値だけで生きていけという極論は言ってはいないんですよね。
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やはりその生き物としての自分、これは自分にとって意味があるかどうか、
自分の暮らしをどう実感するかというものと、一方で社会的存在としての自分、
社会の中であるいは他者の眼差しの中でどう評価されるか、
この両方を行ったり来たりするということが人間性を回復する行為だ、そんなふうに話しています。
それがまさにこの本のタイトルの資本主義を半分捨てるの半分ということなのかなというふうに思っています。
では、なんで社会はあるいは社会の中にいる人の暮らしや人生はここまで商品化してきてしまったのかというところが次の切り口になります。
理性と土着。この理性というのは床から離れると書いて理性ですね。土着は土につくと書いて土着になります。
なぜその社会はここまで商品化したのかということに対して、
青木さんは冒頭で話したイリーチという哲学者を経由して、経済学者のカール・ポランニの理性という概念を持ち出して話をしています。
引用すると、理性とは文字通り土地から離れるという意味にとどまらず、
もともと社会に埋め込まれていた経済が、監修や宗教、共同体といった文脈から切り離され、市場の原理だけで自律的に動き始めることを指します。
これはですね、もともと経済活動というのは、今の世の中も社会がある上で絶対に欠かせない活動、むしろ経済活動を中心にいろんなものが回っているような雰囲気すら感じますけれども、
もともとは経済活動は生活とか人間関係とか宗教とか、そういったものの中に埋め込まれていた。
お金儲けのために経済があるというよりも、生活そのものの中の一部分だったと。
それが近代になって、経済というものがそういったもともと埋め込まれていた生活の文脈からはがれて、市場原理だけで自律的に動くようになった。
これを理性というふうに話しているんですね。
例えば、今日飲んでいる静岡のお茶なんかも、もともと温暖であったりとか、水はけのいい静岡の土地柄とかフードみたいなものがあって、お茶が育てられて、何かその土地に合った生産品として生産をされていたと。
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それが暮らしの中で飲まれて、あるいは余剰なものはお互いに融通されたりして、というところからスタートして、それが健常品になったりとか、いろんなところに出回っていく中で、お茶の市場というもので取引をされだすと。
そうすると、その静岡でというよりも、いかに品質の高いお茶をたくさん作っていくか、というところに主眼が置かれて、それこそお茶の生産量が鹿児島と静岡でどちらが一位なんだ、みたいな話になったり、数字として年間生産高、みたいなことで競うようになっていくと。
こういうものも、もともとはその土地とか生活に組み込まれていた経済というものが、経済のために自律的に動いていく、市場の中で拡張していく、そんな事例なのかな、というふうに思っています。
面白いのは、今、別に文化資本の経営という本も読んでいたりするんですが、これは元市政道の福原さんという方が書かれた本ですけれども、同じことが、個別化という別の言葉で語られています。
一文をすると、自然や社会から経済を分離したということは、現実世界から経済を分離して、経済を主語にした、ということができます。商品もまた同じように主語として分離され、個別化されてきたわけです。
そこでは、あらゆる物事は、現実世界から主語として取り出され、個別化されることによって、初めて物事として扱われてきました。
この文化資本の経営でも、資本主義を半分捨てる、でも言われていることは、まさにそういう生活の文脈に根差していた経済とか、あるいは土地、労働、社会、こういったものが全部、市場の論理だけに切り離されてしまう、そんな近代の在り方を語っている、そんなふうに僕は理解をしています。
そのように、切り離されてしまった市場、あるいは経済というものを、もう一度自分たちの生活側に引き寄せる、あるいは埋め直すということを、この青木さんは話されていて、それを土着、土につく、土着という言葉で表現をしています。
そういった土着の取り組み、実験として、この青木さんたちは山村に暮らしの場を移すわけですけれども、大事なのは、都会を捨てて田舎に行くということを自身にあるというよりも、
