1. 晴耕雨読 - 吟 -
  2. ロックアーティストのしごと🪨
2024-02-18 34:59

ロックアーティストのしごと🪨

gin
gin
Host

重森三玲記念館 - 吉備中央町ホームページhttps://www.town.kibichuo.lg.jp/site/kanko/36.html

【永遠の和モダン】岡山出身の作庭家重森三玲の足跡を辿る岡山の旅https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/60/page

重森三玲の庭 https://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/mirei.htm

文字起こし

岡山県出身のロックアーティストというと、みなさん誰を思い浮かべますか? 僕たちの世代にとっては、カリスマ的に人気のある2人の男性ボーカリストが、岡山県の出身です。

一人は、B'zの稲葉浩志さん。津山市の出身だそうです。 もう一人が、ブルハーツとかハイローズとか、今はクロマニヨンズかな。甲本ヒロトさん。甲本ヒロトさんは、稲葉さんよりは一つだけかな? 年上で、岡山市の出身らしいです。知ってました? 日本のロックの中ではね、一つのスタイルを作って、あと今もね、元気バリバリで活躍している偉大なボーカリスト2人がですね、同じロックでもスタイルは結構違うので、あんまり2人が交わる感じはしないんですけど、この2人がね、ほぼ同世代っていうことを最近知りまして、岡山、これはなかなか侮れないな、ロックなエリアだなって思いました。

ちなみに、最近のミュージシャンで言うと、ロックっていう感じでもないんですけど、藤井風さんが岡山出身で有名ですよね。まだ若くて、26歳とかだと思うんですけど、2年前かな? 琥珀田合戦にね、実家から出ていて、結構岡山の田舎の方というかね、ローカルなところ出身だと思うんですけど、そんな個性的なロックミュージシャンを輩出している岡山なんですね。

自分は岡山の出身とかっていうわけじゃないんですけど、岡山好きでちょくちょく訪れていまして、この間も3連休に旅行してきまして、今日はその旅行の中で偶然ですね、もう一人の別の岡山出身のロックアーティストのことを知って、ゆかりの地に行った話をしようと思います。

ロックと言ってもですね、ロックンロールのロックではなく、岩です。岩のロックです。 岩のロックアーティストです。そのロックアーティストとは、重森三玲、庭園研究家の重森三玲さんです。 庭師ですね。庭を作る人です。重森三玲さんはですね、ご存命ではなくて、もう亡くなってはいるんですけど、昭和を代表する重森三玲、庭を作るですね、重森三玲、昭和モダンな庭アーティストとして世界的に知られている方でして、代表的なお庭作品には、京都の東福寺の豊穣庭園とか、その東福寺のすぐ近くにある東福寺達中の洪明院の派心庭とか、あとは大徳寺の中にある瑞穂院の庭園とか、あとは神社なんですけど松尾大社庭園とか、この辺りは京都市の中にある観光でも有名な庭園でして、僕もですね、数ある京都にある庭園の中でもすごく好きな庭園です。

重森三玲さんはですね、人生の中でたくさんのですね、庭をリサーチ、ご自身でリサーチして、その上で自分のスタイルを確立しながら庭を作っていったそうです。生涯で全国500ヵ所の、すでに残されていた庭園をですね、訪れて、実測、測って、書面に残してアーカイブした、庭園研究家でもあるんですね。日本庭園史図鑑っていう全26鑑っていうのを作ったり、その後さらに日本庭園史体系全33鑑も作って、すごいですね。

重森三玲さんが活躍したのは大正昭和時代あたりなので、日本の庭の歴史、日本の建築、庭の歴史からしたら最近なんですよね。今も日本には、それこそ平安時代ぐらいから作られた古い庭っていうのがいろんなところに残されているわけで、重森三玲さんはその大正昭和の時代に歩き回ってそれらを体系的に調べて、測量とかして図面とか作って残すという作業をしながらも、自らも庭を作るアーティストとしていろんなお寺とか神社とか、あとは個人宅の庭園をですね、クライアントワークとして作っていた方です。生涯で全国各地に約200もの庭園、お庭を作ったということです。

ところで自分は、20代後半の時に東京で働いてた会社を辞めて京都に戻ってきてしばらく無職でブラブラしてた時期がありまして。人生で一番迷ってた時なんですけど、その時にひたすら京都のお寺とか神社を回って、仏像とかではなく、お庭に行ってひたすら座ってぼーっとしていたっていう時期がありました。その頃ですね、日本庭園の魅力にはまって、重森三玲さんのことも知りました。そのときから重森三玲さんはすごく偉大で有名なアーティストの一人なんですよ。

日本の庭園の歴史は長いわけで、各時代にアーティストやスターがいたわけなんですが、鎌倉時代ですと天龍寺をてがけた夢窓疎石というお坊さん。安土桃山時代になると小堀遠州、古田織部の弟子の一人ですね。彼は南禅寺や二条城のお庭を作っています。 さらに時代が下がって江戸時代の後期から明治というあたりになると小川治兵衛という方がいて、彼は京都だと平安神宮や円山公園、結構最近ですよね、そのあたりの名前が出てくると。また平安神宮の近くにある無鄰菴、洋館と和風の建築と両方あって結構印象的なんですけど、そこの広いお庭も作っています。そして、その後に明治生まれで大正昭和で活躍した最も最近の庭作りの大物スターとして、重森三玲さんがいるという感じです。亡くなりになったのが1975年。自分が生まれる前にもう亡くなっている方ではあるのですが、自分の中では昭和のロックアーティストなんです、重森三玲さんは。

重森三玲さんについてここまで話したようなことは庭好きの1人として存じ上げて知っていたのですが、岡山県出身だということは、先週末の旅行で立ち寄った道の駅にあるパンフレットで知りました。今の行政では、吉備中央町という場所なんですけど、ここがその重森三玲さんが生まれて育って、20歳ぐらいまでかな、育った土地っていうことで、その生まれた家の跡が残されています。重森さんは成人してからは基本的には京都に住んでいたのですが、人生の終わりあたり60代70代になって、岡山の盆地の自分の生まれ故郷にいくつか庭を作っていたりして、それが残っていていくつかが見れるというようなことを知りました。ということで、車を借りてきているし、これもなんかのご縁かなということで、吉備中央町にある重森三玲記念館に行ってきました。記念館と言いながらもそんな大層なものではなく、街の公民館みたいなものの隣にその記念館が併設されていて、その公民館にいる職員さんに声をかけると、開けて中を見せてもらえるみたいな、アットホームな記念館でした。

重森さんが生まれてから亡くなるまでの年表がすごい面白かったです。生まれてからどんなふうに重森さんがその美意識を形成して、どんな苦労をして、どんな人とどんな苦労をして、生涯の中でどういうふうに、どういう順番で作品を作っていたか、そんな流れは自分は全然知らなかったので。面白いっていうのは、この人変だな、変人と天才って紙一重じゃないですか。作品だけじゃなくて、人として興味深いエピソードがありましたので、それを紹介させてください。

まず、重森三玲さんの人生最初の作品として、17歳の時に自宅の敷地内に作った茶室というものがですね、残されていて、見学できました。と、その情報だけで、いろいろ普通じゃないなって思いまして、人生最初の作品が茶室で、17歳の時に作って、自分の家の敷地内に作ったっていう。またその茶室が、17歳が作ったとは思えない、そもそも17歳は茶室なんて作らないんですけど、とても格式高くしっかりしてるんですよ。京都市内の禅宗のお寺の中にこの茶室があっても、違和感ないくらい。彼が京都のお寺の息子だったらわかる、まだわかるんですけど、岡山の山の中の田舎ですよ。彼が生まれたね、明治時代なんてもっと不便な田舎だったと思うんですけど、ところで生まれた子供が、少年が、美意識というかアートに目覚めて、17歳で茶室を作ったという。いったいこの家庭はどうなってるんだみたいな感じでですね、気になりました。この重森青年はって思います。本名は重森かずおっていうらしいです。正確には本名じゃなく、幼少期ははかずおだったというのが正しいですね。これちょっと後で話します。彼は長男で他のきょうだいは全部女の子だったらしいんですね。

