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2021-06-10 14:50

#383 愛とコミュニケーション:相手をコミュニケーション可能な他者とみなすこと

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コミュニケーション可能な他者とみなす主体として、またコミュニケーション可能な他者とみなされる客体として、これから私は理性的な愛に生きることを心に決めた。/【「牛を忘れる」by Muro de Muralla】 愛とコミュニケーション1 https://open.spotify.com/episode/5cdSGpUUhqIyRFVZhBqrlT?si=S6H_Bw5vQGGhwiUWT8nVWw&dl_branch=1 愛とコミュニケーション2 https://open.spotify.com/episode/23gJgRStitJ1hvGwuIjH4F?si=wX8PrlzLSYyerwb4xOYxrw&dl_branch=1 /話の元ネタはこちら【脳内議事録】 https://note.com/y_uemizu/n/nc4edaac44611 /シソフレ(思想フレンド)募集中!【秘密結社S.A.B】 https://forms.gle/cDFpZtHra1dAkPR66 /うえみずゆうき【@y_uemzu】  https://twitter.com/y_uemizu
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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、愛とコミュニケーション: 愛とは相手をコミュニケーション可能な他者とみなすことである、という話をしたいと思います。
今回いつも通りですね、ノート・有料マガジン・脳内議事録に書いたエッセイを元に話すんですけれども、このエッセイを元にですね、元にというか、このエッセイを読んだ
ムロさんというね、僕の友人がいるんですが、牛を忘れるのラジオというポッドキャストをやられているムロさんが、ご自身のポッドキャストの中でも、この愛とコミュニケーションというお話を、僕の記事を読んでですね、お話ししてくださっていると。
なので、今日また僕がこの愛とコミュニケーションというお話をしますけれども、僕の記事、そしてこの僕のポッドキャスト、そしてムロさんのポッドキャストという形で、かなり多面的にその愛とコミュニケーションについて語られているので、ぜひ僕の話だけでちょっとわかりづらい部分があればですね、ムロさんのポッドキャストの方も聞いていただけるといいかなと思います。
概要欄の方に貼っておきますので、ぜひお聞きください。
ブーバー一発ギャグの欧州みたいなってこう収集がつかなくなるっていうところでこのどこか中間のところでこの中間のグラデーションのどこかにちょうど良い何かがあるんだろうけどもそんなものを探っていけるほどのコミュニケーション能力を人類はおそらく持っていないのでなかなか難しいだろうというところでした僕自身もですねまあそういうふうに感じていたのでまあ
ヒアリングするぐらいの気持ちで皆さんが愛についてどう考えているのかなということを知るぐらいの気持ちで参加していました結果としてねまさか愛に目覚めてしまうとは思ってもいませんでしたがそんな感じで参加していました
結構な人数いました6人ぐらい喋ってたのかなで結構喋ってたんですけどもまあその人のために死ねるのが愛だとかまあ愛のハードル上がりすぎてるから一緒に食事をして楽しいと思える相手を愛してでもいいんじゃないかとか
まあいろいろあったんですよねあとは一部の例外を除いて僕はもう全人類を愛していると でもう一部の例外はちょっと覗くけどもみたいな感じでデフォルトで愛してるよみたいな人もいたいました
でまぁ後は愛と性愛の違いとかそれをくっつけたのはジョンレノンであいつは先般だみたいな話だとか いろんな話ありましたね強いものが弱いものを愛するみたいな話もあったし
いろいろいろいろあったんですけどもどれも僕の中ではしっくりこなかったんですね でまぁそういう考えもあるのかぐらいに聞いてたんですけどもそこにねえっと冒頭お話しした室さんが
