グッドバイブス ミッドナイトラクザ
グッドバイブス ミッドナイトラクザ
by 倉園佳三
こんばんは、ただいま10月17日月曜日の3時36分ですね。
今日は久々に1日お休みでしてね。1日じゃないか、夜までお休みでして。
もうゆっくりしてたんですけども、一応ね、明日グッドバイブスファクトリーというコミュニティに配信するワークアウトがありまして、
今日のグッドバイブスというのを毎日書いてるんですけどね、平日日間ですかね。
これを夜一応書きまして、1時間強くらいかかるんですよね、だいたいね。
その後同じくこのファクトリー向けに配信している、毎週配信しているグッドバイブスTVという、
これは今回佐々木翔吾さんと対談した動画をね、撮ってまして、これを今編集してYouTubeにアップしているところかな。
これもまあ1時間弱。
そして、だから始めたのが1時過ぎだったのかな、だいたい。
で、この時間、ここからポッドキャストの収録。
休みと言えどもね、なかなかその1日何もしないでいられるっていうのはなかなか難しいのかもしれないですね。
まあそういうスケジュールを自分で作ってますんで、全然大丈夫なんですけどね。
昨日、この番組でもね、何回か告知させていただいた、今ここのボイストレーニングっていうのを双子新地というところのスタジオでやってきまして、
双子新地っていうのは双子多摩川の隣の駅でね、スタジオは双子多摩川からでも歩いて10分くらいなんですけどね。
なんか民家を改造して、1部屋をスタジオにしてあるんですよね。
おそらくだけど、たぶんそこに音台かなんかに行かれた方がいらっしゃって、
なんかね、ウッドベースとピアノが置いてあるんですよ。
だからウッドベースやってたんじゃないかなって感じがして、ウッドベース今貸し出しもしてくれるんですけどね。
だからなんかロカビリーバンドでウッドベースやってますみたいな人はそこ行くとね、ベースもっと行かなくても練習できるよみたいな。
別にロカビリーじゃなくていいんだけどね。ジャズでもクラシックでもいいんだけど。
だからその娘さんなのか息子さんなのかわかんないですけどね、卒業されてそこを使わなくなって歌詞スタジオに変えてるんじゃないかなみたいなそんな感じなんですよね。
とても綺麗な木目調の15畳ぐらいかな。そんなに広くないんだけど、このボイストレーニングをやるにはちょうど最適なスタジオでして。
今回で4回目になるのかな。もう過去に3回やって、それなりに毎回いいなと思うそういうイベントなんだけども、今回は特にちょっとヤバくてね。
変な言い方ですけど、ミラクルがたくさん起こった、そんな回でしたね。
なんていうのかな、今ここのボイストレーニングっていうのはもう本当にゴールは一つしかなくて、何もしないってことなんですよね。
僕らは多分生まれながらに歌う能力を持っていると。だから考えたり何かをしようと演出したり、そういうことを一切しなければね。
なんだったらもうどこの筋肉をどうするかとか、その体に関しての意識も全部捨ててね、何も考えずに歌えばいいってこれだけを目指すんですよね。
考える内容っていうのが前回前々回でね、かなりみっちりお話しした過去と未来なんですよ。
歌を歌うときに僕らは歌い終わったフレーズを例えばもうちょっとこういう風に歌えばよかったなーみたいな後悔をしたりね。
サビでファルセットくるぞ、高いぞって未来を考えながら準備をしたりね。これを一切やめましょうと。
過去と未来を持たずに今ここで歌う。だから今ここのボイストレーニングなんですよね。
これをレクチャーしているとかお伝えしている私ですらね、どのくらいだろうな。
なんか今まで自分が1曲を歌った中で、この今ここで全部歌えたなんて経験は多分一度もないです。
すごい今日はやばいなっていうんで8割とかかな。8割5分ぐらい。
残りのやっぱりね15%ぐらいはどっかに行ってるんですよね。未来か過去にね。
だからやっぱりこの受講生の皆さんもさすがにこれを完璧にやるっていうのはなかなか難しいんだけども。
今回はですね皆さんちょっとこれいけたんじゃないのっていう感じの手応えがありましてね。
いろいろな経緯があってそうなったんですけど、その辺はねちょっと詳しくお話ししていると多分この番組一本分ぐらいになるんで。
それよりもね、何かなぜこれが難しいんだろうっていうところでね。
やっぱりこの番組でお話した過去と未来というのを当たり前にいつも背負ってっていうかね、持って暮らしていますから。
それをいきなり両方ないっていうことで考えないで今ここだけで歌ってくださいって言われるとやっぱりちょっと怖いんですよね。
