親父の歴史と教え
みなさん、おはようございます。音声ブランディングコーチの浜田幸一、浜ちゃんです。
今日は8月4日、月曜日ですね。新しい冬が始まりましたけども、いかがお過ごしでしょうかね。
今日はですね、ちょっともう盆が近くなりましたよね。
うちの親父の話をちょっとさせてください。
うちのルールとしてはですね、鹿児島県の泉町、野田っていうところなんですね。
親父はですね、東京の浅草生まれなんですよ。
あれ?って思われるかもしれませんけどもね、こういう理由があるんです。
実は鹿児島でうまくやってたんですけども、うちの祖先がですね、西南戦争というのがありました。
そこで負けてですね、結局東京に行くことにしたんですね。
というのはですね、2つ選べる仕事がありました。
それは大工になるか、それかですね、警察官になるか、この2つの道がですね、鹿児島の方が多かったらしいんですね。
というのは、もう刀がなくなりました。
その代わりにですね、大工になるか、あるいはですね、なぜ警察官が多かったかというと、
日本の警察はですね、フランスからそのやり方を学んだんですね。
川下大輝という方が鹿児島出身なんで、鹿児島の警察官の方が多いんです。
で、うちの祖先はですね、ひと旗あげようと思って東京に出ました。
何をやったかというと、宮大工をやったらしいんですよ。
で、親父はですね、浅草生まれですけども、ものすごく蝶よ花よっていう感じですね。
もう盆々になったわけです。
そのまま行くと思われたんですけども、ある家族、家道の家族ですね。
その方の家を追ってですね、材料を買って切り込んで、
明日からさあ建てるぞって言った時に、その家族の方はですね、満州に夜逃げしたんだそうです。
で、うちのですね、まあおじいちゃん、親父もそうですけども、借金になりますよね、結局。
結局それは払いないで、北朝鮮に行ったんですね。
と言いますのは北朝鮮で、窒素という会社がですね、水力発電をやったんですけども、
そこにおじいちゃんは行ったわけです。家族を連れてですね。
ですから親父は北朝鮮にいたんですけども、そこで工業高校を出てですね、
終戦間際に船に乗って帰ってきて、着いたのが熊本県の南政市というところですね。
そこでおじいちゃんが、初代なんですけども、2代目の浜松建設の後取りとして仕事を始めたわけです。
ところがね、僕と一緒で身が入らなかったらしいですよ。
本屋をやろうとしたり、パチンコ屋をやろうとしたりですね、いろんな事業の手を出したんだそうです。
けどもパチンコ屋さんはですね、お金を持ち逃げされて、結局倒産してしまったそうです。
そうこうしているうちにですね、工業高校ですが、機械設計は全く分からなかったそうですけども、
建築の爪を見た瞬間、ひょっとして俺にできるかなと思ったらしいんですね。ここが面白いんだけども。
そして独学をして、2級建築士を取って、その後また実務を組んで、3回目の挑戦で1級建築士に通ったわけです。
その時にはね、鹿児島県に2、3人しか1級建築士がいなかったそうです。貴重ですよね。
まあその長男として生まれたのは僕だったんですけども、後を取る予定でしたけども、逃げたわけですね。
講演研修の仕事をやって、本を書いたりする仕事をやって、東京に出て40年近くが経つわけです。そういう流れなんですね。
僕は小さな頃からですね、親父から2つのことを言われました。
それはですね、「ここだけの話はここだけにしておけ。人に言うな。」と言われました。
人生の教訓
もう1個はですね、「人生で一番大切なことは努力することだ。」ということを言われました。
まず1番目なんですけども、「ここだけの話はここだけにしておけ。」というのはですね、
親父たちがですね、船で北朝鮮から引き上げた時に、誰も身内も心理も知っている人もいないわけですね。
だから保障人に誰もなってくれなかったそうです。
だからやっぱりこの認めてもらうためにはですね、人の言っていることを漏らさないということが1つ重要だったみたいですね。
それを徹底したそうです。
それから努力することだということは、親父の人生というのはですね、スーパーマンのような親父でした。
1人で技術者もやり、それから経理もやり、営業もやってましたね。
本当によく働いていました。朝から晩までですね。
それだけですね、若い頃から馬車馬のごとく働いてくれたので、やっぱり体にガタガタきましたよね。
もう70くらいからですね、ベッドにずっと寝てました。
なぜか人工透析をやってたんですね、透析。
透析というのはですね、2つの方法があります。
6時間おきに自分で駅を変える方法と、病院に行って1日寝て、それを週に2、3回やる方法が2つあるんですけども、
うちの親父はですね、自分で6時間おきに帰ったんですね。
これ結構辛いんですよ。だって、ほら、寝てて起きなきゃならないじゃないですか。
でも黙ってね、文句を1つ言わずですね、それを本当にやっていました。
たまに、「あ、忘れた。」とか言って笑ってましたけどもね。
僕はですね、東京に当時住んでましたけども、帰ってくると嬉しそうにですね、ベッドから立ち上がって、
ニコニコしながら僕の話をね、一生懸命聞いてくれました。
正直なところ、僕はですね、九州にいるときには親父とあまり話をしませんでした。
なぜかというと、話が噛み合わないんですね。
向こうは後取りをしてほしい、僕はもう東京に出て研修の仕事をして、これ噛み合わないですよね。
ところがですね、もう70くらいの時になると、僕も50過ぎてましたから、
分かり合える部分というのがあったんですね。一生懸命聞いてあげると喜んでくれました。
まあ1つちょっと親孝行になったかなと思うんですけどね。
そしてその親父の後姿からですね、人生は諦めてはいけない。
人生は有限ですよね。でもやっぱり本気で生きたい。
なんかそういうふうなことをね、この時期になると僕は思うんですね。
ですからこのお盆の時期になると本当に親父のことは思い出すんですね。
人生は努力が大切だと。
努力したからうまくいくとは限らない。
でも成功した人、うまくいった人、人生を豊かに生きた人の中で、
努力しなかった人はやっぱりいないですよね。
これはですね、シドニーオリンピックで女子金メダルを取ったQちゃんの師匠のですね、
声で吉尾監督も同じようなことをやっぱり言ってるんですね。
ですから僕自身もね、最後にいい人生だったなって思いたいって思って今ね、生きてます。
そしてもう一度この人生だったらやってみたいなって思える自分になりたいと思うとですね、
最高の瞬間を生きる
毎日こうやってマイクの前でも喋ってます。
うちの師匠も言ってましたよ。箱田忠樹、本当に素晴らしい師匠でした。
40年間ですね、まっとうに面倒を見てもらいました。
師匠はですね、今この瞬間を最高にっていうことをいつも言ってました。
最高の時間管理というのはですね、過去は終わりました、未来は来てません。あるのはこの瞬間です。
この瞬間がたくさん集まったものを一日と言います。
それがたくさん集まったものを一生と言うんだよ。
だからこの瞬間を最高に生きればね、一生最高に生きれるんだということを
うちの師匠箱田忠樹先生も言ってました。
ですから皆さんもですね、スタンドA編もそうですけども、最高の発信をしてくださいね。
そう思って僕も発信しています。
そして素晴らしい人生に向かってお互いに歩んでいきましょう。
ということで今日はですね、親父の話をさせていただきました。
いかがだったでしょうかね。
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今日も最後までお聞きいただきまして本当にありがとうございました。
前半戦をですね、ちょっと何をやっているかとかすっ飛ばしましたけども、
まあそれもありですね。
ということで今日もですね、一日明るく楽しく元気よくお過ごしくださいね。
それでは行ってらっしゃい。また明日8時8分にお会いしましょう。