最後の晩餐のテーマ
毎度黙れヤドロクでございます。お疲れさんでございます。
ラストツーやで、いうことでございましてね。ラジニアのサンちゃんが、もう最後一個で言う手乗り要件を送ってきた中のラストツーお題でございます。
最後の晩餐は何がいいというようなことを聞いてきてるわけでございますが、私の過去回の中でね、まあ聞いてへんと思うけど、みんな覚えてへんと思うけどね。
私これ何遍も言うてますね。最後の晩餐についてね。何食べて死にたいですかというようなことなんでしょうけどね。
私これ何遍も言うてるんですけどね。うちのボスが米炊いて握ったおにぎりが食べたいんですよ。
お題のためだけにね。子供も一緒とかじゃなくて、お題のためだけに。これはね、結婚して最初にボスがお題のためだけに夜食として握ってくれたおにぎりにものすごい感動したんですよ。
まず米の炊き方もそうやし、握り方の加減味付け、この辺が本当に僕は感動して。
同じように真似しようと思ったけど全くできへんかったし、これは握り加減もあるんやし、米の炊き方もあるんやと思うけど、
ただ味がどうこういうふうに僕のためだけに炊いて握ってくれたという、その最初の一回が忘れられへんというのは印象でしょうなと思います。
もう動かれへんなって、もう意識もなかっても炊いて握って置いといてくれという感じがありますね。今でもそれは変わりまへんわ。
何おいしいもの食べてもね、それは何にも変わらへん。この結婚して24年ぐらいになりますかね。
一回も変わってない。いつでもそれ思う。今ね、炊いて握ってくれたら握ってくれるんですよ。
だけど子供も食べるやろし、自分も食べるやろしというとこですな。そうじゃないんですよね。
あんときの感覚というんですかね。それが嬉しかったんでしょうね。ものすごく記憶に残ってんのもあるし。
毎回このことを考えると、自分がもし動かれへんなっても、食べられへんかってもね、握ってほしいなと思うことありますね。
それはずっと思ってるですね。
ボスが僕を捨ててたら別ですよ。それはしゃーないもん。握らへんと思うけど、もし捨ててても死ぬの分かったら握ってきてくれたら嬉しいなと思うところもありますね。
もしもう死んでしまった後やったら、母前に備えてくれる。何にもいらんと、線香も何にもいらん。
おにぎりだけちょっと置いておいてくれるかと思ってますね。最後の晩餐になってへんな、死んだ後やったら。
なってへんけど、その記憶というのは強烈に僕の中にあるというんですかね。
嬉しいというその感覚だけではない、何かそこにとても大事なものがあるような気がしてるんですな、私。
勝手に思ってるんですよ。ボスは一個も思ってまへんで。はーん言うて言われますね。
チーカーのウサギみたいな声出しますね。だいたいが。思うんですよ。
それ以外のこと考えたことない。最後の晩餐と言われたときにそれ以外思いついたことない。何も別にいらん。
何も食べたい。どれ食べたいというようなことないけど、それだけが食べたいなあ。今でも別に炊いて握ってくれたらそれはそれでめちゃくちゃ嬉しいんですよ。
やけど、やっぱりあの最初の感動を最後もその感動で終わりたいと思ってる感じあるかな。
子供らがね、もうほぼほぼ成人。上の二人は成人してますし、下の子ももう14歳でしょ。あと何年か経ったらもう成人ですわ。
そう思ったら、もう子供らに握ったるっていうのはそんなにないと思うんですよ。
やけど、自分に握ってくれることもそれで言うとないんですけどね。自分で炊いて食べいやっていうだけのことですから。
やけど、その動かれへんなってという状況で考えますと、病院でね、米固形物なんて食べれるかどうかわからん状態でも握って置いといてくれって言うやろうなあというのははっきりわかります。
それは。だから最後の晩餐は米一粒でも口の中に入れてくれという感覚がありますね。
何歩考えてもそこに行き着くっていうのが答えやろうなあ、最後の晩餐。最後それ食べて死にたいなあというところはあるかなあ。
感動の共有
いろんなシチュエーション考えたんですけど、それしか思いつかんというのが正直なとこですかね。
言うときますけど、僕は勝手に言うてるだけですからね、ピンポン言うてる。僕は勝手に言うてるだけですからね、ピンポン言うてる。
坊さん一つも思ってへんと思いますよ。何がやねんと思ってると思う。そこが夫婦のおもろいとこちゃいますかね。
うん、価値観の違うとこやしな、そうやと思うね。同じやってもどういうことやねんってなるやろしな。
どうやろなあ、なんかピンポンピンポン言うてますわね。息子かな。息子やろな。わかりませんけど。
なんかその、何ですやろね、その感動。普通のおにぎりなんですよ。かつお節と梅の種取って刻んだんとかつお節と醤油みたいな味付けなんですよ。
毎回それ手間なんですよね、そこそこね、作ろう思ったら。その加減ちゅんかな、具の加減と塩の加減と、米の炊き加減なんですよね。
これね、うち家族全部炊かすんですよ。もちろん次男も長男も米炊けるし、炊いてもらうんやけど、みんな違うねん。
同じ米で炊いても、みんな違うんよ。これがね、面白いですな。だから、ボスもね、そりゃ、その時の体調やったり、加減やったり、水加減違う時あるんやけど、やっぱりおばあさんに仕込まれた炊き方ちゅんか、研ぎ方ちゅんか、それが人と違うのか、わかりませんけど、違うんよね。
ボスが握ったら、同じ具材でね、僕握ったことあるんですけど、ボスに具材だけあれしてもらって、全然違うねん。これはただ男やから強い握り方になってまうんやけど、力抜いて抜いてやっても無理やねん。
