1. 樋口聖典の世界
  2. なぜアウトプットし続けるのか
なぜアウトプットし続けるのか
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はい、またまたお久しぶりでございます。
今はですね、福岡市の自宅の方から毎月必ずやってくる、北九州市小倉でのお仕事ですね。
ラジオ収録のために、今、小倉の方に向かっておりますと。
時刻は12時26分でございます。
あのー、まあちょいちょい言ってるんですけども、この収録はですね、
基本的に長距離の運転中に時間がもったいないから撮るということなんですけども、
最近まあね、コロナやらいろいろありまして、あんまり福岡、高輪間を往復してなかったので、
頻度はどうしても下がりますね。
なんか本当はもうちょっと頻度高くやりたいんですけどね、
なかなか家で収録するってなると、それはそれでなんか心理的ハードルが上がって、
なんていうんですかね、心理的ハードルじゃないな。
さあ今から撮ろっかっていうきっかけがないまま毎日過ぎていくから結局撮らないみたいな感じになって、
撮ればいいんですけどなんか、
思ったよりも人間行動するときってスイッチが必要で、
そのスイッチって今まで車乗った、運転してる、さあ撮るみたいな自然に入ってたスイッチって、
もう自動でオンオフスイッチがコードに紐付いてたんですけど、
それが紐付かない状態でオンオフしようと思うと結構難しいなと思いながら、
なんか習慣化ってすごいなって改めて思ってる感じなんですけども、
でですね、これちょっと1回ツイッターで書いて、
これ詳しくはどっかでお話ししますみたいな感じで止まってた話題があるんで、
それを話したいんですけども、ツイッターで書いたのが、
あれ何やったかな、忘れた。
ちょっと詳しい、細かいいちご一句は分かんないんですけども、
確か意味的にはアウトプットしまくってると、
僕がですね、僕がインプットせずにアウトプットしまくってるのは、
自分のしょんべんを飲んでるようなもんだみたいなことを書いたんですね。
で詳しくはまたどっかでみたいなことを書いたんですけど、
これだけ聞くとマジで全く意味わからないと思うんで、
ちょっとこれをお話ししていきたいと思います。
僕今7本自分がしゃべるポッドキャストやら、
YouTubeやらをやってるんですね。
古典ラジオ、そして新型アウトナビルス、そして井口清則の世界、
あといいかねパレット通信とかラジオとかいろいろあるんですけども、
7本僕がしゃべるやつをやっていて、
さらに4本僕がアドバイザーをしてたりとか、
ディレクターをしてたりとか、プロデューサーをしてたりみたいな番組があって、
計11本に関わってるんですよ。
これが音声コンテンツですね。
プラスブログを毎日書いてて、
プラスTwitterで気付きをいろいろ発信してるということで、
要はつまりアウトプットはしまくってるんですね。
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それに対して僕インプットが超苦手なんで、
本読んだりできないと。
冒頭例えば映画見たりとか漫画読んだりとか、
ネットサーフィンを延々するみたいな時間も全然今撮れてなくて、
人と話しまくったりとか、いろんな体験をしてるか旅行行ったりしてるかっていうと、
そういうこともしてなくて。
だからインプットの総量が明らかに少ないんですね。
でもアウトプットはずっとし続けてるんですね。
やっぱり枯渇するんですね。
でもずっとそれやり続けてるんですよ。
なんでこんなことをし続けてるのかって自分でちょっと疑問だったんで、
いろいろ考えてみたんですよ。
聞かれたんですよね、確か。
なんでそんなインプットせずにアウトプットし続けてるんですか?みたいな。
聞かれたときに、うーんって考えて、あって気付いたんですよ。
結局、じゃあアウトプットしてるときってどういう思考回路というか、
何を材料として持ってきてるかっていうと、
日々の思考の足跡なんですよ、僕の。
だから日々のちっちゃい何気ないことから来る気づきみたいなところがあったりするんですよね。
例えばトイレに行ったときに、男性トイレの便器あるじゃないですか。
ちっちゃい方の便器って縦型になってるじゃないですか。
その縦型の便器の下を見たら床がちょっとびちょびちょに濡れてると。
びちょびちょに濡れてるまではいかなくても、ポタポタっていわゆる正面の水滴が落ちてるときがあって、
それを見たときになんじゃこらっつってめっちゃ考えるみたいな。
それめっちゃ考えた後に、これってもしかしたら銀行強盗よりも罪重いぞみたいなことを自分の中でめちゃくちゃ考えるとか。
例えば何気なく会社の事務室に置いてたシャケとバーがあって、
それを部下が食っていい?って聞かれたときにめちゃくちゃ思考をめぐらして、
それで一本ブログを千何百文字くらい書くみたいな。
