人間の精神的状態
まあ、やっぱり何か信じれるっていう状態は、人間にとっては良さそうというか、精神的にはね、そう。
最後に頼れるものがあるから、その頼った先さえしっかりしてれば、
ま、崩れないというか、自分は、自分を保てる。
うーん、いやなんかね、その、前から言ってるけど、
うん。
なんかね、信じてるわけじゃないんだよな、俺。
あー、なるほど。
そこがなんかね、なんか違うなっていう感覚が、どうもあるんだよね。信じてるわけじゃないんだよ。
ど、な、信じてるってじゃあ逆にどういう意味なの?とよだくんの信じてると。
信じてるって言うと、なんだろう、信じるってことは、もっと能動的な感じがするんだよね。
あー、行為?
なんか、無意識というよりは意識的にこれを信じるぞっていう風に、意志の力を使ってる感じがするんだよね、信じるって。
うーん、うんうんうん。
だから、意志の力は使ってないんだよね。
なんか自然とそういう風に考えちゃうっていうか、いうことを感じてるって多分表現してるんだよね、僕は。
うんうんうんうんうん。
感じてるとか、その状態、状態同士って感じ?なんか自分の、なんだろ、何々するっていう行為じゃなくて。
あー、そうだねそうだね。
であるっていう状態ってことだよね。
そうそう、単発の行為ではなくて、状態だね、状態。
状態なんだよね。なんかこういう文法用語あった気がするんだけど、ちょっと忘れちゃった。
あの、英語でbe〜ingにできない言葉?なんだっけ?どうでもいいや、ちょっと。
はいはいはいはい、あったね、なんかそんなのね。
なるほどね。
むしろ、なんだろう、そういう神的な概念を使わずに、どうやって自分の心を保ってるんだろうっていう。
保ってるっていうか、そのなんだろうな、自分がやってることに、あ、これでいいなとか、これは良くないなみたいなのってどうやって判断してるんだろうなっていう気はするけどね。
その良い悪いって、なんか何かを具体的に判断してるとき、それとももうちょっと抽象的な感覚?この状態が良いかどうかってこと?
要は、なんかこのAとBを選ばなきゃいけないっていう、本当にもう具体的な選択を迫られてるイメージなのか。
そうね、選択を迫られて、選択を迫られて、いや、自分が感じてることをどうロジック付けてるのかなっていう。
なるほどね。
なんで自分がこういう風に感じてるんだろうっていうことを、みんなはどう理由付けてそれを納得させてるんだろうっていう。
納得いかないんじゃないかな。
納得してないのか。納得いかないのか。
なんか波があるっていう風に僕は思ってるだけだけどね。なんかそういう時があっても、上下してるんだなみたいな。
しかも綺麗な波じゃなくて、結構ギザギザしてるノイジーな波というか、シグナルって感じ。
で、あとはその納得いかない瞬間がたくさんあるのが嫌だから、きっと没頭しようとしてるんじゃないかなとかね、思うけどね。
何も考えない時間っていうのを無意識に勝手に作ってると。
何も感じてない、没頭してる時って神は感じないか。
感じないと思う。なんかスポーツしてるとかさ、マラソンしてめっちゃ走ってる時にさ、そんな考える余裕ないじゃん。
考えるっていうか、なぜ今俺は没頭していたんだろうみたいなのを後から振り返って考えない?
なんで僕は43キロ走ったんだろうかみたいな。
そうだね。自分にその43キロ走らせたものは一体何なんだろうって。
どうだろう。考えるかな。
自分がそういう風に走りたいからそう思ったんだ。
好きだからとか楽しかったからって思うんじゃない?
