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2025-02-11 32:03

半生(6 バンド時代)

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[第179話]

私の半生を振り返っていきます。地元を離れて福岡市へ。バンドマン時代の生活を振り返ります。

「存在としての公園」

現象は、「存在としての公園」をコンセプトに活動している、上水優輝(うえみずゆうき)のソロプロジェクトです。

完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、場づくりを中心にさまざまな活動を行なっています。

自らを公園的なるもののシンボルとすることで、あらゆる空間を公園のように多様な人々を包摂する場へ。一体どんな現象が起こるのか、あなたもぜひ現象の公園に立ち寄ってみませんか?

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。完全招待生の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園のコンセプトに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。前回、高校卒業後からのお話をして、3年間くらいかな、田川でですね、アルバイト生活をしてたんですけれども、
そこからですね、福岡市に移り住むというところまでお話しました。今回はですね、21歳、2歳、大学4年生になる年かな、
くらいから福岡市に引っ越してきたというお話をしていきたいと思っています。前回のおさらいなんですが、高校卒業後ですね、
スーパーの品出しのアルバイトをしながら、結構ね、絶望的な気分で過ごしていたところですね、バイト仲間と一緒に遊んでリハビリを、心の回復をして、
そしてバンド活動もですね、ゼロから再スタートしてということでやって、福岡に移り住むと、メンバーに福岡に行かないかといったら誰も来ないということだったんで、
一人でね、何のあてもなく、また福岡の音楽を始めようというような気持ちでですね、引っ越しをしました。この引っ越しはですね、福岡に引っ越そうと思っているって話をバイト先でしていたら、
スーパーのね、パートのおばさまがですね、すごくよくしてくれていたおばさんがいたんですけど、が、福岡に不動産屋の親戚がいるからとか、息子が天神でアルバイトしてるから何か紹介するよとかって感じでですね、
特にこういう仕事をしたいとか、ここに住みたいとかもなかったんで、言われるがままその紹介を受けしてですね、福岡市南区七川っていうね、場所に最初住みました。
バイトはそのパートのおばさんの息子さんがやっている山豚乳ですね、黒猫山豚の宅急便をご紹介いただいて、天神エリアの午前中の配達のバイトをしました。
今でこそそうでもないと思うんですが、時給がね、結構千円スタートとかで、そこから頑張っていくと上がっていくっていう感じで、結構しんどい、肉体的にはしんどいんですけど、時給がいいということでですね、やってましたね。
福岡に住んで、一人暮らしも初めて、もちろん一人暮らしは初めてなんですが、実家にいたときにほとんど家事とかもやってこなかったんで、すべてがね、初めてでしたね、掃除、洗濯、自炊はあんまりしなかったけど、ちょっと自炊っぽいことをしてみたりとかですね、
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っていう生活そのものが結構新鮮かつ、やったことがないので非効率というところから始まり、バイトも肉体労働で、午前中でしかなかったんですけども、やっぱりその知らない町の知らないエリアを時間内に配達するというので結構疲れてました。
で、何しに来たかっていうと、音楽をしに来たんですが、音楽をする仲間が別にいるわけでもなく、どうしたもんかなという感じで、バイトをするだけの生活っていうのが1、2ヶ月続いたんじゃないかなと思います。
で、そんなある日ですね、マンションの管理人さんですね、1回出たところにいるんですが、結構ね、週4ぐらいでいたと思うんですけども、でまた僕がね、昼ぐらいに帰ってくるから、日中なんでお会いするんですよね。
