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2022-02-24 11:22

#439 コミュニケーションと呪い3 〜コミュニケーション可能な他者と見なすことによって殺し合う〜

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21世紀の今、人が人を殺す理由について。


脳内議事録】 noteマガジン、認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。エッセイ、音声、音楽などさまざまなかたちで頭の中を晒しています。 サイコパスのラジオ、前シーズン以前のエピソード(Podcast上にないエピソード)はすべてこちらでお聴きいただくことができます。

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、コミュニケーションと呪い。
コミュニケーション可能な他者と見なすことによって殺し合う、という話をしたいと思っています。
前回、前々回に引き続きですね、コミュニケーションと呪いという話をしたいと思っています。
今回言っているコミュニケーションというのは、言語コミュニケーション、バーバルコミュニケーションに限定されていますね。
別にハイタッチするとか、一緒にダンスするとかね、ハグするとか、そういうことは含まれていませんね。
あくまで言葉を介して他者とコミュニケーションするという意味での、言語コミュニケーションの呪いと言ってもいいかもしれないですね。
そういった競技のコミュニケーションとして、コミュニケーションという言葉を使っていますので、あらかじめご理解いただけると助かります。
その言語コミュニケーションという意味で言うと、昔から僕はですね、なんとなく感覚的に経験的にコミュニケーション不可能だなと思っていたんですよね。
それでも言語コミュニケーションしたいという欲求がある。それは何か、僕に関して言えばですけど何かというと、思想レベルのというか価値観の深いところレベルの対話がしたいという欲求があるんですね。
自分の見ている視点とか価値観とかを変える、売るものっていうのはやっぱり表面的な話ではなくて、一人一人の深いその人の中に根差した価値観とか物の見方みたいなものから、
あ、そんな風に物が見えるんだとか、そういう見方ってあるんだなとか、自分にない感覚だったなとかということで、新しい自分を発見したりできるとか、世界が広がっていく感覚があって、
そういう価値観レベルの対話がしたいという欲求は僕はずっと持っていたし、今もなお持っていると。
昨年、2021年の1月かな、クラブハウスが日本で急激に流行って、知らない人と対話ができるみたいな場が用意されたわけですね。
結構やってたんですけど、どうも人が集まると表面的な会話になりやすいとか、やっと塔が立ちそうかな、塔が立つ流れになってきたなと思ったら、
塔を立てない感じになっていく、けづくろいの方向に話が進んでいくとかですね。もちろん、塔を立てましょうって集まってるわけじゃないから、塔が立たないのは自然なことなんだけども、やっぱりもどかしさはあるというか、
03:13
けづくろいを楽しめればいいんだけども、それは僕の問題で、けづくろいが楽しいと思わない。けづくろいするんだったらハグとかダンスとか言葉を使わないほうが、
楽器持ってセッションした方が楽しいから、別に言葉を使ってけづくろいする必要はないっていうのが僕の価値観として強くあるので、つまんなくなっちゃうっていうのがあります。
そういう意味ではクラブハウスっていうのはけづくろいツールになってしまっていたなと思って、つまらないというか、自分にとっては、
なんかもうちょっと塔を作るパターンもあっていいんじゃないっていうのをずっと感じてました。
そうしている中で、比較的塔を作る方向性のルームの中で何度も登場しますけども、
室さんですね。牛を忘れるのラジオでキャストをやられている室さん。古典ラジオでお話をされている室さんですね。
室さんがですね、愛とは何かみたいなのを語っている部屋で言った言葉があって、
去年の6月の配信で愛とコミュニケーションという配信をしているので、そこで詳しく話しているんですけども、
愛とは何なのかというときに室さんが言った、愛とは相手をコミュニケーション可能な立ち方を生み出すことであるというふうにおっしゃったんですね。
それがすごくしっくりきて、いわゆる感情的な愛、その人に対して抱く何か気持ちみたいな愛っていうのは、
いまいち語り合ったところで共有できないというか、それがもう主観的すぎて言語化する意味すら感じないというか、
勝手に好きでいたらいいじゃんって思うから、それを愛だって定義というか、言語化されてもそうですかとしか言えないんだけども、
愛を再現性のある形で定義するならば、そういう愛とは相手をコミュニケーション可能な立ち方を生み出すことであると、
いわゆる理性的に愛とは何かと、再現性のあるものにするときに愛とは何なのかと、
誰にでも共有できる形で愛を定義するとどういうことなのかっていうと、そうなんじゃないかなって僕は結構しっくりきていて、
今も愛の定義を自分の中で考えるときにはここを拠り所にしてるっていうのはあるんですね。
