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2025-02-07 22:38

半生(4 高校時代)

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[第177話]

私の半生を振り返っていきます。中学校時代について。

「存在としての公園」

現象は、「存在としての公園」をコンセプトに活動している、上水優輝(うえみずゆうき)のソロプロジェクトです。

完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、場づくりを中心にさまざまな活動を行なっています。

自らを公園的なるもののシンボルとすることで、あらゆる空間を公園のように多様な人々を包摂する場へ。一体どんな現象が起こるのか、あなたもぜひ現象の公園に立ち寄ってみませんか?

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。
完全招待制の晩餐会を開催したり、公園にレジャーシートを敷くなど、存在としての公園コンサートに様々な活動をしています。
現象のラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今回は、僕の高校時代のお話をしていきたいなという風に思っています。
保育園時代、小学校とですね、右肩上がりでどんどん明るく元気になっていって、中学校ではサッカー部、オツとかね、あとは学校の支配体制みたいなものでですね、すごく抑圧されてビクビクしてたんですけども、
部活を引退してそこから開放されて、反動でですね、はじけ飛ぶっていう、そういう高校時代だったかなという風に思います。
高校に入る時には、絶対に部活に入るものかと、スポーツなんて二度とするものかという気持ちでしたし、
バンドでね、当時はインディーズのバンド、いろいろハードコアな音楽とか、メロコアも張ってたかな、メロコアとかハードコアとか色々聞いてて、結構ね、はじけた人たちを見てたので、権力に屈するものかという結構強い気持ちで高校に入学しました。
高校時代はね、もう本当に絵に描いたような青春っていう感じでしたね。
当てもなかったんですけど、入学早々ですね、クラスメイトにたまたまドラマ叩ける子がいて、バンドの練習ができるということで、
なんかよく分かんないけど、その人の家に行って、僕はベースを持って行ってね、演奏しました。
確かね、その時、同級生、そのドラムの同級生ヒワ君って言ったんですけどね、ヒワ君と、なんか一校部の先輩でギターが弾けてハイスターをやりたいって言ってる人がいて、
ベース弾けるよって言って、その知らない先輩とヒワ君と3人でですね、演奏したりしました。
で、ヒワ君と一気投合して、でもその先輩は微妙だねって言って、ちょっと在希君の方がいいと思うよって言ってですね、
先輩をバンドから外れてもらって在希君を呼んでですね、ヒワ君と在希君と3人でミノムシ食堂っていうバンドを結成しました。
ミノムシ食堂っていうのは、そのヒワ君のね、おばあちゃんが営んでいる食堂の名前で、ミノムシ食堂って食堂の2階の部屋を使ってですね、バンドを練習してたんで、
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もうバンド名ミノムシ食堂で良くない?みたいな感じで決まったっていう感じでしたね。
ミノムシ食堂は結構、なんて言うんですかね、人気でしたね。
当時本当に時代がちょうどいいっていうか、バンドブームみたいなものがちょっと遅れてきてたのかなっていうのもあって、
偶然のね、ちくほうはバンドブームだったんですよ。
なんで、週末になるとライブハウスに行くみたいな感じで、田川を飛び出してですね、飯塚市とか能型市っていうね、別の市に行ってライブをしてましたね。
僕たちはミノムシ食堂っていう感じで、1年生の秋に初めて能型ブースっていうステージに立ったかなと思います。
そこではね、本当に学年をまたいでね、3年生の人とかもいるしね、2年生の人もいるし、田川中野というか、下手したら能型とか飯塚とかね、
エリアをまたいで別の高校の人とかもいるっていう感じ。もっと言うと高校卒業してるね、18、19、20みたいなぐらいの大人もいたりして、
結構幅広い年代の幅広い学校の人たちと交流をする場になってて、コミュニティになってましたよね、あそこはね。
ライブハウスというコミュニティで、そこでね、いろんな人と知り合うっていう感じで、学校をまたいで学年をまたいで、こういう関係が広がるっていう感じでした。
