映画のテーマの考察
こんにちは、英語指導メンタリストのはじめ先生です。このチャンネルでは、思考を変えることによって英語力と人生を劇的に好転させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、宮崎駿の【君たちはどう生きるか】という問いかけ、というお話です。
昨日、金曜ロードショーで、【君たちはどう生きるか】放映されていましたね。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
もう公開がしばらく前なので、映画館で見た方もいるかもしれないんですけれども、皆さんこの映画で見たことあるでしょうか。
公開された当初から難解な映画だというふうに言われていたんですが、僕も見てみて思ったのはですね、
今まで従来のわかりやすいジブリ作品を求めていくと、なんだろうというふうな感じになると思うんですけど、
僕個人としては、宮崎駿監督がずっと抱いてきたものが集大成として出されているなというイメージはめちゃめちゃありましたね。
数ある宮崎駿監督の映画の中でも、特に彼の思想が強く表れていると思われるいくつかの映画の中には、
共通するあるテーマがあると思うんですよね。
それは一体何かというと、矛盾をはらんだ存在として人はどう生きるべきなのか、みたいなテーマのような気がするんです。
例えば、宮崎駿の初期の大ヒット作、後で大ヒット作になった「風の谷のナウシカ」ですけれども、
表面的なテーマは、やっぱり人間って自然と共存しなきゃダメだよね、というエコロジーを訴えている映画のようにも見えるんですけれども、
そもそも不快ができたのが、人間が七日間戦争というものを使って巨神兵で世界を焼き尽くしてしまった。
それで汚れた地球を浄化するために自然が自浄機能として不快というものを作り、
消気という有毒なガスを吐き出すことによって地球自身を浄化していくという設定になっているわけですよね。
その中で人間は自らの行いで作り出してしまった不快によって浸食されながら生きるという、ある種カルマを背負った存在として描かれていて、
だから風の谷の人たちは不快の毒というものを自らの宿命と受け入れて生きているんだけれども、
一方でトルメキアというクシャナ王の率いる軍事国家は、それをやはりもう一度人間が取り戻すべきだといって、
眠っていた巨神兵を掘り起こして虫たちを焼き払ってしまおうという発想になっているわけですよね。
これは七日間戦争以前の人間が自然を完全にコントロールするんだ、我々人間がこの世界の王なんだみたいな、そんな考え方でしょうかね。
もう一方でペジテの人たちというのは、トルメキアの思想に反対しつつも、自分たちの政治思想を実現するためには手段を選ばないという、
そういう身勝手な論理みたいなのもあると、そんな考え方があったりするわけじゃないですか。
他にも、例えばモノノケ姫もそうですよね。
あの映画では冒頭、アシタカという若者が、たたり神になってしまったイノシシを鎮めようとして矢を放つときに呪いを受けてしまうという設定になっているわけです。
もうその時点で、その主人公自体が呪いを受けている、一人の誠実な人間であろうとしている中で、自分の中にはどうにも抑えがたい呪いの力があって、
矢を放てばそれ一本で人の首が飛んでしまうような力を持つことになってしまったりしたわけですよね。
エボシゴゼンが率いるタタラバの人たちは、独立したコミュニティを存続させるために鉄の生成という産業を始めて、
その中でそのコミュニティは豊かに平和に暮らしているわけですよね。
ところが彼らが作っているものは石火矢という武器なんですよね。
鉄砲みたいなものとかバズーカ砲みたいなものなんだけれども、
戦の道具、人を殺す道具を作ってみんなが平和に暮らしているというこの矛盾。
エボシゴゼンも自分の管理しているというか、タタラバの村の人たちには徹底して優しい、
しかもおそらく雷病患者のような人たちにもきちんと仕事を与えて生きる糧を与えている。
武器を作る鬼のような一面がある一方で、御仏のような慈愛も持ち合わせているというこの矛盾。