で、「おはようございます。」と言って挨拶してたんですが、ある日ね、突然ブチギレられまして、「お前は福岡に何しに来たんだ。」つって、なんかすごいね、切れてるんですね。
で、僕からすると、「誰?」って感じなんですけども、なんかすごいね、心配してくれてたんですよね、たぶん僕のことをね。何かをしに福岡に来たんだろうけれども、どうも昼に帰ってきて、そっから家にこもって何もしてなさそうな、みたいなことをね。
くすぶってんだな、こいつってことを、なんかね、見抜いて、突然カツを入れてきた、70代、80代ぐらいのおじいちゃんだったんですけども、で、その時にね、「何しに来たんだ。」つって怒ってたから、「いや、音楽をしに福岡に来たんですけど、なんかバイトばっかりやってますね。」みたいなことを言って、
で、なんかその石橋さんっておじいちゃんだったんですけど、石橋さんに言われて、「そうだよな。」って思ってですね、すごいイライラしたんですけどね、いきなり怒られたんで、「なんだこのおじいさん。」って思ったんだけども、でもごもっともなことばかりだったんで、「そうだな。」と思って、
で、その日の夕方に福岡で何回かライブしたことのあるデカタンデラックスっていうライブハウスの中でですね、週3、4回開催されていたZETCHOTENっていうライブイベントに突然遊びに行きました。
その日、誰がライブしてるかとかも知らなかったんですけど、とりあえずもう行って。で、そこのですね、PAさんですね、音響をやっていた北さんっていう方がいたんですけど、北さんとはね、その何回かライブしたときに顔見知りだったんで、「お疲れ様です。」と。
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あの、ボランティアでいいんで、ただ働きでいいんで、ZETCHOTENのお手伝いさせてもらえませんか?ってその時言ったんですね。そしたら、北さんがね、「ちょっと人足りてるから、今は大丈夫です。」って断られちゃって。
石橋さんに言われたその勢いで、勇気を出して来たものの断られちゃったなって、どうしようと思ってたら、そこにですね、ZETCHOTENっていうイベントを開催しているライブハウスですね、その場所、デカタンデラックスのバーカウンターのスタッフですね、お酒を提供するエリアのスタッフが、その日で辞めてしまうということが発覚しました。
で、北さんが掛け合ってくれて、そのデカタンデラックスの店長さんに掛け合ってくれて、呼んできてくれて、その場で面接して、その場で採用が決まったという、結構奇跡的なタイミングでした。
で、その後はですね、デカタンデラックスに所属するスタッフなんだけども、主にZETCHOTENっていうイベントが開催されている日に、シフトに入るという感じで勤務してました。
このデカタンデラックスって結構クラブに力を入れている箱だったんで、あんまりね、そのライブイベントの時にバーカウンターに入りたいスタッフっていうのがあんまりいなかったんですよね。
だからちょうどこう都合で、僕みたいにバンドが見たくて、バンドに興味があって働きたいっていう人はこう都合だったんで、ZETCHOTENの時は漏れなく僕が入れないとき以外はですね、シフトに入るという感じになってました。
で、バーカウンターで週4ぐらいですかね、働きながら、山東県で朝働いて夜はライブハウスで働くっていう生活が始まって、1、2ヶ月した頃ですかね、北さんが無茶振りしてくるわけですね。
そういえば、前ギターボーカルしてたよねと。弾き語りできるんじゃないって言われて、そんなもんやったことないですから、やりたくないなって思ってたんですけど、まあなんかノリ悪いかなと思って、やりますって言ってですね。
上水裕樹という名義でですね、弾き語りのライブをZETCHOTENでやりました。それがね、何年か覚えてないけど、福岡に出た年の春ぐらいに出ましたから、夏かね、秋頃にやったんですね。
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で、弾き語りでライブをしたら、そのライブに高校生の時に一緒にバンドをしていたヒワ君がね、見に来てくれてたんですね。ヒワ君は、それこそ高校卒業前にバンドが解散した時にですね、残った、なんていうかな、僕だけ除名されて、もう一個のバンドで残ってですね、ドラム叩いてたんですよね。
