お帳面のひと言が、親子の会話になった日
毎月、お帳面のコメントを読むのが楽しみだったんです。
卒園式の日、保護者の方からそう言っていただいたことがあります。
その言葉を聞いたとき、私はお帳面に書いていた短いコメントを思い出しました。
子どもたちが縁で過ごした様子を保護者の方にも少し届けられたら、
そんな気持ちで、毎月、出席シール帳の小さなコメント欄に言葉を書いていました。
けれど、私がその時一番嬉しかったのは、コメントを楽しみにしてくださっていたことだけではありませんでした。
保護者の方が続けて話してくださったこと、
それは、お帳面を子どもと一緒に見て、親子で縁のことを話す時間になっていた、ということでした。
私が書いた小さなコメントが縁から家庭へ届き、そこから親子の会話が生まれていた。
今日は、年少クラスで出席シール帳に書いていた一言が、親子の時間につながっていたと知ったときのお話をします。
私が年少クラスを受け持っていた頃、クラスには30人の子どもたちがいました。
2人の先生と、そして、加配の先生と一緒に毎日を保育していました。
年少さんの1年は変化がたくさんあります。
新しい環境に慣れていくこと、先生や友達の名前を覚えること、
自分の気持ちを少しずつ言葉にすること、身の回りのことに自分で取り組んでみること、
毎日の中で、子どもたちは一人一人違う歩みを見せてくれます。
その姿はいつも大きな出来事として現れるわけではありません。
昨日までは先生のそばで見ていた遊びに、自分から加わってみる。
友達のしていることを真似してみる。
できなかったことをもう一度やってみる。
困ったときに少しだけ自分の気持ちを伝える。
ほんの小さな変化でも、その子にとっては大切な一歩です。
私は保護者の方に、そうした縁での姿を伝えたいと思っていました。
お迎えの時に話せることもありますが、
毎日全ての子どもの様子をゆっくり伝えられるとは限りません。
そんな中で、出席シール帳には小さなコメント欄がありました。
縁のやり方では、全員に同じコメントを書いても良いことになっていました。
30人分の欄があります。
毎月のことですから、縁の方針として同じ内容でも良いことになっていました。
決められた範囲の中で必要なことを確実に伝える。
それも大切な仕事の進め方だと思います。
それでも私は、できるだけ一人一人違う言葉を書きたいと思っていました。
30人の子どもたちは、同じクラスで同じ時間を過ごしています。
でも、それぞれが心を動かす場面も、好きな遊びも、頑張っていることも違います。
ある子が夢中になる遊びを、別の子は少し離れて見ている。
すぐにやってみたいと動く子もいれば、様子を見てからゆっくり参加する子もいる。
友達とのやり取りの中で、自分の思いを伝えようとする子もいます。
一人一人の姿を見ていると、その子に伝えたいことが少しずつ見えてきます。
今日はこんな様子があったな。
この姿をお家の方にも知ってもらえたらいいな。
この子らしいところを一言でも届けられたらいいな。
そんな風に、その月の子どもの姿を思い返しながら、コメント欄に書く言葉を考えていました。
ただ、コメント欄は大きくありません。長い文章は書けません。
伝えたいことがいくつもあっても、全部を書くことは難しい。
どの姿を取り上げるか、どんな言葉なら読みやすいか、短い欄の中で考える必要がありました。
その子の成長を大げさに表現するのではなく、実際にあった姿を思い返す。
保護者の方が読んだとき、縁での子どもの様子を想像できるような言葉を選ぶ。
短いからこそ、どんなことを書くかを考えていました。
毎月のことなので、書く作業には時間もかかります。
30人分を一人ずつ考えるのは、決してすぐに終わる仕事ではありません。
コメントがすぐに浮かぶ子もいれば、なかなか書けない子もいました。
すぐに言葉が出てくるときには、その月に心に残った姿や、保護者の方に伝えたいことがはっきりしているときです。
けれど、なかなか書けないときには、手が止まることもありました。
そんなとき、私は自分に問いかけていました。
今月、この子のどんな姿を見てきたかな。
この子のどんなところを保護者の方に伝えたいかな。
コメントがすぐに書けないことは、私にとって自分の保育を振り返るきっかけでもありました。
日々一緒に過ごしていたつもりでも、この子の姿を十分に見つけられていたかな。
いつもと違う表情や、その子らしい動きに気づけていたかな。
何を書こうか考えることで、自分がその子とどんな時間を過ごしてきたかをもう一度たどっていました。
その月に見たことを思い返しても、すぐに言葉にならないことがあります。
そんなときは、子どもの様子を思い浮かべながら、どんな場面があったかを振り返りました。
どんな遊びをしていたかな。
