無用の用の概念
毎日が日曜日、暇人モーニング、略して、暇人ラジオ。毎日、素敵な誰かの名言から、朝を始めましょう。
本日の名言は?
本日の名言は、無用の用荘子思想家の方ですね。これは一見役に立たないものにこそ真の価値があるという意味だそうです。
えー、無用の用ですね。これ、暇人ラジオじゃないですか、完全に。
いやー、本当ですね。この無用の用です。このラジオ。
そうですよね。不可欠な余白っていいですね。だから、意味はないんだけど、不可欠な余白っていうことね。
意味はないけど。
そうそう、意味はないけど不可欠な余白って、これを定義していることがいいですね。
そう、意味がないけど不可欠って面白いですね。
面白いですね。やっぱり中国の思想家、孟子とか孫子とかの人たち、孫子とかね、やっぱり深い、見えていますね。
暇人ラジオをね、映像というか、カバーと作ろうみたいな話とかの時とかにね、なんか、俺はすごい中国の山奥で、老人、髭とか髪がめちゃくちゃ長い老人が2人でお茶を飲みながら食べてるっていう絵を浮かぶわけですよ。
はいはいはいはいはい。
山奥でね、川が流れてる。
なんかすごい、公園でよく見るチュンとしたあの。
チュンと三角のね、ちっちゃい建屋みたいな。
建屋みたいなところでね。
そうそうそう、お茶を飲むっていうね。
あの世界観すごい好きなんですけど、これもそういう感じで見えるっていうか、やっぱり土地が広かったからですかね。
土地が広くて文化が発達しててって、俺昔の中国って子供の時に結構好きで、いろんな本とか読んでたりしたんですけど。
なんか出てくる描写がそういう、まあ戦争とかももちろんあるけど、なんか独特に哲学が結構発達してるような感じがしますもんね。
確かに。今よりいつ死ぬかわかんない時代でもありましたからね。
なんかそういう、なんか考えざるを得ないっていう時代なのかもしれないですけどね。
そうですよね。
なんか面白い、なんかそのギリシャ哲学とかみたいなとまたちょっと違ったところでなんかある何かというかね、やっぱなんか土地柄とかあるのかなとか思っちゃいますけどね。
なんか中国ならではの余白とかなんかあるのかもしれないですね。
ね、ありそうですよね。
なんかすごいやっぱ中国話にすごいなっちゃうんですけど、なんかすごい景色がね、なんかあの景色僕行ったことないですけど見てみたいなって思いますもん。
ランマ二分の一的な、なんかドラゴンボール的な、水墨画的な。
はいはいはい。
想像する中国ってやつですよね。
そうそう、あの感じね。
なんかそれこそ最近なんか自分が好きな写真家の人で、上田よしひこさんっているんだけど、あのほらサントリー・ウーロン茶とかのやつ撮ってた。
わかります?昔のサントリー・ウーロン茶の90年代ぐらいのCMとか、ほらなんか中国人の女の人がこう踊ったりとかしてるやつ知りません?なんか。
そういうやつ、たぶん見てるんでしょうけどちょっと覚えてないですね。
サントリー・ウーロン茶って検索したらすぐわかると思うんですけど。
はいはい。
それがね、まさにそんな景色っぽいとこで撮ってたりするんですよね。
そっか、ザ・中国な感じで。
なんか昔の、でもやっぱね、それの、これまでなんか写真集とか出てね、なんか買って見てたりしてたんですけど。
なんかいろいろ書いてある話とか、他にもインタビューみたいな話だったかもしれないけど、やっぱもう結構なくなってるらしいですね。
その当時の中国の感じってもうやっぱりもう違われつつあるらしいですね。
もうね、今だいぶ経済発展してる国ですからね。
だからなんか、なんていうかのどかな感じではないけども、なんかそういったものが写真の中に残ってるってことで、
やっぱ記録としての写真の意味みたいな話とかもありましたけど。
なんかね、でもなんて言うんですか、やっぱこのイメージの世界っていうか、今話したけど、
お互い行ったこともなんもないのに、そんな景色を思い浮かべながら話せるわけじゃないですか。
それってすごくなんか面白いなと思いますよね。
無用のようですね。
中国文化と哲学
無用のようですよ。
でもデザインとかも無用のようのために、余白とか作りに行ったりしませんか。
しますね。そしてデザイン自体がそもそも無用のようだと俺は思ってる。
確かに。究得なくても。
なくても別にいいからっすね。そうなんですよ。なくてもいいんすよ。
もう本当にこのデザイナーの人たちとかも、何言ってんだと思うかもしれないですし、
それを生業にしてる俺が言うのもなんですけども、
無いなら無いでもいいんだけども、
じゃあなんであるんだろうっていうのはやっぱ常に考えてますからね。
確かにホールケーキが生クリームの塊で出てきたらちょっとげんなりしますよね。
だからある種、手法っていうのが根にこだわらないっていうのはそこなんですよ。
無用なようで不可欠な余白であれば、もしかするとそもそもいらないものだから、
こだわる必要がどのぐらいあるんだろうとかね。
この形である必要って本当にあるのかなとか、
こういう表現が今だったら余白になるんじゃないかな。
昔は違ったけどとかね。
そうですね。遊びとか余白も時代によって変遷しますしね。
だから結局はみんながどう捉えるかのほうが重要じゃないですか。
だからそれを余白と捉えるように設計するとか、設計がデザインだったりするんでね。
なんかそういうふうなことをやってり考えたりしてる気がしますね。
確かに無くても大丈夫っちゃ大丈夫ですけど、不可欠っちゃ不可欠ですよね。
無くてもいいって言いますけど、重要じゃないとか、ゴミみたいなことではないと思ってます。やっぱりそれは。
前もありましたけど、無駄な消費じゃなくて、豊かな浪費みたいなことを言ってましたけど、がいいみたいなね、自分はね。
だからそういうことなんですよ。浪費自体が悪いわけじゃないっていうかね。
機能が欲しいわけじゃなくて、人生を豊かにしたいんでしょうね。いろんなもので。
そうですよね。
だからね、みなさんもね、これはいらんとかいるとかいろいろ判断してると思いますけども、
いらんものが本当にファンクション的に機能的にいらないだけじゃなくてね、
自分にとって大切なもの、子供の時に持ってたぬいぐるみとかね、大切にしてるものがね、
一個ちょっと今日考えてみる日にしてもいいかもしれないですね。
そうですね。自分の中の無用のような発見があるかもしれないですね。
無用のよう大切にしてください。そんな感じで今日もちょっと朝からややこしかったですけども、楽しく一日を過ごしてくださいね。
それでは、いってらっしゃい。
いってらっしゃい。