記念館ではこの茶室を作った背景の解説がありまして、彼のお父さんとおじいちゃんは、このかずお青年に岡山から出て行って欲しくないと。長男でね、男の子一人だったんで出て行って欲しくないと。もう実家離れたらもう戻ってこない可能性高いじゃないですか。そういうアーティストになりたいみたいな志があったら。それでを彼をつなぎ止めるために、家の敷地に茶室を作るのを許可して、作るっていう、建築するっていう工程をお父さんが手伝ったって書いてあったんですよ。彼の思い通りやりたいように、その素材とかね、建材、木とか高い木使うじゃないですか。遊びじゃなくて、プロの仕事なんですよ。こんな種類の子供の甘やかし方もあるんだってびっくりしました。ファミコンのカセット買ってあげるとか、服買ってあげるとか、車買ってあげるとかじゃなくて、茶室作ってあげるっていう、なかなか新手の甘やかしだなって思いました。

それが重森三玲の最初の作品でしたと展示してありました。でも結局はそのお父さんとおじいちゃんの努力も虚しく、かずお少年は東京に行って東京の美大に通うらしいんですね。美大では絵画と日本画と花道とお花と茶道、お茶を習って、アートにどっぷり浸かるみたいなことをしてたらしいんですけど、、最初は画家を志していたけど、そこで挫折をして、東京から京都に移動して、華道の道に進んで活動していたそうです。二次元で描くよりは、その空間づくりみたいな方に自分は向いている、そっちの道だなって思ったのかもしれません。

次の面白いエピソードなんですけど、京都に来た後にですね、自分の名前を和雄から重森三玲に変名するということをします。

で、この三玲っていうのはフランスの画家、ジャン・フランソワ・ミレーっていう画家、落穂拾いでしたっけ、フランスのミレーっていう画家がいますが、そのミレーにちなんで、かずおから三玲に改名したそうです。これはなかなかな西洋かぶれですよね。大正から昭和になるぐらいな時、でもこの時代だからというのもありそうです。

僕らのちょっと前の世代なら、ビーストルズが好きだから日本人だけど名前をレノンにしましたとか、グランジに影響を受けたからコバーンって名前にしましたとか、ギターが好きだからサトリアーニとか、ブラックモア、それはさすがにないか、そんな名前つけたりとか、サッカーが好きだからズラタンとかね、佐藤ずらたんとか、田中さとりあーにとか。でも、アーティストなんで、このミレイっていう名前が、そのペンネーム・雅号だったらわかるんですよ。本名・戸籍の本名は別にアーティストとしてミレイを名乗っているのなら。でもこの重森三玲さんの場合はそうじゃなくて、もう本名、戸籍からミレイにしたい、かずおではなくミレイにしたい。

このあたりウィキペディアを読んでいるだけではあるんですけど。ただ、戸籍の名前を変えるのはまあ法律で大変だったらしくて、調べてみたら、一度出家したら戸籍を抹消できるから、一度出家をして戸籍をなくした後、もう一度戸籍に入ることをしたら、その時に名前が変えれることを知り出家したそうです。ハックしてますよね。これ完全に法律をハックしてますよね。ということで、まあそんなことをして、雅号じゃなくて、自分の本当の戸籍状の名前をカズオからミレーに変えたそうです。

さらに重森未礼さんはお子さんが5人にはヨーロッパの哲学者の名前をつけたそうです。カント君、コウエン君、ユーゴーちゃん、ゲーテ君、バイロン君。徹底してますね。

お子さんのお話で言うと、京都の吉田山のそばに重森三玲庭園美術館っていうのがありまして、ご存知の方もいると思うんですけど、ここは電話かメールで予約して行くところで、実は僕まだ行ったことないんですけど、この場所自体は京都で重森三玲さんが住んでいたところで、そこの館長が今重森三玲さんのお孫さんが運営されているそうです。

一方、岡山の重森三玲記念館には、彼が生まれてから亡くなるまでの年表のほか、代表的な作品の写真が大きくプリントアウトしてあって、僕はわざわざ京都から岡山に行って、東福寺の庭のプリントアウトされた写真を見てきました。そこにいた職員の方に、京都からですかってちょっとびっくりされたんですけど、京都でええやんっていう、意味もあったかもですね。でも、その写真の横にその庭を作った時の重森三玲さんのコメントとかも書いてあったりして、それも面白かったし、彼が生きている間に書いた庭じゃない作品、書道とか水墨画とか、なんかそんな作品も見れたので良かったです。

この旅ではもう一箇所、この記念館と茶室以外に、そこの場所から車で5分ぐらいのところにある重森三玲さんの生まれ育った家の跡地っていうのが見学できるようになってるんですけど、そこにも行ってきました。この跡地にはですね、今もう建物はなくて、土台の基礎だけ残ってちょっと遺跡の発掘現場みたいな感じになってるんですけど、この敷地の中に生家庭園と名付けられた石組の日本庭園が残されています。生家庭園、言ったら実家の庭です。彼はですね、その実家の敷地に、最初にその17歳の時に茶室を作った後、一旦ね、離れて東京で美術を学ぶんですけど、その後、さっき言ったように庭園の道に進んで、全国の庭園を歩きまでリサーチするみたいな大きな仕事をして、自分でも庭を作ってみよう、作ってみたいっていうことになった時に、ここは僕の想像なんですけど、まだその最初は全然名前も売れてないし、その資金もないので、スポンサーもいなかったと思うんですね。でも庭作ってみたいと。作らないと始まらない。じゃあ実家があるじゃないかということで、実家の敷地にまず庭を作ろうということで、重森三玲さんが28歳か9歳の時に作ったのが、その生家庭園です。

令和の現在ですね、その跡地は田んぼの中にポツンとその敷地で囲われた遺跡みたいな感じであって、その片隅に石組がされていて、よく近づいてみると、あ、これ日本庭園だな、大きな石を組み合わして山のように見せて、そっから滝が流れている様子があって、川が形作られて、踏み石がポンポンポンと置いてある、いわゆる日本庭園的な設え、もう水は流れていないんで、見る人は想像しながらここに川、海があるんだなっていうふうに味わうお庭ですね。それが町の人によってメンテナンスされている、そんな感じのお庭でした。

だから京都のお寺の庭園のようなうやうやしい感じではなく、その敷地全体も本当に田んぼの中にポツンとあって、行きたい人これちゃんと行けるのかなっていうぐらい微妙な感じなんですけど、ただ一応遠くから見ても分かるようにパネルがですね、重森三玲生家跡というパネルがですね、貼ってあって一応遠くから見たら分かるような感じになってて、それもなかなかね、田んぼの中にポツンとあるのでシュールな感じで味わい深かったですね。