過去も未来も私たちにとっては自分を身を守るためのね一つのそのバーチャルな時間なんだけども、そこを持っているからこそこの生きていられるみたいなねそんな感じの大事な防御になってますから。
ただこの歌を歌うこの瞬間だけそこを手放してもね本当は何の問題もないはずなんですよね。
何かを失ったり損なわれたりすることはないんだけどもやっぱりこの習慣なんですよね。
これが大きくてやっぱり怖い。だから僕もそのボイトレの中でねいつもお話しするんだけども、
まあ急水の舞台みたいなねそこに立ってますと。
そこから飛び降りなきゃいけないんだけど歌の場合は下には落ちないと。
今ここというとてもいいとこに連れてってもらえるんで。
ただそこにねポンと踏み出すためにはそこに何があるかっていうのが全く予想できないわからないっていうね。
そこに本当に地面があるのかするともね何もなくて下に落っこちてしまうのかわからない。
そこがわからないんだけども歌を歌う中で多分だけど危険な目には合わないのでね。
パッと一歩飛び降りるような感じで踏み出してみてくださいっていうようなお話をするんだけど。
まあこれもねやっぱりその過去の経験によってね歌っていうのはねやっぱ僕らそのどうしてもこの人を意識してしまいますよね。
学校の授業でもやっぱり人が聴いていたし楽芸会とかね歌を披露するコーラス大会みたいな合唱大会かそういうのもあって。
なんかそのみんながみんな歌に関していい思い出を持ってるわけじゃないんですよね。
僕もそうでした。実は小学校2年の時にね若い女の先生だったと思うんだけど僕がその1曲歌ったらね何の歌か思い出されないんだけど。
なんかね自分ではねうまく歌えてるなーって感じでこう得意げに歌ったんですよね。
そしたらパンって終わった後に倉澤くんの歌はなんかお経みたいだねって言われたんですよ一言。
今でもこれを覚えているということはね過去はいらないとか言いつつね私はね覚えているということは多分だけどショックだったんでしょうね。
その証拠に私はそのそれ以来ねまあその話はなんか親にもした覚えがあるんだよね。
そしたらうちの母親がいやあんたオンチやけ昔からみたいなことを言って全く救いはないんだけど。
だから小学校3年4年ぐらいまでは僕は音楽も大っ嫌いでね成績もなんか2とかそのぐらいだったと思うんですよね。
でも音楽には無縁の人生をこれから送るんだろうなと。
こんななんかあの自分に嫌な思いをさせるジャンルには二度と足を踏み入れないぞとか思ってたんですけどね。
したらたまたまその小学校4年の時にですねうちの小学校にオーケストラがありましてしかも結構レベルの高いオーケストラで毎年上野の上野でなんかそういう大会が開かれてね。
全国大会にいつも行ってたんですよ上野のそこで金賞とかもねもらうようなそんなオーケストラでそこのねその指揮者の先生というか指導してた先生もその音楽の先生なんだけど。
ある時僕が4年生の時その人がその先生が音楽の担当になったんですよね。
で僕が歌って授業が終わったら倉園お前オーケストラ入れって言うんですよ。
後から知ったんだけどその人はそういうレベルの高いオーケストラなんでね。
なんか有志で子供たちはなかなか入りにくいんでそういう音楽の授業で一人一人こうこいつなんか良さそうじゃんってやつをねピックアップしてスカウトしてたんですよね。
なんか多分だけども彼が言うにはそのリズム感とか音程の良さみたいなそういうのを見てたらしいんだけどね。
もしくはもう名前が売れてるよねとかっていうねでもまあ2つに相手を挙げるとするとこの結果実績ともう一つは他人の評価なんですねこれを多分だけども僕らはその信頼自分を信頼する根拠証拠にしてるわけです。
まあまあそのいわゆる常識ですよね一般的にそのように見ることは全くおかしくない。
ただ僕はこれも自分でやってきて分かったことなんだけどもねこれはね終わりがない旅なんですよニワトリと卵みたいな話でどんどんどんどん繰り返されていくんですねというのは結果というのはいつもいい結果を出せるわけじゃない。
だから良い結果良い成績良い実績を出せているときはなんとなく自分を信じる信じる根拠っていうのを手にしているように感じる。
でも一度や二度それがねできない時っていうのがやっぱりあるわけですよ。
まあ中には絶対王者上昇みたいな人もいなくはないんだけどもでもいつか僕らはその結果を出せないっていう時代に直面するわけですね。
この時に僕らは証拠と根拠を失うわけです。一挙に失うわけです。一瞬にしてね失うんだよね。
ということはその時点でまた自信がほぼほぼゼロのとこまで落ちるんですよね。
これがねなんか100自信があって1回失敗したら90ぐらいにでとどまっといてくれないんだけど
なんていうのかな僕らのその自信というのはやっぱり自分で決めること自分の意思でそう思うことなので
