人間の成長の過程
でも一方でさ、度合いは、それぞれ濃淡があるとして、
なんか、もしかしたら人間、こういう特性を持った、やっぱ種族なのかなとか、
なんかこれを悪として捉えるべきなのかなってのは思ったのね。
みんな、条件によってはこういうのが発動するとか、
あの、状況においてはこうなる。
で、それを克服してる時もあれば、してない時もあるとか、
なんかその、長い目で見たらその人の人生において、
そうなってる時もあれば、そうじゃない時もあるっていう、
なんだろう、モードがあったり、
社会性を培うためには、実は必要なちょっと要素で、
なんか全てが悪いのか、みたいなところがあったり。
これが、捉え方によっては実はすごい吸着力を生み出す、
なんかドライバーだったりとか、行動させる。
人をすごい勢いでこう、なんかに駆り立てるというか、走らせる。
もしかしたら本来はドライバーとして役立ってると、
場所もあるかもしれないとかさ。
ココシャネルとかもそうだよね、確かに。
この本の中で出てきたココシャネルが、
幼少期のそのつらいものを克服しようとして、
社会的にはなり上がったというか、今の成功を作り上げた、
その原動力にはこういうのがあったんですよ、みたいな。
何かの原動力になる時って、
例えば、単純にマラソン選手になりたいっていう目標型として、
そのためにやってるかって言われると、
違うかとのために頑張ってる時に、
エネルギーっていうのが大きいかもしれないですよね。
例えば、誰かに認められたいとか、
別の自分にいいことがあって、
そのために頑張ってる。
結果、マラソン大会に、マラソン大会なのか、マラソン選手になるのか、
結果、そこに向かってるっていう向け先はたまたまそれだったみたいな。
なんだっけそれ、心理学で言う昇華だったかな。
昇華?
昇る華と書いて、
その満たされない欲求を別の方向に向けて、
それが成功、社会的に認められる方向にうまく向けるみたいな。
かなと思った。
自分の中では、
スターウォーズのダークフォースだっけ、
闇のエネルギーみたいな、
あれに近いものを感じるというか、
ストレスとかネガティブなそういう気持ちを、
自分の場合は、まさにかなえんさんが言った走るというか、
めっちゃスポーツするっていうのに、
エネルギーに変換して運動するみたいなことはあって、
自分でネガティブなストレスの気持ちを、
燃料に自分の体を動かしてるなって感じをしてる時あったんだよ。
でもこれ、ダークフォースを使ってるなっていう気がして、
これやりすぎるとあんまり良くないかもなっていう感じもあった。
はいはいはい。
なんかポジティブにやってないみたいな。
家庭環境の影響
そうなんだ、でも結果は人から見たら同じですよね。
そうですよね。
周りからは、なんかすげえ走ってるなみたいな。
行動の面だけ見られるか。
なんかその、俺も昔はやっぱそのダークフォースが、
ドライブの原動力だったような気がするんだけど、
なんかいつの間にかそれがね、なくなってった感があるんだよね。
何があったんだろう。
それがなぜそうなったのかわかんないんだけど、
そのダークフォースでドライブしていて、
自分がたどり着いたところが、
何だろうな、他人に認められるようになったからなのか、
自分で認められるようになったのか、ちょっとよくわかんないんだけど、
なんかこのダークフォースがあったからこそそこにたどり着けたみたいな、
なんかそういう認知に変わった時に、
なんかそのダークフォースが成仏して、
逆にこうポジティブな感情で、
なんか世界に向き合えるようになったような気もするんだよな。
何がきっかけでそうなったのかちょっとよくわかんないんだけど、
だからなんかみんな最初はダークフォースから始まるんじゃないかなっていう気もなんかしてるんだよね。
かなえんさんは思い当たることあります?
いや、思いに当たること、ほとんどがダークフォースだったのかもしれない。
なるほど。3分の3。
なるほど。
同じ行動してても感情が変わってくる時ってありますよね。
うんうんうん。
自分は。
それはありますね。
どういうこと?同じ行動してて感情が変わるって。
毎回その一緒の感情で、例えば運動するだったら運動してるわけではないってことですかね。
なんか最初は、思春期だからかもしれないですけど、
例えば中高とかでは、親に認められたくてすごい勉強してた時あったりして、
でもある時、なんかその、それって全然目的にならないというか、
そのためにやるっていうことに全然エネルギーを投資できなくなった。
瞬間がパタッというふうに、ある時現れたんですね、私の場合は。
で、その単純に勉強の面白さに気づいて、勉強したりしなかったりするようなこともあったんで。
だから同じ、やってることは一緒なんだけれども、
自分の目的とか、何のためにやってるのか、何が楽しくてやってるのか、変わってきてる。
とよだくんが言ってたことと一緒じゃない?