その重森三玲が初めて28歳か9歳の時作った庭は、ちゃんと見ると近づいてみたら、あ、これはもう重森三玲っぽいなっていう感じはありましたね、既に。大徳寺の庭園にあるような大胆な石でね、山と滝を表現したようなテイストです。作ったというか作ってみ「#作ってみたみた」たぶん作った時はそういう感じだったと思うんですけど、でもちゃんと重森三玲の世界が感じられるお庭で面白かったです。そこには町の方がつけた案内板みたいなのがあって、1925年1月完成、重森三玲処女作っていうプレートがついてました。庭としては最初ということで、ただそれは実家の庭っていうのが僕の中で結構ツボで、そんなレアなものをわざわざ行ってみれて良かったですね。

話をさっきの茶室、18歳のときに作った天籟庵(てんらいあん)に戻します。実はこの茶室にもお庭がついています。ただこの庭は18歳のときに、お父さんおじいちゃんに手伝ってもらいながら作った時に作った庭ではなくて、重森三玲さんがもう人生の終盤、60代とか70代になった時に作った庭らしいんですよ。だから50年越しに、庭師として成功した後に付け加えて作った庭なんですね。その時には、成功して、お金も時間も十分にあるので、あとは実家の茶室の庭なので、意向を聞くスポンサーもいないので、好き放題作ったという感じです。

この重森三玲さん、人生の終盤60代70代になってからですね、その自分の生まれ故郷の周りに庭を作ったり、地元のお寺とかに庭を作ったりとか、あとは京都で作った庭をこの地元の市役所かな、に移設してきたりとことをされているそうです。記念館でもらってきたパンフレット見ながら話してるんですけど。あるお寺に寄贈した功徳庵(くどくあん)という茶室は、重森三玲人生畢生のの最高傑作であると言われています。って書いてありました。

さて実家の茶室の庭なんですが、スポンサーとかなんかこういう感じで作ってほしいとか、もともとこういう場所なんですとか、こういうストーリー、言われがあるんですとか、なんかそういう従わなきゃいけないものは一切ないわけですよね。ガイドには、重森三玲が初めて本当に自由に作りました。自由に作った庭ですって書いてありました。いわゆるにじり口、茶室のにじり口までの一種のちっちゃなステップがあって、その周りを海に見立てて、みたいなフォーマット自体は一般的な日本庭園のものだと思うんですけど。その海を表現するときに大きく2通りあって、実際水を流すか、もしくは見立て、枯山水で見立てとして白い砂を使うかっていうのがどっちかが一般的だと思うんですが、この実家の茶室の庭では、水も砂も一切使わず、2色のセメントで表現しているっていうのが斬新でした。しかもその2色のセメントがですね、朱と白で、その朱色はですね、セメントにベンガラを混ぜているそうですと。セメントとベンガラですよ。それでその赤と白のコントラストで海とか川とか滝とか道みたいなものを表現しているんですね。実家の茶室の庭に。ちなみにベンガラっていうのはこの岡山のこの辺の地方の元々のアイデンティティだったりするんですね。

基本的に他の作品、重森三玲さんの庭ってどれもエキセントリックで和モダンと言われて幾何学模様だったりとかすごい計算されてたり。東福寺の庭とか特にそうです。でもここで見たようなセメントで赤白の2色のコントラストを作るみたいな作風は初めてでした。そうか、最後に自由に作れるってなったらこういうことをするんだなっていうのが垣間見れました、なんかちょっと突然変異っぽくも見れたんですけど。そして、それが実家に、何回も言うんですけど、18歳の時に作った茶室の周りの庭っていうのが面白いなっていうかすごいなって思いました。

さっきからスポンサーって言ってますが、6、70代の大御所になった重森三玲さんのような芸術家であってもやっぱり基本作品を作るときは特に庭なので、もともとある神社とかお寺とかお城とか、個人のお金持ちの家とか、そういう場所や歴史による制約、そしてもちろん依頼主の意向があります、クライアントワークなので。彼ぐらいの大物であってもやっぱり100%好き放題作るわけではないと。好き放題作ってくださいって言われて好き放題作ってるように見えてもやっぱりそこはスポンサーの意向とか、その場所の文脈とかを意識したものを作っていたんだなっていうのがわかりましたし、記念館にある彼が言った言葉の中にもそういうことが書いてありました。

その芸術家の人生の終盤にいろんな制約から解き放たれて、本当に自由に制限なく作るというのは憧れがありますよね。自分がそこでパッと思い浮かんだのは、現代のアーティストですと杉本博さんですね、杉本博さんは小田原に江之浦測候所っていうご自身がプロデュースした、美術館プラス庭園プラス里山みたいな場所がありまして。僕はとても好きなんですけど、江之浦測候所は杉本さんが自分の好きなものを集めて、その敷地全体の大きな空間に設置して、人が回遊できるようにしているんですね。ここを開設してからですね、ずっとコツコツとバージョンアップしていて、杉本さんがいろんなところから収集してきた、自分のご興味の赴くままにですね、収集してきた神社の鳥居とか岩とか民家のオブジェとか、あと植物とか木とか、杉本さんの感性で設置して、だからなんか壮大な盆栽みたいな感じかなって思うのですが。そういう郷地って憧れますね。

最後にもう一つ、重森三玲さんの話なのですが、彼の最後の作品・お庭が、京都の松尾大社にある3つの庭です。蓬莱の庭、曲水の庭、上古の庭という3つの庭なんですけど、松尾大社の敷地の分かれた場所にこの3つの庭園が別々にあるんですね。最初の蓬莱の庭っていうのが、いわゆる池泉廻遊式という結構広い面積のところに大きな池を中心にした庭があって歩き回りながら観賞をするっていうようなスタイルです。2つ目の曲水の庭は、建物の中から座って眺めるスタイルの江戸時代とかあたりのお寺の庭とかに多いような、一番スタンダードなタイプです。

最後の上古の庭っていうのが、3つの中ではトリッキーで挑戦的なもので、野種にあふれているというか、ぱっと見ね、草ぼうぼうのところにでっかい岩が打ち捨ててあるみたいな、ちょっと失礼な言い方ですけど、ぱっと見そんな風貌のお庭なんですよ。アミニズムというか、原始に帰ったようなコンセプトの庭になってまして、これ庭ですって、庭園ですと、デザインされた庭園ですと言われなかったら、なんか岩が捨ててあるのかな、大きな岩がみたいに勘違いされるぐらいの無骨な空間なんですね。重森三玲さんの庭って、精緻に聖地に計算された作品、庭が多いので、キャリアの終盤に作ったこの上古の庭が、地球の太古に帰った姿みたいな印象を与える庭で。松尾大社行ける方がいたら、ぜひこれ3つを順番に見ていただきたいと思います。

そして重森三玲さん、この上古の庭を作って、翌年ぐらいなのかな、亡くなられたんですね。それで最後の作品になりました。松尾大社は神社なので、歴史はお寺よりも長いわけで、そういう精霊、神様が宿る場所にその磐座をかたどったような庭を作られたんですね。それを作った後にほどなく亡くなられたというそのストーリーもすごいなって思いました。基本的に日本庭園というか庭っていうのは自然と調和するような形で作るけどめっちゃ人工で作る造形物じゃないですか。だけど最後はそういう神様がいるような場所に野趣ある形で、綺麗に草を刈って丸くするみたいな日本庭園のイメージではなく、草ぼうぼう、まあ実際はぼうぼうじゃない、計算されたぼうぼうなのですが、太古の時代の神様がいるような磐座のようなものを作って最後お亡くなりになられたと。で、その少し前には、今日何回も言いますけど実家で18歳の時に作った茶室にもう完全に制約のない自由な庭を作って完成させたと。

