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2022-03-12 09:20

#444 お疲れ様でした

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ほんとうにお疲れ様でした。


脳内議事録】 noteマガジン、認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。エッセイ、音声、音楽などさまざまなかたちで頭の中を晒しています。 サイコパスのラジオ、前シーズン以前のエピソード(Podcast上にないエピソード)はすべてこちらでお聴きいただくことができます。

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みなさんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、お疲れ様でした、というお話をしたいと思っています。
奴隷合宿ですね。書物による自己変容の奴隷合宿ということで、インプと奴隷合宿なんですけどね。
まあそういうネーミングで、書物による自己変容の奴隷合宿というネーミングで、の熱伝合宿に行ってきたんですけども、
そのあたりからですね、結構怒涛で、 合宿から帰ってきて、ちょっとしたら
まあ、暗いな進行ですよね。 それについては詳しくは触れませんけれども、そういうことが起こって、そんな大丈夫ですかって思っていると、今度ですね、
2月末ですね、僕の祖母がですね、亡くなりました。
これはですね、 ちょいちょいいろんなところでお話ししてるんですけども、
祖母がですね、どういうか、 ずっとね、
人工透析をしてたんですよね。まあ人風伝ですよね。 腎臓がもう機能しなくなって、自分の体で解読できないから、その機械を使ってですね、
週何回か透析をするっていうようなせっかとしてたんですけども、もともとですね、 祖母はですね、透析なんかしたくないと、そんなことするぐらいならね、死んだ方がいいということで、
医療拒否でですね、 やってたんですね。10年前、十数年前ぐらいから、そんな感じで生きてたんですけども、
ある日、それこそもう限界を超えてね、意識不明の渋滞になっているところに、たまたま親戚がね、
訪れたと、祖母の家に。で、 意識不明だから救急車呼んでってすると、まあ
救急搬送されて、 祖母が目覚めた時には、
蓋がつながれているというようなことがありました。 僕はですね、これがすごく、当時25歳とか6歳とかだと思うんですけども、
すごく許せなかったんですよね。 結構雰囲気的には、その、見つかってよかったねみたいな、一命取り留めてよかったねみたいな、すごいそういう空気だったんですけども、
僕はですね、 なんで死なせてあげなかったんだっていう、すごい
息通りを感じたというようなことがありました。まあ今思えばですけども、 救急車呼んだのは親戚だし、そんなね、祖母の意思がどうだったかということは、その知らないだろうしね、
危ない人に救急車呼ぶのは普通のことだと思うし、じゃあ病院は病院で搬送されてね、そういえばこの人はもう
どうせ来たくないって言ったから、まあ 死なせてあげようというわけにもいかない、運ばれてきたからには、その医療行為しないといけないだろうし、とかね
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でなんだかんだ助かった、その祖母を見てね、 よかったねって思う家族の気持ちってのもあったと思うんですけども、僕個人としてはですね、
まあ そういう細やかなところが、当時は特にですね、理解できなかったので
許せなかったというか、 何をしてるんだと思ったんですよね。で実際こう
祖母はね暴れたらしいんですよね、その同席をしたくなかったってことで、だから暴れるね、あの暴れると良くないからってことで、ベッドにこう両手をこう縛り付けるみたいな
あのやるんですよ、そのあまりにも暴れる患者さんとかにはやるんですけども、別に頭がおかしくなって暴れてるわけじゃなくて、本当に嫌だから暴れてるって
いう意味で言うと、とても非人道的にも見えますよね、見方によってはですね、僕はそういうふうに
見てしまいましたね、見てしまったし、今もなおその周りの人のいろんな文脈を考えると、しょうがないとはいえ