最初はダークフォースだったかもしれないけど、そのうちそれ違う目的でとか、それ自体が楽しめるようになったりとかしたっていうのと。
うん、そうかな。
最初はだからその親の期待に応えるために勉強していたっていうのが、自分が楽しいから勉強していたみたいに変わったっていうことですか?さっき言ってくれたのは。
なんか、そのもうゴールがなくなったんですよね、ゴールが。
ゴールがなくなった。
親に認められるということがゴールだったんだけれども、それがその成長の過程で、そのゴールに価値がないというか、
そのゴール自体が意味をなさないものになって、そのゴールっていうものがなくなったから、じゃあどこに向かうのかっていうのを自分で考えようとした結果、
やってること自体が楽しいっていうふうに思って、
インテグラルずっと書いてたりとかした。
親離れってでもそういうことなんじゃないかなって思いましたね、今。
そうなんだと思います。
親離れ?
最初はやっぱりその親の期待に応えたいみたいな欲求から、子供はもしかしたらドライブするのかもしれないけど、いつかそれがそうじゃなくなる時が来て、
そうなると多分親離れのタイミングというか、
それができてるかどうかが親離れできてるかどうかの判断基準というか、になるのかなってちょっと思った。
まさにそういう本当に成長の過程の一種なんだったと思います。
過去の経験を。バンって来たんですよね、高校何年生かの時、その瞬間がバンって訪れて。
愛着スタイルとストレス
なんか今の親離れっていうのを聞いて、なぜか、何だろう、昔の人はどうだったんだろうなとか思ったのね、江戸時代の人とか。
なんか昔、子供の独立の年齢がすごい早かったじゃん、10歳とか11歳とかで。
あの時の親子関係だったら、こういうことって起きてるのかなとかさ。
今、現代のこういう家庭の作り方とか、社会がこういう不安型、愛着スタイルを醸成しやすくしてるのか、
何なんだろうなーっていうのを今思ったんだよね。
やっぱり子供の数が少なくなり、兄弟も、例えば1人とか2人とかしかいなくなり、そうするとやっぱり、
過度になるのかな?
そう、過度になるじゃない。
距離が近いのかな?
それはあると思うんだよね。
期待も大きい。
あと、まあそうね、子供があんまり死ななくなってるとかもあるのかな。
昔は子供がすぐ死んじゃうから、とりあえずたくさん子供産んで、生き残るか生き残らないかみたいな。
いう、なんていうの、親も多分、そんなに最初からその子供に期待はしてないと思うんだよね。
途中で死ぬかもしれないし。
でも産んだ子供が確実に、ほぼ確実に大人になるみたいな感じになってくると、
かつそれで兄弟も少なくなってくると、どうしてもその1人とか2人の子供に愛情というか執着というかが集中しやすい、
なってる気がする。
なるほどね。
なんかそのさっきとよださんがおっしゃった、その親との関係が結構重要なんじゃないかっていう観点からすると、
その核家族化になってることは結構大きいかなって思うんで、
その親しか向かい合う相手がいないと、親が全てになっちゃうっていうところで、
なんかもともと自分たちはサル科の生き物で、チンパンジーと同じような感じじゃないですか。
だからチーム制で子育てしてるのに、そこからどんどん分離していってるから人間は、
小さく小さく関係がなっちゃってる。
そうですね。
もしかしたらヒロさんが言う江戸時代とかの子供たちは、もっとその地域ぐるみの、
家もたぶんおばあちゃん、じいちゃんも一緒だっただろうし、
地域で分かっていたものがどんどん家庭内に集約してて、
子供がそういう状態になっちゃってるのかもしれないですね。
でも確かにそうですね、江戸時代まで遡らなくても、
40年ぐらい登れば、親戚のおじさんとかおばさんとか、
自分の親以外の大人と触れ合う機会が多くて、
しかも結構いろんなバックグラウンド、働いてる人もいれば働いてない人もいるとか、
まあ結構気まじめな人もいれば、結構適当な人もいるんだなとか、
なんかそういうバラエティがあって、
自分もこんな感じでなんとかなるかなみたいな、
いろんな大人があれば、その中で愛着っていうか、
いい関係を持てる人が見つかれば、
本来は人間の距離感とかに過敏にならなくてもほんとは済んだのに、
今は一つ一人っていうか、自分の両親という意味では二人とか、
すごい少ない数のサンプルというか、大人とうまくやらないと、
結構つらい幼少期、子供時代を過ごすことになるっていうのが、
この不安型愛着スタイルっていう形での問題というか、
ストレスを生む原因になってるのかなっていうのを今思ったんですよね。
同じように思います。
そうですね。
甘えるっていうことがうまくできなかったりしたっていうところが一番キーポイントだから、
別に大人には別に親じゃなくてもそれはよくって、
隣のおばあちゃんでもよかった。
っていうのはやっぱり大人との関係が気づけたりすると、
特に問題はなかったところが大きいと思うので、
実際そうですよね、家庭環境難しいところですよね。
今だと。
どうですか?2人は自分の親以外の、
いろんな大人にちっちゃい頃結構触れ合えてた感じですか?
