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2020-10-26 10:48

#165 信じるでも信じないでもなく

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同じ要領で「信じる」と疎遠になってみる。遠くに行って、豆粒みたいに小さくなって、やがて消え去る。信じるでも信じないでもない、ニュートラルな状態はその先にある。これを信じるか信じないかは、あなた次第である。


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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、信じるでも信じないでもなく、というお話をしたいと思っています。 人を信じる系のね、お話っていうのは以前もさせていただいて、その時は確かですね、
むちゃくちゃ解像度を上げていって、いろんな判断軸で見ていけば、信じれるポイントがあったりなかったり、みたいな、そういう判断軸を増やしまくって、漠然と人を信じるんじゃなくて、要素で人を信じるみたいな、
そんなお話をしたんじゃないかなと思うんですけども、それはそれでいいんですが、ちょっとまた違った切り口で、人を信じる信じない問題についてお話ししていきたいなというふうに思っています。
人のことをね、誰かのことを信じるって言うけれども、一体何を信じているのか考えてみると、多くの人はですね、全体的にぼやっとその人のことを信じている、みたいな状況なんじゃないかなと思うんですね。
それで言うとですね、例えば、あんまりガジェットに詳しくない方が、例えばApple製品を買うというか、購入を検討するときにですね、
Apple製品なんだから、まあいいんでしょうね、みたいな感じで、スマホの用途としてはSNSとかNetflixとかしか使わないのに、iPhone12 Proを買おうとしてます、みたいな。
という人がね、時々いるんですよね。すごいそういうあんまり高度な使い方をしないのに、専門的な使い方をしないのに、最新の機種を持っちゃっているみたいな人がいてですね。
これなんかは、ものですからちょっとわかりづらいかもしれないんですけども、人を信じるというのもある種こんな状況になっているんじゃないかなと思うんですね。
なんか漠然と信じちゃってるけども、あなたが信じるべきはiPhone12 Proじゃないですよね、みたいなことになっちゃうと。
でも世間一般から見ればとか社会的に見ればiPhone12 Proはすごいクオリティが高いよねとかすごいよねって話なんだけども、
一人一人個人で見たときにそのクオリティがマッチしてるのかってことなんですよね。
そのクオリティがマッチしてないんであればクオリティが高いか低いかじゃなくて、クオリティが高くても自分に合ってなかったらそれっていいものじゃないじゃないですか。
なので人間関係もそうでクオリティが高いとか低いとかっていうね、いい人悪い人みたいなこと言うけども、自分に合ってるか合ってないかってことなんですよね。
その辺をやっぱりよく考えないといけないなと思いますね。
なので信じると言ってもですね、ぼやっと信じてるだけだとちょっと危ないのかなというふうに思ったりします。
で今のねiPhone確かにそうだな、最新機種持つ必要ないのに持っちゃってるなみたいなとかそういう人いるよねみたいな感じで理解はよくしてもらえるんですけども、
いざ人の話になるとちょっと繋がらないって方が意外と多かったりする印象です。
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さっきのiPhoneの話だと、要は自分が知識不足というか情報不足で、要は見る目がなくて、誤った商品を買ってるというか、
全然iPhone SEでいいじゃんっていう人が倍近くするiPhoneを買ってるわけじゃなくて2倍のお金を払っちゃってるみたいな感じになっちゃうと。
それは見る目がないと言ってしまえばそれまでなんですけど、見る目がないということになると思うんですね。
人間関係もそうでミスマッチがあったときに漠然と裏切られたとか、自分はこんだけ尽くしたのにとか言って怒ったりしてますけども、
iPhoneと一緒ですよ、2倍もお金払わされたとか言っちゃってるけどもみたいな、それはあなたが知らないからそうしちゃったんですよねみたいなことと一緒で、
人間関係もきっとそうなんですよね。見る目がなかったという話にもなるし、もしくは関係性の中でそういう関係を作ってしまったとかね、いろいろあるんじゃないかなと思います。
何が一体かというと、じゃあ100万円貸してくれって言われて、友達から100万円貸してって言われて貸したとしてね、
その100万円を踏み倒されたと、じゃあそれ裏切られたんですかと。またはすごい仲のいい4人組でグループ、いつも4人で遊んでるのに、
自分だけ呼ばれない3人で遊んだ回があったらしい、裏切られたんですかと。もしくは仲のいい友達と遊ぶ約束してて、当日ドゾキャンされてしまった、
それって裏切られたんですかと。それぞれ全然質が違うというか種類が違うんだけども、人によってはどれも裏切られたと思うし、
人によっては100万円貸して逃げられて裏切られたって思う人もいるし、人によってはどれも裏切りとかじゃないよねって思う人もいるって感じで、
解釈の話なんですよね。そこで起こっていることは、100万円が自分の手からその人の手に渡ったと、それが返ってこなくなったという事実があるだけであって、
