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グッドバイブス ミッドナイトラクザ
グッドバイブス ミッドナイトラクザ
by 倉園佳三
こんばんは、ただいま10月17日月曜日の3時36分ですね。
今日は久々に1日お休みでしてね。1日じゃないか、夜までお休みでして。
もうゆっくりしてたんですけども、一応ね、明日グッドバイブスファクトリーというコミュニティに配信するワークアウトがありまして、
今日のグッドバイブスというのを毎日書いてるんですけどね、平日日間ですかね。
これを夜一応書きまして、1時間強くらいかかるんですよね、だいたいね。
その後同じくこのファクトリー向けに配信している、毎週配信しているグッドバイブスTVという、
これは今回佐々木翔吾さんと対談した動画をね、撮ってまして、これを今編集してYouTubeにアップしているところかな。
これもまあ1時間弱。
そして、だから始めたのが1時過ぎだったのかな、だいたい。
で、この時間、ここからポッドキャストの収録。
休みと言えどもね、なかなかその1日何もしないでいられるっていうのはなかなか難しいのかもしれないですね。
まあそういうスケジュールを自分で作ってますんで、全然大丈夫なんですけどね。
昨日、この番組でもね、何回か告知させていただいた、今ここのボイストレーニングっていうのを双子新地というところのスタジオでやってきまして、
双子新地っていうのは双子多摩川の隣の駅でね、スタジオは双子多摩川からでも歩いて10分くらいなんですけどね。
なんか民家を改造して、1部屋をスタジオにしてあるんですよね。
おそらくだけど、たぶんそこに音台かなんかに行かれた方がいらっしゃって、
なんかね、ウッドベースとピアノが置いてあるんですよ。
だからウッドベースやってたんじゃないかなって感じがして、ウッドベース今貸し出しもしてくれるんですけどね。
だからなんかロカビリーバンドでウッドベースやってますみたいな人はそこ行くとね、ベースもっと行かなくても練習できるよみたいな。
別にロカビリーじゃなくていいんだけどね。ジャズでもクラシックでもいいんだけど。
だからその娘さんなのか息子さんなのかわかんないですけどね、卒業されてそこを使わなくなって歌詞スタジオに変えてるんじゃないかなみたいなそんな感じなんですよね。
とても綺麗な木目調の15畳ぐらいかな。そんなに広くないんだけど、このボイストレーニングをやるにはちょうど最適なスタジオでして。
今回で4回目になるのかな。もう過去に3回やって、それなりに毎回いいなと思うそういうイベントなんだけども、今回は特にちょっとヤバくてね。
変な言い方ですけど、ミラクルがたくさん起こった、そんな回でしたね。
なんていうのかな、今ここのボイストレーニングっていうのはもう本当にゴールは一つしかなくて、何もしないってことなんですよね。
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僕らは多分生まれながらに歌う能力を持っていると。だから考えたり何かをしようと演出したり、そういうことを一切しなければね。
なんだったらもうどこの筋肉をどうするかとか、その体に関しての意識も全部捨ててね、何も考えずに歌えばいいってこれだけを目指すんですよね。
考える内容っていうのが前回前々回でね、かなりみっちりお話しした過去と未来なんですよ。
歌を歌うときに僕らは歌い終わったフレーズを例えばもうちょっとこういう風に歌えばよかったなーみたいな後悔をしたりね。
サビでファルセットくるぞ、高いぞって未来を考えながら準備をしたりね。これを一切やめましょうと。
過去と未来を持たずに今ここで歌う。だから今ここのボイストレーニングなんですよね。
これをレクチャーしているとかお伝えしている私ですらね、どのくらいだろうな。
なんか今まで自分が1曲を歌った中で、この今ここで全部歌えたなんて経験は多分一度もないです。
すごい今日はやばいなっていうんで8割とかかな。8割5分ぐらい。
残りのやっぱりね15%ぐらいはどっかに行ってるんですよね。未来か過去にね。
だからやっぱりこの受講生の皆さんもさすがにこれを完璧にやるっていうのはなかなか難しいんだけども。
今回はですね皆さんちょっとこれいけたんじゃないのっていう感じの手応えがありましてね。
いろいろな経緯があってそうなったんですけど、その辺はねちょっと詳しくお話ししていると多分この番組一本分ぐらいになるんで。
それよりもね、何かなぜこれが難しいんだろうっていうところでね。
やっぱりこの番組でお話した過去と未来というのを当たり前にいつも背負ってっていうかね、持って暮らしていますから。
それをいきなり両方ないっていうことで考えないで今ここだけで歌ってくださいって言われるとやっぱりちょっと怖いんですよね。
過去も未来も私たちにとっては自分を身を守るためのね一つのそのバーチャルな時間なんだけども、そこを持っているからこそこの生きていられるみたいなねそんな感じの大事な防御になってますから。