で、バンドブーム来てたのと、あとね、ゴーイングステディーっていうバンドがね、流行ってて、僕がすごい好きだったんですよ、当時。
で、ゴーイングステディーのコピーバンドとかもやったりとかして、それがコピーの曲ですね、もやったりとかして、それがね、すごい受けたことでミノムシ食堂も受けたっていう感じだったと思います。
オリジナル曲もね、合わせてね、やってたんですけど、だからゴーイングステディー効果でオリジナル曲も盛り上がるみたいなことが起こって、なんかミノムシ食堂すごい人気だったのを覚えてますね。
で、そういう意味でも高校1年生の秋ぐらいから、ステージに立つというところで、なんかリスペクトされるというか、注目される対象になったっていうのはあったというか、本当になんですか、調子に乗ってましたよね。
当時、着メロ時代で、で、オリジナルの着メロをね、なんか作れたりとかしたんですよ。
で、オリジナル曲をですね、16和音とかで作曲した曲をね、16和音とかで着メロにして、メールでね、友達に配ったりとかしてたら、それこそ野方に行く電車とかで全然知らない人の携帯から着メロが流れるとかって言って、
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もうなんかミノムシ食堂の曲流れてんじゃんって思ってですね、テンション上がったのとか覚えてますね。
まあとにかく高校時代は人生の春という感じで、ステージに立って以降ですね、注目を浴びたりリスペクトされたりという感じで、すごくね、快適な日々だったかなと思います。
で、2年生のね、秋ぐらいだったかな、夏秋ぐらいから、
在希くんがですね、部活をもっと頑張りたいと、ボクシング部に入ってたんですけど、部活を頑張りたいからということでバンドをね、休止するって感じになっちゃったんですね。
で、僕はバンドしに高校に来たから、結構辛いものがあったんですけど、在希くんがね、ボクシングをやりたいってことだったんで、まあしょうがないかなと思って。
で、ちょうどその時に一個上の先輩から、ちょっとバンドやらないかというふうに誘っていただいて、ゴーストレートっていうね、バンドを結成しました。
最初はね、バーベキューチキンズっていうバンドのコピーを最初のライブでやって、結構激しい感じの音楽なんですけど、それまでミノムシ食堂を支持してくれてた人たちが、全然ダメだと。
ミノムシ食堂の方が良かったのにって感じで、結構ね、離れていったのを覚えてます。
で、その後はオリジナル曲に切り替えていって、バーベキューチキンズをコピーバンドでやるぐらいなんで、結構激しい音楽を作っていたんですけど、
だんだんね、僕が曲を作るみたいな感じになってきたんで、激しいんだけど、ミノムシ食堂の時の感じとか、ゴーイングスティーディーの影響みたいなのもあって、ちょっとメロディーがしっかりしたような曲になっていって。
で、そうするとまたミノムシ食堂時代の応援してくれてた人とかもですね、また応援してくれるようになって、
なんかこの一回人気があったバンドをやってたのに、そしてなんかダメだねって言われて離れていって、また次のバンドでまた人気が出てきて、みたいなのを経験して、
なんかそれはね、とにかくね、振り返ってみるとバンドブームだったから、何やってもお客さんが来るみたいな、バンドをやってたら人気出るしリスペクトされるしっていう状態だったのは確かだなと思うんで、
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壮大な勘違いなんですけども、当時の自分はですね、なんかすごい勢いあるぞって思ってました。
で、高校3年生の時はですね、ティーンズミュージックフェスティバルって言って、ヤマハが主催してるなんかバンドコンテストみたいなのがあって、
どちらかというとその綺麗目のやつ、バンドっていうかそのシンガーとかも普通に出るのかな、とにかく音楽やってる10代の人が出るコンテストみたいなのがあって、
で、かなりね、不良というか、上品なイベントで、全力で暴れてやろうということで、先輩と一緒にですね、先輩と一緒にというか、ゴーストレートというバンドでエントリーしたんですね。
ほんとステージで結構激しいステージングですよね。今だとあんまり良くないと思うんですけど、ベースぶん投げたりとかするような激しいステージングで、
もう出禁になるみたいなつもりでやったら、なんか審査員に一人ぶっ飛んだ人がいて、チクホー大会で優勝してしまってですね、九州大会に、ゼップ福岡の大会にですね、コマを進めることに。
なりました。で、ゼップ福岡でもですね、大暴れしまして、その時にですね、審査員の方がね、何名かいたんですけど、一人その多分チクホー大会の時からいて、ずっと僕たちを推してくれてた方、