たぶん触れ合えてたらこんな話題思ってこないと思う。
そういうことですよね。
ないですよね。
ゆるやかに学校の先生とか、
毎日会わないにしても迎えのおばあちゃんとか、
でもなんかその、甘えるっていうことが重要で、
世間話をして仲良くなるとかじゃないんだろうなって思う。
もうちょっと一歩踏み込む感じですかね。
甘えるっていうのがどういうことか、僕よくわかってない気がしていて、
甘えるとは?
甘えるとは、どういうことですか?どうだろう。
どうなんでしょうね。
なんか要求があって、それを叶えてもらえるってことなのかな。
露骨にそれを表現するとか、大人ぶらないっていう、
自分とは何?自己に立ち返る
逆説的に大人ぶらないってことになると思うんですけど。
そういう意味で言うと、自分の両親とはあんまりそういう関係性がなかったんですけど、
おじいちゃんおばあちゃんと一緒に住んでたんですよ、小学校1年生からは。
で、おじいちゃんおばあちゃんには全力で甘えられてたような気がするな、僕は。
でもそんくらいしか思い当たる節はないな。
覚えてるわ、とよだくんの家でおばあちゃんがいたの。
覚えてる?覚えてる?
覚えてるよ。
いたね。
そうですよね。
うん、いらっしゃった。
小学校からの同級生だと、こういうところでもつながれる。
うん、そうっすね。
今、とよだ家の家が家の中歩いてる状態を思い返して。
1階に住まれてた。
しおくんとかはさ、常にあれでしょ、引っ越しとかしてたから、
おじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らすみたいなのはあんまりなかったのかね。
なかったね。だから常に一回会えたらいい感じ。
夏休みとかでちょっと長くいても1週間とか。
基本はそのお父さんお母さん兄弟で一パックみたいな感じで常に。
しかもうちは父親が単身赴任だったから結構長い間。
母親1人みたいな。さらに人少ないよね。
うん。
なるほどね。
甘えられてました?お母さんに。
なんかその、甘えられてたか、
どっかなんかこう、この本に書いてあった、なんかこう、いい子とか、
そういうのを割とやってたような気がするかなとは思いますね。
これ、この本読んでて。
なんかよく、なんだろう、結構いいご家庭のお母さんとかって、
もう自分の子供の教育しかもうやることがないから、
そこにすごい執着して、なんだろう、子供をちょっと歪ませちゃうみたいな話をよく聞くんだけど、
僕が見てる感じ、しおくん家のお母さんは、なんか全然そういう感じが、
僕は外から見てしなかったなーって感じはするね。
変になんか子供に執着してどうのこうのって感じには見えなかった。
直接的には全然そんなに、なんだろう、縛り付ける感じはなくて、
かなり自由にしてもらった。
なんかでも自分の母親とか自分の妹とかも、なんだろうな、
なんか特定のやっぱ条件が揃ってる時に、この不安型愛着スタイルが出るみたいなのはあり得るのかなーとか思った。
自分の例えば母親と自分の祖母、祖父か、との関係の間でなんか出るとか。
だから親が愛情をかけてないかいないかっていうのは全然関係なくて、
そのパズルの問題というか、タイミングと、何でしょうね、
そういうのがうまくいけば、そういう問題は起こらないけど、
若干そこが掛け違いがあったりすれ違いがあったりすると、
何だか不都合なことが起こってくるっていう感じなんだなーって思う。
あとこの本に書いてあった安全地帯を持ててるかみたいなとこですかね。
目を見て話す苦手さ
そういう、まあちょっとストレスがかかるのは関係があったとしても、
なんか逃げ場とか安全地帯があれば、何とか事なきを得るみたいな。
なかなかディープな話でしたね。そんなでもないか。
どうですか今のとこ、かなえんさんとしては、話したい範囲で話せてます?