なんかかっこいいですよね。この重森三玲さんの制作の歴史。人生を通じて庭作りってものに取り組んで、それがなんか作って終わりじゃなくて作り直したり移築したり付け加えたりみたいなことをずっと人生ね、生涯かけてやってらっしゃっていて本当に面白いなって思いました。たまたまね岡山に旅行行って、たまたま道の駅で知って記念館に行って、その人生の最初と最後の庭みたいなものを見て、僕の中の重森三玲さんとその作品というか人生に対する理解というか解像度が上がってさらに興味を持ちました。

重森三玲さんがクライアントワークで手掛けた庭っていうのが全国に200以上あるので、自分はそのうちまだ20個も見てないので、京都を中心にしか見てないので、人生を通じてですね、そういう京都以外の日本各地にある重森三玲さんの作品、庭をカメラを持って鑑賞しに行くっていうのをこれからの人生で、おじいちゃんになってもできますし、そういう趣味って、人生ちょっと楽しくなるかもなって思いました。

はい、今日のは知ってても知らなくてもいいような話しかしてないんですけど、芸術とか制作とか、そのひとつの道の創造に向かい合っている芸術家の人生に興味があるっていう人には、こういう面白い人も、昭和の時代にいたんだなって知ってもらえたら嬉しいです。

そして岡山が生んだロックアーティスト、偉大なロックアーティスト(*1)として、B'zの稲葉さん、ブルーハーツのヒロト、そして作庭家重森三玲がいることを覚えていただければと思います。

ではまたお会いしましょう。さようなら。

 

*1) ちなみに、セカイカメラやTelepathyで知られる起業家・思想家の井口尊仁氏も岡山出身で稲葉さん・ヒロトと同世代。自分の中では岡山の現役3大ロックスターです。



