1. 現象のラジオ
  2. 半生(1 幼少期)
2025-02-04 13:28

半生(1 幼少期)

spotify apple_podcasts

[第174話]

私の半生を振り返っていきます:生まれてから保育園を卒園するまで。

「存在としての公園」

現象は、「存在としての公園」をコンセプトに活動している、上水優輝(うえみずゆうき)のソロプロジェクトです。

完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、場づくりを中心にさまざまな活動を行なっています。

自らを公園的なるもののシンボルとすることで、あらゆる空間を公園のように多様な人々を包摂する場へ。一体どんな現象が起こるのか、あなたもぜひ現象の公園に立ち寄ってみませんか?

00:07
皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園のコンセプトに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
さて、今回からですね、私、上水優輝は何者なのかという、自己紹介ポッドキャストをやっていきたいなと思っているんですけども。
時系列で、生まれたところからですね、39歳現在に至るまでを話していけたらなというふうに思っています。
もちろんね、記憶もだいぶないですし、細かいことを挙げていくと膨大な時間がかかってしまいますので、かなりかいつまんでね、各時代ごとに話していけたらと思っているんですが、おそらくですね、約10回ぐらいにわたって話すことになるかなと思っています。
まず、福岡市に生まれたらしいですね。
結構はちゃめちゃな父だったらしく、2歳ぐらいの時に両親が離婚して、母の実家がある福岡県高輪郡川崎町に移り住みました。
なので、僕はですね、父の顔も名前も知らない。しかも僕は20代半ばの頃に亡くなってしまったので、結局会わずじまいでした。
いつかね、家系図を作るとかやってみたいなと思っているんですけど、その時初めてね、名前とか父方の方の親族みたいなものがこんな感じになっているんだろうみたいなことをね、自分のルーツを知るみたいなことはやれたらいいかなと思っているんですけども、
まあ今現在ですね、母方のなんとなく顔を見たことのある親族が僕の親族という感じですね。
特に関係が強かったのは、まず母と姉ですよね。ここは基本の家族で、シングルマザーの家庭で3つ上の姉と3人暮らしをしていました。
結構仕事を掛け持ちで夜まで働いたりとかしたんで、祖母の家に預けられたりとかもして、結構祖母との関係も深かったですね。
03:03
祖父が結構早い段階から認知症になって、施設に入ってとかという感じだったんで、あまりね、幼少期の頃は祖父とも関係があったんですけども、あまり深く関係がなくて、
祖母、母、姉のですね、女性の中で育ってきたっていうような感じだったかなと思います。
僕の最初の記憶、妄想と記憶の境目がわかりませんけれども、記憶と結構自信を持って言えるのは、4歳ぐらいの保育園に初めて登園した日ですね。
それまで、母と離れることっていうのはなかったんですけども、なかったことはないか、入院を結構してたんで、そういう時以外は母と離れることはなかったんですけども、
突然その保育園の初登園の日に、クラスにですね、じゃあ今日からっつって放り込まれて、お母さんも多分僕に言うと、多分嫌がるからあまり説明せずに登園して行くというようなことがあったんですけども、
その時のね、母の感じとかも覚えてますね。結構心配そうに見つめながらですね、去って行きましたね、クラスのドアの向こうからね。
で、僕はしばらく号泣してたんですけども、一人の同級生っていうんですか、同い年のクラスメイトが、巨大なレゴブロックみたいなものを手渡してくれて、そこからですね、初めて同級生との交流が始まりました。
まあそれまでね、子供をほとんど見たことがなかったというか、公園とか広い場所で見ることがあっても、そういう狭い空間に何十人という同い年の人間と空間を共にするみたいなのが初めてだったんで、すごいね、恐怖でしたけども、
そのブロックを渡してもらって、カケル君っていうんですけどね、カケル君と過ごしたところからちょっとね、落ち着いてきたみたいな、なんかそういう記憶がすごいね、強烈に残ってますね。
4歳の半ばから保育園って結構遅いのかなと思うんですけど、なので、かなりね、そのクラスの中に関係性が出来上がっているし、序列が出来上がっているので、すごくね、移民の気分というか、自分はそこの国の人じゃないっていう感覚で、すごくね、異国感があって、
06:16
