田中 愼一
案外ああいうとこでエッセンスを言ってもらうと、買うか買わないかの判断もあるし、
いろんな意味でガイドラインをいただけるんでね。結構たまに見てるんですよ、この番組ね。
そこで何があったかというと、二人の人物の話が出てきて、
一人はコナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズ。
シャーロック・ホームズの発想とかがひも解かれている。
それから二つ目がアリストテレスで、急にギリシャの古代に行っちゃうんですけども、
彼が考える幸福論っていうね。
幸福論っていうのがあるんですよ。それで僕も知らなくて全然。
ここに名前が、その本を買ったんですけども、ニコマコス倫理学。
ニコマコス倫理学って初めて聞いた名前なんですけども、
結構有名な古典らしいんですね。
倫理学ってなんとなくね、これしちゃだめ、これやる、なんとかなんとかっていう感じの倫理学ってなんだろうなと思ってたんだけども、
そうじゃなくて一種の幸福論なんですね。
人間はどういう行動とか言動をすると幸福になれるのかっていうところを説いた本なんですね。
それらが実は三つのね、インサイドアウトという漫画ですけど、
それからシャーロック・ホームズの発想、
それからさらにはアリストテレスっていわれるあらゆる学問の源流と言われてるような人ですけども、
その人の倫理学っていうのかな、ここの幸福論ですね、ある意味。
っていうのを見てるうちに、その三つに共通する部分がですね、
自分らしく生きるってどういうことかっていうのはね、結構ビビビッと感じてきてですね。
別に意図して見たわけじゃないんだけども、
見たあとしばらく次の事象が起こって、次の事象が起こってっていうのを見て、
1週間たったら自分の中に、自分らしく生きるってのはどういうことなのか。
それがある意味、アリストテレスの唱えてる幸福論とつながり、
それからシャーロック・ホームズに至って、シャーロック・ホームズの独自の発想って言うんですか。
その独自の発想っていうものが、シャーロック・ホームズをたらしめてるっていう話と、
それからインサイドアウトはまさにその中で、漫画では実際、ティーンエイジャーの人が基本的にいわゆるスポーツのクラブに入ってですね、
どうやったら自分の友達を作っていけるかどうかっていうところを、本人の中に存在するあらゆる感情をキャラクター化し、その感情間の葛藤って言うんですか。
その葛藤を通じてですね、表に、中が葛藤ですよね。感情間の葛藤。だからインサイドと言ってて。
アウトサイドってのは、そこのインサイドの葛藤を通じてどういうアウトサイドの表現になるか。表現ってのは人柄ですね。
人柄になるのかっていうことで、友達を作るためにはどういう行いをすればいいのかっていう。
ここあたりがですね、ずっとこの3つの事象ですね。
インサイドアウト、それからアリストテレス、それからシャーロック・ホームズ。
それぞれがそこに独自の自分らしく生きる、それから友達をどう作る。
そういうものと非常に面白くつながってるかなと思って、皆さんの意見を聞きたいなっていうのが、ちょっとひとつあれですね。
田中 愼一
今週1週間起きた事象の反省というか、振り返りですね。どうですか、皆さんのほうは、それぞれこの1週間。
中川 浩孝
けいこさんは、前回話題にした
高木 恵子
将軍を見始めたところっていう。
田中 愼一
僕もね、2作目まで昨日見ました。
高木 恵子
私もちょうど2作目まで見て、今3作目の途中ぐらい。
田中 愼一
10本まででしたっけ?
高木 恵子
そうなんです。10本あるから。
中川 浩孝
お二人とも見てるんですね。
田中 愼一
今までにない、確かにより日本っていうか、日本人からすると違和感が、まるでいないとは言わないけど、ほとんど違和感がなくなりつつあるって感じですよ。
中川 浩孝
たださっきけいこさんと言ってたのは、その内容というよりは見せ方というか、映像技法的なことであるとか、
やっぱり今までの日本で見る時代劇とはだいぶ見せ方が違うよねって話をしていて、それはその通りだなと思ったんですよね。
高木 恵子
やっぱり私はハリウッドの映画っていうか、ハリウッドで作られてるこの物語、映像だなっていうのは見てて思いましたよね。
田中 愼一
なるほどね。
高木 恵子
カット割りとか、カメラが寄ってどうのとか、このカメラ回りとかはやっぱり、通常私たちが邦画として見てる感じではないかなって。
田中 愼一
まだ2作しか見てないんだけども、確かに今までの日本を扱ったハリウッド映画から比べると、やはり日本的な要素は高いなっていうのがあったんだけども。
でもあれ見たときに、それと比較したのが前も言ったかもしれないけど、黒澤明のシーンのことだよね。
あれはですね、はっきり言って100%黒澤なんですね、表現が。
どう見ても、ハリウッドで作られたものをより日本化したっていうものを入れたっていうよりも、明らかに違ったものって異質なもので、
僕が一番初めに見たのが6歳映画館。南ローデシアっていうアフリカの南の方にある白人国家だったんだけど、その当時。
南ローデシアで外人をたくさん、そのときの有識者を呼んで、映画館が開かれたんですよ。
総領事館の主催で。そこにもう一つの映画館を借り切って、そこで七人の侍を出したんですよ。
はじめは雨が降ってるんですね。本当に降ってる風景なんだけど、一方で古いから白い線がどんどん入ってくる。
それが雨に見えるのは白黒です、当然。
あの6歳のときに僕はそれを見て、古い映画だな、これ何、見るの?っていう印象だったんだけど、
すぐ始まった瞬間にもうね、完全に入っていっちゃって。
周りにいた外人の人たちもみんなね、ローデシア人もみんな一挙に入っていっちゃった。
