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日々、駐妻。この番組は、アメリカで駐妻として暮らす私、かやこが、日々の暮らしや、その中で感じたことなど、ありのままシェアする番組です。
不定期ですが、たくさん配信しようと思うので、番組をフォローしてもらえると嬉しいです。
こんにちは。また昨日ね、バイブルトークしてきました。
私、よくバイブルトークについて話してるんですけど、聞いたことのない方のために説明すると、
私は今ですね、アメリカ人とユダヤ人のおばあちゃん達から聖書について学んでまして、
聖書について勉強する回のことを、英語では本来、バイブルスタディって言うんですけど、
私たちは、この回のことをもっと気軽な感じで、バイブルトークというふうに呼んでいます。
最近ですね、このバイブルトークするときに、おばあちゃん達も忙しくて、
アメリカ人のおばあちゃんとユダヤ人のおばあちゃん、2人が揃うことがちょっと稀になってきました。
で、私が昨日会ったのは、その2人のおばあちゃんのうち、アメリカ人のジェインに会いました。
ジェインはね、身長160センチちょっとぐらいの細身で綺麗なブロンドのショートカットのおばあちゃんです。
おそらく70代か、もっと上かなーっていう感じなんですけど、とっても優しい愛に満ちたおばあちゃんです。
で、そんなジェインと今回一緒に学んだのは、マッティューの14章、マタイによる福音書の14章でした。
その中でね、印象的だったことがあって、何かっていうと、
とある話で、キリストがたくさんの人の病気や怪我をね、神の力でどんどん治していくもんだから、その噂がどんどん広がって。
で、キリストがとある土地を訪れた時に、もう国中の人々が、キリストが来たっていうことで、
ダーッと彼のところに押し寄せて、周りを囲んで、私たちの病気治して怪我治してって、もう口々にお願いして、
服に触ろうとしてきて、みたいな。もう国中の人ですよ。何百人なのか何千人なのかが、ドーッと押し寄せて頼み込んできたっていう。
そして、もちろんキリストは彼ら全員を治したっていう話なんですね。
で、私はこの章を読んだ時に、ジェインに言ったんですよ。
なんかちょっとこの、治してほしいって押し寄せてきた人たちさ、ちょっと欲しがりじゃない?みたいな。
キリストは全員治すの?と。もう治して治して治して、みたいな感じで、ただやってきた人たちを無条件に全員治していくもんなの?
なんかそこにもっと神への信仰心とか、いろいろ求められるわけじゃないの?みたいな風に聞いたらですね、
ジェインの答えが、He never refusesって言ったんです。
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彼は絶対に拒絶しないって言ったんです。
で、なんかそのフレーズを聞いた時にね、He never refusesって、なんかブワーってきて、
なんでか自分でもよくわかんないんですけど、あ、そうなんだって思ったっていうか、
神様って、キリスト教における神様って、助けを求めてきた人のことを拒まないんだと思って。
なんか、本当に偉大で広大で莫大な愛の塊みたいなものが、直感的に感じたんですよ。
だって、Neverですから、一回も拒まないってことなんですよね。一度もない人を拒むことは。
当たり前ですけど、そんな人間いませんよね。何か頼まれて、一度もNOって言ったことない人間なんていなくて、
だからこそ神は特別なんだと思うんですけど、なんかだから、He never refusesって聞いて、そうかーって、なんか圧倒されちゃって、なんでかわかんないけど。
その後にJが言ってたのが、時々クリスチャンでも神様に助けてほしくて一生懸命祈るけど、
神はこんなに祈ったのに私のことを助けてくれない。私はこんなにお願いしたのに叶えてくれないっていう風に嘆いて、
もう神なんか信じても無駄だっていう風に言う人がいると。だけど神はその人の欲しいものを与えるためにいるわけじゃなくて、
神様は神様のロジックで存在してるんですよ。どういう意味かっていうと、その一個人がこれを叶えて欲しい、こうして欲しいっていうのを一つ一つ叶えるわけじゃなくて、
神様はもちろん一人一人の人々を愛してるんだけど、神様の中のロジックでその人たちに愛を与えようとするので、必ずしもそれは私たちが欲しているものとは限らないわけなんですよ。
例えば、おじいちゃんがすごい重い病気になったからこれを治してほしい、元気にしてほしいって祈っても祈っても、それが治らなかった。
みたいな時に神様どうしてっていうふうに思うんじゃなくて、やっぱりそれはおじいちゃんだったり周りの家族だったりに対して、後からそれで良かったんだと本人も家族も思えるような出来事になっている。
トータルでみたいな感じなんですね。つまりその神様のロジックっていうのは私たちには理解できないんだねって私が言ったら、
NO!みたいな。当たり前だろ!みたいな感じで言われて。神様を理解しようなんて思わないことだよ。理解できないんだからと。神は理解できるものじゃないって言ってて。
なんかそれめちゃめちゃ重要なキリスト教の前提やない?って思いました。キリスト教っていうのはこれが前提にあるんだよみたいな中の一つとして、神様は理解しようとしちゃいけないんや。
っていうのに何か腑に落ちたっていうか、イエスキリストっていう人間の体をして現れたこともあるし、聖書の中ではずっとイエスキリストっていう個人で登場していることもあって、
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なんかこの個人を理解できるような気がしてどんどんストーリーを読んじゃうわけですよ。キリストは何でこれを言ったんだろうなぁとか、何でこの時はこうしたんだろうなぁみたいなことを
ところどころで思うんですが、その何でに対して私たちがいくら人間界のロジックで考えても、それは神のロジックとは違うわけなんですよ。
そうなんやと思って。私はよく思ってたんですね。そのキリスト教徒の中でね、さっき神が助けてくれないから神なんか信じないって言った人がいるように、信じるものが救われるわけではないじゃないですか。
いやわかんないけどね。わかんないけど、信じるものが必ずしも救われるわけではないことについてキリスト教はどう説明してんだろうって思ってたんですよ。
そこに関して、あ、そういうことかって今回思ったというか、祈っても祈っても叶わないことの落とし所っていうのは、神は神のロジックであんたのことを助けるよって言い続けることなんだと。
つまり、おじいちゃんの病気が治らなくても、きっとおじいちゃんはそこで治らないことで病気と向き合って、例えば何かを乗り越えるとか、より家族の絆が深まるとか、残りの人生をものすごい楽しむとか、結果としてあの病気は必要だったよねっていうふうに後から振り返って、
神はこれを私に教えたかったんだ、みたいなふうに思うとするじゃないですか。どっちのパターンでも、病気が治れば神は救ってくれたことになるし、病気が治らなくても後で振り返って、あの病気は必要だったんだっていうふうに解釈して、神はこれを私に教えたかったんだって思えるみたいな。
だから、神様のロジックは私たちには理解しようがないし、何か神様にお願いして、その結果が得られるのは今日かもしれないし、明日かもしれないし、10年後かもしれないし、死ぬ間際かもしれない、それを私たちにはわからないっていうのが、きっとキリスト教的に祈っても祈っても叶わないっていうことに対する返答なのかなと思いました。
ただ、さっき言ったみたいに、神は絶対に拒まないんだっていうことを、やっぱり確信できていると、すごい精神的支柱になるというか、自分がどんな罪を犯しても、間違いを犯しても、それを改めようとして助けを求めれば、絶対に拒まない存在がいると、確信できていることっていうのは、生きる助けになるよな、みたいなふうに思った今回のバイブルトラックでした。
以上です。
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