そもそもこれって倫理的にどうなんかとか、その時の僕の思考の動きみたいなものをめちゃくちゃ明細にトレースして、
それを文字に起こしてみたいなことでアウトプットしたりとか。
今までずっと生きてきて、例えば男と女ってどっちが得なの?損なの?みたいな普遍的なテーマから自分なりの論を展開していったりとか、
結局それって明確にこの素材をインプットしたからこう考えるみたいなものってないんですけども、
何気なく生きててふと思ったことからも自分で作りまくっていってるんですね、アウトプットの素材みたいなものを。
なんかこれインプットっていわゆる外から入ってくる情報っていうイメージが多いと思うんですけども、
これあんまりなさすぎると自分から作り出しちゃってるんですね、何気ないところから。
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もう本当に空中からブワンってインプットの素材を作り出していって、それをアウトプットするじゃないですか。
で、そのアウトプットしたものがさらにまた自分のインプットになってるっていう、なんかほぼ無から作り出して、
それを自分でアウトプットし続ける中で、ちょっと雪だるま式にでかくしてるんですよ。
何気ないインプットをアウトプットっていう行為自体により、これよく言ってるんですけど、アウトプットをしてるときって自分が思いもよらなかったことを喋り出したりするじゃないですか。
で、それがまた自分の素材となって、またそれを摂取して、それをまたアウトプットしてみたいなこれをぐるぐる繰り返してるんですね。
だから例えばツイッターでポンって書いたことに対してまたブログで書いて、ブログで書いたことに対してまた一人喋りをして、
一人喋りをしたことをまた例えば新型オトナウイルスとか愛の楽曲工房みたいな、自分の思いを発信できる場でまた発信してみたいなことを繰り返してると。
で、これって要は何気ない日常でもインプットする元ってめちゃくちゃありますよってことなんですよ。
で、これちょっと乱暴な例えで申し訳ないんですけども、例えば一枚の写真があるとするじゃないですか。
で、これ街中の写真パシャって、例えば福岡市の天神の繁華街の写真をパシャっと撮ったとするじゃないですか。
これってもちろんですけどめちゃくちゃ情報量多いんですよね。
その中で例えば花が咲いていたと、道端に天神の道端に花が咲いていたとして、そこの花をめちゃくちゃズームでパシャって撮るじゃないですか。
これって同じカメラで撮ると画素数同じなんですね。
もう一回言うと肩やズームアウトした状態で天神の街中全部入ってると。
肩や花をめちゃくちゃズームインしてるんですけど、
それが画面いっぱいに写ってると、ズームインしてると。
これって含まれてる物事自体はもちろんですけども、天神の街中全体をズームアウトした写真の方が多いんですけども、
じゃあ情報量で言うとどっちが多いかというと、情報量と言われる画素数というか、情報量ですね。
で言うと多分変わらないですよね。
だってズームインした花の中にはそこの花の筋一本一本だったりとか、光の陰影だったりとか、そこのおしべめしべなのか、色情報だったりとか、
そういう物がめちゃくちゃ含まれてるわけじゃないですか。
だから結局同じカメラで撮ってたら、どの縮尺でその風景を写したとしても同じ情報が入ってるっていう。
じゃあそれを元に話すことってできるじゃないですか。
だから結局僕に何が言いたいかというと、情報の総量っていうのは、いわゆるズームインズームアウトをどこの状態で固定して写真に収めてるかというところだけでしかなくて、
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結局は画素数だなと思ったんですね。
切り取るカメラの画素数によって、本当にインプットする情報って決まってると。
だから結局それを高めるためにどんなにズームインしても、摂写しても綺麗なクッキリとした解像度で撮れるくらいの画素数を僕は高める訓練をしてるし、
それをまた自分のインプットとしてさらにアップサイクルして、さらに自分のインプットとしてしてるなっていうのを最近感じたなっていう。
アウトプットしまくってるっていうのはそういう訓練なのかもしれないなと自分で改めて思ったという感じですかね。
結局こうやって喋ってるのも、喋りながら僕本当にツイッターの一文だけで概念的にイメージと思ったことを、
今こうやって10分間無理やりアウトプットし続ける中で、
言語化するとこんな感じかとか写真の例えとかも、なるほど言語化するとイメージ化するとモデル化するとこんな感じかみたいな感じでまた自分で理解が進んでるから、
また多分次違うところでこれ話すときにはもうちょっとアップデートされてるんじゃないかなっていう感覚になるんだよね。
これを繰り返してます。
伝わりましたかね。
以上です。
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