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2024-02-26 11:54

51 - 聖書的、嫌な人への対処の仕方

もはや普遍的なコミュニケーションの極意な気がしています。


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日々、駐妻。この番組は、アメリカで駐妻として暮らす私、かやこが、日々の生活やその中で感じたことなどをありのままシェアする番組です。
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今回は、久々のバイブルトークについてです。
過去の回を聞いてくださっている方は、ご存知と思うんですが、私は、アメリカ人のおばあちゃんたち、JとDから、聖書を週に1回教わってまして、
最近、もっぱらDとお話ししているんですが、前回、バイブルトークで学んだ章の中で、結構印象的なものがあったので、紹介したいなと思います。
マッヒューの18、マタイによる福音書ですかね。日本語だと。いまだにマタイとマッヒューが一致しないんですけど、私的には。
それを置いておいて、その中の一部、When someone sinsという段落ですね。日本語に訳すと、誰かが罪を犯した時なんですが、
罪というとね、キリスト教的な罪について、私が詳しいわけではないんですけども、キリスト教的にやってはいけないことをした時に、どう対処するかっていう話で、
これをちょっと私的に噛み砕いて理解した時に、嫌な人がいた時にどう対処するかっていうのを、キリスト教的に書いてくれているなぁと思いました。
このWhen someone sinsにどう書いてあるかっていうと、この段落の中では、あなたの兄弟が罪を犯した時に、あなたはどう対処するかなんですね。
兄弟って言ってるけど、関係がある人々全般を指すと理解しています。まずそこに書いてあるのは、プライベートな場で、1対1で2人だけになれるところで、その相手が犯した罪について。
私的解釈で言うと、嫌なことをしてきた人に対して話すべきだって書いてあるんですね。
まあ、嫌なことをしてきたとかだと、ちょっと想像しづらいかと思うんですけど、例えば傷つくことをされたとか、言われたとか、そういう場合ですね。
Dの解説によると、人は嫌なことをされたり言われた時に、ついつい本人に言わずに、影で言っちゃう。
その人のことを知ってる人に、あの人にさ、この間こういうことを言われてさ、思いやりないよね、みたいなふうに、影口を言ってしまう。
影口のつもりはなくても、ちょっとした愚痴を言ってしまうっていうのをやりがちだと思うんですけど、そのやり方は、根本的な問題は解決しないじゃないですか。
もしかしたら、その嫌なことを言ってきた人も、それがあなたが傷つくっていうことを理解してなかっただけかもしれないし、それが嫌なことを言ってきた人の発言の意味を、あなたがちゃんと理解できないだけかもしれない。
なんだけど、そういう誤解の可能性をすべて置いといて、周りの人に先にそのことについて話してしまうと、そこに和解のチャンスはゼロなわけじゃないですか。
なんなら、まあ誰かに言っちゃって、その言っちゃったことが本人に伝わってってなると、もうそこは関係性が修復不可能になっていきますよね。
だから、まあ誰かに嫌なことをされた時は、まずその人に話しに行こうと。
で、Dが付け加えて解説してくれたのは、やっぱこう1対1で人間として向き合うと、めっちゃ腹立てたとしてもね、改めてちょっと言いたいことがあるんだけどっていう場を設けた場合、
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割と人は丁寧にそのことについて言えるんじゃないかと。カッとなってその場で言っちゃうのとかだとちょっと違うと思うんですけど、
改めてちょっと言いたいことがあって、この間あなたが言っていたこういう発言は傷つくんだっていうのを、割と冷静に言葉を選んで、目の前の人を傷つけないような形で伝えれるんじゃないかと。
で、1対1で言われた方も、みんなの前でね、指摘されたりすると恥ずかしいとかイライラするみたいなネガティブな感情に触れるのが、
まあ1対1の場だと、割と素直に受け入れられたりとか、そうかもしれないっていう風に思えるんじゃないかと、Dが教えてくれて、確かになと思って。
キリスト教っていうか、人生のコミュニケーションの支難だよな、やっぱ聖書に書かれてるのって、と改めて思いました。
まあ1対1で話しても、分かってくれないケースは全然ありますよね。
で、もし1対1で分かってくれなかったらっていう、次の段階まで書いてるんですよ、この段落に。
もし1対1で分かってくれなかったら、ちょっと1人か2人、信頼できる人を連れて行って、話しましょうと。
言われる方からしたら、2人とか3人で来るんで、おおってなるわけですが、1対1で話が通じない相手なんで、まあちょっと厄介だということで、
1人か2人、自分の味方を連れて行くと。
なぜならば、証人がいるからだと。極めて現実的なこと言ってますよね。
証人がいないと、言った言わないみたいになるから、ちゃんと傷つけてきた人に対して、そこで思いを伝えて、
で、その人が分かった、反省するとか改善するって言ったなら、この人改善するって言いましたよね、Aさん。言いましたよね、Bさん。みたいな感じで、証人を準備していくと。
それでも相手が、何言ってんだっていう場合も書いてあって、まあその場合は教会に連れてきなさいと。
ここからはキリスト興味が増すんですが、教会に連れてきなさいという風になってます。
これもしキリスト教徒でない私たちがやる場合は、やっぱり所属する団体の問題にするって感じですかね。
会社だったら、まあ部長に言うとか、チームのリーダーに言うとか、人事部に言うとか、しかるべき部署に通報するみたいな感じですかね。
サークルならサークルの幹部に言うとか、組織の問題にするって感じですかね。ちょっと大きくなっていきますが。
聖書に書いてある内容としては、もし教会に連れて行っても解決しない場合は、もう異教徒として扱え、みたいな風に書いてあるんですけど。