それは何が違うかと言うと、表現が従来のハリウッド型とは全然違っていて強烈で、
後に七人の侍(注:「荒野の七人」のことですね)っていう西部劇を作ったジョン・スタージェスっていう、西部劇の王様と言われる監督だけど、
彼とか、あとスピルバーグとかルーカスとか、みんな基本的には黒澤明の表現を追っかけていったっていう独自性があって、
あれはね、やっぱりまたちょっと違ったもんなんだろうなっていう気がしてますね。
中川 浩孝
確かにね。
田中 愼一
で一番感激したのはやっぱり将軍ではやっぱりあれじゃないですか、真田広之のスピーチじゃないですか。
高木 恵子
ああ、まあまあそうですね。
田中 愼一
あれはすごかったな。
だからそういう感じで、表現っていうのもやっぱり国籍っていうものがあるんですかね。
高木 恵子
いや、あると思います。
田中 愼一
やっぱり一番理想なのはそのいろんな国籍の味が入っている映画っていうのがやっぱり魅力なんですかね。
だから今回の将軍というのはそういう意味ではかなりのミクスチャーだと思うんですけどね。
高木 恵子
ああ、そうですね。それはそうだろうな。
だからやっぱりコミュニケーションって国柄、やっぱり人種って言うと変だけど、
やっぱり生活習慣で人間って構築されていくから、コミュニケーションがやっぱり文化と比例してきますよね、きっと。
うん、すごいそう思うな。
田中 愼一
やっぱりこれから知識がAIに任せる時代になってくると、
やっぱり人間の違いって、自分らしさっていうのはどこで見つけなきゃいけないのかっていうと、
自分の発想っていうんですか。発想の独自性っていうところが、結局唯一人間に残された場というか、そんな気がしてて。
さっき三つのケースを議論できるかなってネタを言いましたけども、
例で僕がシャーロックホームズにちょっと惹かれた理由は、
彼の知識レベルっていうのは、その側にワトソン君っていう医者が、基本的には彼の語り調で書かれてるんですね。
彼の視点からシャーロックホームズを見ながら、彼の視点から事件を解明、どう解明されたかっていうのを、
ワトソン氏の視点から全部解いてるという本なんだけども。
あそこの視点から見ていくと、やっぱりシャーロックホームズを観察するわけですね。
観察していくと、彼の頭の中に蓄えられてる知識っていうのは非常にアンバランス。
みんなが知っていることを知らない。みんなの知らないことを知ってる。
みんなが思いつかないことを言い出す。
それが基本的には、彼のシャーロックホームズの知識に対する考え方っていうのがあって、
知識っていうのは、役に立つものだけ持ってればいいっていう発想が一つ。
知識を分別、分けるっていう話が一つと、それからもっと深い読みすると、
知識っていうのは逆に呪縛を強くする発想の。
だから、下手な知識を持つと自分の発想が影響を受けてしまうっていう。
たぶんそこあたりで、彼は分析心理学っていうんだったっけな。
推理分析学みたいなね、そういう名前で表現されてるんですけども、
自分独自の発想の体系っていうのを持ってるんですね。
それが彼らしい判断、彼らしい受け取り方、事象の分析、それから判断、推理、推測っていうものを成り立たせていて。
ある意味言うと彼は、シャーロックホームズっていうのはある意味幸せな人間で、
自分独自の発想っていうもので、それをフルに発揮する場で生きていけたっていうのが、
たぶんシャーロックの話を聞いたときに、
なるほど、独自の発想を持つっていうのは、実は自分らしさと結構そこにつながりがあるのかなと。
だからたぶん将軍なんか見てると、あれにはさまざまな発想が入っていて、
ハリウッドだけでは思いつかなかったと思うけども、
やっぱり日本人的な真田広之の感覚っていうんですか、
彼が持ってる日本っていうものの発想が、かなりうまくねじこませつけてるっていうかね、
完全に入れてるっていう意味では、すごくよくその雰囲気が感じられるなって気がしましたね。
高木 恵子
あと私、NHKがやっぱりこのアカデミー賞が取った後に、ちょっと特集というか特番みたいなのをやってて、
そもそもエグゼクティブディレクターとか、結構もちろん監督たちはみなさん外国人アメリカ人じゃないですか。
で、その900ページにわたるマニュアルを作ったんですって。
田中 愼一
すごいですね。
そう、今回この将軍をやるのにあたって、結局いろんな背景、それこそ切腹ってなんだとか、そういうマニュアルを、
高木 恵子
ほんと900ページにも及ぶすごいマニュアルが存在して、それをほんとみんなスタッフから、もちろん俳優さんたちに、役者さんたちに全部配ったっていう。
で、やっぱりそれを作るのが、それを作ったのが、
やっぱりアメリカ人、アメリカ人なのかな、外国人で、でも日本語ペラペラな方で、いろいろそういった日本文学とか日本の歴史とか、
高木 恵子
昔の侍とか武士とか多分そういう歴史も全部、いろいろ調べたり自分で研究をしている方なんですよね。
そういう人たちが、もちろん多分マニュアル英語だと思うんですけど、まとめたみたいで、そもそもそれをまとめるのにあたって、
やっぱりこう日本語がしゃべれて、日本語のこういった文化とか歴史を学んでいる外国人が、
作ったっていうのもまた純粋な、今までの純粋なっていうか、ピュアなハリウッドの人たちとはまた違う視点が入ったマニュアルが出来上がってて、
そこに本当に純粋な日本、真田さんみたいな日本の役者さんたちと、本当ハリウッドの王道系の人たちっていうので、
なんかすごい今回はこの仕上がりが、これこそなんかグローバルな感じ。
田中 愼一
そうでしょうね。仕上がりがね、パリオリンピックを思い出させるっていうか、これがグローバルだっていう。国主張じゃなくて、グローバル主張ですよね、パリオリンピック。