This is a public episode. If you would like to discuss this with other subscribers or get access to bonus episodes, visit kyoto.substack.com
00:13
岡山県出身のロックアーティストというと、みなさん誰を思い浮かべますか? 僕たちの世代にとってはカリスマ的に人気のある2人の男性ボーカリストが、岡山県の出身です。
一人はビーズの稲葉孝司さん、津山市の出身だそうです。 もう一人がブルーハーツとかハイローズとか、今はクローマニオンズかな?
高本寛さん、高本寛さんは稲葉さんよりは一つだけかな? 年上で、岡山市の出身らしいです。
知ってました? 日本のロックの中ではね、一つのスタイルを作って、あと今もね、元気バリバリで活躍している偉大なボーカリスト2人がですね、
ちょっとね、同じロックでもスタイルは結構違うので、あんまり2人が交わる感じはしないんですけど、この2人がね、ほぼ同世代っていうことを最近知りまして、
岡山、これはなかなか侮れないな、ロックなエリアだなって思いました。 ちなみに最近のミュージシャンで言うと、まぁロックっていう感じでもないんですけど、藤井和さんが
岡山出身で有名ですよね。まだ全然若くて、26歳とかだと思うんですけど、2年前かな? 琥珀田合戦にね、実家から出ていて、結構岡山の田舎の方というかね、
ローカルなところ出身だと思うんですけど、まぁそんな個性的なロックミュージシャンを輩出している岡山なんですね。
僕全然岡山の出身とかっていうわけじゃないんですけど、結構岡山好きでちょくちょく行っていて、この間の三連休に妻と旅行してきまして、今日はその旅行の中で偶然ですね、もう一人の別の岡山出身のロックアーティストのことを知って、ロックアーティストのゆかりの地にですね、行った話をしようと思います。
ロックと言ってもですね、ロックンロールのロックではなく岩ですね。岩のロックです。岩のロックアーティストです。岩を扱うロックアーティストですね。
そのロックアーティストとは、策定家、庭園研究家の重森美玲さんです。庭師ですね。庭を作る人です。
重森美玲さんはですね、ご存命ではなくて、もう亡くなってはいるんですけど、昭和を代表する策定家、庭を作るですね、策定家、昭和モダンな庭アーティストとして世界的に知られている方でして、
代表的なお庭作品には、京都の東福寺の法上庭園とか、その東福寺のすぐ近くにある東福寺達中の法名院の派心庭とか、
あとは大徳寺の中にある随法院の庭園とか、あとは神社なんですけど、松尾大社庭園とか、この辺りは京都市の中にある観光でも有名な庭園でして、僕もですね、数ある京都にある庭園の中でもすごく好きな庭園です、この辺りは。
しげもりみれいさんはですね、人生の中でたくさんのですね、庭をリサーチ、ご自身でリサーチして、その上で自分のスタイルを確立しながら庭を作っていったそうです。
今ね、wikipediaを見てるんですけど、生涯で全国500箇所のすでに残されていた庭園をですね、訪れて、実測、測って、それをアーカイブ、書面に残してアーカイブして、
03:08
なので、さっき言ったように庭園研究家でもあるんですね。日本庭園史図鑑っていう全26鑑っていうのを作ったり、あとその後さらに日本庭園史体系全33鑑みたいな、すごいですね。
そもそもですね、しげもりみれいさんが活躍したのは大正昭和時代あたりなので、日本の庭の歴史、日本の建築、庭の歴史からしたらもうすごい最近なんですよね。
今も日本には、それこそ平安時代ぐらいから作られた古い庭っていうのがいろんなとこに残されているわけで、しげもりみれいさんはその大正昭和の時代にそれをですね、
歩き回って体系的に調べて、まあ測量とかして図面とか作って残すという作業をしながらも、自らも庭を作るですね、アーティストとしていろんなお寺とか神社とか、あとは個人宅の庭園をですね、クライアントワークとして作っていた、そんな方です。
ご自身ではですね、生涯で全国各地に約200もの庭園、お庭を作ったということですと。僕自身は20代後半の時にですね、東京で働いていて、その会社を辞めて、京都に戻ってきてしばらく無職だった、あのぶらぶらしてた時期があってですね、結構人生で一番迷ってた時なんですけど、
その時にひたすらですね、京都のお寺とか神社を回って、仏像とかを見るんじゃなくて、庭に行ってひたすら神社とかお寺さんの庭のところに座ってぼーっとしていたっていう時期がありまして、その頃ですね、日本庭園の魅力にハマって、重森美齢っていう人のことも知ったっていう感じです。
なんで僕の中ではですね、重森美齢さんはすごく偉大で有名なアーティストの一人なんですよ。過去の人ではあるものの、他のね、有名な庭を作った作者からするとすごく最近の方なわけなんですね。日本の庭園の歴史ってまあ長いわけで、各時代にアーティストやスターがいたわけなんですけど、鎌倉時代ですと無双曽関というお坊さんがいて、彼が天竜寺の庭園を作ったりしています。
で、安土桃山時代になると小堀遠周、彼は古田織部の弟子の一人ですね。小堀遠周は南禅寺とか二条城のお庭を作っています。さらに時代が下がって江戸時代の後期から明治という辺りになると小川治平っていう方がいて、彼は京都だと平安神宮とか、あとは丸山公園とか、結構最近ですよね、その辺りの名前が出てくると。
あ、で、あとは平安神宮の近くにある無林庵っていうですね、居堀のですね、洋館と和風の建築と両方あって結構印象的なんですけど、そこの広いお庭も作っています。
で、その後に明治生まれで大正昭和で活躍した最も最近の庭作りのスターですね、有名人、有名人というか、はい、偉大な方としているのが重森美玲さんがいるっていう感じです。
亡くなりになったのが1975年なんで、まあ僕が生まれる前にもう亡くなっている方ではあるんですけど、京都の有名なお寺とか神社に今話したような岸上の偉大な策定家と並んで評価されるような素晴らしいですね、庭を作られた方が重森美玲さんです。
06:11
なんで僕の中では昭和のロックアーティストなんですよ、重森美玲さんは。はい、今言ったことはですね、存じ上げて知っていたんですけど、重森美玲さんについて。
ただ彼が岡山県出身だったっていうようなこととかはあまり知らなくて、先週末の旅行で初めてちゃんと意識しました。これもすごいたまたまで車借りてドライブしてまして、目的地はですね、ちょっと岡山市から車で北の山の方に行って、山のところにあるとある牧場にチーズを、自家製チーズを買いに行くっていうのが目的だったんですけど、
その帰りに立ち寄った道の駅にあるパンフレットで、実はこの道の駅のある街に重森美玲の記念館があるということを偶然知ったんですよ。
今の行政では、紀美中央町っていう場所なんですけど、ここがその重森美玲さんが生まれて育って、20歳ぐらいまでかな、育った土地っていうことで、その生まれた家の跡が残されているっていうのと、
あと、重森さんって成人してから基本的には京都に住んであった人なんですけど、人生のですね、終わりあたり60代70代になって、紀美中央町の自分の生まれ故郷にいくつか庭を作っていたりして、それが残っていて今も見れる、あるっていうようなことを道の駅で知りまして、
岡山の地元に作った庭は、重森さんが作った200ぐらいあるですね、いろんな庭の中ではそこまで有名なものではないんですけど、ただね、その重森美玲さんが故郷に作った庭があるってことを知ってですね、たまたま車を借りてきているし、これもなんかのご縁かなということで、紀美中央町にある重森美玲記念館に行ってきました。
記念館言いながらもですね、そんな大層なもんでは全然なくてですね、町の公民館みたいなものがあるんですけど、町役場の文書みたいなやつですかね、その隣にその記念館が併設されていて、その公民館にいる職員さんに声をかけると開けて中を見せてもらえるみたいな、なんかそういうアットホームな記念館でした。
重森さんが生まれてから亡くなるまでの年表っていうのがあるんですけど、それがすごい面白かったですね。生まれてからどんな風に重森さんがその美意識を形成して、どんな苦労をして、どんな人とどんな苦労をして、生涯の中でどういう風にどういう順番で作品を作っていたか、みたいなことは僕全然知らなかったので、その辺りが面白かったです。
面白いっていうのは、この人変だなというか、変人と天才って紙一重じゃないですか。なんかその作品だけじゃなくて、人間としてもですね、面白いというか、まあ興味深いエピソードがいくつかしていたので、それを今から紹介させてください。
まずですね、重森美玲さんの人生最初の作品として、17歳の時に自宅の敷地内に作った茶室っていうものがですね、残されていて、それが見学できました。
今の情報だけで、いろいろ普通じゃないなって思いまして、人生最初の作品が茶室で、17歳の時に作って、自分の家の敷地内に作ったっていう、これどういうことなんだっていう。でね、見学したんですけど、すごいね、17歳が作ったとは思えない、17歳、まあそもそも茶室なんて作らないんですけど、すごいね、とても格式高くしっかりしてるんですよ。