それをどのように解釈するかというのは、結局個人の問題なんですよね。その時に、信じてたのに裏切られたって発狂してもいいし、
人を信じすぎてしまったなという感じで、自分の信じすぎたことを反省してもいいし、もしくは返済能力のない人間にお金を貸すとこんな感じになるんだなという事例としてストックしてもいいですし、
その事実をどのように捉えるかというのは、個人の意味付けの問題ですよねって思うわけです。
そう考えると、信じるって言っても結構大変だなと思いますね。以前話したように、要素で信じる。
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例えば、この人はすごく丁寧だから、その丁寧さは信じるとかね。でも丁寧だからって言って、何もかも全て信じるって意味が分からないですよね。
丁寧な部分だけ信じればいいじゃないっていう。ここできっとこの人は一発逆転、面白い大きな笑いを取ってくれると信じることはいいけども、
常日頃から笑いを取るとは限らないとかね。何か一個信じれるからといって全体的にぼやっと信じるっていうのはやっぱり危険なのかなと改めて思ったりするところでございます。
じゃあ危険危険って言ってますけども、ぼやっと信じてもですね、さっき言ったみたいにそこで起こることっていうのは事実でしかないので、
解釈さえ自由にできれば、自由に意味付けさえできれば、ぼやっと信じていてもいいんじゃないかなと思ったりもするところでございます。
例えば100万円貸してみて帰ってこなかったってことの時に裏切られたって言って傷つくんであればそれはちょっとぼやっと信じない方がいいよって思うけども、
あ、こんなこともあるんだなぐらいに思えるんであればそれは別にいいんじゃないかなと僕は思います。
なのでぼやっと信じたい方はですね、起こる物事に対して解釈をですね、なるべく都合の良く解釈をした方がいいというか、
あんまり人のせいにしたりとか怒りが爆発するようなとかフラストレーションが溜まる方向の解釈じゃなくて、
学びになるような解釈にしていけばぼやっと信じて何が起ころうとそれはまあいいんじゃないかなと僕は思います。
そんなことを言うとですね、なんだそんなお金貸して帰ってこなくてそれをポジティブに考えるとか無理だよって思うのであればですね、
まさに今日のタイトル信じるでも信じないでもないというね、境地に脱するのがいいんじゃないかなと思います。
ニュートラルですね、信じているわけでもないし信じていないわけでもないというニュートラルな態度、これをねお勧めしたいですと。
そんなの信じるより難しいでしょうと思うかもしれないんですが、それはねちょっと難しく考えすぎなんですよ。
どういうことかというと、あの例えばね、皆さんがまあ今すでに大人だとしてですよ成人してるとして、
小学校3年生の時のクラスメイトの名前を全員フルネームで言えますかって話なんですよね。
おそらく言えないと思うんですよ。なぜ言えないかっていうと、まあ日常から消えてしまっているからなんですね。
なので信じるでも信じないでもないっていうニュートラルな状態を作るためには、信じるっていう概念を日常から消し去れば、
信じるってなんだっけって話になるわけですね。なので日常から信じるっていうことを遠ざけていくというか、
信じるか信じないかみたいな議題はどんどん避けていくとかね、いうふうにしていくと、
信じるっていう言葉に触れる機会が減っていって、信じるとか信じないじゃなくて物事を判断するようになるんじゃないかなと思います。
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変に信じるっていう言葉が頭の中にあるがゆえに、信じるか信じないかみたいな判断軸ができてしまうと、
逆にね、そんな抽象的でよくわからない判断軸を捨て去った方がですね、より具体的な判断軸で付き合うか付き合わないかってことを決めることができると思いますので、
変にね、むちゃくちゃ抽象度の高い言葉を採用してよくわからないままぼやっと信じるよりはですね、
信じるとか信じないとかっていう概念そのものをですね、消し去ってしまえばですね、意外と合理的にというか、
要素で検討していけるんじゃないかなというふうに思ったりする、今日この頃でございます。
ちょっとむちゃくちゃなことを言っているように聞こえるかもしれないんですけども、あながち間違ってないかなというふうに思いますので、
信じるでも信じないでもないニュートラルな状態というのはですね、ちょっと検討してみてもらってもいいんじゃないかなと思います。
信じるでも信じないでもなくって言ってるのはですね、信じないっていう強烈な態度もまたそれはそれでですね、
なんだろうな、ぼやっと信じると同じようなものというか、固くなった態度がですね、あんまりこう、
良くないなと思ったりしますんで、なんていうのかな、そのいわゆる本当はそこ採用してもよかったじゃんっていう場面を
信じないっていう決め込んでいるが故にですね、断絶されてしまうというのはそれぞれ問題だと思いますので、
信じすぎるのも良くないし、全く信じないっていうね、固くなった態度も良くないなというふうに思いますんで、
本当はバランス良くっていう感じなんですけども、そのバランス良くっていうのは難しい方は、
信じるという概念ごとを吹っ飛ばしてしまいましょうというお話でございました。
本日は以上でございます。またお会いしましょう。さよなら。
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