高木 恵子
そうかもしれない。
田中 愼一
その流れで一つの象徴として、なるほどねグローバルってのはこういう方向に行くのかっていうのを可視化してくれたっていう意味では、パリオリンピックは意味があったと思うし、
今回の将軍も、ある意味で言うとグローバル化ってこうなんだよっていうのを一つの映画という象徴の中で表現したっていうのは言えるんじゃないかと思いますよね。
特に異文化のものをコンテキストとして扱わざるを得ないものっていうのは、映画もそうでしょうけど今回の将軍もそうだけども、
よりコンテキストのない人たちが見ても、あるいは演じる人たち、コンテキストのない人たちが演じるわけですから、
そこはやっぱりそういうマニュアルを作ったりなんかしながら、
まだ見えてない、でも日本人が見たら見えてしまうような、つまり日本人はもうコンテキストがあるから、それを正しく評価するけど、
ないところをどう演じる人たちにそのコンテキストを共有させるかっていう努力っていうのは感じますね、今の900ページの。
それができて初めて作る人たちがそういうコンテキストを共有すると、その人たちが表現する映画そのものもやっぱりかなりハイコンテキストになってくるっていうことで、
よくやっぱり外国の映画見てるとコンテキストがわかんないから面白くないんですよね。
例えばアメリカの映画っていうのは日本人はかなりコンテキストが高くなってるから、ほとんどアメリカの映画を見ても評価できる。
例えば東欧の映画とかね、あるいはインドとか、いろんな違うカルチャーの映画なんか見てると、
全部を理解しきれないっていうか。だから人間はコンテキストっていうか文脈っていうものが同じっていうことは同じ風景を見てるっていう。
これがコミュニケーションの基本なんだけど、まずは同じ風景を見ましょうっていうのが。
そういう意味では、まず作ってる人たちが同じ風景を見ましょうっていうのを促進したのがこういうマニュアルであるっていうところで、そこあたりは非常に興味がありますね。
だからコンテキスト共有っていうんですかね。これからの映画がいろいろな文化を背景とした映画が出てくる中で、
そこをどういうふうにコンテキストを共有させるのか。そこっていうのはこれから大事になってくるんですよね。
ある意味で言うと一番コンテキストが共有されてるのはアメリカの映画で。
大体他の国の人はアメリカの映画を見ても大体面白いと感じるっていうか。
それはある程度コンテキストが共有化されてるからでしょうね。アメリカ的な。
中川 浩孝
なるほどね。それはでも面白い視点ですね。
ただ国とか歴史に基づいたような話の時って、やっぱりそこをすごく時代考証であるとか、きちんとカルチャーと照らし合わせてそれが正しいのかどうかっていう。
カルチュラル・アプロプリエーションってあまり日本では使わない言葉だと思うんですけど、文化の盗用みたいな感じで多分日本語だとなると思うんですけど、
結構ハリウッドはそこには、アメリカは全体的なのかもしれませんけど、最近はより気を使っているっていうのはあると思うんですよね。
やっぱり昔のインディアンがみたいな、アメリカのネイティブアメリカンの格好を例えば跳ねつけちゃう、頭に跳ねつけちゃうみたいなそういうのとか、
日本の着物を左右前逆にして着ちゃうみたいな、なんとなく日本っぽいものを取り入れようとして全然正しくないものを取り入れちゃうっていう文化の盗用っていうのがすごくマイナスのものとして見られているので、
今回やっぱりその辺がすごくちゃんと考慮されて、きちんと日本のことをわかっている、日本の文化をよく理解している人たちにきちんとサポートしてもらって、ちゃんとやってるっていうのがすごく感じられたなっていうのはやっぱり、
中川 浩孝
将軍はすごくそこが大きかったなっていうのがありますね。
田中 愼一
だからやっぱり異質なものに対するリスペクトっていうのが、これから逆に言うと人間が生きていく上で必要不可欠。
持っていかないとさっきの幸福論じゃないけど、こういう相手をリスペクトする気持ちを持たないと、これからは自分らしく生きていくことそのものが難しくなってくる。
っていうところに来てるんじゃないですかね。
アリストテレスの幸福論で、幸福な生活って3つの要素があるっていう話があって、
それは何かと言うと、日本語で言うと煩悩なんでしょ?快楽?
やっぱり人間は楽をするっていうね。例えば温泉に入ったら、ああ生きてててよかったなとかね。
あの感じね。あれがまずすごく重要だっていうことと、
それから2つ目は、これはコミュニケーションのところでも何回も話してるんだけど、
周りの役に立ちなさいっていう。
彼は、人間は社会的動物の宿命として、他の存在となくしては自己の存在を保持できないというようなことをしっかりと歌ってるんですね。
そのために周りの役に立つっていうことが、基本的にはその幸せを感じる。
要するに自分がそのコミュニティの中で、あるいは彼のアリストテレスの時代はポリスですね、都市国家。
ポリスの中で自分は自分なりの役割で役に立っているっていうことを実感してるかどうかっていう。
これが2つ目で。3つ目が面白いなと思ったのは、真理を知ることってことですよ。
真理を知るっていうのは、僕の解釈ですよ。
自分なりの発想で、物事の真理が極められるっていうことがわかった瞬間の満足度っていうんですか。
気づきが降りてきて、納得したときの満足度なんですよ。
それ真理だよねって思ったとき。
だからアリストテレスが言ってる、人間が幸福を感じるのは、
まず基本的には自分自身が楽であるとか、あるいは相手を助けるとか、
まあそういう慈悲的なところなんだけども、
2つ目が基本的には周りの役に立つっていう話。
3つ目が実は、その中で自分に真理の気づきを与える。