なんでそれは楽しいと感じたんだろうって。
心拍数が上がったから。
導かれる感覚と囚われ
心拍数が上がると嬉しいんだ。
これもさっき最初に言った推論じゃないけど、心拍数が上がっているイコール楽しいっていう推論を脳が知っていれば、
それを繰り返すね。あとはドーパミンが出てるとかなんかホルモンが出てて、それが良いと脳は感じてると。
なんかね、ちょっと僕がどういう感覚で感じてるかっていうのをちょっと説明するね。
まず前提として、自分がめっちゃ恵まれてるなっていう感覚があるんだね。
そこが大前提。
その恵まれてるんだけど、それは自分は全く努力も何もしてなくて、手に入れてる感覚があるのね。
なんで自分は何もしてないのにこんなに恵まれてるんだろうっていう問いに対する回答として、
神に守られてるというか、神に導かれてるんだっていう答え方しか自分が納得というか、
できる回答が出てこないんだよね。
だから神っていう概念を採用して感じてるような感じがするんだよな。
なんだろうね。
なるほど。
だからこれはただの偶然だっていうふうに説明することもできると思うんだけど、
いやそんな偶然が重なりますか?みたいな。
そこに偶然だって言われちゃうと、なんかこう違和感を感じるんだよね。
なるほどね。
君が何の努力もしてなくて、何か恵まれた感覚を得てるのは、もうただの偶然なんですよ。
ただの運が良かっただけですよっていう、たまたまねって言われると、何かね納得できないというか、
本当に?って思っちゃうんだよね。
なるほどなるほど。
それを説明するための原理が。
ここに何か必然性があるんじゃないかと。
説明する原理がない。
ないので、どうにかしてそれを説明しようとして、
なんかこう守られてるなーとか、導かれてるなーみたいな感覚がそこから生まれてくる気がするんだよな。
いや、そうね。
なんかその偶然の重なりというか、本当にただ脈々と人が生まれて死んでっていうのを繰り返してて、
自分はただの一人、その一つの粒であって、
たまたまこの環境で、いろんな人とからの刺激を通して、たまたま今の状態にたどり着きましたっていう風に。
僕は捉えられるんだけど、でもそれだと納得いかないとか、
なんかエネルギーが湧きにくいみたいなのはわかる気がする。その解釈だけだと。
そうなんだよね。なんかさ、自分の今ある人生をさ、
その粒の一つですっていう風に自分に説明して、
それで納得できるんですか、あなたはっていう。
いう風に僕は問いたいんだよね。
あなたのその唯一のさ、与えられるその命がさ、
他のものとの同列のただの数千、今ある70億人間がいるとして、
その70億分の1のただの粒でしかないっていう風に説明されて、
あなたはそれで納得できるんですかって。それで納得できるんだったら、
もうそういうので満足できる人生なんだっていうことだと思うんだよね。
それはそれでいいと思うんだよ。満足できるんだから。
でも僕はそれで満足して死ねる気がしないんだよね。
なるほどね。それは何でそうなるんだろうね。
そのエネルギーというか納得できるできないみたいなとこに何かすごいエネルギーがあるような気がするんだけど、
どっから来てるっていう。
それはやっぱり自分のことを大事にしてるからじゃない。
なるほどね。
何かあるでしょ、今僕がここにいるには。何かあるでしょって思ってるんだよね。
なるほどなるほど。
それは多分みんな思ってるんじゃないかと僕は思っているんだが、そんなことないのかなっていうのはちょっと不思議ではあるかな。
今自分がこの場所にこの時代にここにいるのはなぜなんだろう。
それは何かあるのではないかって思いたくないですかって。
思わないでよく生きていられますねって僕の感覚では感じるんだけど。
でもそう思えない人がやっぱりいるとかそういう風になると苦しく思うっていうのも分からなくもないけど。みんながみんな。
だから宗教を勉強した方がいいし、
囚われから囚われないようにした方がいいなって多分思ってるんだと思う。
負の囚われと解放
悪い囚われだよね。
悪い囚われね。そういう風に思えない。思えないどうなんだろうな。僕は思えた方がいいなと思うんだけど、
もしそれが思えないっていう自分が今思えないという状況になるんだったらそれをどう外していくかを一緒に考えたいなって僕は思う。
思えないってことは何か別の負の囚われに囚われてるから自分を大事にできないとか、この人生自分を大事にしたいと思えないっていうことだよね。
普通に考えたら自分のことをみんな自分で大事にしたいはずだろうなって思ってるんだよね。
でもそれは何らかの理由によってそう思えなくなってしまってるのであれば、何らかの理由っていうのを取り除くのを一緒にやりたいな。
だから多分囚われてる人を解放させてあげたいみたいな欲求が湧いてくるんだと思う。
なるほどね。
例えば他の人がある物Aを雑に扱ってるのを見てると、他の人もそれに追随してその物Aを雑に扱うっていうのは人間あると思う。
例えば、窓割り理論じゃないけどさ、街のガラスが割れてるとどんどん治安が悪くなるとか、
人がゴミを捨てたら、そこにゴミがあるから自分も捨てていいやって、どんどんゴミが増えていくと。
でもゴミ一つ落ちてない街だと、みんなが綺麗に使ってるから自分も下手にゴミを捨てれないと綺麗に使おうと思うみたいなってあるじゃん。
それと似ていて、自分の周りの人が自分のことを大事にしてないとか、
大事に扱ってくれてないと、自分も自分のことを大事に扱わないみたいな流れはあり得る気がするんだよね。
あり得る、あり得る、あり得る、あり得るよ。
そう、だからそうなんだよね。
それってでも囚われなのかな、ある種の。
囚われ?