09:03
もう例えば、京都市内の全州のお寺の中にこの茶室があっても、全然違和感ないというか、おかしくないぐらいですね。で、彼がなんか京都のお寺の息子とかだったらわかる、まだわかるんですけど、岡山の山の中の田舎ですよ。僕もまああの福井の田舎出身なんであえて言いますけど、田舎ですよ。彼が生まれたね、明治時代なんて元田舎だったと思うんですけど、そんな田舎の農村で生まれた子供が、少年が地元でですね、美意識というかアートに目覚めて、17歳で茶室を作るっていうのがどういうことなのか、
どうなんだろうと、この家庭はどうなってるんだみたいな感じでですね、まず気になりました。まあ天才で、成田少年だったんだろうな、この重森青年はって思います。本名は重森和夫さんっていうらしいんです。和夫、本名じゃないな、本名は和夫だったんですけど、はいこれちょっと後で話しますけど、彼は長男で、他全部女の子だったらしいんですね、兄弟が。
で、少年時代にいろんな本で、まあこの時代なんで、おそらくもう本しかないと思うんですけど、いろんなアートとか美術の情報を得て触れて、この地元でですね、おそらくね、自分は早くここ出て、東京か京都か大阪かわかんないですけど、都会に行って、まあいろんな美術に、アートに触れたい、自分はね、アーティストになりたいみたいな夢を持ってたんだろうなって思います。
そこが僕の今の想像なんですけど、記念館にね、その背景、この茶室を作った17歳で、背景の解説がありまして、彼のお父さんとおじいちゃんはですね、この和夫青年に岡山から出て行って欲しくないと、まあ長男でね、男の子一人だったんで、出て行って欲しくないと、もう実家離れたらもう戻ってこない可能性高いじゃないですか、そういうアーティストになりたいみたいな志があったら。
で、それを彼をつなぎ止めるために、家の敷地に茶室を作るのを許可して、で、まあその作るっていう、建築するっていう工程をお父さんがめっちゃ手伝ったって書いてあったんですよ。で、彼の思い通りやりたいように、まあその素材とかね、建材、まあ木とか、高い木使うじゃないですか。
なんで、遊びじゃなくて、プロの仕事なんですよ。作られたその茶室の建築物自体はですね、こんな種類の子供の甘やかし方もあるんだって、うちの奥さんと笑ってたんですけど。で、なんかファミコンのカセット買ってあげるとか、服買ってあげるとか、車買ってあげるとかじゃなくて、茶室作ってあげるっていう、なかなか新手の甘やかしだなって思いました。
まあね、もちろんね、家自体は豊かだったとは思うんですけど、まあそんな感じで、お父さんとおじいちゃんが協力してですね、カズオ青年が設計した、デザインした茶室を作る、17歳で、それが茂森未礼の最初の作品でしたみたいに書いてありまして、まあなかなかもう17歳から異彩放ちまくりだなって思ったわけなんですけど、でね、結局はそのお父さんとおじいちゃんの努力も虚しく、このカズオ少年はですね、東京に行って、20歳ぐらいなのかな、行って東京の美大に通うらしいんですね。
美大では絵画と日本画と花道とお花と茶道、お茶を習って、アートにどっぷり浸かるみたいなことをしてたらしいんですけど、まあこの辺はもうパンフレットの情報なんですけど、最初は画家を志していたけど、まあそこでちょっと挫折をして、その後京都に、東京から京都に行って、お花ですね、花道の方ですね、花道の道に進んでいろいろ活動していたそうです。
12:14
まあなんかこう二次元で描くというよりは、その空間作りみたいな方に自分は向いているというか、まあそっちの道だなって思ったんでしょうね。でですね、次の面白いエピソードなんですけど、京都に来た後にですね、自分の名前をカズオから茂森美麗に変名するということをします。
で、この美麗っていうのはフランスの画家、ジャン・フランソワ・ミレイっていう画家、有名ですよね。僕も知ってるぐらいで、おちぼひろいでしたっけ、ね、絵を描いているフランスのミレイっていう画家がいるんですけど、そのミレイにちなんで、カズオからミレイに改名したと、らしいんですね。
これもなかなかな西洋かぶれですよね。大正から昭和になるぐらいな時にですね。まあでもこの時代だから西洋かぶれするというのもあるのか。ちょっと前の世代、僕らのちょっと前の世代ならビーストルズが好きだから日本人だけど名前をレノンにしました、変えましたとか、あと僕らの世代だったら、グランジに影響を受けたからコバーンって名前にしましたとか、ギターが好きだからサトリアーニとか、
ブラックモアとかさすがにないか、まあちょっとそんな名前つけたりとか、あとそうだ、サッカーが好きだからズラタンとかね、日本人のくせに佐藤ズラタンとか田中サトリアーニとか、なんかそんなに近い気がするんですけど、紫陽王にミレイね、変わってますよね。アーティストなんで、このミレイっていう名前がね、そのペンネームガゴっていうんですかね、ガゴだったらわかるんですよ。本名は別に、戸籍の本名はカズオから変えずに、アーティストとしてミレイを名乗っているみたいな、まあそういうパターンはよくあるじゃないですか。
でも、この茂森ミレイさんの場合はそうじゃなくて、もう本名、戸籍からミレイにしたい、カズオは嫌だというか、ミレイにしたい、ウィキペディアを読んでいるだけではあるんですけど、でね、エピソードで、ただ戸籍の名前を変えるのは、まあ法律で大変だったらしくて、調べてみたら、あ、茂森さんがね、一度出家したら戸籍を抹消できるから、一度出家をして戸籍をなくした後、もう一度戸籍に入ることをしたら、その時に名前が変えれると。
あ、じゃあそうしようとして一度出家したらしいんですよ。あの、もうなんかハックしてますよね。これ完全に法律をハックしてますよね。なんか、ぶつもりに入りたくて出家するんじゃなくて、戸籍をリセットしたいから出家したっていう。これもよっぽどの意思ですよね。
ということで、まあそんなことをして、ガゴーじゃなくて、自分の本当の戸籍上の名前をカズオからミレイに変えたそうですと。
さらにその名前の話でいくと、お子さんが4人いらっしゃるんですけど、そのお子さんの名前もヨーロッパの哲学者の名前にちなんで、長男はカント君、次男はコウエン君、長女はユーゴー、ユーゴーちゃん、3男はゲーテ君、4男はバイロン君。
あ、だから5人ですね。5人の子供の名前を全員哲学者の名前にした。で、日本の漢字のあて字もつけている。これもなかなか意思強いですよね。奥さんはそれでよかったのかなとか、なんかその辺のところが気になるんですけど。
15:05
はい。まあそれで、そのエピソードがさらになんか、おまけエピソードがあって。で、長男のカントさんはですね、そんな父に反発して、ご自身の子供には戸籍や万葉集につけた純日本風なみやびな名前を、まあみやびかどうかわかんないですけど、つけたっていう。まあその反発の仕方もどうやねんって思うんですけど、面白いエピソードですよね。
あ、で、あとそのお子さんとかのお話で言うと、しげもりみれいさんのこと知っている方はですね、京都の吉田山のそばにしげもりみれい庭園美術館っていうのがある。ご存知の方もいると思うんですけど、ここはなんか電話かメールかなんかで予約して入らなきゃいけないようなやつで、実は僕まだ行ったことないんですけど、この場所自体は京都でしげもりみれいさんが住んでいたところらしくて、
そこを見学で、まあお庭もあって見学可能にしたようなところなんですけど、そこの館長が今しげもりみれいさんのお孫さんが運営されているそうですと。
で、岡山のしげもりみれい記念館なんですけど、ここはですね、彼が生まれてから亡くなるまでの年表とか、あと代表的な作品の写真がまあでかくプリントアウトしてあって、僕はわざわざ京都から岡山に行って、
東福寺の庭のプリントアウトされた写真を見てきたんですけど、そこにいた職員の方に、京都からですかってちょっとびっくりされたんですけど、京都でええやんっていうまあ意味言ってもらったのかもしれないですけど、はい。
でもね、その写真の横にその庭を作った時のしげもりみれいさんのコメントとかも書いてあったりして、はい。で、それも面白かったし、あとは彼が生きている間に書いた庭じゃない作品、書道とか水墨画とか、なんかそんな作品もあったりしたので、はい。すごい面白かったです。
で、先ほど話したしげもりみれいさんが17歳時に作った天雷庵と名付けられた茶室、実はこの記念館の横に移設されていて、見学もさせてもらいました。
で、この旅ではもう一か所、この記念館以外に、そこの場所から車で5分ぐらいのところにあるしげもりみれいさんの生まれ育った家の跡地っていうのが見学できるようになってるんですけど、そこにも行ってきました。
で、この跡地にはですね、今もう建物はなくて、なんかちょっとあの遺跡の発掘現場みたいな感じになってるんですけど、土台だけ残ってるみたいな、はい。でね、この敷地の中に聖火庭園と名付けられた石組の日本庭園が残されています。