これなんだなっていう真理。一種の覚醒するって言うんですか。
だから例えば、禅とかああいうところってのは修行ね。
これはあちこちでいろんな修行があるけど、悟りを開くっていうのは、ある意味真理を知るっていうものなのかもしれない。
この3つの要素が、実は非常に重要なことだということで。
アリストテレスの時代から言うとポリスですから、ポリス国家っていうのは、ポリスの国っていうのはどっちかというと、
いわゆる市民の社会ですよね。
ただ市民の社会ってたくさんの奴隷のもとになり立っている、非常に特権階級の世界なわけだけども。
それは歴史的な事実でしょうがないんだけども。
ただ、特権階級だった市民の間での幸福論っていうのは、まさにそういうことで。
やはり自分の快楽、相手の快楽っていうものを与える。自分の快楽ですよね、一番じめは。
次に相手にちゃんと役に立つ。快楽を与えるっていうのも一つの役に立つことなんだけど。
いろんな形で相手の役に立つっていうこと。それによって社会的な立ち位置を作るっていうこと。
最後は、自分がある意味悟りを開くというか、その真理に気がつくっていう。
そこがもう一つの究極的な。
だから最近僕なんかも、いろいろな形で真理を見つけるとおーって喜ぶんですよ。
なんでその真理を見つけると喜ぶかというと、
自分なりの発想、独自の発想体系みたいなのが出来上がってきてある程度としてると。
その発想体系があると、物事の真理が見えてくるっていうか。
っていう感覚っていうか、そういうのに入ってくるって言うんで。
アリストテレスの言ってる三つの要素っていうのは、結構すんなり頭に入ってきちゃったんですよね。
それが、シャーロックホームズで言ってた独自の発想方法を持つっていうのと繋がっている。
だから独自の発想方法を持っている人っていうか、
みんな実はそれぞれ独自の発想方法を持ってるんですよ。
問題はそれに気がつくかどうか、意識するかどうかだと思うんですよね。
自分はこういう発想方法で、あの人とは違うんだ、周りとは違うな。
違う発想方法を持ってるからこそ周りの役に立てるわけでしょ。
だからそういう幸せっていうのは、基本的には自分が持っている、
彼の役だと自分が持っているあらゆる可能性を発揮し続けることができるかどうかが、
いわゆる幸せかどうかの、自分の中に隠されているポテンシャルっていうものをしっかりと活かしながら、
実際に周りに対して影響を及ぼしているかっていうこと、人の助けになっているかっていうこと。
田中 愼一
それが基本的には、ある意味アリストテレスの幸福論の中に書いてある。こんな感じですからね。
だからある程度その人の持っている発想っていうのが、幸福か幸福じゃないかっていったところにかなり関係してくる。
だから我々としては、これからますますAIがどんどん知識を司っていく時代の中では、
人間としては自分の発想っていうものを大切にしていくっていうか、
自分の中にすでにある発想っていうものを、基本的には大切にしていかなきゃいけない。
そこでアリストテレスも言ってるのは、すべての発想とかポテンシャルというのは、
先天的な部分は否定しないが、基本的には後天的で、
生まれてから育ってあたりでどれだけの経験を積んできたかっていうのが一番重要で、
その中から自分の発想を編み出していくっていうか、
そういうプロセスっていうふうにとっていて、
でもそれは良い発想を持つ人もそこから生まれてくるけど、逆に悪い発想をする人も出てきますよ。
つまり幸福にならない人もそこから出てくるっていうことで。
だからそのときにつながったのがインサイドアウトで、映画の。
あのときインサイドアウトっていうのは、友達を作んなきゃいけないって言うんで、
ライリーって言った女主人公、13歳ぐらいの子ですかね。
その子が周りの友達、憧れてる人、友達になりたい人、いろいろな人たちがいるんだけど、
そことどう友達になろうかって、いろいろと努力する工夫するストーリーなんだけども、
その中で彼女の人柄を操作してるのが、頭の中にある感情って言われてて、
喜びっていう感情もあれば、悲しみっていう感情もあれば、
ダリーっていう、だるいぞっていう、ダリーって呼んでるんだけど、
怠け者の感情もあれば、いろいろな感情、怒りの感情もあればあるんだけど、
彼らがいろいろ四角しながら、いかにその主人公に友達を作らせるかっていうことで動くっていうね。
ただ、何が一番初めに起こったかというと、それをするために、
今まで過去にあった記憶、経験っていうもので、
いい記憶と悪い記憶って分けちゃったんね。
悪い記憶を全部捨てちゃったんですね。
いい記憶だけ残しちゃったんですよ。
そうしたら、ライリーっていう主人公の性格崩壊が始まっちゃったんですよ。
周りに友達を作るどころか、周りとの友達関係を壊すような人柄というか行為に打って出て、
そこで感情のキャラの連中がすったもんだして、なんだこれはどうだって。
基本的には最終的には解決していくストーリーなんだけど、
自分の過去の経験とかそういうものは積み上がってくるもので、
それがあってこそ今の自分があるっていうことですからね。
だからそれを削っちゃうと自分じゃなくなっちゃうんですよね。
だからそこあたりも非常に、今まで話した自分らしさっていうのはどういうふうに作り上げていって、
どういう自分らしさを発揮すれば人は幸せになれるのかっていう。
田中 愼一
自分らしさっていうものの一つの鍵に、発想の筋っていうか、自分独自の発想の仕方で、
独自の発想の仕方を見ると独自の感度、物事を感じる受信のところですね。
それがまた新たな発想を生み、新たな発想を生むと当然それを発信する、実践する。
そうするとまたそこのフィードバックがあるんで、新たに受信して発想して発信するっていうこの輪を回していくと、