ただこの歌を歌うこの瞬間だけそこを手放してもね本当は何の問題もないはずなんですよね。
何かを失ったり損なわれたりすることはないんだけどもやっぱりこの習慣なんですよね。
これが大きくてやっぱり怖い。だから僕もそのボイトレの中でねいつもお話しするんだけども、
まあ急水の舞台みたいなねそこに立ってますと。
そこから飛び降りなきゃいけないんだけど歌の場合は下には落ちないと。
今ここというとてもいいとこに連れてってもらえるんで。
ただそこにねポンと踏み出すためにはそこに何があるかっていうのが全く予想できないわからないっていうね。
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そこに本当に地面があるのかするともね何もなくて下に落っこちてしまうのかわからない。
そこがわからないんだけども歌を歌う中で多分だけど危険な目には合わないのでね。
パッと一歩飛び降りるような感じで踏み出してみてくださいっていうようなお話をするんだけど。
まあこれもねやっぱりその過去の経験によってね歌っていうのはねやっぱ僕らそのどうしてもこの人を意識してしまいますよね。
学校の授業でもやっぱり人が聴いていたし楽芸会とかね歌を披露するコーラス大会みたいな合唱大会かそういうのもあって。
なんかそのみんながみんな歌に関していい思い出を持ってるわけじゃないんですよね。
僕もそうでした。実は小学校2年の時にね若い女の先生だったと思うんだけど僕がその1曲歌ったらね何の歌か思い出されないんだけど。
なんかね自分ではねうまく歌えてるなーって感じでこう得意げに歌ったんですよね。
そしたらパンって終わった後に倉澤くんの歌はなんかお経みたいだねって言われたんですよ一言。
今でもこれを覚えているということはね過去はいらないとか言いつつね私はね覚えているということは多分だけどショックだったんでしょうね。
その証拠に私はそのそれ以来ねまあその話はなんか親にもした覚えがあるんだよね。
そしたらうちの母親がいやあんたオンチやけ昔からみたいなことを言って全く救いはないんだけど。
だから小学校3年4年ぐらいまでは僕は音楽も大っ嫌いでね成績もなんか2とかそのぐらいだったと思うんですよね。
でも音楽には無縁の人生をこれから送るんだろうなと。
こんななんかあの自分に嫌な思いをさせるジャンルには二度と足を踏み入れないぞとか思ってたんですけどね。
したらたまたまその小学校4年の時にですねうちの小学校にオーケストラがありましてしかも結構レベルの高いオーケストラで毎年上野の上野でなんかそういう大会が開かれてね。
全国大会にいつも行ってたんですよ上野のそこで金賞とかもねもらうようなそんなオーケストラでそこのねその指揮者の先生というか指導してた先生もその音楽の先生なんだけど。
ある時僕が4年生の時その人がその先生が音楽の担当になったんですよね。
で僕が歌って授業が終わったら倉園お前オーケストラ入れって言うんですよ。
後から知ったんだけどその人はそういうレベルの高いオーケストラなんでね。
なんか有志で子供たちはなかなか入りにくいんでそういう音楽の授業で一人一人こうこいつなんか良さそうじゃんってやつをねピックアップしてスカウトしてたんですよね。
なんか多分だけども彼が言うにはそのリズム感とか音程の良さみたいなそういうのを見てたらしいんだけどね。
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なんかそこで私がこう引っかかりましてねたまたまそれからオーケストラ4年生からトランペットをやるんだけどそこでね僕は復活できたんですよね。
なんか俺音楽いいじゃんっつってそれでまあそこから仕事にもしてしまうんだけどこんな風にこれはラッキーですよね。
1回その2年生でどん底に突き落とされてお経のようだと言われてそれでまた別の先生にね4年生で拾われるなんていうのはなかなかないでしょう。
だからおそらく僕もそのオーケストラの先生に出会っていなければこの年までね多分だけども自分は音楽は向いてないと歌もお経だと。
なんかあのあんまりお経を言うと失礼なんですけどね。
お経はねはっきり言って素晴らしいあのなんていうのかな声とメロディーなんですよ。
この前なんか東本願寺と西本願寺の争いが和解したみたいなねそういうドキュメンタリーを見たんですけどどっちだっけな確か東だったけど違うか西かなちょっと覚えてないんですけどそこの住職さんのお経は本当素晴らしかったですね。
そうそうだからそういうなんか例えですよこのお経ってのはね。
まあいいやそうなんですよだからそんな苦い思いで特にね歌音楽ってのはその体育と並んでねやっぱり苦い苦い思いを抱きやすい教科ですよね。
だからそれで例えばその私のボイストレーニングにやってきてね何も考えずに清水の舞台から飛び降りてくださいってなかなかやっぱ難しいですよね。