あの、なんか。
最初から最後までこの話をするときはドキドキしてるんですけれど。
でも、なんか新しい気づきがすごいありました。
その、結局そのヒロさんがさっき言ってたその、
自分とは何?自己に立ち返るっていうこと?
自分と他人の境界線とか。
そこをどう認識してるかっていうところに立ち返るっていうのはすごい面白かったなって思うよ。
ちょっと2人聞いてみたかったのがね。
僕が、あの、他人と目を合わせて話すのがすごい苦手なんですけど、
2人ってできます?それっていうのをちょっと聞いてみたかった。
なんかさ、よくあの、話をするときは相手の目を見て話しなさいみたいなのってよく聞くんだけど。
なんか、うまくそれが自分ができなくって。
それ自分だけなのか、いや他の人はそれが別に普通にできるのか。
いや他の人もなんかちょっとそこに違和感を感じたりするのか、ちょっとそれがわかんなくって。
ちょっとその、外部情報というか、相対化したい。自分を相対化して、ちょっと見たいなと思って。
お2人ってどうかなって聞いてみたかったんだけど。
どうですか、かなえんさん。
私はガン見しますね。
ガン見する?あ、ほんと。
なんかそういうふうに教えられてきたですよ、まさにその。
だからそれで染み付いちゃっていて、逆にあの目を見てしゃべるね、どこでそらせばいいのかわかんない。
真逆ですね。
なんか最近その、そらし方をもうちょっと体得したいなって思って。
相手がこっちを見てない瞬間ってあるじゃないですか。
だからその瞬間だけはちょっと視線を顔の耳の方に、耳というか耳の方の向こう側、向こう側の景色に映して、なんか見そうだなって思うときまたバンって戻すみたいなことをやってみてはいたりするんですけど、
なんかずっと見るのもなんか逆に話しづらいんじゃないかなって思っちゃう。
しおくんどう?
あんまりだから面と向かって話す機会、今なんかパッと聞かれてあんまり意識してないなと思って。
普段だからどうなんだろう見てるのかな。
見てると思うんだけど、言わんとしてることはすごいわかる、とよだくんが。
で、多分そういう瞬間、なんかお互い面と向かってて、でこっちが相手の目を見てて、すごいなんかバチバチって敵対的になっちゃってるな、
目をちょっと反らそうみたいな、かなえんさんが言ってるようにちょっと見すぎだみたいな、なんかそういうのを考えてちょっと気まずいのを察知してる瞬間は思い出せるわけよ。
だから、多分普段は例えば横に並んで歩いてるとか、ちょっと90度でご飯食べてるとか、なんかそういうのを今思い返したのね、
最近誰か人と話してるとき何してるかなって、なんかこうちょっと円卓上で話してるとか。
180度対面でっていうのが、やっぱりそもそも、なんだろう、あれだよね、人間って本能的には多分そういうのあるんじゃなかったっけ、なんか面と向かってると敵対的になんかこう思っちゃうと。
だから自然なんじゃないかなと思ったけどね、正面で見れないっていうのは、なんか見にくいっていうか、なんかを感じるっていうのは。
半年前にさ、しおくんが日本に帰ってきたときに渋谷でご飯食べて、対面で食べて。
対面だったね。
あのときさ、俺目、こいつ目合わさねえなみたいなとか思わなかった。
あ〜なるほど。
あんまり気がつかない、そういうの。
ご飯食べてるから、まあそこはそんなに気がつかないっていうか。
でもなんか言われたら確かにそういうことかって思ったけどね、今。
この前さ、そうまさんと会って、ペアリングトークの収録したんですよ。
そのときも俺、目を見れなくてさ。
そのそうまさんの後ろ、斜め後ろにある壁をずっと俺見て、喋ってて。
なんだろうね、なんかこう。
それは嫌なの?でも。
うん。なんかね、嫌っていうかできなくて。
なんか相手の目を見るとさ、相手の感情みたいのがさ、多分感じ取って。
読み取れちゃう。
それで自分の心が動かされるみたいな感じがするよね。
例えばなんか、何か俺が言ったことによって相手の顔がちょっとこう歪むとか、
なんかネガティブな受け取られ方したなみたいなのを多分感じ取ると、
それで自分の心がこう、乱されるんだよね。
それが嫌だから、もう相手の顔を見ないみたいな、多分そういう方針を取ってるんじゃないかなと思って。
そういうのなんかあんまりないですか?