その背後に徐々に経験の積み上げっていうストックが出来上がってきて、
それがいわゆるストックの代表例っていうのはその人らしさっていう、その人の人柄っていう形でストックとして生まれていくんですよね、人柄っていうのは。
だからそういう中で個々の感情っていうのを大切にしなきゃいけないよっていう教えだと思うんですけどね、あの映画は。
すごくね、そこあたりに自分らしさっていうのはどう見るのか、感情っていう視点から見るのか、
そういうので深く考えさせる、映画インサイドアウトであり、アリストテレスであり、シャーロックホームズであり、僕にとっては。
どうですかね、みなさん今のところは。
中川 浩孝
まあでも自分らしさって確かに何なんだろうって考えますけど、ストックっていう話を今聞いた時にそうだよなと思って、
100回同じことが起こったとして、100回自分が全く同じ風に感じるかとか、全く同じ答えが出てくるかっていうと多分違うので、
やっぱりそれって傾向でしかないんですよね。
きっとたくさんの経験、100回あったうち、自分だったら60回はこういう反応して、40回はこういう反応するみたいな、
それでしかなくて、中川くんは絶対この60の方を選ぶよねっていうわけでは別にないので、
なんかそこのストックっていう考え方はすごく面白いなというか、
今までのヒストリーずっときちんと見ないとその人らしさっていうのは決まってはこないよなっていうのは今聞いてなんかすごく面白いなと思って聞いてましたね。
田中 愼一
やっぱり我々はストックを抱えてるんですよね、自分の中に。
だから面白いのは、インサイドアウトの中に工場仕立ての人物が出てくるんですよ、そのライリーっていう少女のストックが。
そこは工場現場みたいになっていて、その中に一つイマジネーション部門っていうのがあって、
いろいろな感情が命令するんですよ、イマジネーション部門に。
具体的にイメージしろ、具体的にイメージしろって。
だから怒りを持ってると怒りをイメージしてどういうふうに表現すればいいかっていうのは、全部イマジネーションなんですね。
イマジネーションっていうのはまさにコミュニケーションの源泉って僕は思ってるんですけども、
イメージできないものは伝えられないんですよね。
イメージできなければそれを信じられないんですよね、人間というのは。
だからイメージっていかに大事かっていう。
だからそれが工場仕立てになってるっていうのがある意味、そこにいろいろなストックがですね、貯められていて、
そのストック、どういうものが貯められているかによってその人の人格が変わってきちゃうんですね。
だからそれがね、すごくね、ああいう漫画で表現したっていうのは、クリエイティビティに感激ですよ。
普通にあれはね、逆に言うとリアルじゃ表現できないでしょうね。
人間の表情自身も。
主人公の表情がね、ものすごく計算されてうまく、
ああ困ってるんだっていうのが普通の俳優さん以上にね、象徴化できるんですよ。
高木 恵子
確かに確かに。
田中 愼一
あの映像ね、ピクサーが作るあの映像ってすごい、人間の表情とは違うんだけど、
ひとつの特徴をギューって象徴してきて、
おおってこう来る、より強烈なね、表現になってるんですよ。
あの普通の俳優さんの表現と違って。
あれはね、面白かった。
高木 恵子
確かに。
田中 愼一
だからヒロちゃん是非見てください。
中川 浩孝
もうね、逆にでも2人に、今日私は何を見てるかっていうのをちょっとお話ししようと思ってたんですけど、
2人にやっぱり感化されて、鬼滅は私かなりもう見たんですよ。
中川 浩孝
で、刀鍛冶の里編まで見たんですよ。
それ以降はね、アメリカではまだね、見れないんですよ、ネットフリックスの。
田中 愼一
まだ何、稽古編は見れないんだ。
中川 浩孝
柱稽古編やってないので、残念ながら見れないので、うーんと思ってますけど、
でも皆さんが言っていた意味がやっと何かわかるようになって、非常に面白かったなっていうので、
それがもちろんあるんですけど、それはそれで鬼滅のことだけを話す回があってもいいくらいだったらその通りだと思ったんですけど、
それに感化されてじゃないんですけど、アニメーション結構他もちょっと見ていて、
一緒にちょうど並行して見て、鬼滅ちょっと暗いっていうか、若干ドーンと心に来るところあるじゃないですか。
なのでもうちょっと軽いのも合わせてみようと思って、Spy x Familyを一緒に見てたんです。
高木 恵子
Spy x Family
中川 浩孝
Spy x Familyはもうちょっとこう、最初明るかったら、だんだんちょっと最後の方になってくると、若干ダークになってくるなってのがあったんですけど、
とはいえ、もうちょっと明るかったので、すごい面白かったんですけど、
ただ、Spy x Familyすごい面白いなと思ったのは、全く現実にない国の仮定でお話が回ってるわけじゃないですか、
それなんですけど、カルチャー的にはすごい日本的なものがいっぱい埋め込まれていて、
これは日本以外の人が見たらどういうふうに感じるのかなって。
田中 愼一
例えばどういうところがあれですかね、カルチャー的には。
中川 浩孝
食べ物とか、ハンバーグとか出てきて、ハンバーグステーキ食べてるな、この人たちと思って、
これは日本にも出てこないだろう、この食べ物はみたいな。
田中 愼一
まあ確かにね。
中川 浩孝
とても日本語的なところが突然混ざっていたりとかしたので、すごいそれが面白いなって思いながら見てるんですね。
それで、両方とも今見れる分全部見ちゃったので、ダンジョン飯っていうのを見始めたんですよ。
田中 愼一
え?
中川 浩孝
ダンジョン飯知ってます?