で、それもやめてたんですよ、ヒワ君もね、その時期。で、そのお互いバンドやってない時期に、その僕のライブで再会して、ライブ良かったよと、またバンドしようよって感じで誘ってくれて、やろうかという感じで、高校1年生の時みたいなまた感じで、ドラムと、今度は僕はギターボーカルって形ではありますけども、またヒワ君と2人になって、じゃあ誰呼ぼうかみたいな、また2人からスタートしました。
で、どうしようかねって言ってたんですけど、北さんがですね、北さんの友達を紹介してくれて、ゆうすけ君っていうね、今でもお世話になっている先輩なんですけども、ゆうすけ君を紹介してくれて、ギターボーカルが僕で、ゆうすけ君がベースで、ヒワ君がドラムという3ピースで、ホームシックというバンドを結成しました。
ホームシックはね、趣味程度でありますけど、今もメンバー変わりながら継続しておりますが、この22歳頃に始まったバンドなんですね。
で、朝は卓球便、夜はライブハウスのバーカウンター、そしてバンド活動をやるという感じの生活がですね、ようやくできてきたと。
ただ、さっきも言いましたけど、ホームシックの方はですね、結構メンバー交代みたいなのがしょっちゅうでしたね。数ヶ月に1回レベルで誰かが辞め、また誰かが入りという感じでメンバー交代しながら、
僕はね、これをやっていくって決めてここにいるんで、メンバー変わってもですね、続けていくというような日々を送っていました。
で、そうこうしてたらですね、バンド活動はやってたんですけども、その裏側でですね、絶頂点っていうライブイベントがいよいよそのライブであげた収益でですね、
お金貯めてですね、自分たちでライブハウスを作ると。パブリックスペース4次元っていう天神北にですね、あるライブハウスがあるんですけど、それを作るというタイミングで、
そっちに来ないかということで、お誘いいただきました。もちろんね、もともと絶頂点で働きたくて、お願いしに行ったぐらいですから喜んでということで、
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そのタイミングからですね、デカタンデラックスを退職して、4次元、株式会社絶頂点のスタッフになったという流れです。
で、パブリックスペース4次元というライブハウスの立ち上げをですね、ようなようなやって、僕はそのバーカウンターの方でですね、メニューとかいろいろそっち側のね、ことをやってました。
お店がオープンしてからもですね、結構激務で、そのステージをね、毎回組み替えるみたいな感じで、凝ったね、ことやってたんですよ。
このブッキングだったらこういうステージを作りにした方がいいよねとかっていう感じで、ステージごと作るみたいなことやってたんで、
毎日ね、ライブが10時とか11時とかに終わって、そこから次の日の準備をするみたいな感じでね、ほぼ朝方まで作業をして、
で、また朝から卓球部員やって、昼からライブハウスに行ってみたいな、もうね、何でしょうね、激しい日々を送ってましたね。
で、4次元ってライブハウスができて、そのもちろん4次元の収益も上げないといけないんだけども、デカタンデラックスが行っていた絶頂点というイベントはそのままやっていたし、
その他のですね、ライブハウス、グラフとかですね、いろんなライブハウスでも絶頂点企画のですね、イベントをやってて、
現場がね、3現場、4現場あったりとかする、そして自分たちの箱もあるみたいな感じで、スタッフはね、10人ちょっといたんですけど、かなり激しく動いていた時期でしたね。
で、最近聞いた話ではね、だいぶ環境改善されているってことだったんですけども、当時はとにかく劇無かつ、安月給、月給というか給料が時給だったんですけど、
本当に最低時給に到達してるかしてないかというか、何分までカウントされてんだみたいなサービス残業扱いになっているみたいな感じで、
かなりね、いわゆるブラックみたいな環境だったんですけど、まあね、最近はだいぶいいみたいなんで、あれですが、一応名誉のために言っておきますけども、
大丈夫だと思いますが、当時はね、すごい劇無だったという感じです。で、僕としてはね、バンドしたくて福岡にいるのに、
ライブハウス勤務でかなりね、それ単体でもすごい忙しいのに、さらに宅急便で肉体労働できつくてみたいな感じで、