友達といるとき、どんな表情をしていたかな。
以前は難しそうにしていたことに、少しでも自分から向かう姿はあったかな。
困ったときには、どんなふうに気持ちを表していたかな。
コメント欄に書く言葉を探すことは、子どもを見つめ直すことでもありました。
そして、書けなかったことをそのままにせず、来月はこの子のこういうところをもう少し気をつけて見ていこう、と考えることもありました。
次は、この子がどんなふうに遊びを広げていくかを見てみよう。
友達とのやりとりの中で、どんな表情をするかを見ていこう。
自分から伝えようとする姿があるか、丁寧に見ていこう。
そんなふうに、来月に向けて見る視点を自分の中に置いていました。
コメントを書く時間は、保護者の方へ言葉を届ける時間であると同時に、
自分の保育を振り返り、次の月の子どもの姿をどう見ていくかを考える時間になっていたのです。
毎月の作業は、書くことだけで終わりませんでした。
言葉を考えるために子どもの姿を思い出し、足りなかったところやもっと見ていきたいところにも気づく。
そうして書いた言葉には、その子と過ごした時間だけでなく、
これからの保育への自分の思いも重なっていたのだと思います。
子どもたちの顔を思い浮かべながら書いていると、
その子と過ごした時間を改めて振り返ることができました。
毎月出席シール帳を返すとき、コメント欄にはその子に合わせた言葉を添えていました。
子どもたちはシール帳を持ち帰ります。
家で保護者の方が開いてくださることもあるでしょう。
けれど、実際にはそのページをどのように読んでいるのか、
親子の間でどんな会話があるのか、当時の私は知りませんでした。
お帳面に書いた言葉は、保護者の方に目を通していただけるのだろうか、
忙しい中でどれくらい読んでもらえるのだろうか、
そんなことを考えることもありました。
それでも私は毎月、一人一人違うコメントを書くことを続けていました。
縁で見た子どもの姿を、短い言葉にして家庭へ届ける。
その言葉が、保護者の方にとって何かのきっかけになればいい、
縁での時間を少しでも思い浮かべてもらえたらいい、そう思っていました。
月日が流れ、子どもたちは年少さんから次の学園へ進み、
やがて卒園を迎える時期になりました。
卒園が近づくと、子どもたちと過ごした時間を振り返る場面が増えていきます。
保護者の方と話す機会もありました。
その中で、ある保護者の方がおちょうめんのことを話してくださいました。
毎月のおちょうめんの言葉が楽しみだったんです。
その言葉だけでも、私はとても嬉しくなりました。
毎月書いていたものを楽しみにしてくださっていた、そのことを知れたからです。
けれど、さらに心に残ったのは、その後に聞いたお話でした。
保護者の方は、おちょうめんをお子さんと一緒に見ていたそうです。
コメントを読みながら、縁であったことを話したり、お子さんの様子を振り返ったりしていた。
おちょうめんのコメントが、親子でコミュニケーションを取る時間になっていた、と教えてくださいました。
その話を聞いた時、私の中に思いがけない喜びが広がりました。
私は縁での姿を保護者の方に伝えるつもりで書いていました。
けれど、その言葉は保護者の方が読むだけで終わっていたのではありませんでした。
お子さんと一緒にページを開き、二人で言葉を交わすきっかけになっていたのです。
先生が書いたコメントを親子で読む。そこから縁での遊びや出来事を思い返す。
保護者の方がお子さんに問いかける。お子さんがその言葉を受け取る。
そんな時間がおちょうめんを通して生まれていたのかもしれません。
その場面を私は実際に見たわけではありません。
親子がどんな表情でページを開いたのか、どんな会話をしたのか、具体的に知っているわけではありません。
それでも、保護者の方の話から、おちょうめんが親子の会話のきっかけになっていたことが伝わってきました。
そのことが何より嬉しかったのです。
コメントを楽しみにしてくださっていたことも嬉しいことでした。
けれど、私が一番嬉しかったのは、そのコメントが親子のコミュニケーションの時間につながっていたことでした。
私の書いた短い言葉が親子の間に会話を生み出していた。
そのことを知ったとき、毎月のコメント欄の意味が私の中で少し広がったように感じました。
書くときには、30人分の欄を一人ずつ埋めていく作業として見えてしまうこともあります。
忙しい日々の中で、次の保育の準備や他の仕事と並行して進めることもあります。
何を書こうか迷い、言葉がすぐに浮かばない日もあります。
でも、その小さな欄に書いた一言が、縁の外でも読まれていた。
保護者の方だけでなく、子どもたちにも届き、親子で話す時間を作っていた。
そのことを思うと、書いていた時間そのものが違って見えてきました。