ですね 切り込んできましてちょっと話変わりますけどと愛の一側面に過ぎないと思いますがということで前置きを
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した上で古典ラジオっていうポッドキャスト歴史系のポッドキャスト番組があるんです けどもそのヘレンケラーの回そしてガンディーの回を引き合いに出してですね
彼ら彼女らというのは相手をコミュニケーション可能な他者とみなすことで まあ世界が変わったという事例であるというようなお話をしてましたまあヘレン
キラーに関してはまあアンサリバン先生というね 先生が家庭教師がですねこう目も見えない耳も聞こえない言葉もしゃべれない
ヘレンケラーをですねコミュニケーション可能な他者とみなして接した結果であるというふうに おっしゃってましたし今ガンディーに関しては逆に植民地支配されたインドのね
ガンディーはそのコミュニケーション可能な他者とみなされていない状態イギリスから見てですね みなされていなかったんだけども
コミュニケーション可能な他者とみなしてくれということでいろんな活動をして結果 みなされて結果独立するとインドが独立するという流れこれはまさに
コミュニケーション可能な他者とみなす その愛の行動の結果なんだというようなお話がありました
でちょっとねそのヘレンキラーとかガンディーって聞くとピンとこない人のためにもう少し 身近な例というかに置き換えてみると例えば
不登校の子供がいると不登校ってのは今でこそねまあだから別に何なのって大したことない じゃんっていう風な風潮も高まってきてますけども
まだまだマジョリティとしては学校に行ってないのとか どういうことって問題視してしまう人って多いと思うんですよね
でそれはまあ学校側の問題とするのかクラスの友達の問題にするのか本人の問題にするのか っていう問題の原因をどこに置くのかとか問題をどこととられるのかっていうのはあるんです
けども結構問題視する人は未だに多いのかなというものですよね でもこれって不登校の子本人をコミュニケーション可能な他者とみなしていれば単純に不登校のその
ことを話せば話せばというかコミュニケーションをとっていけば いいんじゃないかっていう話なんですよね別に問題視する必要もなくてその本人がコミュニケーション
可能な他者なのであればその本人とコミュニケーションすれば一番手取り早くて何の問題でもないと思うん だけども環境の方にいろいろ問題を置いていってその本人とはコミュニケーション
しないというねことって結構世の中に多いんじゃないかなと思うんですよね またえっとガンディ的な方で行くと例えば職場に超パワハラ上司がいるととても自分の
ことをコミュニケーション可能な他者とみなしていないなというような上司 まあ自分もまるで奴隷のように使っている上司がいるとしてもその上司になんだろうな自分
自身をコミュニケーション可能な他者ですよとみなしてもらうために根拠ね コミュニケーションをとっているかとそれは単純に挨拶するとかいうだけの話じゃなくて
ガンディのようにねあの手この手でいろいろやって認めさせるって方法あると思うんですよね 僕も20代前半の頃に宅急便のアルバイトをしてたんですけどもその上司が
もう本当にね 絵に描いたようなパワハラ上司で明確にアルバイトのことを奴隷って言語化して
ましたからね とんでもない人だったんですけどもそのとんでもないそのパワハラ上司も3年間ぐらいかけて
僕はやっぱその仕事も一一倍頑張ったし その人とのコミュニケーションも頑張ってきたんですよね その
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怖い奴隷の長として接するんじゃなくて人間として頑張って接した結果 後半はですねすごく信頼関係が築かれたなぁという
ある種僕の成功体験としてあるんですけどもやっぱりコミュニケーション可能な他者とみなす もしくはコミュニケーション可能な他者とみなされるというそれによってですね
そこに信頼関係って生まれるよねそしてそこのプロセスこそがまさに愛だなぁって 室さんの言葉を聞いてですね自分を振り返る時に思ったんですね
でとても大事なことなんですけどもその大前提としてコミュニケーションの不可能性を実感してないと まあコミュニケーション可能な他者とみなすみたいな言葉自体が何の意味もなさないんですよね