周りの人が自分を大事にしてなかった、だから自分も大事にしないっていうのはさ、
別に本来は関連性はあるんだけど、逆転させるとか独立させることもできなくはないけど、
やっぱりその流れとか圧力とか、ある意味そういう囚われとか呪いとして、自分の考え方がそういう方向に流されるわけじゃん。
なるほど。
なんか、それってでも結構、その負の囚われから外れるって、自分でやるのは結構難しい気がするんだよね。
そうね。それを多分自分で外してきたんだよね。
なるほど。
だから神に導かれてる感じがするんだと思うんだよね。
あー、なるほどなるほど。
普通外せないと思うんだけど、なぜか知らんけど、外してきたぞと俺は。
今ね、マトリックスのネオが。
それはなんか導かれてる感じするよね。
いや、ネオだね。
分かる。マトリックスの中の世界で捕らわれてたんだけど、本人でというよりは周りの力もあってだけど、彼はそこから抜け出したわけじゃん。マトリックスの世界から。
外してきたのね。なるほど。
外してきたんだと思うんだよね。多分こういう風に考えられてるってことは、外してきたからこういう風に考えられていて、
感謝の認識とキー
でもそれって自分が何か努力をして外してきたかっていうと、そんな感じはしないわけよ。何か知らんけど外れてましたみたいな感じなんだよね。
でもそれって何か偶然なの?みたいな。そんな偶然でそんな風になるかなって。
なるほどなるほど。
思うんだよね。そこに何かしら意味があるのではないかっていう風に考えてしまうんだよね、人間は。
意味を見つけ出そうとするってのはあるよね、人間。他にそういう人はあんまりいない?それとも結構世の中にはいそうなの?とよだくんの目から見て。
分かんない。分かんないよ。
分かんないの?じゃあその人がそういうのから外されているかどうかは見た目じゃ分かんない?
分かんないし、何だろう。結構みんなそんな感じなんだろうなと思ってたけど、何か話を聞くと意外とそうでもないなっていう感覚を今得てるって感じ?
うーん、なるほどね。
結構みんな難しいのかこれはっていう。
うーん、なるほど。いやー面白いねこれ。
なんかこれを才能って言っちゃうのももったいない気がして、前回の話の中で。何か違う気がするんだけど。
なんかやっぱり、その思考というか捉え方、認知の仕方によって、すごく自由な感じがするよね。いろんなものから。
そう?自由。
自由。何だろうな。何かうまく言葉にできないんだけど。そんなに確かに周りの人が同じようにできてるような感じはしないけどね。僕から見ても。
そうだね。あ、そうそう。あとそうだ。結構気になってるのがみんながその、多くの人が自分の今の境遇に感謝できないのかっていうところも結構、何でなんだろうって。
なるほど。
思っていて、それもね、いろいろね、その人によって状況が違うし、置かれてる境遇が違うし、なんかすごい大変な境遇に置かれてる人って、もちろんたくさんいると思うんだけど。
それはそうなんだが、でも、今自分がここに存在しているっていうことはさ、かなりいろんな奇跡というか、いろんな奇跡が重なった上で奇跡っていうのかな。
あといろんな過去の人の積み上げてきたものとかさ、そういうものの上に立ってるんだっていう認識が持てれば、なんか恵まれてるというか、なんだろうね、自分の今を肯定できるというか、気が、僕はしてるんだけどなーって。
なるほどね。いくつか、この辺りで話したいなと思うんだけどさ、そもそも感謝するって何なんだろうとか考えたことがあって、何なんだろうね、その感謝するって気持ちは。
あー、はいはいはい。感謝、感謝だから、日本語的にはさ、ありがとうってさ、有り難いってことじゃん?あることが難しいっていうことじゃない?