でまぁあの今回はそれをやってくださった方がたくさんいて本当になんていう歌なんだっていうのを聞けたんだけどもそれと同時にねやっぱりこの私が言うところの何もしない何も考えないそして今ここで歌うっていうこと。
これはまあ生活全般に歌だけじゃなくてねあのあるんだけどもこれをやるためにはやっぱりね一つ重要な条件というかね自分を信頼するっていう自分を信じるってこれができないとなかなか難しいだろうなと特に歌はそうですよね。
自分を信じるっていうねこれはやっぱなんか1日中そのやってる間中ねあの頭に浮かんできまして確か前にねあのこの番組で自分と他の人とこの世界を無条件に信頼するっていう話をしたんだけどねそこでも触れましたけども今日はちょっとこの自分というのに特化してね私この私を信じるにはどうすればいいんだとねあるいはそのこの私を信じるというのはどういうことなんだっていう
これをねちょっとお話ししてみたいなとそこで思ったわけですね。
でまぁどこから行くかというとこの信じ方という話なんですよ。
で僕らはねこの長い歴史この僕らはっていうのは多分あの私という意味よりも人類はみたいなもうちょっと長いスパンでね過去のどっかのその長い歴史のあるタイミングから何かを信じるためには根拠や証拠が必要っていうねそういうふうに考えるようになったんじゃないかなと思うんですねだからもっとずっと昔は多分この根拠や証拠とかっていうのと信じるっていうのはなんか別の話だったはずなんですよ。
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でもそうだねあの例えばその僕らはねこの僕らも人類はなんだけどもうこの過去の歴史の中でそのおかしな考えっていうのを根拠や証拠がなしにねもう盲信するっていうのかなこれでもうたくさんの悲劇を繰り返してきたんですよねきっとね例えば魔女狩りとかね宗教裁判とかそれからまあなんだろうあといわゆる戦争と呼ばれているものの中にはこの感じがやっぱ入ってますよね。
なんでか知らないけどよくわからないものを信じて突っ込んでいってしまうみたいなねこれを多分だけど僕らは妄想したんですよねこれじゃいかんとこんな愚行を繰り返してちゃダメだっていうんでもっと科学論理というかねそういう視点をしっかり持とうよというこれはとても大事なポイントだったと思うんですよね。
おそらくそこから僕らは人々はですね何かを信じるためにはまずは根拠証拠が必要なんだ今で言うとエビデンスとかって言葉がねちょっと前流行りましたけども順番で言うと信じる前に根拠証拠それをまず見ようよとそれが信じるに値するのであれば信じていいっていうこういう感じねこれがまあ一つは知的な信じ方賢い信じ方でもあるわけですよね。
その逆のその何の証拠もない根拠もないのにただただ妄信してしまうのはやっぱ馬鹿愚行だよねっていうそんな感じがね今この現代を生きている私たちの中にはありますよねだから当然だけども自分を信じるというテーマが目の前に来た時に僕ら証拠と根拠を探しに行くんですよねこれがやっぱりとても難しいんですよ。
この根拠と証拠っていうのはおそらく2つありますよね一つはまず結果自分がこれまでどんな結果を出してきたかどんな成果を残してきたかってことですよねこれがまあその学歴なのかそのいい会社に入ることなのかもしくはその会社に入ってどれだけの成績を残せたのかみたいな実績ですかねこれが私たちの信頼の根拠になる証拠になるっていうのが一つ目ね。
それから人が自分をどう評価してるかですよねこれも自分で多分で思い込むのは根拠証拠がないって感じになるんですよねこれは天狗とかね独りよがりとかってそういうふうにやっぱり思われてしまうだからこの2つがね見事にまあ同じですかね成果実績ってのは客観的ですから誰が見ても1位だよねとか誰が見てもいっぱい売ったよねみたいなねいい企画を出してそれがヒットしたよねみたいなね。
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もしくはもう名前が売れてるよねとかっていうねでもまあ2つに相手を挙げるとするとこの結果実績ともう一つは他人の評価なんですねこれを多分だけども僕らはその信頼自分を信頼する根拠証拠にしてるわけです。
まあまあそのいわゆる常識ですよね一般的にそのように見ることは全くおかしくない。
ただ僕はこれも自分でやってきて分かったことなんだけどもねこれはね終わりがない旅なんですよニワトリと卵みたいな話でどんどんどんどん繰り返されていくんですねというのは結果というのはいつもいい結果を出せるわけじゃない。
だから良い結果良い成績良い実績を出せているときはなんとなく自分を信じる信じる根拠っていうのを手にしているように感じる。
でも一度や二度それがねできない時っていうのがやっぱりあるわけですよ。
まあ中には絶対王者上昇みたいな人もいなくはないんだけどもでもいつか僕らはその結果を出せないっていう時代に直面するわけですね。