すごくね、居心地は良くなかったですね。ずっと端っこに居て、で、カケル君がいつもね、話し上げてくれて、もう一人、ツトム君っていう、その3人でね、遊ぶことが多かったかな。
とにかく大人しい子供だったかなと思います。それで言いながらですね、病弱だったんで、小児全足と言われますけども、基幹士全足で結構ひどかったんですよね、咳が。
なので、保育園時代、始まったのもね、4歳半ばと遅かったんですけども、通い始めてからも、おそらく半分近くか半分以上は入院生活でした。
保育園のね、断片的な思い出と同じぐらいですね、病院のシーンをいくつかね、覚えてますね。特に天敵の遅さとか、天井の模様とかですね。
なんかゲームとかも、なんかもらってたわけでもないので、与えられてたわけでもないし、なんか本を読めるほど、なんていうかな、字も読めないし、絵本を読むような文化も自分の家にはなかったんで、天井の模様を眺めて過ごしてるという妄想しながらですね。
なんかそんな幼少期だった気がしますね。
そんな調子ですから、人間関係がすごく難しくて、入隊に繰り返していたっていうのが多分一番大きいですけど、また退院して数ヶ月後とかに戻ってくると、またそのクラスの中の関係性みたいなのが変わっていたりするので、難しいんですよね。
またゼロから、ゼロからは言い過ぎだけど、その関係が薄まったところから関係を再開しないといけない、みたいなところで。
かけるくんとつもくんは最後まで仲良くしてくれた気がするけど、まあでも、なんか特別仲がいいっていう友達もできなかったなっていう感じがしますね。
全然人格形成とは関係ない気がするけど、覚えていることを少し羅列して終わろうかなと思うんですが、
つとむくんはゴミを食べれることをどうやっていて、ちょっとゴミ食べるから見ててとかって言って、その辺に落ちてるゴミを拾って食べてました。
あと、給食の時に僕は玉ねぎが食べれなくて、大きい玉ねぎが食べれなくて。
なんか牛丼とか親子丼とかちょっとわかんないけど、そういう丼系の玉ねぎが大きい時に、しかもね、残さず食べなさいみたいなやつだったので、残すってことができなくて。
09:11
やむに余れずですね、隣の人の丼に、あの、隣の人がよそを向いている間に玉ねぎを入れるってことをやってました。
あと、3時のおやつでホットミルクが毎回出てくるんですけど、ホットミルクの上に貼る膜が気持ち悪くて、毎回ホットミルクを飲んで吐いてました。
毎日応答していましたね。
あとは、最後の学年の時には、文字を書く練習とかもさせられてたと思うんですけども、植水有機の木が逆さまにしか書けなかったのを覚えてます。
なんか、わかっていても逆さまになってしまうみたいな、なんかそういう記憶がありました。
あと夕方、お迎えに来るみたいな時に、結構ね、時間が遅くなってくると子どもたちも減ってきて、保育士さんもだんだんリラックスというか、素の状態になってきて、
なんかそれがすごい良かったですね。
普段、保育士として振る舞おうとしているところから、一人の人間に切り替わっていく様とかが、人間だなって、人間だなって思ったわけじゃないけど、なんだろうな、すごい違う一面が見れていいなと思って、
母にですね、なるべく遅めに迎えに来てくれって要求したのを覚えてますね。
なんか後半になってくると、ラジカセからその保育士さんが好きな音楽とか流し始めて、牧原のりゆきのですね、どんな時もとかがね、よく流れてました。
結構思い出の歌というか、その時の景色と歌がリンクするなと思ったりします。
あと家に帰って夕食の準備を母がしている間、テレビの前に座ってたんですけど、アニメがあってて、
北斗の剣があってましたね。北斗の剣をよく見てました。
卒園式の時に、自分でね、事前に録音したカセットテープ、なんか音楽が鳴ってて、
そこにカセットテープで自分が吹き込んだ将来の夢が流れるみたいなのがあったんですけど、あれどうしてたのかな?
多分、ピアノは生演奏で、その音声だけはカセットテープから流すみたいなスピーカー繋いでですね、やってたと思うんですけど、
12:11
将来の夢は花屋さんになりたいですみたいな、なんかそういうやつですけども、僕はね、警察官になりたいですって言った記憶がありますね。
で、実際、当時は5歳6歳ですけど、警察官だって思ってましたね。
まあ、細かいことを挙げるともっといろいろありますけども、とにかく病弱で、すごく大人しくて、
保育園のコミュニティというかね、そのクラスにうまくなじめないまま卒園したというような幼少期だったかなというふうに思います。
今日はここまでにして、次回ですね、小学校時代についてお話ししていきたいと思います。
本日は以上です。
13:28

コメント

スクロール