そういうふうにナウシカにしろ、もののけ姫にしろ、
奇麗事ではない、さまざまな自己矛盾をはらんだ存在としての人間というものが
どう生きるべきなのかというのがテーマなんだと思うんですよね。
それは表上は自然との調和が大事ですというメッセージが非常に強く出ているし、
戦いよりは平和みたいなイメージが出ているんだけど、
そんなに奇麗事ばかりでもないというか、人間そんな単純じゃないよねっていうところも
背後にずっと伝えているところがあるんじゃないかなと思います。
つまりその上で君たちはどう生きるのかということを宮崎駿監督は
もう初期の作品からずっとずっと訴えている。
だから多分宮崎駿監督の映画って私たちの心に迫ってくるんだと思うんですよね。
キャラクターとその葛藤
今回の君たちはどう生きるかってもう多分本当に
宮崎駿監督の人生のテーマそのもののようなタイトルになっていたりするわけですけれども、
主人公の名前が真人さんって言うんだよね。
真人っていうのは真実の真のちょっと古い漢字だよね。
上に火っていうカタカナがついているような真の人と書くんだけど、
その名前自体にもある種の親の願いであり親の呪いみたいなものはかかっている。
冒頭非常に引きつけられる戦争のシーンがあったりするんですけれども、
そこで彼は決定的な喪失を味わうわけですよね。
その後彼は父と一緒に疎開をするわけなんですけれども、
この疎開先での彼の生活の序盤というのは、
彼の表情はもう眉一つ動かさないような無表情、
感情を表にしないと、心に誓ったような強い目力で口をぐっと毎一文字に結んで生きている。
非常に礼儀正しくお辞儀もするし言葉遣いも綺麗で、
本当に真人というお坊ちゃんは本当によくできた子ですねというような感じで生きているわけなんですけれども、
彼は序盤は全然心の内を表さないんですよね。
その疎開先で都会から金持ちの子が来たといっていじめられてしまうわけなんですけれども、
ちょっと匿名があった後で彼は自分の頭に石で傷をつけて流血させるということが起こるんですけど、
ここの描写が本当に見事ですね。
本人の体験なくしては、あの感情の表現をああいった形で表現することってまあ無理なんだろうなと思いました。
自らにつけた頭の傷ですね。
あれこそがその前に言った人間が抱えるさまざまな矛盾をはらんだ存在として生きていくという、
何というかカインの印のようなもののような気が僕はしたんですよ。
詳しくは皆さんぜひ見ていただいて、どんな意味だったのかなってかみしめて、
何度が何度か見ていただくと良いのではないかなというふうに思いました。
人間の主体性と矛盾
人間って自分の頭で考えていることと心で思っていること、
健在意識と潜在意識というものが時に矛盾した存在としてある場合があります。
これが一致しているような時もあるわけですけれども、これが分離してしまうことというのもありますし、
それによって人間の心の中には、例えば善と悪であるとか、
そんな単純な二元論ばかりではないわけですけれども、
やっぱり我々常に矛盾をはらんで生きているわけですよね。
その矛盾をはらんだ存在として日々どう生きるか。
どう生きるかというところには我々の主体性というものが求められているわけなんですけれども、
やっぱり宮崎駿監督が言いたいのは、
人を主体的にちゃんと考えて生きているかという感じなんじゃないかなというふうに思うんですよね。
最後になりますけど、この映画を見ている最中にですね、
僕、宮崎駿監督がロシア人の映画監督であるアンドレイ・タルコフスキーという方に
かなり影響を受けているんじゃないかなという感じがしました。
このアンドレイ・タルコフスキーという映画監督は非常にマイナーなので、
これについてはまた別の回でお話をしたいなというふうに思っております。
はい、というわけでね、今日も聞いていただいてありがとうございました。
今日のお話が良かったという方は、いいねやコメントなどよろしくお願いいたします。
OK, thank you for listening and have a great day.