私は、保育の中で見つけた子どもの姿を家庭に持ち帰れる言葉にしていたのかもしれません。
保育士は、子どもと一緒に過ごす中でたくさんの姿を見ています。
遊びに夢中になっている姿、子どもたちのことを気にかける姿、何度も挑戦している姿、思うようにいかず気持ちを揺らす姿、
少し前にはできなかったことに自分から取り組む姿、その一つ一つは、縁の中では日常の一部です。
毎日見ているからこそ、当たり前のように感じてしまうこともあります。
けれど、保護者の方にとって、縁で過ごす時間はいつも見られるものではありません。
送り迎えの短いだけでは、伝えきらない子どもの姿があります。
家では見せない表情や、友達とのやりとり、縁で挑戦していることもあるでしょう。
お帳面に書いた言葉は、そうした姿を家庭へ届ける小さな窓のようなものだったのかもしれません。
もちろん、コメント欄に書けることには限りがあります。
すべての出来事を伝えることはできません。
だからこそ、その時の子どもの姿から何を選び、どんな言葉で伝えるかを考えることが大切なのだと思います。
一人一人を見て、その子らしい姿を言葉にする。
保護者の方が呼んだ時に、子どもの縁での様子が少しでも思い浮かぶようにする。
そこには、保育士として子どもを観察し、日々の育ちを受け止め、伝える内容を選ぶ仕事があります。
そして、言葉を届けた先で親子の会話が生まれることもある。
私はそれを保護者の方から教えていただきました。
その話を聞くまでは、コメント欄も、保育士から保護者へ伝える場所と考えていたところがありました。
もちろん、それも大切な役割です。
でも、実際には、そこから親子のやり取りが始まることもある。
縁から家庭へ届けた言葉が、親子の間を行き来し、子どもの一日を一緒に振り返る時間につながっていたのです。
保護者の方が楽しみにしてくれていたことも、親子で一緒に呼んでいたことも、私にとって大きな喜びでした。
その喜びは、頑張って書いてよかったという気持ちだけではありません。
私が書いた内容をきっかけに、保護者の方とお子さんが一緒に過ごす時間ができていた、そのことが嬉しかったんです。
親子の会話は、特別な話題から始まるとは限りません。
お丁目に書かれた短い言葉を見て、「今日はこんなことがあったんだね。」と話す。
子どもがうなずいたり、少し言葉を返したりする。
保護者の方が縁での姿を思い浮かべる。
そうした何気ないやりとりも、親子が同じ時間を共有することにつながります。
その会話の中で、お子さんがどんなふうに感じていたのか、どんなことを思い出したのか。
保護者の方がお子さんの言葉をどんなふうに受け止めたのか。
私には見えないところで、親子ならではのやりとりが生まれていたのだと思います。
だから、私はお丁目のコメントを通して、子どものことを保護者に伝えるだけでなく、
親子で子どもの一日を振り返るきっかけも届けていたのだと感じました。
そして、コメントを書くことは、私自身が子どもを見る目を振り返る時間にもなっていました。
すぐに書ける時には、その月に見た子どもの姿を思い出し、伝えたいことを子どもにできていました。
反対に、なかなか書けない時には、自分に問いかけることができました。
この子の今月の姿を私はどれだけ見ていたかな。
どんな時にこの子らしさが現れていたか。
子どもの姿をもう一度考え、これからの関わりにつなげるための問いでした。
毎月のコメント欄を通して、保護者の方へ言葉を届ける。
同時に、自分が子どもとどう過ごし、何を見てきたかを確かめる。
そして、次の月にどんな姿に目を向けるかを考える。
私にとって、おちょうめんを書く時間は、保護者とのつながりだけでなく、自分の保育を振り返る時間にもなっていたのです。
保育士が書く言葉は、長ければ良いというものではありません。
限られた欄に書く短い言葉。
でも、その子の姿を見て選んだ言葉であれば、受け取る人に届くことがあります。
そして、その言葉がどんなふうに使われ、どんな時間につながっていくかは、書いた時点ではわからないこともあります。
私も、毎月書いていた時には、コメントが親子の会話になるとまでは考えていませんでした。
保護者の方に呼んでもらえたら嬉しい。
縁での姿が少しでも伝わったらいい。そんな思いで書いていました。
その先に、親子で一緒におちょうめんを見る時間があった。
それを知ったことで、書く言葉の向こう側には、私が知らない時間が広がっているのだと気づきました。
保育の仕事は、縁の中で完結するものではないのかもしれません。
縁で見つけた子どもの姿を家庭に届ける。
家庭で受け取ってもらった言葉が親子の会話になる。
その話を、また保護者の方から聞かず聞かせてもらう。
そこには、縁と家庭が子どもを真ん中にしてつながる流れがあります。