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おはようございます、ヒデジです。
12月の11日ですね、木曜日。
双子パパのライフデザイン、今日も始まります。
今日、天気ですけども、神奈川県の晴れでございまして、
最高気温16度ということで、
昨日より2度高いと。
日中晴れなんですけども、風がちょっと強いですね。
南風で、日中5メートル、6メートルって風が吹くようなんで、
どうですかね、やっぱ体感3分あるかもしれないですね。
ということで、今日のテーマですけども、
修学旅行の思い出
修学旅行の記憶ということで、盧溝橋の話をさせていただきたいと思います。
先日もちょっと放送したところはあるんですけどね、
私高校時代、修学旅行で中国に行きまして、
ちょっと先日ね、私実家に帰った時に、
高校時代のですね、修学旅行の写真集っていうのかな、
卒業アルバムとは違うんですけど、修学旅行アルバムみたいなものですかね。
ちゃんと成本されたやつを学校からもらったんですよ。
ちょっとそれを手に取ってですね、記憶を遡っておりまして。
私2002年に行ったかと思ってたらですね、
実は2001年の11月に行ってたってことで、
そこでちょっとわかったんですけど、
9.11の2ヶ月後に行きましたね。
あの時は本当に9.11があって、
飛行機に乗って行くっていうのがすごく、
本当に大丈夫かっていう風潮がありましたよね。
私たち高校生でありまして、
確か親も含めた説明会を一回実施した記憶です。
結果的には希望制となりましてですね、
行きたい人は行くということで、
どうだったかな、3分の1くらい行かなかった人もいるような記憶ですけど、
結構みんな行ったところではありますね。
4泊5日の修学旅行でございまして、
基本的には北京ですね、北京周辺に行きまして、
行ったところとしては、まず天安門ですね。
天安門に行きました。
天安門に行きました。
天安門に行きました。
行ったところとしては、
まず天安門ですね。
天安門と、あとは今日お話ししている六皇京、
そして万里の頂上も行きまして、
あとですね、民の十三陵っていうところにも行きましたね。
その辺の旅程もこのアルバムに書かれていて、
自分でもそうだったかなということで、
ほとんど記憶がない部分もあるんですけど、
ただ六皇京行ったのは覚えておりまして、
六皇京っていう橋があって、
それが北京の南西部にあるんですね。
その橋自体は建設されたのも1192年、非常に古いんですね。
アーチ橋って言われていて、11個のアーチがあるものなんですけど、
あと特徴的なのが欄間っていうんですかね、
橋の両サイドに獅子が無数に並んでいるような橋でして、
そこをね、このアルバム見ててもですね、そこ歩いてますね。
歩いてるっていうことで、
今はちょっとどうなっているのか分かんないですけど、
別にそのままあるんだとは思うんですけど、
六皇京の事件
ここで日中戦争の勃発したきっかけになった後、
言われておりますけども、六皇京事件っていうのが、
1937年の7月の7日に発生したということで、
中国の方だと7.7事件みたいな形で呼ばれてるみたいですね。
英語で言うと六皇京っていう橋はマルコポールブリッジと言われてまして、
マルコポーロの東方圏文録っていうのがありまして、
マルコポーロ時代もですね、1200年代に中国とかアジアをですね、
巡った時の、それの記録を書いてて、
その時にその橋をですね、絶賛したっていうことから、
一応英語名としてはマルコポーロブリッジと言われてますね。
なのでその六皇京事件っていうものは、
英語で言うとマルコポーロブリッジインシデントということで、
表記はされておりましたね。
1937年の7月7日に、その場所でちょっと事件が勃発して、
それがですね、大日本帝国陸軍と中華民国の国民改革軍ですかね。
で、これの間で武力衝突っていうことなんですけど、
当時はですね、日本軍は義和団議定書っていうのかな、
っていう条約に基づいてですね、北京周辺に軍を駐留させていたんですね。
で、その7月7日の夜に日本軍が夜間演習を行ってたときにですね、
一発の発砲が聞こえたっていうことで、
で、すぐにですね、みんな集めてですね、天候を取ったんですけど、
一人だけ行方不明だと、一人だけいないっていうことが分かって、
それが聞くんですね。
そこから何か、六方郷の辺りにいる中華民国、国民改革革命軍か、
と、何かトンバチをやり始めちゃったんですね。
ただですね、その一人いなくなったって人はですね、
後から出てきてですね、ちょっと容を出してたっていうことが分かったっていう話がございまして。
結局、その発砲は何だったのかよく分かってないのと、
そんなことで、それをきっかけにですね、
トンバチ始めちゃったっていうことなんですよ。
で、そういうのがちょこちょこ続いた結果ですね、
シナ事変、今っていう日中戦争みたいなところまで大きくなってっちゃったっていうところがね、
あるということでですね。
中国側もですね、そこをきっかけにした、その7.7事件って呼んでるこの六方郷事件を
記念するというか、ここで起きたんだよっていうのを忘れないためにみたいなことですね。
で、その中国側もですね、
で、この六方郷っていう橋のすぐ近くにですね、
中国人民公日戦争記念館、
これなかなかでかい博物館なんですね。
っていうのをこれがね、1987年に今の中国が建てて、
で、その中に、
その中心にですね、
っていうのをこれが1987年に今の中国が建ててですね
そこから回収もやってたけど今もね、そこにあるんですけど
結構その場所では定期的にというか
公日記念式典みたいなのをね、整体にやってたりとか確認をしていまして
で私もですね、あの私たちもそのそこの記念館、公日戦争記念館に行きまして
中を見ていったっていうところでしたね
歴史の振り返り
でまぁまぁ中国のことなんですけど
結局日本がすごく悪いっていうような内容だったって記憶が本当にあって
結構広いスペースなんでいろんな描き方というか結構悲惨な
状況をね、情景を思い浮かばせるような内容になってたと思います
はい、あとあの
あれですね、加藤先生の最近ラジオでもおっしゃられてる
歴史ラジオっていうねYouTubeありますけど私もちょっと拝見しまして
あの中華民国は本当に存在したかっていう動画があるんですけど
はい、そこでですね日中戦争の本質がわかるっていう風に
まあその内容を言われてて
結局その国民党と共産党ですかね
この両軍の内戦にですね日本が引きずり込まれたっていう形には
なってるんですけども
日中戦争、前当時言ってたシナ事変
これもですね、これ時代は国民党軍と日本軍の戦いだったわけなんですよ
でもそれと並行してですね内戦は国民党と共産党でやってるし
すごいハチャメチャな感じになってる
今言ってる日中戦争時代は国民党軍と日本軍の戦いのことをただ言ってるだけなんですけど
実際には並行していろんなところで内戦とか軍争が起こっているような状態だった
と言われてまして
日中戦争とかシナ事変といっても一つの
そこでの物語というか
だけに見えちゃうんですけどね
このyoutube動画をすごくわかりやすく説明してて
私もすごい興味深く見ておりました
そのきっかけともなったところ
国民党軍との戦いのきっかけになったのが
今回お話しした六皇京の事件だったということでございました
そんな女でだらだらと話しておりましたけど
ちょっとね私もその実際やっぱ自分が言ったってところもありましてですね
なんか今改めて過去の日中戦争だったり
中国との関わりすごく興味を持って中止しちゃってるんですけども
引き続きあとね
あれなんですか万里の長女も言ったんで
ちょっと私もね
振り返りと勉強もしていきたいなと思っております
それではですね今日はこのあたりとしたいと思います
最後までお聞きくださいましてありがとうございます
またですねいつもいいねコメントいただきましてありがとうございます
それではまた次回の放送でお会いしましょう
ありがとうございました