ここの部分をね、ちょっとDに掘り下げて聞くのを忘れてしまったんですが、要はちょっとこう、距離を取りなさいということかなと解釈しています。
1対1で話しても通じないし、何人かで話しても通じないし、教会に連れて行っても通じないとなったら、
もうその人と関わるっていうことは、少しずつやめていくっていうことなのかなと思います。
これはどのようにね、罪を犯した人、私的解釈で言うと、傷つけてくる人、嫌なことしてくる人に対処するかって話でもありながら、
これで誰かを許すっていうプロセスの話なのかなと思って、Dに言ってみたんですが、これってやっぱり許しと関係あるのかなって言ったら、もうその通りだねって言っていて。
キリスト教の中で許しって大きいテーマだよなと。
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まず根本理解として、人間はみな罪を犯して生まれてきて、ただその罪はすべてイエス・キリストが背負って亡くなっているので、私たちの罪はすでに許されている、みたいな考え方があるんですよね。
だから間違いをね、犯したり失敗しても、くよくよそのことを考えないで、私たちの罪はもう許されているんだから、次はもう間違えないように、どうやって生きるか、ある種ポジティブな考え方で生きていこうっていうのが根底にあるので、
私たちは神から許されているんだが、それでも人間同士いろんないざこざがあったり、そういう時に、私たち人間同士で互いを許し合っていくには、どのようなプロセスを踏めべきかっていうのが書いてあるのかなというふうに思いました。
ちなみに同じマッティー18、マタイによる福音書18章の後の段落には、そのままずばり許しに関するお話も書いてあります。
ピーターがですね、ピーターは日本語だとペテロですね。ペテロがイエスキリストのところに行って、兄弟が私に対して罪を犯してきたら、私は何回許せばいいんですか?
7回ですか?って言うんですね。7回はどこから出てきたねって感じなんですけど、Dの解説によると、もう7回も許すぞ、私はぐらいの感じで言ってると、ペテロは。
7回って結構許すよねっていう温度感なんだと言っていて、それに対するイエスキリストの返答は、7回じゃないと、7を70倍しろと返してくるんですね。
7の70倍なんで、490回ですか。これは、人間が考えている人を許すっていう行為と、神が人を許すっていう行為は別次元なんだと、許すっていうのはそれぐらいのことを言うんだみたいなことを例えているそうです。
その後にイエスキリストが、許しってこういうことだよと説明するために、王様としもべの霊を出します。
とあるしもべが、王様にもめちゃくちゃ大量の借金を抱えていて、王様は激怒して、そのしもべを牢獄に入れると。
家族ももう差し出せって怒るんですけど、そのしもべがもうひれ伏して、すいませんどうにか言うよくださいと、なんとか頑張って返しますって言ったら、その王様がもういいよと借金を許そうって言ったんですね。
莫大な到底返すことができないような借金を許すなんて、人間世界では正直ありえないなっていう感じなんですけど、この話には続きがあって。
じゃあ、その借金を許されたしもべ自身が外に歩いていくと、そのしもべの仲間、別のしもべで、さっき王様に許されたしもべに借金があるしもべが出てきたんですね。
王様に大量の借金を許されたしもべAが、自分に借金があるしもべBに出会ったと。
で、AがBに、ちょっと俺に借金あるだろ返せよって言うと。で、Bがごめんと、もうちょっと待ってくれないかと言ったら、待つわけないだろ返せって言って怒る。
で、その様子を見た王様が、自分は許されたのに、なぜお前自身は他の人許すことができないんだっていう話をして、結局しもべAの方を牢獄に入れてしまうっていう例え話なんですけど。
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やっぱこう、私たちの考える許しのレベルと、神の考える許しのレベルっていうのは違うし、私たちはこういうレベルで神様にすでに許されてるんだから、
人に対してもそれぐらいの寛容さを持っていきたいよねっていう話なのかなぁと、私は思っていますが、
ただただ罪を犯した人をただ許せって言われてもね、そんなことしてたらどんどん削除されるやないかいっていう気にもなると思うんですよ。
で、そういう場合に最初の方に行った、嫌なことをしてくる人、罪を犯してくる人に対処するプロセスがあるのかなと。
なんでもかんでも許さなくても、まず歩み寄ってその人を許すためのプロセスをちゃんと取って、それでも難しい場合は距離を取ろうねっていうことなのかと。
それもその人のことを罰するとかいうわけじゃないじゃないですか、距離を取るっていうことは。
その人のことを積極的に傷つけていくわけではなくて、自分を守るために離れていくと。
あとはもうその人の問題ですから、人を傷つけてしまう人がこれからどうなっていくのか。
もしかしたら心を改めて良い人になって、またすごい時間が経ってから謝りに来るかもしれないし、良好な関係が築けるかもしれないし。
それはその人自身のことなんで、もう私には関係ないっていう態度なのかなと。
これはマジで現実世界であるよなって思いました。
嫌なことをされた時に周りに吹き飛ばしたり、その人に対して攻撃し返して同じレベルに落ちるより、まず歩み寄りの姿勢を見せて、良い関係が築ける可能性は本当にないのかっていうところを探った上で、ないんだったら離れる、縁を切る。
で、それはその人の問題で自分には関係ないっていうふうにしていくっていうのは、人間関係構築においてめちゃめちゃ大事なプロセスだよなと、改めてですけど思います。
こういうのを聖書の教えとして、ちっちゃい頃からインストールされていくキリスト教徒、強いよなって思いました。
どのレベルでね、インストールされていくかわかんないんだけど、要は合わないなって思った人に対して、どこまでも搾取されてしまう人っているじゃないですか。
そうじゃなくて、このように対処していくんだよっていうのを知ってると知ってないとで、生きやすさ変わってくるんじゃないかなって思ったりなんかして。
また今回もバイブルトーク面白かったなぁという感じでした。本日は以上です。
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