まあバンド活動、それでもやってたんですけどね、やっぱり20代前半って元気ですね。やってたんですけど、もっと時間が欲しいなというところもあったし、
もっと言うとその劇無を乗り越えていくだけの、やっぱりその理由みたいなものがあそこまでなかったですね。
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例えばそれでめちゃくちゃ給料が上がっていくみたいな、わかりやすい目標でもいいですし、それこそライブハウスさん関わっているビジョンみたいなものがあって、
それを達成しようと頑張っていくみたいなものであれば、それはそれで良かったと思うんですが、なんか当初言ってたビジョンとは違う感じのことをやり始めているような時期だったかなと思っていて、
であればなんでこんなに馬車馬のように働いているんだろうみたいな気持ちも生まれてきたり、会議の中でですね、そういうところを突っ込むとですね、
結構、すごい怒られるっていうようなこともあって、言っちゃいけないことがいっぱいあるなぁと思いながらですね、やっていたという感じですね。
で、そこまでしやることじゃないなと思って、辞めるということを言って、自分は自分のバンドに専念するんだということで、
そのライブハウスのスタッフを辞めました。なので、宅急便とバンド活動って感じで、宅急便単体ではちょっと生計が成り立たないので、プラスアルファ少しバイトをするというような感じで生活してました。
で、25歳か6歳ぐらい、5歳だったと思うな、25歳ぐらいの時に、ある日、黒崎っていうね、北九州市の黒崎マーカスってライブハウスがあるんですけども、
そのライブハウスのライブに出演することになってて、ライブ前リハーサルが終わってですね、本番までの空き時間があるんですけど、
その空き時間に、マーカスの前の階段に座っていた時にね、ふと、なんか、あ、もう定職に就こうって、なんか思ったんですね。
突然、なんか降ってくるようにですね、もうなんか働こうかなって思ったっていう。
で、いろんなね、点と点がふと繋がったってことだと思うんですけども、ライブ活動の中でですね、
社会人をしながらバンドをやっている方とかもたくさんいたし、その中でですね、作業療法士っていう仕事をしている友達がいたんですけども、
その友達の話を聞いていると面白そうというか、興味深い仕事だなと思って、なんかそれがずっと引っかかっててですね。
で、かつ、その人曰くですね、そんな残業とかもないし、定時で帰れるから、バンド活動とかもしやすいしってこと言ってて。
何?と。こんだけバイト詰め込んで、隙間を縫ってバイトしてるけど、でもお金は手取り十何万しかないみたいな状態で、
めちゃくちゃ働いてるのに、そんな状況で。で、それ定時で帰れて、どういうこと?ってなったんですよね。
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なんか今まで、そういえば高校時代からずっと、その就職するっていうことは、なんかものすごくハードルが高い。
なんかフルコミットする感じが僕の中にはあって、働くイコール、それこそ四次元でですね、
夜な夜な朝方まで働いてたみたいな、そういうコミット感を求められると何となく思ってしまっていて、
就職に対してね、すごくハードルを感じたんですが、定時で帰れる?みたいなのね。週5?みたいな。
結構ね、衝撃を受けたのを覚えてます。で、なんかそれがずっと引っかかってて、でかつ仕事内容もすごい面白いのが興味あるなと思って、
何となく作業量方針ってのがずっと頭の中に残ってたのが、その時ですね、繋がったというか、作業量方針になろうって思ったんですね。
で、そのライブ終わった後に、なんかね、それこそ25年間じゃないな、バンドを始めて、特に高校生以降抱えていた、約10年間かな。
ずっと胸の中にあった、音楽でプロを目指すんだ、みたいなものがスッとね、なくなったというか、呪いが解けたというかですね。
もう働きながらやろうと、別にプロとかじゃなくて、プロとは何だ?みたいな話もあるし、なんかその自分が本当に作りたい音楽を作っていく以上でいいじゃないかと。
お客さんが1人だろうが1万人だろうが関係ないじゃないかと。もう自分が作りたいものを作ればいいじゃないかっていう気持ちにもなったんだと思うんですね。
なんかその評価されるみたいなことに対するモチベーションというか、そこに努力をしたいと思えない、エンターテイナーじゃないっていうことだと思うんですが、