総合的に考えるとですね、非人道的な感じがするなぁと思っていますね
でも結果その一味を取り留めた祖母がですね、約10年弱、その同席をしながら生きてきたということで、その間いろいろあったんですけどもね
まあこの今年ね、亡くなったと
で彼これ僕は4,5年実家に帰ってないんですけども、よく考えると祖母がね入院してなかった頃、その同席してたんだけどまだ実家で暮らしてた頃っていうのは
まあ正月とかにね、顔見せに帰ってたんですけど、まあもう祖母が入院してしまってからはですね
まあ地元にも帰って、タガンっていうね地元に幼児はあるんだけども実家にも帰ってないんですよね、幼児が、幼児がないってちょっとおかしいけども
えっとまあなんか帰ってないですね
何度かですね、こうちょっとヤバいよっていうお知らせを受けて何回かそういうのでですね、帰ったんですけど
3年前ぐらいかな、祖母がまたヤバいよっていうね、本当あと数日かもしれないって言われて一回帰ったら
まあ何とか持ち直して、ただその時にですね僕はもう覚悟を決めまして、まあ
今回が最後だというつもりでですね、その3年前に祖母とね、面会をしました
その後はですね、母であったり姉であったりというね、近くに住んでいる親族がですね、経過をずっとね追っていただいてたので僕はですね
まあ個人的にそこでね
まあ心をね
決めたとしたらいいんですけども、お別れをしたという感じです。そこから3年経ってですね
今年 ついにですね、亡くなったというお知らせを受けました。葬式にですね行ったんですけども
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一番乗りだったんですね、一番最初に着いてで観音家の中でですねおばあちゃんを見て
いい顔してたんですよね。3年会ってなかったからどんな感じかなって思ったんですけども
もちろんね、あのお化粧して綺麗にしてもらってるっていうのもあるんですが、すごいいい顔しましたよね
なんか お疲れ様って本当に思いました
で、だから本当悲しいとかってよりは本当にこうお疲れ様という、もう本当それだけなんですよね
良かったとか言っちゃちょっと語弊があるかもしれないけども、苦しみからねある意味解放されたとか
あとはその本人がずっとね、自由にこう自分の体で自分でスキンできないんだったら
もうしんどいから死んだ方がいいよっていうその潔さというかそのスタンスであったからこそですね
なんかこの10年間というのは本当に見ててこっちも苦しかったなって思うし
本人はとても苦しそうだったなって思うので、そういう意味でお疲れ様でしたっていう感じでした
で、やっぱりね、僕個人としてはそういう気持ちなんですけども、母とか姉とかがですね
やっぱりその葬式の時にお化粧してるのを見るとそれは悲しかったですね
まあ、祖母には本当に世話になったんですね。うちはちょっと母子家庭だったんで
結構ね、そのお母さんが働きっぱなしだったのもあってですね
夏休み中とか冬休み中とかね、結構祖母の家に預けられてたりとか
僕がね、結構病弱でその結構入院してたりしたんですけども
そういう時にお見舞いに来てくれたのは祖母だったりしたしですね
結構祖母から育ててもらったっていうのはありますね
もちろん母にもね、かなり育ててもらったんですけども
うちの場合はね、お父さんはいなかったので、お母さんとおばあちゃんに
祖母にね、育ててもらったっていう感じですよね
結構ね、その祖母のね、あっさりしたコミュニケーションみたいなのがね、僕ね
すごい好きで、なんていうのかな
ドライなんですよね
ドライなんだけど、でも行動は面倒見がいいっていうか優しいんですよ
コミュニケーションはあっさりしてるけど、行動は優しいみたいな
それは結構ね、今でも僕は理想の人間像みたいな感じでリスペクトしてますね
結構ユーモアが溢れる感じで面白いことをね、サラッと言うんですけども
くどくないし、あくまであっさりしてる
全然粘着質な感じがしないというかね
でも行動は優しいみたいな
なんか、そういう人間になりたいなと思いますね
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わざわざね、こんなところでこういう話をする必要はなかったんでしょうけど
なんとなくね、話しておきたいなと思って話しました
またお会いしましょう、さよなら
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