この時に僕らは証拠と根拠を失うわけです。一挙に失うわけです。一瞬にしてね失うんだよね。
ということはその時点でまた自信がほぼほぼゼロのとこまで落ちるんですよね。
これがねなんか100自信があって1回失敗したら90ぐらいにでとどまっといてくれないんだけど
なんていうのかな僕らのその自信というのはやっぱり自分で決めること自分の意思でそう思うことなので
この意思というのは根拠証拠を頼った瞬間にそれがゼロになるんですよ。やっぱり消えてしまうんですね。
1回の失敗で自信がゼロになってしまう。またやり直さなきゃいけないっていうね。
そしてその次にうまいこといい結果例えば僕がね4年生の時にオーケストラに誘われるみたいなことが待ち受けてくれてればいいんだけども
これが延々と来ないっていう時代っていうかね時を過ごさなきゃいけないっていうのもあるわけですよね。
その間ずっと自信は1ヶ月2ヶ月前までは100だったものがゼロになったまま僕はその自信のない自分と付き合わなきゃいけないわけ。
もう一つの人の評価はねこれはもう当てにならないんでね。
そうですよ。そこに委ねた瞬間にものすごいなんかもうギャンブルになりますよね。
たまたま僕の作品を気に入ってくれる人がいれば褒めてくれるだろうけどなんだこれグッドバイブスおかしいじゃんクソじゃんみたいな人が現れたら
そこに真剣に向き合えば僕の自信はやっぱりゼロになりましたね。面白いですよね。
そうするともしここに僕がその信頼の自信の根拠を置いたとしたらね。
例えばそのセミナーでまあアンケートとか取るんでしょうねきっとね。
それでどうでしたか点数つけてくださいみたいなね5点満点で2.5みたいなばっかだったらもうその1回でねもう僕は自信を失わなきゃいけないわけですよね。
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これもまあ客観的なのかもしれないんだけどもここに委ねるということですね。
ここに委ねるとどうなるかというと自信はキープすることは難しいですよね。
この結果と成績実績と全く同じことが起こる。
困ったことに自信がゼロになったら僕は取り戻さなきゃいけないんですよそれを。
そのままではね。
清水の舞台から飛び降りるように歌う歌うことができないのでね。
取り戻さなきゃいけないその道のりをですよ。
自信ゼロで歩まなきゃいけないってことになりますよね必然的にね。
自信満々結果残せてるよっしゃっしゃーってやれます。
でも1回失敗します。
そうすると自信がゼロに落ちます。
そこから戻さなきゃいけないその自分は絶対に自信を持った自分ではないんですよ。
だからやっぱりこのやり方っていうのは何ていうのかな無理ゲーな感じがしません?
なんかいつまで経ってもこの繰り返しで終わりがないしね。
そしてそのプロセスがものすごく不利になるみたいなそんな感じがするんですよ。
だから僕はこのね何ていうのか最初に言った信じ方の順番根拠証拠が先にあり
それを見た上で自分を信頼するかどうか決めるんだっていうこの順番がね
やっぱこの話には全く合わないような気がするんですよ。
でその証拠にね実は僕らはこの根拠や証拠がなしに自分を信じるっていうことを無意識のうちにやってるんですよ。
例えばねどれだけ練習しても自分がピアノを弾けるようになるというねこれを信じられなかったとしましょうね。
その人がピアノの練習をできますかっていう問いなんですよ。
どれだけ練習しようとピアノを弾けると信じられない自分がねその人はピアノの練習しますかね。
多分僕はそんなことができる人はこの世に一人もいないと思うんですよね。
だから僕らが例えば新しいスポーツに何かトライしてみようとか何か新しいことにチャレンジしようとする時にできるそれを始められるということはマラソンでも何でもいいんですよ。
フルマラソンやってみようかなと思いますよね。
そうするとそこから練習始めますよね。
いきなり42.195キロは走れませんからね。
だからやっぱり少しずつ距離を伸ばしていくんでしょう。
この時にですよ。
私はいつかフルマラソンを走れるだろうと全く信じられなかったらできないですよね。
やらないですよね。
だからおそらく僕らが手を出していないものって人生にたくさんあると思うんだけど。
例えば僕で言うとねなんだろうなバレーダンサーとかねそういうものに手を出してないのはできると信じてないからなんですよ。
受験勉強も実は僕はそうだと思うんですよね。
これは今は随分と偏差値とかデータの分析が進んでいてね。
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自分の学力だと何パーセントで合格するかみたいな数字が出ますから。
それなりの根拠と証拠は見ることができるんだけどね。
これだって100パーじゃないですよね。
実際僕は高校の受験で95パーセントぐらいの確率の模擬試験で叩き出していたんだけど落ちましたからね。