いや、その感覚自体はすごいあるなって思ってて。
やっぱり顔を見るって表情を見ると、なんか自分が言ってた、言おうとしてたその一定の気持ちではなくなる、
その顔の眉毛の動きとかで一瞬で、
なんかどういう風に受け取られたんだろうっていうのがやっぱり気になりだし、
始めると、もともと話そうと思ってた話題を突き通さない、
突き通していいものかみたいな感覚になったりするときはある気がしてて、
コーチングと目を見ること
もともと思っていたものと、やっぱり自分が揺れ動くところがあるから、
すごいそれは共感するし、
そういう意味で言うと横並びで山を歩いてるときとか、
散歩しているときとかのほうが会話がナチュラルな気がする。
そうな気がする。
でも私がなんで目を見てるかというと、小学校とか幼稚園で目を見て話しなさいって言われてたのを愚直に守ってるからと。
やりづらさは感じつつ自覚してるんですよ。自然なことだと思います。
やりづらさを感じても、やっぱりそこは我慢して相手の目を見るってことですか?
我慢してるっていう感じもないんですかね?
いや、なんか我慢してるときもあるし、あとはマインドとして、
例えば、たまにコーチングするときあるんですけど、人に。
コーチングって、その人の反応を見たりとか、
その人の気持ちを優先に受け取ろうっていうマインドで常にいるから、
そういうのを話題の中に取り入れると、
それすらなんだろう、それがベースというかナチュラルなことだから、
戸惑うことはないっていう感じ。
もともとのベースが何なのかによって、相手の反応を見たときの自分の反応が違う?
確かに。なんだろうな。今の話を聞いて思ったのが、
自分と相手がいて、相手のほうが立場が下だなみたいなふうに思ってたら、
なんかその方針は自分も取れるような気がする。
例えば自分の子供とか、自分の子供に対して目を合わせて話せないってことはないんですよ。
それは相手がどんな表情をしようが、100%こっちのほうが強いことはわかっているので、
相手がどう思おうが、別にそれに振り回される必要がないっていうふうに思えるので、
その方針は取れるんだけど、対等とか相手のほうがちょっと上というか、
そういう関係性だと僕目見れない気がするんだよね。
コーチングとかって、コーチングするってことは、
深層心理上はコーチングする人のほうがちょっと上から俯瞰して見てあげるみたいな、
そういう心理状態になるんじゃないかなと思っていて。
コーチングするときの感覚としてはレベルは一緒なんですけど、
多分今とよださんが言った、自分が結局その相手の反応を見て、
評価されるかみたいな、評価っていう言葉が適切なのかわからないんですけど、
自分が影響をそれに受けて、自分の行動とか感情がちょっと修正されるというか、
そういうことが伴うときが、やっぱり見れないくなる。
そうですね、そうですね。
かなえさん、僕もコーチングのトレーニングをとって、
言わんとしていることがわかる気がするんですけど、
コーチングで相手が、例えば動揺したとかだと、
それを感じ取って言葉にするとか、
それを踏まえた、今こういうことを思ったんですねって言語化してあげることがミッションの一つだったりするから、
それができること自体がいいことなんだよね、その場で、コーチングのセッション中。
だから別に上とか下とかじゃなくて、それにフォーカスしてるから、
それを感じれること自体がいいっていうマインドセットなんだよね。
コーチングのセッションの成功
なるほど。
だからとよだくんがこうやって目を合わせて、ちょっと反らしたと。
今結構言いづらいことを話したんですね、みたいなことを、
そういう言葉を使わなくても、今のはちょっとあんまり言いたくないことなんだとかを踏まえて、
言語化をするとか、そっちにちょっと話してみますっていうふうにできることが、そのセッションの成功で、
それがミッションになってるから、何だろう、自然にできるというか、
いいことと捉えられるっていうことだと思うんだよね。
うんうんうん、本当にそうです。
だからそう捉えられれば、ミッションだと思ったらとよだくんももしかしたらできるんじゃないかなとかね。
そうだね、そうだね、そういう心持ちになったらなんかできる気がする。
そう、いかに相手の細かい言葉以外の、
多分、流派とかにもよると思うんだけど、僕がやったのはレベル1のリスニング、レベル2のリスニング、レベル3のリスニングみたいなのがあって、
レベル1は、なんか相手が言ってるけど、僕も自分のことを考えている状態で、
レベル2は相手の言ってることをちゃんと受け止めると。
レベル3はもうそのオーラとか仕草とか全部を含めて感じ取るみたいな。
それは何?どこで習ってるの?