そうだね。うん。
今の自分の境遇が普通に考えたらありえないよねっていうふうに感じたときに、僕は感謝の念が湧いてくる気がするんだよね。
なるほど。感謝の念。
普通に考えたらありえないんだけど、今ここにあるっていう状態を目にしたときに、人間はなんかこう感謝を感じる気がしていて。
その感謝っていう言葉を使わないと何なんだろう?その何かがわけがってきたもの。
あー、えーと、えー、何だろうね、なんか、うーん、心があったかくなるみたいな感じ?
心があったかくなる感じ。
いや、どうなんだろうな。普通ありえないよねって思うものが自分の目の前にあって、あー良かったって思う。
あー良かった。
そのあー良かったは、自分がどうこうしたからあるわけではなくて、自分は何もしてないのにそこにある。
自分が影響を与えられないものがそこにあるっていうときに、感謝なんだけど。感謝って言っちゃうんだけど。
そうだね。感謝って結構難しい言葉だなと思ったんだよね。
感謝、感謝。
他に説明うまくできている言葉ってあんまり見渡らないというか。
そうだね。
うん。
いや、なんかもう、もう、在ってくれてありがとうとしか言いようがないんだよな。
あるって、存在のあるって感じだよね。
そうそうそうそう。
存在してくれてありがとうってことだよね。
なんか別の方向からさ、この感謝とかいうことをちょっと聞いてみたいんだけど。
なんか子供にもさ、ありがとうって言いなさいとかさ、最初ちっちゃい頃こう言ったりとか気軽にしてるじゃん、割と。
で、たぶん形から入ってると思うんだよね。
何かをしてもらったら、それに対してありがとうという。
で、そこに何かこう記号的な意味があって、
何かこう感謝するっていうのはこういうことかっていうのを繰り返していくうちに、体得してってるんだけど。
自分の中でこう何か疑問に思うのが、心のこもった感謝とそうじゃない感謝っていうのもあるじゃん。
口だけで言ってると。
でも、その差って何なんだろうなとかさ、何だろう。
そこって感謝とは何かみたいなところに近いものがあって、
心の中では本当は何も持ってないとかネガティブなんだけど、
口ではありがとうという言葉を発してるっていうのが、心のこもってない感謝だと思うんだけど、
まだそれだと感謝がどういうことかっていうのを説明できてなくて。
感謝してるってどういう状態なのかなとか、何だろうね。
本当に心から感謝してるってどういうことなんだろうと思って。
本当に心から感謝したらありがとうって言葉は出せない気がするんだよな。
なんかもうしみじみ感じいるしかないっていうか。
あー、言葉にならないと。
言葉にできない、何だっけ、小田和正の曲であるよね。
あー。
あなたに会えて本当に良かった。嬉しくて嬉しくて言葉にできないって。
あー、あったね。確かなこと?
何だっけ、言葉にできないって曲だったかな?