田中 愼一
知らない、僕は。
高木 恵子
知らない。
中川 浩孝
知らないですか?ゲームの世界の中の話みたいな感じで、
ゲームの世界ってモンスターとかをどんどん倒していくじゃないですか、
でも、倒したモンスターを食べていくっていう、調理して食べるっていう話なんですよ。
全然発想として、奇想天外だし、とっても日本のアニメっぽいなと思って見てて、
それも最初はスライムを倒して食べるみたいな感じの世界が広がっていて、
変な話って思って見てたんですけど、
だんだんそれもちょっとダークな方向になってきて、
なんか僕素直に楽しみだけのものを見たかったのに、意外と深くなってきたなって。
全体的にそういう、鬼滅は最初からちょっと深いんですけど、それ以外のアニメ2つは。
田中 愼一
確かにそうですね。
中川 浩孝
ちょっとね、最初の導入は軽かったのに、だんだん重くなってきたなって。
田中 愼一
最近ね、アニメ重くなってきてますよね。
中川 浩孝
重いですよね。
田中 愼一
あのね、しかも混ざってるから、昔みたいに重いやつは重いって感じじゃなくて、
非常に軽く入って、面白いなと思ったら、たまにダークが入ってきて、え?って驚く世界っていうのは間違いなくあるでしょうね。
だから、もしかしたらそれが、僕の場合はコナンを見続ける、繰り返し繰り返し。
あれはね、結構ドギツイですよ。
中川 浩孝
コナンは意外とドギツイですよね。
田中 愼一
殺人事件に必ず出てくるわけだから、ちょっとドギツイとこあるんだけども、
それ以外で、オバケのQ太郎になるともうちょっと古すぎて、ドラえもんとかちょっと違うなって感じで。
だからわかんないけども、でも最近のアニメは本当にドギツく、重たく、暗くっていうところが結構出てきてますよね。
高木 恵子
なんかこう、いろいろ考えるようなアレですよね。
だって、私たちの子供の時って、やっぱり日曜日のご飯の時って、サザエさんとかね、今ちびまるこちゃんだけど、
なんだろう、楽しく見れるアニメでしたもんね。
田中 愼一
確かにそうですね、楽しく。さっき楽しくっていうのが確かに、ひたすら楽しくっていうのはないよね。
高木 恵子
なんかこう、よく日常的にあるあるみたいなサザエさんとかちびまるこちゃんのって、
なんかそんなんで、本当に日曜日の夕飯食べてましたよね。
中川 浩孝
でもそれいうと、たまに暗いフランダースの犬とかそういうのもありましたよね。
高木 恵子
あったあった。
中川 浩孝
なんか母を訪ねて三千里とか、ちょっと暗いというか、時代背景がなんかあるかもしれません。
田中 愼一
でも、Hunter x Hunterもそうだけど、結構グロいですよね。
高木 恵子
うん、今ね。
田中 愼一
人間食べちゃうって話だから。
高木 恵子
そうそう。
田中 愼一
鬼滅も同じだし、ある意味では。
だから、でもそれをやっぱり見ちゃう、我々っていうのもいるわけで。
高木 恵子
そうですよね。
中川 浩孝
でもやっぱりアニメーションは子供だけのものじゃなくなっているっていうのは。
田中 愼一
完全に違いますね。
高木 恵子
そう、エンターテイメントですよね、もうね、本当に。
田中 愼一
エンターテイメントから、もうこれからは下手すとエデュケテイメントじゃないけども。
高木 恵子
確かに。
田中 愼一
あれはね、子供に見せたいと思うでしょうね、あのインサイドアウトは。
まあ実際子供二人いて。
中川 浩孝
確かにピクサーの作品は全体的に何かしら感じるものがありますよね。
田中 愼一
わかりやすく、子供に表現が。
人間がリアルでやると、その表現が強くないんですよ、子供が小さいときは。
ところが漫画、アニメ、特にピクサーの場合は、あれは本当にね、
実に人間が表現できるものの本質をもっと強烈に出すんですよね。
あれはグッときますよね。
ヒロさんは見てないんだろうけど、人と人とのやりとりっていうのがですね、
お互いが頭の中に感情の参謀たちがみんないるわけですよ。
ライリーという主人公が自分の友達と話してるときに、向こうにもその布陣があるわけですね、舞台が。
こっちもその舞台があって、そのやりとりがね、
パッと見て、「あ、ちょっと目を逸らした!」とか言って、「なんでだ、分析?」って、その映像をもう一回分析するわけですよ、頭の中で。
それが本当のことを言ってないとか言って、次はこう言おうとかね、このやりとりがね。
それがいちいち、実際に演じてる子供たちの表情にギュッギュッギュッと出てくるっていうね。
あれはリアルではできないなあ。
そうですよね、たしかに。
速攻力でワーワーワーってやるのはリアルは無理でしょうね。
だから案外このデジタルの表現というものは、実は結構ね、まるっきり人間ではできない世界をするんじゃないかなって気がしますね。
そういう印象だったら表現が素晴らしかった。
可能性がやっぱり広がりますね。
新たな、何だろうな。クリエイトよりも強調するっていうところなんでしょうかね。
この箇所をよりリアル以上に強調するっていう、だから象徴ですよね。
でも象徴っていうことであれば、昔からね、たとえば仏像だって象徴なわけですよ。
だから一番初めにみんながびっくりしたのは、仏像ってみんな静かなものなんですけど、本来は仏教のね。
でも密教が出てきたときに、とてつもない不動明王みたいな怖い神様が出てきちゃったわけですね。
あれなんかが一つのイノベーションを起こしたわけですよ、いわゆる仏教って世界の中に。
それが密教っていう形なんだけど、そのときの表現として非常に強烈な、
それまではみんな優しい仏様の像しか作ってなかったんだけど、
突然鬼のごとく怖い不動明王とか、いろいろなものが出てきちゃって、みんなを圧倒したっていうね。
だから今回のピクサーで僕も圧倒されたんですけど、
今回はあの表情はやっぱり、なんか新しい発想っていうものを感じさせるすごさがあった気がしますね。
ぜひとも次回までに見てくださいよ、ひろちゃん。
中川 浩孝
もうあれでしたっけ?もう映画館でまだやってるのかな?
田中 愼一
ディズニーでもうやってないかな?
中川 浩孝
そうですね、ディズニープラスとかで確かに見れるかもしれない。
高木 恵子
でもまだ、今運営されてるのはね。
でも前のパート1は多分見れると思います。
田中 愼一
パート1僕見てないんで見なきゃいけないんですけど。
高木 恵子
そう、私はねパート1だけ見たの。
中川 浩孝
パート1だからもっと子供の頃の話なんですよ。
高木 恵子
そうそう、でもっと感情のキャラクターが少ないんですよ。
今回増えたんですよね。
田中 愼一
だから倍以上に増えた。
高木 恵子
そう、やっぱり大人になってきてるから感情の種類も増えるんですよ。
子供の頃はなんか4つか5つぐらい。
田中 愼一
子供の頃は喜び、悲しみ、それから喜び、悲しみ、怒り、むかむか、ビビリ、こんな感じですかね。
それに入ったのが不安。
これ一番大きな役割を果たすんですけど、不安、それからいいな、恥ずかしい、それから懐かしい。
ここあたりが入ってきた。倍増してますね、感情の数が。
ただちょっとね、僕不思議に思ってもっと読み込まなきゃいけないかなと思ったのは、理性はどこに行ったっていうかね。
高木 恵子
あー、理性かー。
田中 愼一
感情は全部キャラクターされてるんですよ。
でも理性は何の理性に関する話がされてないんですよ。
高木 恵子
でも理性って感情なのかな?