なんかあんまりね、評価されるためと思った瞬間、やりたくなくなっちゃうみたいなところがあって、
そもそも仕事としてやれるような人間ではなかったなってことも、だんだん自己理解していた時期でもあって、とにかくいろんなものが繋がってですね、
プロのミュージシャン、職業ミュージシャン、諦めようって思ったんですね。
そこからですね、福岡市内で通えるリハビリの学校ですね、資格が取れる学校を調べて、ここにしようと決めて、
じゃあ学費がこんぐらいかかると、じゃあお金貯めなきゃな、みたいな感じでいろいろと計画を立て始めたと。
で、その時に奨学金っていうもちろん選択肢として自分の中にはあって、
親と姉とそれぞれにですね、ちょっと奨学金を申請したいから保証人になってくれないかってことをお願いしたら、あっさり断られまして、
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なんかその時にですね、25年間自分は本当に好きなことだけをやって、社会のこととか全無視してやった結果、
もはや家族にすら信頼がないんだということを結構ね、ダメージを受けましたね。
信用がないんだなっていう。
で、バンド時代もバンド仲間がいたから、なんていうのかな、うまくいかない気持ちみたいなのを共有できていたけど、
でも社会からこぼれ落ちたもの同士で傷を舐め合ってたみたいなこともあったというか、
その外側の人からはいつもいないものとして扱われてきたというか、
話を聞いてもらえなかったっていうのはすごく感じていたんですけども、
家族からもですね、信用されてないんだということを自覚して、
今まで何も積み上げてこなかったな、社会人としてっていうことをですね、結構ね、悔しな気しましたね、あの時はね、悔しかったですね。
で、ゼロから学費を貯めるということで、バイトをさらに1つ増やして、3つ掛け持ちしてたのかな、
昼夜問わずですね、働いていました。
で、時を同じくしてというか、その結構どのラインからなのか、本当時系列覚えてないんですけども、
挫折するバンド活動、バンドでプロを目指すということを諦める前後ですね。
前後に30人規模のイベント、キャンプに行くとかですね、忘年会をするとかっていうのを主催し始めました。
最初は多分花見をしようとして、いや花見をしたのかな、花見をしたんだと思うんですね。
確か花見しないんですかって、花見したいんだけどってそのバンド仲間に言われて、
じゃあ取りまとめるねみたいな感じで僕は合礼をかけて、みんなで花見をしたっていうのがあって、
それがすごく楽しかった。
また集まりたいね、すぐ集まりましょうみたいな、当時バンドマン、みんなバンドマンだったんで、
僕の周りは、みんなフリーターだからシフト休めば平日だろうがね、いつだろうが、
基本的には集まれるんで、じゃあ次いつ集まるって言って、
1ヶ月後くらいに5月にチリミですね、花見で集まったのが楽しかったんで、
同じ場所でもう桜咲いてないけど集まろうつってチリミっていうのをやりました。
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このチリミもねすごく楽しくて、また集まろうみたいな感じになっていて、
夏を迎えるということで、じゃあみんなでキャンプに行こうって言って、
野古野島でキャンプ、キャンプって言うのかな?
野古野島のキャンプ場に行きました。
目の浜という駅でみんなで集合して、スーパーで買い出しして、船に乗って野古野島に行って、
みたいな感じですね、別にみんな車も持ってないし、
スーパーとかドラッグストアでお酒とか食べ物とか大量に買って持って行くっていう、
かなり原始的な感じで行きましたけど、船に乗ってね。
で、野古野島で、テントも持ってないんですよ。
30人くらいいたけど、テント持ってないんですよ。
テント持ってないんですよ。
テント持ってないんですよ。
で、野古野島で、テントも持ってないんですよ。
30人くらいいたけど、テント持ってるのが2人だけだったんですね。
で、バンガローとか別に借りてるわけでもないし、
ってことは30人で2つしかテントがないんですよ。
テントも個人用のテントみたいな、2人以下、寝れて3人みたいなテントが2つですよ。
で、その30人規模のキャンプっていうのかな?