RKBのですね、何なんだろうな、何やってる方かわかんないですけど、安藤さんっていう方だったんですけど、その方がですね、絶賛してくれて、僕たちの音楽のことを青春ハードコアっていうね、ジャンル名付けてくれて、すごい気に入ってくれて、頑張ってねって言ってくれて、
3位まで全国大会に行けたんですけども、4位にランクインして、ロッテですね、お菓子のロッテ賞を受賞して、大量のクランキーチョコレートをね、1ヶ月分とか言ってたかな、で、メンバー5人いたんで、もうものすごい箱何箱かでクランキーチョコが来たって、みんなでチョコレート食べてた記憶がありますね。
そんな感じで、結構高校3年生、3年間はバンド付けで、学校をまたいで、学年をまたいで、本当にいろんな人と繋がって、そしてステージに立ってるっていうのもあったんで、結構ね、存在感のある形で、こういう関係が持てて、すごくね、人生の春って感じでした。
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恋愛面とかも全然話してなかったですけど、中学校くらいまではですね、全くモテることもなく、誰かを好きになって告白されたり、高校に入ってから経験しましたね。
今思うと、そういう意味でも春というか、なんか青春っぽい感じで、壮大な思い込みの中に生きていて、他者が存在してなかったなっていうふうに思いますね。
もっと相手のこととかですね、考えれたらよかったんでしょうけど、当時はね、自分の思い込みの中で、自分が良かれと思ってみたいな感じで、いろいろやって、あんまりうまくいかなかったっていう、長続きしなかったっていう感じだったかなと思います。
あとは、高校時代もう一個あるのはバイトですね。バンドをするのに結構お金がかかるんで、バンドをするためにバイトでお金を稼ぐ生活でした。
で、学校も優先順位が低くて、勉強ほとんどやってなかったんですよ、高校時代は。親からは当然心配されて、高校は絶対出なさいと、中卒だったら仕事がないよみたいなことで、生きていけないよみたいな感じでかなり落とされて、卒業だけはしなさいっていうことを言われてたんですけど、
なので、単位とかを計算しながら休める範囲休んで、休める範囲休んでって言ってもいいんだけど、午前中寝て昼から学校に行くみたいな生活を結構やってて、で、学校終わってバイトして、もしくはバイトがない日はバンドして、先輩たちと夜な夜な遊んでみたいな生活をしてましたね。結構親には心配かけたかなと思います。
で、高校2年生ぐらいからかな、やってたコンビニのバイト、あのYショップっていうね、山崎のコンビニみたいなのがあるんですけども、そこでね、個人経営ですよね、夫がオーナーで妻が店長みたいな、ほんと家族経営で、そこにバイトで4,5人高校生が入ってるみたいな形態だったんですけども、
そのバイトで結構仕事みたいなものは叩き込まれたかなと思ってますね。めちゃくちゃ厳しかったですね。今思うとやっぱりそれも異常なまでの細かさだったんですけど、とにかく細かい。
例えば商品が1個売れたら、その棚のその商品がへこんじゃいますよね。なので売れた直後にお客さんがいない隙をついて、その商品を前に出すっていうね、感じの、常に動き回るコンビニ店員だったし、袋も経費、コストだから、大きめの袋とか使うとめちゃくちゃ怒られるんですよね。
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その商品店数に対してジャストサイズの袋を挑出できなかったら、お客さんが帰った後に、今の袋はちょっと大きいよね、このサイズでよかったよねってことをすごい言われたりとか、あの、何でしょうね、やめるやろって感じなんですけど、なんかわかんないけど、当時その状況下で食らいついてましたね。
そうですね、そういう結構厳しい環境だったんだけども、時々ね、その忘年会みたいな感じで、お店を休みにしてですね、バイトのみんなを食事に連れて行ってくれたりとかね、そういうのもあったりとかして。厳しかったけど、いい職場だったかなと思ってますね。
僕は本当に、何でしょうね、いわゆる新卒で最初に入った会社がめちゃくちゃ厳しかったけど、後で役立ってますみたいな感覚に近くて、厳しい中でも期待されることを上回っていくと信頼されて、信頼されると任される幅が大きくなっていって、自由も効いてくるみたいなのを高校卒業するまでの間の1年半ぐらいかな、の間で経験できるようになった。
休みを取るとかも結構嫌がられてたんですけど、高校3年生の後半になったらどんどん休み取っていいよと、休み取ってでもいいからバイト続けてほしいっていう感じで、いてもらわないと困るっていう感じの、なくてはならない存在になると、そういう扱いになるんだっていうことも経験できたのは、仕事の面でですね、すごく良かったかなと思ってますね。