田中 愼一
だからそこなんですよ。理性って感情なのかどうなのか。つまり理性の中に感情が入っているのか、あるいは感情ってのは理性とは別のものなのか。
中川 浩孝
理性は感情ではない気がしますね。
高木 恵子
私も理性って感情じゃないような気がするんだけど。
田中 愼一
福沢諭吉が人間は7分の感情、3分の理屈の理をことわりって言ってるんで、つまり70%も感情の動物だよって言ってるんですね。
だからたぶん、もしかしたら感情と理性っていうのは離して考えてると思います。
中川 浩孝
だって理性って感情じゃない部分が理性なんですよ。
田中 愼一
逆にね。
その部分がね、この映画には描かれてないんで。
理性をどこに入れるのかな。だから感情が中心になっちゃってるわけですよね。
ティーンエイジャーになれば理性も出てきますから当然ながら。
高木 恵子
そうですよね。
田中 愼一
より強く。だからこの理性の部分はわからない。次の進化版では、3ではちゃんと出てくると思う。
高木 恵子
出てくるのかな。
そうですよね。大人になると感情だけでは生きてきないですもんね。
田中 愼一
生きてきないですよね。やっぱり理性っていうのをね。
高木 恵子
やっぱり世の中のルールがあるからね。だからそこにやっぱり理性が働いてくるわけですよね。
田中 愼一
特に社会的動物と言われてる人間は周りの存在あっての自分の存在なんで。
だからそこがね、ちょっとこれから考えなきゃいけない。追求しなきゃいけない。
高木 恵子
確かに。パート3が面白い?
田中 愼一
あと理性って分解できるのかなと思って。
高木 恵子
あーそうそう。理性がね。
田中 愼一
それはたくさんあるけど理性って何?って。我々なんか因数分解してませんよね。理性に関しては。
高木 恵子
確かに理性って。でもまあ世の中のルール、基本は世の中のルールに沿った感じですよね。
田中 愼一
ルールと、あと理性はあれがあるんですよね。過去現在もあるんだけど未来もあって。
類推するとか推理するとか。物事の先がこれからどうなってるかっていう。
実はこのインサイドアウトで僕が唯一理性を感じたのが不安なんですよ。
不安っていう感情が出てくると何が起こるかと言うとね、未来を予測し始めるんですよ。
つまり将来仮説を立ち、こうなるとこうなるとこうなるとこうなる。
こういうことを言うと彼女はこう動いて、こちらの友達になる。
こう動いてこうやるとあれだとか言うのをですね、心配だから最悪のシナリオを全部作っちゃうんですよ。
中川 浩孝
でも恥ずかしいっていうのも理性からくるんじゃないですか。こういうことをするとやっぱり恥ずかしいと思われる理性の部分が働くから恥ずかしくなるんですよね、きっと。
田中 愼一
恥ずかしいってルールがあるから、それに反すると恥ずかしい。
だからやっぱりどっかで接点があるんでしょうね、理性と。
高木 恵子
そうですね。
田中 愼一
面白いですね。だから逆に言うと不安っていう感情はある意味理性が働くんだけど、
でも逆にそこにはまると悲観的な物事、すべて悲観的になってすべてを壊してしまう。
だからたぶん喜びも同じで、あそこに出演した感情のキャラクターの人たちは誰一人絶対いってないわけですよ。
喜びが一番初めの問題を起こしたわけです。つまり、いい記憶だけ残して悪い記憶は消せっていう判断したわけですよね。
不安が来て全部最悪のシナリオでいくともう全然身動きができなくなっちゃう。
だからそれぞれの感情は別にいい悪いって分けられてなくて、いいこともあるけど悪いこともあるという表裏一体で考えてますよね。
高木 恵子
あの映画で1も多分2もそうだと思うけど、結局バランスよく自分がいなきゃいけないっていうのが分かりますよね。
いろんな感情があるから、どれかが突出しちゃうとすごくぐちゃぐちゃになっちゃうから、
全部あって当たり前で、それがうまく自分の中でバランスを取れてれば毎日楽しく過ごせるよっていうのが言いたいことですよね。
田中 愼一
多分そのバランスを取るのが理性なのか?理性があって初めてそのバランスを取れるのかっていう論と、
本当に理性だけがそのバランスを取ってるのかどうかっていう論で、西洋的には理性なんですね。
東洋的には身心一体って言って、理性と感情を一つとして捉えるから、分けることができないっていう発想が。
だから欧米は分けるっていう発想。東洋は分けないっていう発想だから。
東洋の場合はいろんな人の話をひも解いていくと、基本的には理性だけではバランスは取れないっていうのかもしれない。
ある程度、感情と理性が一つになったものっていうような捉え方をする可能性はあるし。
だからそこが理性の役割っていうのはやっぱり、明確に区別するべきなのかすべきなのかわからないけども、
そこの立ち位置が知りたいですね、理性の役割。
高木 恵子
おもしろい。
田中 愼一
理性ってやっぱり違うんだよな。
だから非常に、理性の中に潜んでいるものっていうのは、どちらか自力本願なんですよね。
高木 恵子
あー、そっかそっか。
田中 愼一
つまり自分で理性っていうものに頼って、物事を動いている。
だから逆に言うと、欧米っていうのは自分の力をどう強くするか、どれだけ自分の能力を高めるか、
どれだけっていう自力本願的な動き方っていうか考え方が中心になってるんだけど、
東洋の考え方ってどっちかが他力本願で。
要するに、自分が強くなるというよりも、基本的には他力を利用するっていう発想。
田中 愼一
他力本願って何もしないで助けてくれっていう他力じゃなくて、他力をどう利用するか。
欧米はどっちかというと、自力にもっと重心を置いて、自力を強めるっていう。
自分の自力を強めるってことなんだけど、
東洋の考え方は、他力を強めるなんて発想できないから、他力をどう活用できるかっていう。
そこの方に重心がもっと多い感じ。