例えば今年梅雨って観測史上統計的に見て史上最速の梅雨入りですとか九州南部で言えば 統計史上2番目に早い梅雨入りでしたみたいなことを言われてるんだけども
梅雨って何なんっていう話なんですよね気象庁が思うというか定義する梅雨と僕が感じる 梅雨っていうのは一緒なのか多分きっと違うしこれを聞いている皆さんが思う梅雨っていうのも
きっとなんかズレがあるはずなんですよね てかそもそも梅雨って春なのか夏なのかそれともそれ以外の何かなのか
それは僕たちが話し合う中でいや春でしょうとか夏でしょうとかいや春でも夏でもない でしょうとかっていう意見がそれぞれあると思うんですよね
でこれもその三択とかじゃなくてやっぱり無限に近いグラデーションの中にそのニュアンスがあって 個人個人の中にあるその梅雨というイメージはどこまで行っても
完全に共有されることはないと思うんですよね こういう何だろう完全に断絶された絶望的なままでに断絶されたこのお互いのが
コミュニケーションを取って理解し合おう共有し合おうというコミュニケーションの不可能性を実感していないと
コミュニケーション可能な他者とみなすみたいな言葉の重みが伝わらないと思うんですよね 実際にそのクラブハウスの対話の場でも
室さんがその言葉を言った時に僕はグサッと育ってですねその後のいろんな対話が結構 もう頭に入ってこなかったんですけども周りの人たちはね結構さらっと流してですね次の話を
してたんですね 僕は元室さんがコミュニケーション可能な他者とみなすといった後ずっと自分のそのさっきの
卓球日の経験とかいろんな経験人生経験の中でコミュニケーションって 愛だなぁとかってことをずっと頭の中で考えてたんですよね
はいでだからそのコミュニケーションの不可能性を実感していない状態だというコミュニケーション を取れているという錯覚ね例えば日本語通じる趣味が合うねとか
共通の知人多いよね感じいいよねみたいなコミュニケーション取れているような感じに 思い込んでいるとかもしくはコミュニケーションを取れることが当たり前でしょって思ってるパターンもありますよね
例えば家族とか恋人とかでどうしてわかってくれないのみたいなシーンってよくありますよね どうしてわかってくれるってそもそも断絶されているこの
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存在と存在が分かり合うというのは相当なハードルだからその分かってくれるの前提と思っている こと自体がコミュニケーションの不可能性を実感していないという人の発言かなというふうに思いますね
だから分からない者同士が分かり合おうとするその営みそのもの そしてそれはそのプロセスを経てきっとコミュニケーション可能なんだろうなぁと思うことその決意というかね
その心意気みたいなものが愛なんじゃないかなというふうに僕は思ったんですね 先日そのとある
公園のベンチ僕は座って一人で座ってたらその横らへんにですね3人組の若い女性が やってきて楽しそうにお話ししてるんですよね
ネギ塩を最初に作ったの誰マジ天才なんだけどみたいな 分かるマジそのネギ作った人って天才だよねみたいな
塩昆布もいいよねわかるマジそれみたいな 隣にいてね頭がおかしくなりそうになったんですけども
でもそれは何か理解し合うとかそういう話 ではないと思うんですよねきっと彼女らは共感をしたいがために何か言ってる
なんか言葉を発せる共感したがためにネギ塩とかネギとか塩昆布とか言ってるんですよ それは何か共有するためなくて共感するために言っていて
でなんで評価するために言ってるかっていうとセロトニンが出るからだと思うんですよね セロトニンを出すためだけに言葉を用いているセロトニンを出すためだけにネギ塩やネギや
塩昆布について走っているということだと思うんですけどもまあネギ塩とは何か ネギと何か塩昆布と何かその3つをいいねと言ったけど本当にお互いいいねと思ってる
ポイントは一緒なのかそういったことを探る対話ではなく なんかキーワードに反応していいねっていうことで出てくるそのセロトニンを頼りにしていると
これはですねドーパーミンを出すために体を使う 快楽を追求するために体を使うセックスみたいなものと何ら変わらないような気がする
ドーパーミンを出すかセロトニンを出すかの違いな気はしていて 別にそれが悪いというわけではないんだけれどもまぁそれがそしてコミュニケーション