聖火っていうのは漢字は生まれた家です。生まれた家の聖火庭園。だからまあ、言ったら実家の庭です。はい、実家の庭です。
彼はですね、その実家の敷地に最初にその17歳の時に茶室を作った後、一旦ね、離れて東京で美術を学ぶんですけど、その後さっき言ったように庭園の道に進んで全国の庭園を歩きまでリサーチするみたいな大きな仕事をして、
で、もちろんね、自分でも庭を作ってみよう、作ってみたいっていうことになった時に、で、ここが僕の想像なんですけど、実はまだその最初は全然名前も売れてないし、その資金、お金もね、そんなにないので、スポンサーもいなかったと思うんですね。
これも僕の想像なんですけど、でもまあ庭作ってみたいと。作らないと始まらないと。じゃあ実家があるじゃないかっていうことで、実家は敷地広いし、またお父さんおじいちゃんがまだ御存命だったか知らないですけど、じゃあ実家の敷地にまず庭を作ろうということで、重森美蓮さんが28歳か9歳の時に作ったのがその聖火庭園らしいですと。
18:21
で、まあ令和の現在ですね、今どういう形でその庭園とその生まれた家の跡が残されているかというと、本当にもう何にもないさらちで、田んぼの中にポツンとその敷地で囲われた遺跡みたいな感じで、その跡地がありまして、その片隅に石組がされていて、よく近づいてみると、あ、これなんか日本庭園っぽいなって感じの石組ですね。
大きな石を組み合わして山のように見せて、そこから滝が流れている様子があって、川が形作られて、組石がこうポンポンポンって置いてある、いわゆる枯山水的な庭園の枠組みに、まあもちろんね、もう水は流れていないんで、見る人は想像しながらここに川、海があるんだなっていう感じなんですけど、はい。
それが町の人の行為でメンテナンスされているみたいな、まあそんな感じのお庭でした。だから全然京都にあるうやうやしい感じではないんですけど。でね、その敷地全体もすごい本当に田んぼの中にポツンとあって、なんか行きたい人これちゃんと行けるのかなっていうぐらい微妙な感じなんですけど、ただ一応遠くから見ても分かるようにパネルがですね、茂森未礼成果みたいな近くにパネルがですね、貼ってあって一応遠くから見たら分かるような感じになってて、
それもなかなかね、田んぼの中にポツンとあるのでシュールな感じで味わい深かったですね。はい。でもね、その成果亭に茂森未礼が初めて作った庭の石組み、28歳か9歳の時にね、作ったやつ自体はこれでもちゃんと見ると近づいてみたら、分かる人というか庭を普段見てる人が見て、あ、これはもう茂森未礼っぽいなっていう感じはありましたね、既に。大徳寺の庭園にあるような大胆な石でね、山と滝を表現したようなテイストなんですけど、はい。
もう作風はその最初に29歳の時に作った、作ったというか作ってみた、ハッシュタグ作ってみたみたいな感じの、たぶん作った時はそういう感じだったと思うんですけど、はい。でもちゃんと茂森未礼、感じられる大庭で面白かったです。
町の方がつけたその案内板みたいなのがあって、1925年1月完成、茂森未礼諸女作っていうプレートがついてました。庭としては諸女作っていうことで、ただそれは実家の庭っていうのが僕の中で結構ツボで、
そんなレアなものをわざわざ行ってみれて良かったですね。で、ちょっとさっきの茶室に戻すんですけど、実はこの茶室にも庭が、お庭がついていまして、ただですね、この庭はその17歳、18歳、
お父さんおじいちゃんに手伝ってもらいながら作った時に作った庭ではなくて、これ時間軸が面白くて、18歳の時に作った茶室の庭は、茂森未礼さんがもう人生の終盤60代とか70代になった時に作った庭らしいんですよ。
だからもう50年越しに大物にね、もう人生成功した、庭師として成功した後に付け加えて作ったっていう感じなんですね。
もちろんその時はね、もう有名だし、お金もね、時間も十分にあるので、あとは実家の茶室の庭なので、スポンサーもいないので、好き放題作るっていう感じで、面白いですよね。
21:10
最初はお父さんとおじいちゃんのお小遣いで作って、最後は自分がビッグにやって、自分の好きなように自分の資材で庭を作るっていう、なんか壮大な人生をかけたストーリーだなって、この茶室と庭は、僕は勝手にそこに感動したわけなんですね。
この茂森未礼さん、人生の終盤60代70代になってからですね、その自分の生まれ故郷の周りに庭を作ったり、自分家だけじゃなくて、地元のお寺とかに庭を作ったりとか、
あとは京都で作った庭を、この地元の市役所かな、に移設してきたりみたいなことを結構されていて、記念館でもらってきたパンフレットを見ながら話してるんですけど、
木々中央町のとあるお寺に寄贈した茶室、九徳庵という茶室は、茂森未礼人生必勢の最高傑作であると言われています。
書いてありましたね。そんな作品がね、生まれ故郷に、もう本当に60歳70歳と、そういう人生の最後の方に作って作られていたりするわけなんですね。
もう一度話を茶室の庭に戻すんですけど、実家の茶室の庭なんで、スポンサーとか、なんかこういう感じで作ってほしいとか、もともとこういう場所なんですとか、こういうストーリー、言われがあるんですとか、
なんかそういう従わなきゃいけないものは一切ないわけですよね。パンフレットというかガイドには、茂森未礼が初めて本当に自由に作りました。
自由に作った庭ですってガイドには書いてありました。実際見させてもらって、写真も貼るんですけど、いわゆるにじり口、茶室のにじり口までの石のちっちゃなステップがあって、その周りを海に見立ててみたいな、そういうフォーマット自体はね、すごい一般的な日本体のものだと思うんですけど、
そこでですね、その海を見立てするときに2通りあって、実際水を流すか、もしくは見立て、枯れ山水で見立てとして白い砂を使うかっていうのがどっちかが一般的だと思うんですけど、
水も砂も一切使わず、2色のセメントで表現しているっていうのがすごい斬新というか、ここでしか僕見たことないんですけど、しかもその2色のセメントがですね、赤というか朱色ですね。朱と白ですね。赤白で、その朱色はですね、セメントにベンガラを混ぜているそうですと。
セメントとベンガラですよ。それでその赤と白のコントラストで、海とか川とか滝とか道みたいなものを表現しているんですね。
実家の茶室の庭に。ちなみにベンガラっていうのはこの岡山のこの辺の地方の元々のアイデンティティだったりするんですね。あのベンガラ色っていうのは。だからその辺も考えてベンガラを使ってるのかなって思いました。
基本的に他の作品、杉森美恵さんの庭ってどれもエキセントリック、和モダンみたいな言われて、幾何学模様だったりとかすごい計算されてたりとかね。
東福寺の庭とか特にそうです。有名ですけど。ただね、高校で見たようなこのセメントで赤白の2色のコントラストを作るみたいな作風は見たことがなかったんで、そっか最後に自由に作れるってなったらこういうことをするんだなっていうのが垣間見れて、なんかちょっと突然変異っぽくも見れたんですけど、はいすごいそれも面白かったし、それが実家に
24:07
何回も言うんですけど、17歳の時に作った茶室の周りの庭っていうのが面白いなっていうかすごいなって思いました。
さっきからスポンサーって言ってるんですけど、アーティスト、この杉森美恵さん、もう67、70代の大御所になったですね、杉森美恵さんぐらいのビッグなですね、アーティスト、芸術家であってもやっぱり基本作品を作るときは特に庭なんで、
もともとある神社とかお寺とかお城とか、個人のお金持ちの家とか、そういう場所っていう、こういう場所に作るっていう制約とかモチーフ、あともちろん作ってください、もちろんクライアントワークなんでお金をもらって作るわけなので、
なんでやっぱり彼ぐらいの大物であってもやっぱり100%好き放題作るわけではないと、好き放題作ってくださいって言われて好き放題作ってるように見えてもやっぱりそこはスポンサーの意向とか、
その場所の文脈とかに沿ったものを作っていたんだなっていうのがわかりましたし、なんかそこの記念館にある彼が言った言葉の中にもそういうことが書いてありました。
その制約自体は全然悪い制約ではないと思うんですけど、クライアントの要望とか、その場所のストーリーに合わせて作品作りをしてきた、200ぐらいの庭を作ってきたっていうことなんですけど、
お好感わしくも自分の仕事のことにそこでふとつながりまして、僕たちというか、僕も企画の仕事とか、例えばイベントの企画とかってするときに、
自分が言いたくて自分が言うというより、やっぱり一緒に考えてくれませんとかやりませんかとかっていう、そういうきっかけがあって考えることが多いですけど、
そういうときに一緒にやる人たちに、もしくはやってくださいって言った人たちに、どんな風なイベントにしました、イベントだけじゃなくてもウェブサイトでもコピーライティングでも何でもいいんですけど、
どんな風にはものにしましょうか、アウトプットに成果物にしましょうか聞いても、時々特にそんな注文はないです。今まで僕がやってきた、僕とか僕のチームがやってきた仕事を見てお願いしているので、