だから自力を主張する方っていうのは、やっぱり議論とか対立とかディベートをするわけですよ。
他力を一応重心置くと、やっぱり周りとの関係とか、それからあんまり出しゃばらないとか、
そこで対立を生まないとか、そっちの方に入っていくわけですね。
だからそこの2つの発想の起点の違いっていうのがなんとなくね、
インサイドアウトとか、それからアリストテレスなんかの幸福論を見てると、
結構違うなっていう感じが少し感じられてきたんですね。
だからどっちかじゃないんですよ、本質は。
そこもバランスで、自分がどれだけ努力して、あとは天に任せるっていうようなね。
自力と他力っていうのは本当だけども、
その重心の置き方が、西洋と日本では違うかなっていう。東洋とでは。
高木 恵子
たしかに。それってやっぱり社会の違いですよね。
日本はやっぱり集団社会だから、もともとがね、昔から。
で、欧米ってやっぱり個じゃないですか、個を強く。
っていうのが元々、どの時代からかわからないけど、やっぱりその違いはありますよね。
集団と個のっていうのってもうスタートラインが違うから、
集団の中でうまくやっていかなきゃいけないっていう、
その社会文化の中と、個で生きていかなきゃいけないって人たちって、スタートラインが違いますもんね。
田中 愼一
スタートライン違いますよね。あと、やっぱり日本人のしたたかさっていうのは、
他力的な発想っていうか、つまり他力を利用するって発想ですね。
これも入ってるんですよね。
要するに、いざこざを起こさないために、自分は少しそこはモデレートになるっていうのは、
裏返してみると、それはその他力を利用する機体から、僕としては。
だからモデレートにあえて対立を相手と作らないっていうのを発想してるんですね。
だからいずれにしても、たぶん自分らしさっていうのは、自分が幸せになることなんだろうと思うけども、
自分らしさによって自分が幸せになるっていうことは、
自分らしさっていうのは、やっぱり自力的な部分と他力的な部分っていうのを、いかにバランスをとっていくかっていう。
で、そのときに切り替えが重要なんですよね。
自力はI(アイ)、I、Iじゃないですか。たりきはどっちかというと、We に近いのかな。周りと一緒にっていう。
だから、アメリカの大統領選でいうと歴代のクリントンがI、オバマがWE。
高木 恵子
あーそっか。
田中 愼一
だってオバマって完全に他力本願じゃないですか。
だから、そう思うとだんだん面白くなってきますね。
高木 恵子
たしかに。
田中 愼一
自分らしさ。自分らしさです。自分らしさ。
この歳になって自分らしさって言うかよって言われそうだけど。
皆さんどう思います?自分らしさってそれだけ関心項目になってますか?
僕結構なってるんですけど。
高木 恵子
自分らしさか。自分らしさって、でもなんかあえてあんまり考えたことがないかも。
中川 浩孝
今そういうんじゃないかなぁと思ってました。
いやでもね、自分探しみたいなのしちゃう人ってやっぱり自分がない人なわけじゃないですか。
個がしっかりした人は自分探しなんかしなくてもいいわけですよ。
田中 愼一
すいません。すいません。あの個がしっかりしてない人で。今でも自分探ししている自分。
高木 恵子
いやでもそこって、そういうふうに思うのって私は気がついてるからいいことっていうか。
気がついてなくて、ただなんかこうたらたら毎日生活を送っちゃってる人は、私はちょっともったいないなっていう気はしますよ。確かに気がついてね。
田中 愼一
気づいてない人が多すぎる。
高木 恵子
そうそうそう。だからそれはなんか、それでいろんなことを悩んだり困ったりっていうループに入ってる人もいるから、それはだからもったいないなって。
田中 愼一
いやだからそこを一人でも多く気づかせるのが我々のミッションなわけですよね。
自分探ししてたらもうダメねそれはね。
了解。反省しますか。
高木 恵子
いやそんなことないんですよ。だからそんなことない。
田中 愼一
いやでも一人でも多くこのゴールデン・トライアングルを見てですね、気づいてほしい。本当に気づいてほしい。悩まなくてもいいんですよ。
そうそう悩まなくてもいい。
やるべきと思うべきところを変に悩んでるし。
中川 浩孝
まあ難しく考えすぎというか。
田中 愼一
そう難しく考えすぎだと思うし、やっぱり考えすぎはダメですよね。人間はろくなこと考えないから。
高木 恵子
まあね。そうは言ってもって思ってるリスナーさんがいっぱいいると思うんですけどね。
中川 浩孝
若い頃は特にそれはあるかもしれないですよね。
田中 愼一
流れに任せるっていう発想も必要だと思いますよ。
自分で立つっていう自立も大事なんだけども、自立と同時に状況において流されるっていうのも、流れに任せるっていうフレキシビリティっていうのも絶対重要で、その2つどっちかじゃないんですよね。
中川 浩孝
そこのしなやかさは必要ですよね。
田中 愼一
そこのバランスっていうのが一体誰がやってんの?理性が操縦してるの?理性以外のものがあるの?
じゃあその理性以外のものっていうのが自分なの?
中川 浩孝
いや、完全に感情じゃないかと思いますけど、それこそ喜びだと思いますけどね。
田中 愼一
喜びか。そういうのがわかって、インサイドヘッドっていうのが作られたのか、っていうのが面白いんですよね。
中川 浩孝
考えているわけではなくて、自分がどう感じるかで私は結構大きなことは判断してしまうので。
田中 愼一
でもそうでしょうね。自分を見ると理性的には考えるけど、それはあくまで感情を決めた段階でそれを正当化するための理屈を唱えるから。
中川 浩孝
そうそうそう、それ後付けでしかなくて。
田中 愼一
後付けなんですよ、はっきり言って理性は。
中川 浩孝
決めてるんだとは思いますよね、心の中である程度。