そんな高校時代だったかなと思います。高校卒業してからはバンドでプロを目指そうと思っていたので、高校3年の冬とかになると同級生がみんな受験とかね、就職とか進路でかなりピリついている中、僕はもう卒業さえすればOKっていう状況だし、先生方もね、もうその受験の指導モードに入っているんで、受験しない?
僕とかはもう頑丈にいないっていう感じで、後半はほとんど学校に行ってなかった気がしますね。
あとあれですね、ちょっと戻るけど、ここ3年生の夏休みに、夏休みに課外授業っていうのがあって、夏休みなんだけど学校に出てこないといけないと。もっと言うと課外授業の費用を課外だからって言って、封筒にお金入れて持っていかないといけないみたいなのがあって。
1,2年生の頃は確か我慢していたと思うんですけど、3年生にもなるといよいよ僕も自由人になってて、なんか課外授業って言っても受験コースがあったんですよね。
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4年生大学文系、理系とか短大とか就職みたいなコースがいくつかあって、僕はもうバンド活動でプロを目指すんだっていうことを決めてたんで、その課外のコースに当てはまらないから参加しませんって言ったんですけど、
学年主任に呼び出されて、それはならんと、どれかに入らなければならない決まりなんだと。でも課外ですよねとかって、そういう食ってかかるような感じのセットだったかなと思うんですが、それで結局学年主任から謎の説得をされて、バンドマンっていうのは大学に行って、大学をサボってバンドをするもんなんだって言われて、無理やり4年生大学の文系コースに入れられました。
で、その4年生大学の文系のコースで色々やるわけですよね。国語の授業、英語の授業なんとかって。授業というか、センター試験の過去問を解くっていうのがほとんどだったんですけど、その学年主任が英語の先生で、英語のセンター試験の過去問を解くっていう日に、僕がセンター試験を受けないですから、もうめんどくさいなと思って。
しかも朝早いしね。寝てたんですよね、もう。解かずに。
そうしたら先生が、寝るなら来るなって言って、そっかと。だから加害参加しないって言ったんだけど、来て寝てたら来るなって言われたから、じゃあ行きませんって言って、その人の授業は行かないようにしたんですよ。
空き教室のベランダで寝てたんですね。寝転がって。そしたら、たまたま巡回してた体育教師がやってきて、お前こんなとこ何してんだと。ということで、先生から寝るなら来なくていいって言われたんで、ちょっとこっちで寝てましたって言ったら、ふざけんなってボコボコにされるっていう。
なんか、参加しろだの、参加するのだの、参加しろだの。なんかすごい、従わないとこんな目に合うんだなっていうね。自由に振る舞うって、自分勝手に振る舞うって、すごいコスト高いなっていうことを学びました。
し、なんかそういうね、やっぱり人の立場、なぜそうしてるのか、なぜベランダで寝てるのかっていうことに、その文脈があるから、その文脈に耳を傾けずに寝てる、悪、ボコボコみたいな、なんかそういうのもね、すごい許せなかったですね。
やっぱり、中学校時代の作家ともつながりますけど、こいつら大人は信用できるなっていう気持ちをより強めた高校時代だったかなというふうに思いますね。
話は前後しましたけれども、高校時代はですね、バンド、恋愛、バイトみたいな感じで、ほんとキラキラした、もう絵に描いたような青春みたいな感じで、ある種人生の春みたいなものを過ごしてきたかなと思います。
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ただ、3年生の、もうほんと卒業間際ですね、バンドメンバーと仲違いして、それも恋愛関係のこじれだったんですけども、なんか、うん、こじれて、バンド解散って形だったんだけど、
事実上ですね、僕以外のメンバーが再結成して、違うバンドを組んだんで、事実上ですね、僕はバンド除名されるっていう形で、高校卒業後、そのバンドでプロ目指そうぐらいの気持ちでいたんだけど、卒業間際になってですね、解散が決定してしまうという状況で、結構つらい感じというか、今後どうしようという感じで卒業を迎えました。
次回はですね、高校卒業後から田川市を出るまでですね、福岡市に移住してくるまでの話をしたいと思います。本日は以上です。
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