同じようにならん。これやろね。これもあるんですよ。あるんやけど、やっぱり感覚としてはその最初のという部分なんやろな。自分では何がそんなにいいという、冷静に考えるとね、なんかわからへんとこあるんですよ。
だけどなんかその時の感動というか、あるんでしょうね。衝撃が残ってるというかね。だから死ぬ時は、もうね、その時に思ったんですよ。死ぬ時はこれ食べて死にたいなと思ったんですよね。そっからもう20何年、何にも変わってないし、そっから僕のためだけにおにぎり握ってもらったことっていうのは、最初の方は何回もそれ頼んだりとかあったんやけど、
そんなに数はないですよね。握ってくれと言ったら握ってくれるんですよ。普通に頼めばね。そういうことやないねんという、なんかわかりますかね。僕が頼んで握ってもらったのではないんですよ。その1回目っていうのは。何でもない時に夜食や言って握ってくれたんですよ。
自分も食べたいからかなと思ったら違うんですよね。なんかお腹減ってそうやからっていう。そのないんやろな。今それないな。あるわけないな。勝手にやって食べたらええやんかってなるしね。そのないんやろ。その時の気分なんかもわからへんけど、やっぱり同じようにそのシチュエーションでという。他に気遣いなんかしてくれますよ。別にね。ないわけやないんですよ。
いやけどそのおにぎりのというタイミングというんかな。やっぱり大事ですよね。そういうのってね。衝撃があるというか感動があるというか。なんかそんなことやってやる気がするな。
やっぱり結婚して20何年。それが1回も揺らがんっていうことはそれだけの自分にとっての衝撃があったんやと思うんですよね。それが何かと聞かれたら全くわからへんね。それが自分とボスとの縁の現れやと言われりゃそっちの方がしっくりくるというか。
最後の晩餐の選択
あんたは最後これを食べて死ねとか言うようなほんまになんとも言えんものがあるんですよね。自分の中にね。難しいですね。表現がね。言語化しにくいな。感覚のもんですな。ここだけは。他になんぼでもおいしいもん別に嫁あんと一緒に食べてるんですよ。これええなこれうまいないうのなんぼでもあるんですけどね。最後はそれで死にたいんですよね。
まあそうやって死ねるかわからへんでね。わからへんけどあえてそれを最後の晩餐という言葉をつけるならそれが一番ぴったり自分の中でしっかりくるということなんですよ。
みなさんどうなんでしょうね。あれが食べたいこれが食べたいって普通やったらね。ステーキが食べたいとかとんかつやーとかカツ丼やーとかね。カレーやーとかね。いろいろあると思うんですが。私はもうこの二十何年一つも揺らがずそれですな。
みなさんがねそれやったらそんな言うボスのおにぎり食べてみたいと思うかもわかりませんけどそういうことやないね。わかりますかね。味とか握りかけもちろんそれは抜群に好きなんですけど。
あのそういうことやないと思う。僕が感じているそのおにぎりおむすびに関してのその感覚っていうのはそれだけのもんではないということだと思います。やっぱりその時の雰囲気であったりとか。
まあ新婚やったというのもあるでしょうけどね。その時の感動というのがあるんでしょうね。多分ね記憶をなくしてねもう一回それをされても感動するような気がするというか感覚があるんですよね。なんかそれぐらいの衝撃を今でも覚えててただただおいしいということではないと思う。
でもそんなあるんじゃないですか。みなさんどうですかね。それが母の味やったりとかするかもわかりませんけどうちの場合はね母親っていうのはネグレクトではないけども僕がもう物心つく頃には仕事が忙しくなってますし弟が僕より二個下に生まれてますし僕のためだけにというような感覚はもう僕も7歳から米自分で炊くんでね。
だから2歳3歳から7歳までの4,5年の間に自分のためだけにはないと思ってるんですよ。だってもう弟おるし6下には妹がおるからね。だから7歳の時にはもう自分で米炊き始めたんで母親が自分のためだけにはない。
でおばあちゃんはあるんですよね祖父はね祖母が自分の誕生日にうちのお母ちゃん忙しいから家におらんから言うて僕のためだけに作ったことないスパゲティを作ってくれたとかねそういう思い出がたくさんあるんですよ。スパゲティ食べたいスパゲティってどんなわからへんわって言うけど総裁屋に行って聞いてくれてね家で作ってくれてそれがものすごくおいしかったよね。
いっぱい思い出の料理あるんですよ。おばあちゃんが作ってくれたものとか。母親に関しては料理の良い思い出はない。申し訳ない。ないんですよ。
だけどおばあちゃんのやったりとかそうですね自分の嫁さんのそういうおにぎりであったりとか作った料理でおいしかったなという思い出の方が強くあると言うんですかね。ほとんど自分の食べるもん自分で用意してきたんでね子供の頃から。
自分のためにという弟妹のために作ることは多かったし嫌ねんけど自分のために誰かが自分のためだけに作ってくれるということの尊さと言うんですかね。自分の中にあるね。それも他の人はわからへんけど僕の中ではものすごいそれが尊いことと言うんかな。
いやと思うんですよねそれぐらいしかも別にそんな母親だって作ってくれてることあると思うんですけどなんやろインパクトの違いと言うんかな。うちの母親料理下手やしねうんであんまおいしないねあの焼き飯とか大丈夫かっていう味で作ったりするそれを本人はおいしいって言うんやけど。
うちの息子とかも食べたことあるんですけどいやあれは食べ物じゃないって言うんですよね。だからやっぱり正しいよな僕の表現はっていうことですよね。こんな言うたらひどいけどな。さっきしゃーないやんそんな人それぞれ能力。
だから最後の晩餐はボスの握ったおむすびです。