これは受験直後の半年間ぐらい女の子と遊びまくったからなんですがそれは置いておいて。
受験勉強できるということはねやっぱり心のどこかで志望校に受かるというある種の信頼を持っているはずなんですよ。
これはどれもね今言ったピアノマラソン受験証拠一個もないですよね。
始める前に未来予想ビジュアルみたいなのがバンと見せられてね。
あくなさのさん安心してください。
あなた練習すればピアノ弾けますから。
ほらこれが未来の姿ですとかね。
これがフルマラソンでテープを切っている姿です。
志望校も合格してますよとかって見せてもらえるわけじゃないんだから。
この証拠というのはもうそれしかないですからね。
だから僕らはこれ順番逆に信じてるんですよ。
面白いですよね。
あれだけ根拠証拠エビデンスがないのに信じるやつはバカだと。
そんなの危ないと言って意味嫌っていたのに。
僕らは何かを始めるときには自然とそれをやってるんですよ。
ということはね。
ここで自分を信じるっていうことの目的っていうのが僕ははっきりするんだろうなと思うわけね。
ここに思いを発した瞬間になぜ僕らは自分を信じた方がいいのか。
分かんないですけど道徳とか倫理みたいなそういう中でこれを捉えると
ちょっと目的がぼやけますよね。
自分を信じなさいっていう。
なぜっていうここがよく分からないですよね。
いい人になるからとかね。
その方が幸せな人生を送れるからとかっていう目的がやっぱりあやふやだから
ここの大切さっていうのがちょっと僕らに実感できないんだろうなっていつも思うわけです。
この手の話はね。
僕はこの自分を信じる目的は一つしかないなと思ってるんですよ。
実はね。
これが今お話ししたピアノマラソン受験これを実現するための土台を作るってことですよ。
信じられなければ何をまだ見ていない自分ですよ。
ピアノが弾ける自分見ていないですよね。
始める前は想像をするぐらいしかできないんだけど
見てみることはできないんです。
そしてそれが自分がね。
例えば華麗にこうね。
ショパンの曲をバーッと弾きこなしてるこの感覚がどんなものかも知らないわけです。
フルマラソンのテープを切る。
もしくはその20キロぐらい走った時に自分がどうなってるかとかね。
どこまで疲労してどのぐらい疲れてるんだとか足がどのぐらい痛いんだとか分からないわけですよ。
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その状態で僕らがまだ見てもいないそして理解もしていないものを先に信じる。
それによってやりたいと思ったことが実現する土台ができるんですよ。
これがなければおそらくだけど僕らはゼロから何かを作ったりね。
ゼロから何かを始めたりすることはできないだろうなと思うんです。
そして僕らはそれがそういうふうにそんな仕組みになってるってことを心の奥底で知ってるんですよ。
だから思いっきり意識はしてないんです。
思いっきり意識はしないんだけどもうっすらとちゃんと信じてるんですよ。
できるねってこれきっとできるよねっていう。
これはさっきの科学的論理的な信じ方とは真逆なんですよ。
繰り返しますけどもね。
先に根拠証拠があって信じるのではなくて先に信じるというこの信念が先に発生するわけですね。
自分の中にあるわけです。
信じるという。
そしてその信念が土台になってこの上に自分がやりたいことそれが実現していくっていう形になっている。
結果が後からくるんですよね。
この根拠証拠みたいなのは信じた後についてくる。
もっと言うとこの信じるという土台の上にしかこの結果が現れないっていう逆になってるんですよ。
だからね僕らがその長い歴史の中で学んだ根拠証拠の大切さみたいなのは謙虚に受ける。
これは謙虚に受け入れましょう。
これからもねおそらくそこをしっかりと見ていないとおかしなことになるというのは事実でしょう。
でもこの自分の信じ方ここなんですよね。
自分の信じ方だけはここが逆にならざるを得ないってことなんですよ。
そしてこの根拠も証拠もなしに見たことも聞いたこともない。
味わったこともない自分の姿を信じられるというね。
こうなるはずだと信じられるというこれが僕らの才能というか能力のとても大きな能力なんだろうなと思うわけです。
おそらく私緑の本でグッドバイブすごきげんな仕事で私たちはみんな想像力を持っているというふうに書いたんですね。
何かをすれば何かが作られる。
それはですねおそらくこの土台の上にあるんだと思います。
これがきっと僕が動くと生まれるよねこの世に誕生するよねこれを作ることができるよね。
この歌が歌えるよねっていうこの信念ですかね。
これはいつもですね結果よりも先に発生するんですよ。
そしてそれをかなりリアルにね信じることができるから多分僕らはその先の結果というのが出せるんだろうなと思うんですね。
つまり僕らは自分を信じる方法というのは一つしかないんです。
無条件に今ここでこれでいいって信頼するとこれしかないんですよ。
でまたここに来ると最初に戻っちゃいますよね。