この意思というのは根拠証拠を頼った瞬間にそれがゼロになるんですよ。やっぱり消えてしまうんですね。
1回の失敗で自信がゼロになってしまう。またやり直さなきゃいけないっていうね。
そしてその次にうまいこといい結果例えば僕がね4年生の時にオーケストラに誘われるみたいなことが待ち受けてくれてればいいんだけども
これが延々と来ないっていう時代っていうかね時を過ごさなきゃいけないっていうのもあるわけですよね。
その間ずっと自信は1ヶ月2ヶ月前までは100だったものがゼロになったまま僕はその自信のない自分と付き合わなきゃいけないわけ。
もう一つの人の評価はねこれはもう当てにならないんでね。
そうですよ。そこに委ねた瞬間にものすごいなんかもうギャンブルになりますよね。
たまたま僕の作品を気に入ってくれる人がいれば褒めてくれるだろうけどなんだこれグッドバイブスおかしいじゃんクソじゃんみたいな人が現れたら
そこに真剣に向き合えば僕の自信はやっぱりゼロになりましたね。面白いですよね。
そうするともしここに僕がその信頼の自信の根拠を置いたとしたらね。
例えばそのセミナーでまあアンケートとか取るんでしょうねきっとね。
それでどうでしたか点数つけてくださいみたいなね5点満点で2.5みたいなばっかだったらもうその1回でねもう僕は自信を失わなきゃいけないわけですよね。
これもまあ客観的なのかもしれないんだけどもここに委ねるということですね。
ここに委ねるとどうなるかというと自信はキープすることは難しいですよね。
この結果と成績実績と全く同じことが起こる。
困ったことに自信がゼロになったら僕は取り戻さなきゃいけないんですよそれを。
そのままではね。
清水の舞台から飛び降りるように歌う歌うことができないのでね。
取り戻さなきゃいけないその道のりをですよ。
自信ゼロで歩まなきゃいけないってことになりますよね必然的にね。
自信満々結果残せてるよっしゃっしゃーってやれます。
でも1回失敗します。
そうすると自信がゼロに落ちます。
そこから戻さなきゃいけないその自分は絶対に自信を持った自分ではないんですよ。
だからやっぱりこのやり方っていうのは何ていうのかな無理ゲーな感じがしません?
なんかいつまで経ってもこの繰り返しで終わりがないしね。
そしてそのプロセスがものすごく不利になるみたいなそんな感じがするんですよ。
だから僕はこのね何ていうのか最初に言った信じ方の順番根拠証拠が先にあり
それを見た上で自分を信頼するかどうか決めるんだっていうこの順番がね
やっぱこの話には全く合わないような気がするんですよ。
でその証拠にね実は僕らはこの根拠や証拠がなしに自分を信じるっていうことを無意識のうちにやってるんですよ。
例えばねどれだけ練習しても自分がピアノを弾けるようになるというねこれを信じられなかったとしましょうね。
その人がピアノの練習をできますかっていう問いなんですよ。
どれだけ練習しようとピアノを弾けると信じられない自分がねその人はピアノの練習しますかね。
多分僕はそんなことができる人はこの世に一人もいないと思うんですよね。
だから僕らが例えば新しいスポーツに何かトライしてみようとか何か新しいことにチャレンジしようとする時にできるそれを始められるということはマラソンでも何でもいいんですよ。
フルマラソンやってみようかなと思いますよね。
そうするとそこから練習始めますよね。
いきなり42.195キロは走れませんからね。
だからやっぱり少しずつ距離を伸ばしていくんでしょう。
この時にですよ。
私はいつかフルマラソンを走れるだろうと全く信じられなかったらできないですよね。
やらないですよね。
だからおそらく僕らが手を出していないものって人生にたくさんあると思うんだけど。
例えば僕で言うとねなんだろうなバレーダンサーとかねそういうものに手を出してないのはできると信じてないからなんですよ。
受験勉強も実は僕はそうだと思うんですよね。
これは今は随分と偏差値とかデータの分析が進んでいてね。
その状態で僕らがまだ見てもいないそして理解もしていないものを先に信じる。
それによってやりたいと思ったことが実現する土台ができるんですよ。
これがなければおそらくだけど僕らはゼロから何かを作ったりね。
ゼロから何かを始めたりすることはできないだろうなと思うんです。
そして僕らはそれがそういうふうにそんな仕組みになってるってことを心の奥底で知ってるんですよ。
だから思いっきり意識はしてないんです。
思いっきり意識はしないんだけどもうっすらとちゃんと信じてるんですよ。
できるねってこれきっとできるよねっていう。
これはさっきの科学的論理的な信じ方とは真逆なんですよ。