ではないかといえばコミュニケーションだとは思うんだけれども より原始的なレベルのコミュニケーションかなというふうに僕は思ってしまいます
彼女らですね3人組の女性というのは公園でセックスしているようなものかなというふうに 僕には見えました
なのでやっぱり概念的な何かであるとか複雑な自分の状況とか心境みたいなものを他者と共有する
っていうのはものすごくハードルがあるこれものすごくハードルがあるって言ってる けれどもハードルじゃないですねこれも山ですねエベレストなんですよ
エベレストを超えなければ共有できないというかエベレストを登ったところで 共有できているのかすらわからない
それぐらいの断絶が私たち人間同士にはあるということなんですよね でこの絶望的なまでに断絶された他者とのコミュニケーションの不可能性を実感した
その上でですね相手をコミュニケーション可能な他者とみなす これはねもう本当にね勇気のいることこれはもう本当エベレストを登るって決める
そういう覚悟を通ずるものがあるんですよね 他者っていうのはもうそびえ立つ山々のような何というかとてもね登れそうにない
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簡単に殺されてしまうようなそういう存在だと僕は思っているんですね それぐらい僕たちは何も分かり合えていない何も分かり合えていないんだけれども
それでもきっと共有できると信じてコミュニケーションを決意する それって紛れもなく愛だなぁというふうに思うんですよね
でまぁ今回話した話っていうのは一般的にイメージされるこう 包み込むような愛情動あふれる愛的な何かについては触れていません
あくまで猫理性に基づく愛理性的な愛の定義として相手をコミュニケーション可能な他者とみなす というふうに僕はですね
これがまあ僕の思う 理性的な愛の定義だというふうに採用したところでございます
でこれを踏まえてですね僕はまあ愛に生きようと理性的な愛に生きようと思ったわけです けれどもそれは決してすべての人を愛するとかそういうね壮大な話をするつもりは
ありません 僕は常々ですね人間関係は距離感だみたいな話をこのポッドキャストでもしてきました
でそれはある種コミュニケーション可能な度合いみたいなものを距離で測っていくとはこれぐらいの コミュニケーションができるんだったらこれぐらいのとこまで行こう
これぐらいコミュニケーションできなかったらこれぐらい距離を取ろうという感じでコミュニケーションの可能性 みたいなものを距離感で人間の距離感で調整すればストレスないようみたいな話をして
いたんですがそれって本当に愛のない行為なんですよね コミュニケーション可能な他者とみなさないという行為実際にこれぐらいのコミュニケーションができるんだ
なという事実というかね体験に基づいてこれぐらいの距離で言おうっていうのはすごくね 合理的な判断ではあるけれども
愛ではないんですよね事実これぐらいの話ができたからこれぐらいの距離感で言おう その方が楽だから事実これぐらいの話ができなかったからこの人とは距離を置こう
みたいな話っていうのは全く愛のないコミュニケーションだなぁとちょっと反省とは言わない けれども愛がなかったなぁというふうに思います
自分が愛を出したいなぁと思った時それは今までだったらじゃあ入って何だろう って話だったんだけども自分の中でね
相手をコミュニケーション可能な他者とみなすという具体的なね定義を自分の中に置いて ますので愛を出したいなぁと思った時にはその相手はですねコミュニケーション可能な他者と
みなしてレベルレストを上る覚悟ですね接するとそういう具体的な何かになったっていう のはとても僕の中では素晴らしいことだなというふうに思っています
この場を借りてですね室さんに感謝申し上げたいと思います室さんありがとうございました コミュニケーションは想像以上に愛でした
皆さんもぜひね愛とは何か考えてみてほしいですしそしてコミュニケーションと愛に ついてのこのお話ですね愛とコミュニケーションの話を聞いて
どのように思ったかというところも踏まえてですねまたコミュニケーションを見直して いただけると面白いんじゃないかなと思いますぜひね室さんが話されている愛と
コミュニケーションについても聞いてみてください本日は以上ですまたお会いしましょう さようなら
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