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じゃあどうすれば信頼できるのっていうね。
ここで根拠や証拠を探すのはやめましょう。
そうするとねさっき言ったようなその堂々巡りになります。
結果は出せなければ信頼はゼロになる。
その結果を見委ねてしまうとその第三者によってギャンブルのようにそこが移り変わってしまう。
これをやめましょう。
僕はねまあこれもう本当にもう方法はないって言った方が本当はいいのかもしれないですよね。
方法なんかないよ無条件で信頼しよう。
はい終わりの方がもしかしたら効果はあるのかもしれない。
でもなんとなくねもうあのいろんな方とこの話をしてくる中でねやっぱりそれじゃきついんだろうなぁというのがあって
カラオジでね2つ見つけたんですよね。
一つはねこれはとても単純な話。
これはでも割と効くんじゃないかと僕は思ってるんだけど。
自分に親がいるとしますがね。
その親にねあなたは心配されたいですか信頼されたいですかっていう問いなんですよ。
この場合ね自分を信じるという場合は自分自身がその親の役割になるんだよね。
この私というものを信じるこのもう一人の私これが親だとしましょうとね。
僕らは信頼してない信じていない時何してるかって言ったら間違いなく心配してるんですよ。
これじゃダメだとこのままじゃいかんつって心配してるのね。
だからこれやれやれやれとかここもやんなきゃこれもこんな風に努力もしなきゃまだまだ足んないぞみたいなことで追い込むんだけども
それは心配している保護者の視線ですよね。
これを向けられると僕らはどうなるかというとやっぱりものすごい弱くなるんですよね。
心配されてますから。
多分なんかこう病弱な感じになるようなその方向に多分行きますよね。
あなたは外出ちゃいけないと走っちゃダメだみたいな感じになるわけだから。
そうじゃなくてOK信頼してるよっていうこのもう一人の自分がね自分自身に言った場合どうなるかというとその真逆の効果が多分生まれるんですよ。
だからこれも一つの考え方としてはねそうかそうか心配してる自分とこの信頼してる自分っていうのがいつもいつも二人出てくるんだなと。
どっちがいいんだよって言ったらもうこれは信頼の方がいいに決まってますよね。
このなんていうのかな捉え方っていうのは一つシンプルですけどもなんかこうその逆の選択がない感じ。
心配するというのはなんかやめてもいいのかなっていう感じがしますよね。
まあ信頼したからといってここはもういつもねこうなんかこう誤解されやすいところなんだけども僕らはなんか自分自身を信頼するともうなんか努力もね精進もしなくなるみたいな風に思ってるんですよね。
これもさっきのその信頼と心配のどちらって考えた時に僕は心配されてる方がなんもしなくなっちゃうんじゃないかなとかできなくなっちゃうんじゃないかなって気がするんですよ。
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でおそらくだけどもどれだけ心配しようとねどれだけ信頼しようとこれ以上というかね自分ができる以上のことはできないのでマックスできればいいわけじゃないですか。
その時にどちらがそのマックスできる自分が出現するかということですよね。
これ一点で僕はなるほどなかなか難しいけどやっぱり信頼するという方向に舵を切ってみようかなというふうに思えるかなと思います。
それから2番目はですねえっと僕らはその日々活動するとねさっき言ったその根拠証拠にしようとしている結果実績成績みたいなのを残していくわけですよね。
でこれを僕はね表現と呼んでるんですよ。
僕らがその行動をすることによって何かを表現していると。
でこれがまあ私であればねこのポッドキャストの番組であったりブログの文章であったり本の文章であったりもしくはセミナーでするお話だったりボイストレーニングであるそのレクチャーだったりするわけね。
で皆さんも例えばその職場でね日々その仕事の結果アウトプットっていうのを出してるはずなんですね。
このアウトプットは表現なんですよ。
これは私自身ではないというここです。
ここをしっかりと見分けておくことですよね。
なんていうのかなそのさっきの子供の頃の音楽の授業でもそうですけども私はそのお経みたいな歌だねと言われたことでなんか自分を否定された感じを多分持ったと思うんですよね。
仕事でもそうですよね。
何か一つミスを見つけられるもしくは企画がいまいちだと言われる私といえばなんか番組の視聴率がどんどん落ちていくこれこれを私自身がダメ出しを食らったというかね自分という人間が否定されたっていう風に捉えてしまうとなかなかその自分を信じるっていうことは難しいでしょうね。
僕はこれ全く違うと思ってるんですね。
これね例えば例えるならばねその中学の時にクラスで1位の成績を取っていましたとねこれを1位の成績と自分というのを完全に混同してしまうとこのクラスで1位を1位学校でもいいや学年にしておきましょうか学年で1位だと相当すごい自分というのが現れますよね。