繰り返しますけどもね。
先に根拠証拠があって信じるのではなくて先に信じるというこの信念が先に発生するわけですね。
自分の中にあるわけです。
信じるという。
そしてその信念が土台になってこの上に自分がやりたいことそれが実現していくっていう形になっている。
結果が後からくるんですよね。
この根拠証拠みたいなのは信じた後についてくる。
もっと言うとこの信じるという土台の上にしかこの結果が現れないっていう逆になってるんですよ。
だからね僕らがその長い歴史の中で学んだ根拠証拠の大切さみたいなのは謙虚に受ける。
これは謙虚に受け入れましょう。
これからもねおそらくそこをしっかりと見ていないとおかしなことになるというのは事実でしょう。
でもこの自分の信じ方ここなんですよね。
自分の信じ方だけはここが逆にならざるを得ないってことなんですよ。
そしてこの根拠も証拠もなしに見たことも聞いたこともない。
味わったこともない自分の姿を信じられるというね。
こうなるはずだと信じられるというこれが僕らの才能というか能力のとても大きな能力なんだろうなと思うわけです。
おそらく私緑の本でグッドバイブすごきげんな仕事で私たちはみんな想像力を持っているというふうに書いたんですね。
何かをすれば何かが作られる。
それはですねおそらくこの土台の上にあるんだと思います。
これがきっと僕が動くと生まれるよねこの世に誕生するよねこれを作ることができるよね。
この歌が歌えるよねっていうこの信念ですかね。
これはいつもですね結果よりも先に発生するんですよ。
そしてそれをかなりリアルにね信じることができるから多分僕らはその先の結果というのが出せるんだろうなと思うんですね。
つまり僕らは自分を信じる方法というのは一つしかないんです。
無条件に今ここでこれでいいって信頼するとこれしかないんですよ。
でまたここに来ると最初に戻っちゃいますよね。
じゃあどうすれば信頼できるのっていうね。
ここで根拠や証拠を探すのはやめましょう。
そうするとねさっき言ったようなその堂々巡りになります。
結果は出せなければ信頼はゼロになる。
その結果を見委ねてしまうとその第三者によってギャンブルのようにそこが移り変わってしまう。
これをやめましょう。
僕はねまあこれもう本当にもう方法はないって言った方が本当はいいのかもしれないですよね。
方法なんかないよ無条件で信頼しよう。
はい終わりの方がもしかしたら効果はあるのかもしれない。
でもなんとなくねもうあのいろんな方とこの話をしてくる中でねやっぱりそれじゃきついんだろうなぁというのがあって
カラオジでね2つ見つけたんですよね。
一つはねこれはとても単純な話。
これはでも割と効くんじゃないかと僕は思ってるんだけど。
自分に親がいるとしますがね。
その親にねあなたは心配されたいですか信頼されたいですかっていう問いなんですよ。
この場合ね自分を信じるという場合は自分自身がその親の役割になるんだよね。
この私というものを信じるこのもう一人の私これが親だとしましょうとね。
僕らは信頼してない信じていない時何してるかって言ったら間違いなく心配してるんですよ。
これじゃダメだとこのままじゃいかんつって心配してるのね。
だからこれやれやれやれとかここもやんなきゃこれもこんな風に努力もしなきゃまだまだ足んないぞみたいなことで追い込むんだけども
それは心配している保護者の視線ですよね。
これを向けられると僕らはどうなるかというとやっぱりものすごい弱くなるんですよね。
心配されてますから。
多分なんかこう病弱な感じになるようなその方向に多分行きますよね。
あなたは外出ちゃいけないと走っちゃダメだみたいな感じになるわけだから。
そうじゃなくてOK信頼してるよっていうこのもう一人の自分がね自分自身に言った場合どうなるかというとその真逆の効果が多分生まれるんですよ。
だからこれも一つの考え方としてはねそうかそうか心配してる自分とこの信頼してる自分っていうのがいつもいつも二人出てくるんだなと。
どっちがいいんだよって言ったらもうこれは信頼の方がいいに決まってますよね。
このなんていうのかな捉え方っていうのは一つシンプルですけどもなんかこうその逆の選択がない感じ。
心配するというのはなんかやめてもいいのかなっていう感じがしますよね。
まあ信頼したからといってここはもういつもねこうなんかこう誤解されやすいところなんだけども僕らはなんか自分自身を信頼するともうなんか努力もね精進もしなくなるみたいな風に思ってるんですよね。
これもさっきのその信頼と心配のどちらって考えた時に僕は心配されてる方がなんもしなくなっちゃうんじゃないかなとかできなくなっちゃうんじゃないかなって気がするんですよ。