あ、違うか。言葉にできないか。
でもそれもさ、人によるんじゃないかなと思ってて。
なんかその、普段から、例えばありがとうと言ってる人。
もう毎日何かを物を取ってっていうのに対してもありがとうって言うと、
ありがとうっていう言葉自体はもうめちゃめちゃ頻出していて、
その後ろの言葉と関係なく出てくるから、もう全然こう、
心からっていう本当にレアなというか、
めったに起こらないことに対して使っちゃうと陳腐になっちゃうというか、
それと普段使ってることと同じ意味になっちゃうから、
ありがとうって言えない、使えないと思うんだよね。
でも逆に設定としてはすごい頑固な人というか不器用な人で、
一切人にありがとうということを言わないと。人生60年。
その人が死ぬ間際とかに、例えば一言初めてありがとうと言ったっていうと、
なんかそれは心から感謝してることを表してたりするのかなとかさ、思ったんだけど。
なんかね、今思ったのが、ありがとうって、
罪悪感の解消なんじゃないかなって思ったんだよね。
おお、罪悪感。
何か罪悪感というか、なんかこう、追い目というか、
それを感じて、それを解消するためにありがとうって言葉を出す気がして。
誰かに何かをやってもらいました。
それに対して、ありがとうっていうことで、追い目っていうか、何かをやってくれた借りを返すみたいな感じ。
で、ありがとうっていう言葉を出す気がしていて。
ありがとうって言葉が相手に伝えられれば、追い目を感じなくて済むと。
でも、ありがとうって言葉が伝えられない時に、
人間は本当の感謝を感じる気がする。
そこでその罪悪感が解消できないわけよね。
借りがどんどん溜まっていって、それが解消できない。
その時に本当の感謝みたいなのを感じるような気がしたんだけど。
なるほどね。
でもね、ヒントがいくつかあるような気がして。
まずそもそも、人間は贈り物をし合うっていう話があったじゃん。
で、返報したい。
そうじゃないと、自分にとっては受け取っただけだとバーデンになるみたいな話をしたよね。
いくつか前のエピソード。
それを緩和するために言葉というものを返して、ちょっと仮に一部だけ返して。
ちょっと緩和すると。
10もらったんだけど、ありがとうということによって1返して、ちょっと和らげてると。
っていうのがあるって感じよね。
で、人間は贈り物を回し合う生き物というか、それで社会性を作ってると。
一方でさ、なんか思ったのがさ、感謝するっていうのに対してキーワードになるのが、
その受け取ったものをちゃんと認識する。
僕は10受け取ったんだっていうのが認識されるから重荷になって、
で、さらにそれを解消するとか、なんかこう解釈しようとするわけじゃん。
なんだけど、多分感謝の気持ちがない状態っていうのは、
相手がなんかくれたんだけど、自分はそれを何もくれてないと。
例えば0だと認識したら感謝しないじゃん。
だからその受け取ったものを認識できるっていうことがキーなんだなと思ったんだよね。
感謝するためには。
そうだねそうだね。
で、とよだくんの場合は、自分の人生において受け取ったものがもう大きいと。
って認識できてるから、さっきの神の話とかになんかつながったのかなと思った気がする。
そうだね。その認識できてることも神の導きだろうなと思ってるんだよね。
なるほどね。
神が導いて俺にそれを認識させてるんだろうなっていう説明をしちゃってるんだな自分に。
その受け取ったものを、なんかありがたいものというか、
ありがたいって使えないな。
その受け取ったものが自分にとってなんか意味があるというか、
10なんだって認識する。
なんだろうね。
その基準によるのかな。受け取り方ってのは。
基準。
なるほどな。
心から感謝するっていうのは、自分がその受け取ったものをどう解釈してるかと。
受け取ったものが何らかの軸で、ゼロなのかネガティブなのかポジティブなのかによって、
それを返したいなって思うときに湧き起こる感情が感謝か。
なるほどね。
受け取ったものを認知する
なんじゃないかな。
面白いな。
神に対しては別に感謝してないの?