一体化してますからこの成績とでこの自分が新学校に行ってそうすると高校ではもうそんなのゴロゴロいてなんと学年で中の下ぐらいにも入らないような順位になってしまったって時に僕らは自分を自分がダメになったっていう風に思うじゃないですか。
でも私は変わってないですよねどこも変わってないですよね同じ自分がある中学に行きそしてその次にまた別の高校に行ったっていうだけの話でねたまたま私の表現アウトプットとしてのそのテストの成績が中学では学年1位だったけど高校では中の下だったっていうだけの話で私は何も変わってないんですよ。
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これ例えば仕事でもねなんか前の上司とすごく相性が良くてその僕も僕をすごく買ってくれてたとだから彼の元ではすごい活躍できたんだけどその上司がいなくなり新しい上司が入ってきたらなんか合わなくていつもクラザの何やってんだと怒られるとここでなんか自分がダメになったっていうことは思いがちなんだけど関係ないですね変わってないですよね。
たまたまその上司との相性によって僕のアウトプットが何かなかなかうまく出せなかったっていうだけの話だからここでねまあその状況の中でねもうちょっといい成績を取ろうとかまあこの上司ともこの上司とのコンビでもいい結果を出したいと思うのは構わないんだけどもそれはあくまで表現の話なんですよ。
人格私自身の存在というものは何も変わっていないっていうここをねだからそのまさにやっぱり最初の証拠を持って証拠根拠を持って信じようとするやり方だとここに全部持ってかれちゃうんですよね私のアウトプットが私自身であるというそんな風な多分間違った認識を持ってしまうんじゃないかなと私は思うわけです。
こんなことをやってたら例えば私のようなねコンテンツクリエーターなんて生きていけないですよ本当にヒットする時もあれば全然売れない時もある作品にダメ出しをされる時もあればね絶賛される時もあるこの自分は変わってないっていうこの立ち位置をしっかりと持つことが重要ですよねそうしないとさっき言った通り落ち込んだら私はダメなんだコンテンツクリエーターとしていい作品を作ろうとしなくちゃいけないこんな不利なことはないです。
あたまたま今回のアウトプットはイマイチだったんだねよし次だっていうねこの感じで十分なんですよねだからこの2番目ね簡単に言うとその表現と自分自身の存在ここをしっかりと切り分けておくっていうことです
まあこれもあの心としてはねやっぱり衝撃ショックを受けるんでなかなかそうなんつーの簡単にいくような話ではないんだけどもでもここで自分自身の自信とかね信頼を失う必要はないっていうことですむしろ逆です
いいアウトプットを出せなかった時ほどねこの信頼をちゃんとしっかりと保つということここに注力しなきゃダメですよねさっき言ったようにこれから何か一つ一つ仕事をしていくそれは多分だけどもゼロから何かを作っていくことです
この時に土台となってくれるのは多分できるよね多分いけるよねっていうこの感じなんですよねこの信頼これを土台にして僕らはその上に結果を出していくというだからアウトプットと自分自身をしっかりと切り分けるっていうことですね
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でこの時のじゃあ自分自身はなんだっていうねそのアウトプットはわかるよといい悪いがはっきりするよねと自分自身はなんだっていうことなんですよねこれなんつーのかな一見ねその真証拠も根拠もないのに自分を信頼するっていうのはすごく傲慢な感じがすると思うんですよね
でも僕は今言ったようにここにそのアウトプットとか表現というのを盛り込まないそこをしっかり切り離す切り離した時に僕という人間が一人ポカッと残るわけですこの私ははっきり言って人が作ったもんじゃないんですね
誰が作ったかよくわからない多分宇宙の死んだ万象が作ったんですよ私たちではないものが作ったことは間違いないんですねこれをその取り上げて信じるか信じないかみたいなこともしくはここに価値があるかないかっていうのを判断する方が傲慢だと僕は思うのね
何を根拠にそんなことを言えるのっていうね多分わからないんですよ何に作られたかもわからない天然のものをね僕らの価値基準価値判断その証拠エビデンスみたいなものを持ち出してきて価値があるとかないとか本当は言えるはずがないんですよね
例えば猫を飼っている人がいます犬を飼っている人がいますね2人が会いましたと街でね私は猫の方が犬より価値が高いと思うわっていやいやいや猫より犬でしょうだっていうこと聞くしかしこいじゃんみたいな話は全くおかしな話じゃないですか