ちょっと分かんないですけど、とにかくキャンプ場にいるというやつが、
オールナイトで行われまして、
ちょっとね、ちっちゃい子とかもいたんで、そういう子とかがテントで寝てもらって、
親子の人とかですね。
あとはもうみんなね、その辺の浜辺で寝てたりとか、
椅子にですね、座ったまま寝たりとか、寝ない人もいたりとかっていう感じで、
かなりね、ハードなイベントだったんですけど、
なんかね、そういう年頃だったんだと思うんですよね。
無茶したいみたいな、そんな感じでしたね。
で、そのキャンプがまためちゃくちゃ盛り上がったので、また集まりたいねってなって。
そんな調子でですね、僕が企画して何十人か集まるみたいな、
とか何人かで集まるみたいなことをやるようになったと。
で、僕さっき前後して分からないって言ったんですけども、
その学費を貯める生活に突入したんで、
毎週毎週集まるとかね、
しょっちゅう飲みに行ってたんですよ、あのバンド、精力的にやってた時っていうのは。
週2回とかですね、お金もないのによく行ってたなと思いますけども、
お酒を飲んだりライブを見たりとかっていう感じで夜な夜な遊んでたんですが、
そういう風な時間の使い方、お金の使い方ができなくなったんで、
なおのことですね、そういう季節ごととかに、
僕の知り合い全員集まってもらって、
まとめて遊ぶみたいな効率的な遊び方をしないと、
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もうバイト三つ掛け持ちしてると遊ぶ時間とかもなかったんで、
そんな感じになっていきました。
で、忘年会をやったり新年会をやったりとかっていう感じで、
あとは箱崎の王城屋にみんなで遊びに行ったりとかっていう感じで、
とにかくイベントを企画して、そこにみんなで集まって遊ぶみたいな遊び方をするようになって、
それがある意味、今の晩餐会だったりとか、
減少でいろんなイベントやってる時の原点なのかなと思ったりしますけども、
とにかくその場っていうのがすごく良かったですね。
僕はバンドの友達だけじゃなくて、
高校の後輩を呼んだりとか、バイトで知り合った人を呼んだりとかっていう、
そのコミュニティをまたいで、
共通点は僕の知り合いだということだけで集まったりとかして、
その人同士が繋がって結構仲良くなったりとかしてっていうのは、
繋がるんだと思って、そういうのはすごい面白かったですね。
結構講演活動の土台というか、
すごい原点ともいえる活動だったかなと思います。
なので、そういうイベント活動とバイト三つ掛け持ちをして、
バンドも実はその中でもちょっと続けてはいたっていう感じですね。
別にバンドプロを目指すのを辞めただけで、
辞めたわけではなかったので、活動自体を続けていたと。
そんな感じの生活を充実した生活をしてたんですが、
コミュニティ、イベント活動みたいなのは突如終わるわけですね。
それが、僕が当時同棲していた彼女がいたんですけども、
その彼女も漏れなくコミュニティというかイベント活動のときに一緒に行動してたんですが、
その彼女と別れるときに少し認識の相違がありました。
認識の相違がありまして、
事実とは異なる情報がコミュニティ内に流されまして、
一気にコミュニティが分断された。分断どころか8対2で、
結構攻められるというようなことが起こって、
ある意味コミュニティ追放みたいな感じになりました。
その彼女からは家を追い出されまして、
まさかの25歳、6歳にしてホームレスになりました。
それを見兼ねた来田さん、
ライブハウス絶頂店で一緒に働いていた来田さんが、
家が決まるまで家で寝泊まりしていいよということで、
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シャワーと布団を貸してくれました。
急いで家を探して、
1ヶ月弱、来田さんの家でおさようになった後、
新しく決まった家に引っ越すと。
コミュニティが追放されて、孤独にアルバイト生活をしていたところ、
コミュニティの外側にいた高校の同級生のひわくんが、
また孤独な僕を見兼ねて遊びに誘ってくれて、
そこで出会った人と交際を始めて、お互い勘違いをして結婚したと。
この勘違いのエピソードは、また次回に触れますかね。
とにかく交際を始めて割とすぐに結婚が決まって、
11ヶ月で結婚。
そして結婚した数ヶ月後に専門学校にも無事入学するというような、
そんな感じでコミュニティが盛り上がって、そして終わって、
また新しいコミュニティと出会って、
そして結婚をして専門学校が始まると、
怒涛の1年半とかだったような気がしますね。
その時、僕は27歳ですね。
27歳の、次回は27歳春、専門学校に入学。
2013年の話になるかなというふうに思います。
本日は以上です。
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