つまり昨年の6月にそうやって、相手をコミュニケーション可能な立ち方と生み出すってことが愛なのかもしれないなとしっくりきて、
ここでもその話をして、そういう意識を持って生活を送っていたんですね。
つまり相手をコミュニケーション可能な立ち方と生み出せるか生み出せないか、
生み出そうとするかしないか、そこに自分の愛を出すか出さないかがあるんだっていう感じでやってきたんだけども、
それもやっぱり誤読をする人がいるのかもしれない。
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いわゆる愛は出すべきであるって思ってる人がいるんじゃないかなって。
別に愛とはそうであるという話をしてるだけであって、だからといって愛を出すべきだって話じゃないんですよね。
愛はつまりそういうことなんじゃないかっていう話であって、
愛を出したいか出したくないかとか、出すべきか出すべきでないかとか、出すか出さないかってことは、
時と場合によるよねって思うんですよね。
この愛は出すべきであるみたいな囚われ、
それが前回もお話ししているように、話せば分かるとか、
しっかり話し合って理解し合おうよ、みたいなことがそこの呪いになってるというか、
愛を出すべきである、コミュニケーション可能な他者とみなすべきであるという思い込みが、その呪いがあるんじゃないかっていうことなんですよね。
それ自体は別にいいじゃないか、美しいじゃないかって思う人もいるかもしれないけども、
僕からすると、とても危険だと思ってるんですよね。
タイトルでも言った通り、コミュニケーション可能な他者とみなすことによって殺し合ってるんじゃないかっていうね。
人が人を殺す理由を考えてみると、確かに昔の歴史的なところでいくと、
虐奪のために村をごと焼き払うとかいうことをやってたと思うんですけども、
今、じゃあ僕がお金欲しいから街ごと焼き尽くして東京の財産を全部もらおうとかいうことはないわけじゃないですか。
そんなことしても東京の財産はもらえないし、もらったところで結局それで僕が罰せられた終わりじゃないですか。
だから虐奪のために、単純に理を得るために人を殺すっていう時代じゃなくなってきていると。
じゃあ今ある殺人って何なのかなって思うと、人間関係のもつれだったりするじゃないですか。
親が子を殺すとか、子が親を殺すとか、恋人を殺すとか、むかつくやつを殺すとか、
社会がむかつくから社会にいる人たちを殺すとかっていう、結局それってコミュニケーション可能な他者と見なしているがゆえに、
コミュニケーションできなかった腹いせに殺しているというふうに僕には見えるんですよね。過度に期待している。
他者は、わかんない、自分の親はコミュニケーション可能な他者であると思っているがゆえに、
コミュニケーション可能でない状況にむかついているとかいうことがよく起こっていると思うんですよね。
2回にわたって話しましたけども、コミュニケーション可能じゃないからって感じなんですよ。
コミュニケーション可能じゃないのにコミュニケーション可能と見なしちゃっているからこそ起こるトラブルだと思うんですよね。
もちろんスタンスとして、それでもコミュニケーション可能だと見なす。そしてコミュニケーションを取り続ける。
それが愛だっていうのは僕はしっくりきているんだけども、それゆえに人を殺すっていうのはちょっとどうかと思うので、
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愛をどこかで諦めるとか、愛をここで止めておくとかっていうのは、
まあ判断した方が、適宜判断した方がいいんじゃないかと思いますね。
だから前提がおかしいんですよね。コミュニケーションは僕たちはできないし、
会話不可能、対話不可能である、理解不可能な存在である。お互いに。
それでもコミュニケーション可能かもしれないと見なして関わっていこうとする姿勢、それが愛なんだけども、
それをデフォルトで埋め込まれちゃうと、愛が義務になり呪いとなる。
コミュニケーションできない相手を殺してしまって、愛を終わらせようとする。
それはあまりにもどうかなと思いますよね。
だからだったら、デフォルトで愛じゃなくて、コミュニケーション可能な他者と見なさないということを意識的に選択する。
見なそうとするという状態、見なせないかもしれないという状態、そこに自覚的である。
ということが一見ね、すごいドライで冷たく見えるかもしれないけども、
殺し合わないためには、とても必要なことなんじゃないかなと思いますね。
愛すことは悪いわけじゃないんですよね。
愛していいんだけども、愛を義務化してしまうと、それは殺そうしかなくなっちゃうんで、とても危険だなって思います。
次回はですね、僕が個人的に今後コミュニケーションをどうしていこうかなっていう話をしたいと思います。
コミュニケーションと呪いは結構大きなテーマなんですけども、
一旦現時点の自分がどうしていこうかと思っているかというお話をしたいと思っています。
本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。
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