成り立たないですよねあるいはその動物よりも魚の方が劣ってるとかね植物の方が劣ってるみたいな話も全くナンセンス植物はこのなんていうのかなこの生き物の中でね最も価値が高いと思ってる人もいますよねきっとねもっと言えばもう微生物こそ最高だみたいなことを感じる人もいると思うんですよ
多分ねこの時僕らは何を見てるのかってことなんですよね僕はなんかねこう生命みたいなものなんじゃないかって思うわけです生きているってことですね生命の価値生きていることの価値ここを信じるってことなんですようんだって生きていれば何かができるじゃないですかねえなぜ犬と猫の価値が同じなのか生きてるっていう上では等価値なんですよ植物も微生物も多分同じなんですよ
生きているから価値がこれでいいんじゃないかなって気がするんですよねこれ以上何かそこにエビデンスとかね証拠とか根拠とかを求める必要は自分も信じるという意味においては全く必要がない私は生きてるよねと他にどんなものが生きてるってこう世界を見渡すのね犬がいるね猫がいるねこの生き物たちを僕は価値あるものと見ることができるよねと多分見ることができると思うんですよ
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そして植物がいて木が生えてると価値がありそうだねえと僕らの体内にはそのゴマンとねそのウイルスや細菌みたいなものがいる菌がいるわけでしょこれもそれぞれに生きて働いて僕らを生かしてくれてるわけですよね
こんな感じですよ多分生命の価値生きていることの価値これで十分じゃないかここを人が判断しようとする方がよほど傲慢だと思うんですよねそしておそらく僕らのその生きている生命というのかなここはなかなかその自分で意識することは難しいんですけどもねこの生命がですねさっきお話ししたねその科学の信じ方とは逆の信じ方
先に信じそしてそれを土台にして自分が実現したいものを結果として出現させるっていうねこの仕組みを知っているのが私たちのこの生命なんじゃないかとだから生命力を弱くしてはいけないんですよね自分を信じないと決めた瞬間から僕らの中からねこの生きる力が少しずつ失われていくとこれをやめましょうという話なんじゃないかなっていう風に私は思いますね
だからまあその意味ではね私のやっているこの今ここのボイストレーニングっていうのは信じるゲームみたいなねまあ歌というまあそれほどなんつーのかな人生に影響しないしかもその3時間で終わってしまうというねその誰にも見せないその受講者の中だけで歌うこの歌の中で信じるっていうことをトライしてみるっていうまさに信じるゲームってかなそんな風にこれから捉えていただければいいのかなという風に私もそんな風に
やっていこうかなと思います今日はこんな感じですかね で告知はですねあの書き上げ塾これをちょっとやらせていただきたいなぁと思います
そういう意味ではねまさに今日お話しした私はかけるんだとね まあ本一冊なんですけどね
今書き上げ塾の一つのゴールはね本一冊を書き上げることができるっていうね この信頼みたいなものは当然必要ですよね
それからもう一つとても重要なポイントでね 誰に届けるかっていうのがありまして書き上げ塾はねなんかこう日記のような文章を書くわけ
ではなくて誰かに読んでもらう本ってのはそういうもんですからね なんかこう自分の人生を共有してもらう相手それが読者なんですけども
この人たちを信じるっていうことができないとなかなか文章ってのはうまく書けないんですよ ね
どうしてもその自分をつくろったりね必要以上に何か余計なことをたくさん説明してしまったりね そういうことをせずに淡々と見てきたもの聞いてきたものをね
こう描写していくとそれを見た読者はおそらくだけでも私と同じ 感覚というかな気持ちを理解してくれるだろうとそういう気持ちをわかってくれるだろうっていう
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ねこの信頼みたいなのが非常に重要なんですよ だからまあそれをまあ細かくね執筆の技術としてお伝えするんだけども
本質というのはねここにあるんですね自分を信頼し読者を信頼するというね まあなんかアバウトな話なんですがそういうものを体験したいなと
そして同時にね文章力を上げたいなと思う方はこれ確実にうまくなるのはもうあの 今回第7期なんですよね
もう実証私はされてるまさにここにはここには根拠と証拠があるからと だから信じていって言う話が全く逆さまになってますけども
こういうことなんでしょうねおそらくねでもそれを実践するためには今日お話ししたね 全く根拠証拠がない状態で自分が本一冊を仕上げていると
この光景を信じるということが重要なんですね まあそんなことを体験したいなと思う方はぜひお申し込みください
11月中旬の開講ですのでねまだ間に合います 6ヶ月もしよろしかったらご一緒させてください
そんな感じですかねうんじゃあ今日はもうこれしかないですよね 自分も無条件で信頼してバカでもいいから
自分を無条件で信頼していい1日をお過ごしください ありがとうございます