いや、こういう感謝できる状態にしてくれたのも神の思し召しというか。
感謝してるんだよね。
なんだろうなーと思うから、感謝してるんじゃないかな。
なるほど。
感謝、受け取ったものを認知できないのはなんでなんだろうね。
認知できないのは、なんでなんだろうね。
それはやっぱり、神の恩寵がないから。
キリスト教って予定説が大事な概念なんだよね。
予定説って何かっていうと、神によって救われる人は最初から決まってるっていう考え方なんだよね。
なるほど。
キリスト教の論理からの救済
その予定説っていうのは、全く条件なしに神がこの人を選んだっていうことしか理由なくて、
例えばすごくいいことをしましたと、すごく善行を重ねていいことをしたから救われるとか、そういう論理が全くないのね。
悪人だろうが何だろうが、すげえ悪いことをしたとしても、神様がこの人を救うっていうふうに決めていたら、もうその人は救われるんだよね。
なるほどね。
だから人間の行為っていうのは全く意味、神にとって何の意味もないんだよね。
で、もう救われる人も最初から決まってますと。
だから、なぜ人がいいことをできるか、善行をできるかっていうと、
それはもう神に救われてるからだっていうふうに考えるらしいんだよね。
神に救われてるから良いことができると。
神に救われてないから悪いことをしちゃうみたいな。
いいことをしたから救われるっていう因果じゃなくて、もう救われてるからいいことをするっていう。
逆なのね、因果が。
そう、因果が逆になってるんだよね。
そこがキリスト教のそのポイント。
で、そこにさっきなんだっけ。
感謝を、受け取ったものを認識できない。
認識できない。
ってことは、そのキリスト教の論理から当てはめると、
救われてない。
救われてないからっていう論理になっちゃって、
それはキリスト教的には、それ言われちゃうと布教できないじゃん。
そうだね。
なんて言うんだろう。そんなこと言われたらさ、信じたくないじゃない。
そこは隠されてるんだよね、キリスト教の中であんまりこう、
なんていうの、大っぴらにされてないっていうか。
でもさ、それって信じたら救われるんじゃないの?
だから布教になるんじゃないの?
信じたら救われるっていうか、もう救われてるから信じれるんだよね。
まあ、そうね。
これはどっちが先なのかっていうと、怪しいというか、
救われてない人は、なんか悪いことしてて、
でも、その信じるという決断をしたことによって、
その後以降は、救われてるからいいことをするってことだよね。
えっとね、決断じゃないんだよね。
それはもう神がそういうふうにしているから、
そうせざるを得ないっていう感じなんだと思うんだよね。
もし今、救われてない人でも、いつかは気づく。
じゃあ、救われてるんだけど悪いことはしてるってことはあり得るってこと?
ん?救われてるんだけど悪いことしてる?
救われていることの気づき
救われてはないのに、
あ、違う違う、救われているのに悪いことをするって可能性もあるんだよね。
救われているのに悪いことをするっていう可能性もあるあるあるあるよ。
でもその人はいつか気づくんだよね。
なるほど。
なんかでもそうすると、全員が救われてることになると、
なんか辻褄が合わない気がするんだけどな。
全員が救われてる。
なんか救われてる人と救われてない人がいるのかな本当に。
それはね、多分ね、方便だと僕は思ってて。
正直他人が救われるかどうかなんか関係ないんだよね。
あーそういうことか。
自分だけなんだよね。
自分がそう思えるかどうかだけが重要で、
えっとね、他人が救われるかどうかはどうでもいいんだよね。
なるほど。
だから自分が救われてるっていう風に感じる人はそのパラダイムを採用すればいいし、
そう思えない人はただそのパラダイムを採用しなければいいだけだって話だと思う。
なるほどな。
あの結局ね、
さっき救われてるとか救われてないとか言ったけど、
全ての人はね、救われてると思うんだよね。
うん、そうだよね。
個人的には。
あ、個人的に。
じゃなかったら、この世に生み出さないからさ。
あー。
この世に生み出してるってことはもう救われてるんだよ。
うんうんうんうん。
それをあとは、気づくかどうかなんだけど、
その気づくかどうかも、もう神に決められちゃってるから。
あの、気づければ救われてるっていうことで、
気づかないんだったら、
まあ、救われてないってことになるんだけど、
その人はもう気づいてないんだから、
別にそれはそれでいいんじゃないのっていう、それだけの話かな。
うーん。
なんかでも、さっきのその救われてる、救われてない、
で、なんか信じてる、信じてないっていう関係性と、
その恵まれても気づく、気づかない。
で、いつか気づく。
なんかすごい似てる関係性があるような気がするんだよな。
今は気づいてなくても、
人生のどこかで気づくなら、その人は気づける人ってことになるじゃん。
だから今の時点で気づいてなくても、
まだその人は可能性はあるし、
まあいずれ、前提としてはみんな気づける、
救われているみたいな捉え方ができるのかな。
そうだね。
僕はみんな気づけると思ってるけどな。
次回へ続く。