いいようにやってくださいって言われるようなこともたまにあるんですけど、ありがたいんですけど、でもそれも別に自由じゃないですよねっていうことに改めて気づきましたというか考えました。
それを一緒にやりましょうって言ってくれている人がいる限りですね、あとはその一緒に考えたり作っていくチームがね、自分がその企画者や設計者だっても一緒に動く人たちがいる限り、
その成果物は自分一人のものじゃないので、相手がいて一緒に考えたり、その相手のその人たちとの意見交換の中で生まれた成果物じゃないですかね。
そのものづくりとかね、ものを企画したりっていうのはそういうものなので、つまりは自分が手がけているというか自分がやっていると言いながらも自分の思い通りには決してならないということを前提に仕事をしているっていうのは、実は
重森ミレイさんぐらいのビッグなアーティストでも一緒なんだなって思いまして、そこはなんかね、安心したというかちょっと親近感が湧きました。
はい、ちょっと自分の話をしちゃったんですけど、まあでもそんな中ですね、人生の中で本当に人生の最終盤、終盤のところで実家の庭に好き放題作ったっていうのがすごく羨ましいというかまあ面白くて、
27:04
はい、だからなんかね、自分も人生の中で好き放題やるみたいな時があるとしたら、この重森ミレイさんの実家のようなそういう場所とかシチュエーションを作っておくって言ったら変ですけど、なんか持っておいた方がいいなって思いました。
とりあえずなんか家買って庭があったらいいのかなって、まあ僕は庭作るわけじゃないけど、はい、なんかその人生の終盤にいろんな制約から解き放たれて、本当に自由に制限なくなんかやれるっていうのは一つの憧れかなっていうのはありますよね。
僕そこでパッと思い浮かんだのは、今現存されているアーティストですと杉本博さんですね、の活動ですね。杉本博さんは小田原に江ノ浦速攻所っていうご自身がプロデュースした、
なんて言ったらいいのかな、美術館プラス庭園プラス里山みたいな場所がありまして、江ノ浦速攻所っていう場所がありまして、僕すごすごいそこ好きなんですけど、ここは江ノ浦速攻所は杉本さんが自分の好きなものを集めて、
で、その山野っていう大きな空間に設置して、そこをまあ来た人が回遊できるようにしているんですね。それを解説してからですね、ずっとコツコツとバージョンアップしているっていう感じで、
杉本さんがいろんなところから収集してきた、自分のご興味の赴くままにですね、収集してきた神社の鳥居とか岩とか民家のオブジェとか、なんかそんなものを、あとまぁ植物とか木とか、そんなものですね、杉本さんの感性で設置して、なんか壮大な盆栽みたいな感じかなって思うんですけど、
はい、なんかでもそういう境地って憧れますね。 最後にもう一つ、重森ミレイさんの話なんですけど、彼の最後の作品、作品というか作ったお庭がですね、京都の松尾大社にある3つの庭なんですね。
これが公式には最後のお庭で、名前3つあって、蓬莱の庭、曲水の庭、城戸の庭っていう3つの庭なんですけど、松尾大社の敷地の分かれた場所にこの3つの庭園が別々にあるんですね。
最初の蓬莱の庭っていうのが、いわゆる地戦海遊式っていう結構広い面積のところに庭があって、鑑賞の仕方としてはその庭を歩き回りながらですね、鑑賞をするっていうようなスタイルのが、スタイルが地戦海遊式っていうものです。
2つ目の曲水の庭っていうのは、その建物の中から座って眺めて、めでるっていうようなスタイルの庭で、そうですね、江戸時代とかあたりのお寺の庭とかに多いような、一番スタンダードなタイプですね。
最後の城戸の庭っていうのが、これはね、上に古い書いて城戸なんですけど、3つの中ではトリッキーなやつで、すごい野種にあふれているというか、ぱっと見ね、草ボウボウのところにでっかい岩が打ち捨ててあるみたいな、ちょっと失礼な言い方ですけど、ぱっと見そんな風貌のお庭なんですよ。
何かアミニズムというか、原始に帰ったようなコンセプトの庭になってまして、これ庭ですって、庭園ですと、デザインされた庭園ですと言われなかったら、何か岩が捨ててあるのかな、大きな岩が、みたいに勘違いされるぐらいの無骨な空間なんですね。
30:00
しげもりみえさんの庭って、すごい聖地に計算された作品、庭が多いので、最後に、まあ本人からしたらその後無くなるとは思っていらっしゃらなかったとは思うんですけど、キャリアの終盤でですね、作ったこの城戸の庭っていうのが、本当に地球の太古に帰った姿みたいな印象を与える庭なんですね。
松尾大社行ける方がいたら、ぜひこれ3つを順番に見ていただきたいな、まさに何か宣伝する必要ないんですけど思います。すごく精密に作られた蓬莱の庭とか曲水の庭、いわゆる和モダンなしげもりみれースタイルの庭があって、最後にこの太古に帰ったような城戸の庭があるっていうのは、結構一気に見れるっていうのはお得だと思います。
混んでないんですよね、松尾大社って。場所が桂にあるし、観光のコースとして一緒に巡るっていう感じでもないので、なんかお祭りの日以外はすごい人少なくて、すごい静かなのでオススメです。
あ、ちょっと庭の話を押し出すと長いんで、これぐらいにしてですね。しげもりみれさん、この城戸の庭を作って、すぐにというか、まあ翌年ぐらいなのかな、亡くなられたんですね。なんで最後の作品になったんですけど、
記念館の年表の中には、まあまことしやかな話だと思うんですけど、この城戸の庭を作った場所がですね、もともとなんか古い言われがある、なんか霊圏新たかな場所、そういう神様がいたみたいなね、わかんないですけど、そういうところにこの庭園を作ったらしい、作ったらしいんですね。
だからそれで何かにたたられた、たたられて最後はお亡くなりになられたと言われているみたいなことがちょっとぼやかして書かれていて、まあそういう田舎の記念館だからここまで書けるのかなとかちょっとうがってみたりもしたんです。興味深いですよね。
その神社、松尾大社神社なんですごい歴史はすごいお寺よりもすごい長いと思うんで、そういう精霊、神様が宿る場所にその岩蔵ですよね、をかたどったような庭を作られたんですね。だからたたられたんじゃないかみたいな感じで、はい。でもね、それを作った後にほどなく亡くなられたこと自体は事実なので、なんかそのストーリーもすごいなって思いました。
基本的に日本庭園というか庭っていうのは自然と調和するような形で作るけど、めっちゃ人工で作る造形物じゃないですか。だけど最後はそういう神様がいるような場所に野種をあふれるような形で、きれいに草を刈って丸くするみたいなね、日本庭園のイメージがそうじゃなくて、草ぼうぼう、実際はぼうぼうじゃない、その計算されたぼうぼうだと思うんですけど、
なんかその飛鳥時代とかよりもっと前の太古の時代の神様がいるような岩蔵のようなものを作って最後お亡くなりになられたと。で、その少し前には僕なんか今日何回も言いますけど、実家で17歳の時に作った茶室にもう完全に制約のない自由な庭を作って完成させたと。
なんかかっこいいですよね。この茂森美麗さんの製作の歴史、人生が、人生を通じて庭作りってものに取り組んで、それがなんか作って終わりじゃなくて、作り直したり移築したりみたいな、付け加えたりみたいなことをずっと人生ね、生涯かけてやってらっしゃっていて、本当に面白いなって思いました。
33:00
すごく好きな庭作りの人として知ってはいたけど、人生っていうものは知らなかったんですけど、茂森さんの。たまたまね、岡山に旅行行って、別にそこ行くために旅行行ったわけじゃないけど、たまたま道の駅であることを知って記念館に行って、その人生の最初の作品と最後の庭みたいなものを見て、すごく僕の中の茂森美麗さんとその作品というか人生に対するですね、理解というか解像度が上がってさらに興味を持ちました。
さっきも言ったようにですね、茂森美麗さんクライアントワークで手掛けた庭っていうのが全国に200以上あるので、その地図もあるんですけど、多分ね、僕人生でそのうち20個も見てないと思うので、結構見てる方だけどそれでも20個ぐらい、京都を中心にしか見てないので、なんか人生を通じてですね、そういう京都以外のマイナーな場所って言ったらあれですけど、日本各地にある茂森美麗さんの作品、庭をですね、カメラを持って鑑賞しに行くっていうのを、なんかこれからの人生で、
おじいちゃんになってからもできるので、そういう趣味って、なんか人生ちょっと楽しくなるかもなって思いました。はい、今日の話なんかね、知ってても知らなくてもいいような話しかしてないんですけど、芸術とか一つの制作とか、その一つの道にですね、創造に向かい合っている人の人生に興味があるっていう人には、こういう面白い人もね、割と最近なんですよ、昭和ですよね。昭和の時代にいたんだなって知ってもらえたら嬉しいです。
そして岡山が産んだロックアーティスト、偉大なロックアーティストとして、ビーズの稲葉孝司さん、フルハーツの高本寛と、そして作品家、茂森美麗がいることを覚えていただければと思います。ではまたお会いしましょう。さようなら。
34:59

コメント

スクロール