そのコーチングのトレーニングを受けると、僕の今まだ最初の段階だけど、
すごい習うというか練習してみるとか、そういうのをやりながら相手と会話をしていくとか、
それに基づいて、たとえば質問をしたりとかするっていうことをやる。
コーチングを今習ってるってこと?
かなえんさん。
私は、はい、前習ってた。
あ、そういうこと。ひろくんも習ってるの?
そうそう。その資格を取る一つの過程のトレーニングを受けて。
え?それはタレントプレナーとかじゃなくて、全然関係ないと。
コーチングのトレーニングについて
そうそう。違うやつ。
目的を別に持ってあげると、もしかしたら普段の会話も、
違う目的を持ちながら相手を目を見て話すことが達成できるかもしれない。
なるほどね。
なんか、うん、今それを言われて、なんかそれだったらできるような気がしてきたな。
うん。
なるほどな。
うん。
僕は話したいことはなしだよ。
お二人はなんかありますか?こんな感じで。
どうですかね?かなえんさんはなんか他に。
いやー、面白かったです。なんか、ミッションっていうキーワードがいいですね。
最後のやつ。
捉え方。
そうだね。
なんか今、ゲームソフトのカセットを入れ替えるみたいなイメージがパッと頭に浮かんで、
その時の自分のミッションがそれぞれ複数カセットみたいな感じであって、
それを臨機応変に差し替えることによって、
その駆動させるOSを変えるみたいな、都度都度、その状況に応じて。
うん。
なんかそれができるようになったらすごいいいなって思ったんだよね。
ミッションって言ってくれたのでパッと思い出たのは。
うん。
これができるようになりたいな。
とよだくんもだから、コーチングのトレーニング受けてみるといいかもしれない。
うん。そうそうそう。それどこで受ければいいんだろうなーっていうのもあってさ。
うん。
なんかちょっと教えてくださいお二人。
どこでどうやって勉強すればいいのか。
じゃあとよださんが学び始めたらみんなでコーチングをトライアングルで。
そうだね。
あ、トライアル?
お互いやり合う。
トライアングル。
あー、はいはいはい。いいですねいいですね。
やりましょうやりましょう。
結構面白いと思うよ。やっぱ一つのカセットとして、
コーチングっていう枠っていうのかな。そういうのを使えるようになる。
なんか切り札が増えてる感じ。
はいはいはい。
それいいなーと思った。
やっぱなんかそのカッコたる自分みたいなのをそこで持っちゃうと、
なんかそのカセットを入れ替えられないというか、
これしか、私はこれしかないんだみたいな感じになっちゃうと、
柔軟性がないというか。
自己の認識ですね。
確固とした自己があることが必ずしもいいわけではないのかもしれないなって思ったね。
なんかその状況に応じて多重人格的に使い分けられる方が、
柔軟性があっていいのかなと思った。
自分自身も生きるのが楽そうですよね。
そうそうそうですよね。
そんな感じ?
はい。
しおくんは?
僕も今回ちょっと振り返ってどうだったのか全然思い出せないというか、
どんなこと話したことになってるのかよくわかんない。
システム1で話してるから。
システム1だったのかな。
割と自分の経験というか、そんなに喋ってないけど喋ったような気もして、
なんかね、ちょっと普段あまり踏み込まないところを話してるような気もしなくもない。
なんかちょっとソワソワする感じ。
私もソワソワしてます。
ちょっと鎧を脱いで相まみえた感じがする?
いやでも本当にありがとうございます、かなえさん。
こちらこそすごい楽しい時間ありがとうございました。
はい。
またぜひまた参加していただいたり、お便りいただけたらすごい嬉しいです。
ぜひ。ありがとうございます。
なんか今度そのかなえんさんがやられるポッドキャストで、
我々もまたそちらに出させていただくとか、なんかそういう交流とかも。
続くようでしたら。
できたらいいなと思いました。
うまくいけた。
じゃあ、今日はそのとこですかね。
うん。
はい。
こんな感じかな。
はい。ありがとうございました、かなえさん。
ありがとうございました。楽しかったです。
ありがとうございました。