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その市場原理というところから一旦距離を置いて、自分たちの生活、あるいは自然の中での暮らしというところから、一つずつ取り戻していく、そんなようなことがこの土着の意味するところだと思います。
そしてここでも大切なのが、行ったり来たりすること。
引用すると、評価に晒される場では力を磨き、同時に評価から解放された場では存在そのものが承認される。
その両方を行き来できることこそが、土着的に生きること、そして人間性を保ちながら学ぶことにつながるのだと思います。
そうしたときに、青木さんはどうやってこの土着的な暮らしを今実験しているのだろうかということが三つ目の切り口につながっていきます。
過剰のお裾分けというテーマになります。
一文用すると、まず他者ニーズに応えることから立ち上がる近代的な個人ではなく、自己ニーズに基づく手作りから生まれる過剰をお裾分けし合う、この矜正の先に自立した個人があるのです。
こんなような一文があります。
具体的に言うと、この青木さんとパートナーの方が続けている施設図書館ルチャリブロというのは、そういう市場であったり他者のニーズにまず応えようとして生まれたものではなかったそうなんですね。
もともと奥様、パートナーの方が図書館師匠をしていたということであったり、青木さん自身も人文の研究者としてたくさんの蔵書があったと。
これはもちろん自分たちで買ったものではあるんだけれども、ある種その自然から自分たちに与えられた蔵与だと。
そういうふうにとらえたときに、その過剰な文、集まった本、自分たちでは読み切れない、あるいはずっと読み続けているわけではない、そういうものをお裾分けするというところから始まった営みであると。
まさに自分たちのニーズに基づくところから手作りで始めていく、そしてそれをお裾分けをしていくという、そういう順序でこのルチャリブロというものは生まれたんだそうです。
先ほど冒頭に出てきた哲学者イリーチは、こういう生活に根差した自己ニーズに基づいた自主的な営みを、ワナキュラーという単語で呼ぶんだそうで、
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これは誰かに売るためということでもなく、知らない誰か、あるいは他者にとって有用かどうか、求められているかどうかということでもなく、自分たちのニーズから始まったものが結果的に余り、その過剰をお裾分けする形で周りに渡っていく、そんなような社会との関係性。
ここで起きているのは、価値に基づいた等価交換のサービスということではなく、贈与と返礼が循環していくような、そんなような営みだと。
そして、そういうものと市場に組み込まれた商品化された経済の活動を行っていくこと、この両輪を行ったり来たりするということがまさに土着の実践なんだというふうに僕は捉えています。
そういう意味で言うと、まさに最近副業とかっていろいろ言われてますけれども、例えばその本業の部分は、そういう他者ニーズとか市場経済の中から生まれてくる営みをやりながら、もしかすると副業で同じような構造の、その他者ニーズに基づくものをもう一個やるのもいいかもしれないですけれども、
例えばそっち側は自己ニーズからまず手を動かしてみる。そこで出た過剰を何かお裾分けする。そういう逆向きの循環というものを起こしていく。
そういうことで、例えばそのいきなり田舎に移り住むみたいなことではなくとも、今の暮らしの中で少しでもこういう土着的な、そういうものを生み出していける。行ったり来たりしうるんじゃないか。そんなことを思いながらこの本を読んでいました。
タイトルに戻ると、資本主義を半分捨てると。いきなり生き物だけの自己ニーズにもどついた自分に戻るということは、やはりこの社会とかこの現代においては難しい。でも半分だけ手放すということはしうるかもしれない。
評価される側と評価を超えた側、あるいは交換価値と使用価値、みたいなその真ん中で行ったり来たりするということが冒頭にあったちょうどよく生きることへのヒントになるんじゃないか。そんなことを受け取った一冊になっています。
ということで、今日は静岡本山の丸高農園さんのミドリゴというお茶をいただきながら、青木新平さんの資本主義を半分捨てるという一冊をご紹介しました。
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それではまた。