2022-05-28 32:38

83. 漫画家・藤子不二雄史⑦ 『ドラえもん』誕生

第83回は藤子・F・不二雄最大のキャリアとして知られ、日本で絶大な知名度と人気を誇る『ドラえもん』の誕生と大ヒットまでの軌跡。そして藤子不二雄という漫画家の周りで起こった大きな出来事の数々を併せて紹介します。

1969年から連載が始まり、1996年に未完のまま現在も続いている作品。藤本先生の最期の瞬間は正に“漫画家”でした。



【今回登場した作品】 小学館版学習まんが人物館 藤子・F・不二雄〜こどもの夢をえがき続けた「ドラえもん」の作者/ドラえもん誕生/ドラえもん


☆番組ではお聞き頂いた皆様からの感想をお待ちしています

藤子不二雄先生のファンの方々、より詳しい方々など一緒に番組を盛り上げて下さる皆様からの補足情報、ご指摘、アドバイスも有難く頂戴します! こんなテーマで話してほしい!等のテーマリクエストも頂ければ、とても嬉しいです


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00:02
みなさん、こんばんは。ゆうすけです。
さっぱです。
よろしくお願いいたします。
お願いします。
藤子不二雄史やってきてますけども、
一応、今回のお話で ひとくぎりつきます。
うんうんうん。
いろんな書籍はあるんですけども、
初めて聞いた人にも親しんでもらいたいという思いから、
なるべくシンプルなものを選ぶという理由で、
小学館が発行してます 学習マンガ人物館というものを ベースに今回はシリーズやってるんですけども、
それの最後のエピソードっていうのが 今回の話にあたるんですね。
うんうんうん。
前回としては、スタジオゼロですね。アニメ制作会社。
その雑誌部から爆誕した、おばけの九太郎というね、
モンスターヒットをね、飛ばした作品の話があったんですけども、
そっからのお話ですけども、もうでもどの作品が来るかっていうのは、もう読めてますよね、さっぱさん。
もう、はい。
まあまあまあ、その辺はね、聞いていただくということで。
はいはいはい。
みなさんもね、これ分かって聞いてもらってる感ありますので。
まあまあまあ、ここら辺までくればさすがにね、はい。
はい。えっと、今回はですね、ドラえもん誕生物語ということで、もうすでにタイトルを出しちゃいます。
はい。
はい。で、もうね、何回話したかわからない、この誕生秘話のところですよね。
はいはいはいはい。
えっと、スタジオゼロを解散する1年前の話なんですよ、これは。
はい。
うーん、何も出てこないと。
うん。
喫茶店ですよ。
うん。
喫茶店で漫画家が何かを考えてるってなったら、この人はドラえもんを考えてるんじゃないかなって。
いやいやいやいや。
もう、僕の中でなってるんですけど。
まあまあまあ。
あんな無責任でここを載せたのが良くなかったのかなと言いながら、現れるのが、正月号から新連載、でたーっていう文字が踊ってる机から何かが飛び出す予告のあのコマですよね。
はいはいはいはい。
藤本先生の新ネザー予告は大胆ですね。主人公が出てこないなんてと、編集者一同感心してるわけですよ。
あはははは。
はい。
藤本先生は演出の名人なんだと、読者に期待させようとわざとこんな予告にしたんだなって。
うん。
で、その頃、はっと、いかんいかんつい眠りをしてしまったということで目が覚める藤子先生ね。
これはね、直前までドラえもんという作品が本当に締め切りギリギリまで思い浮かばなかったよという有名なエピソードですね。
03:01
はいはいはい。
家に帰ってもアイディアが浮かばずにね、考えようとするんだけれども、すぐ昔の思い出に浸ってしまうと。
うん。
締め切りに過去を間に合わなかったこと、ありましたよね。
ありましたね。
で、そのことを思い出して、あの時は怒られたなーとか。
うんうんうん。
昔、アパートに住みついてた野良猫のことを思い出してみたりとか。
うーん。
一晩中、猫ののみをとってたんですよ、この人。
締め切りも思わずにね。
あーあーあー。
そんなことを何やら思い出しながらね、夜中遅くまでかかるわけですね。
うーん。
で、結局ひらめきなんだよアイディアは。
ちょっとしたきっかけで、それまでは漠然と頭の中にあったいろんな部品がカチャカチャとつながって、ね、一つの作品にまとまるんだと。
そういうことを言いながらね、そのひらめきが来るまでは絶対に今日は眠らないぞって言って次の子まで寝てるっていう。
まあね、そうでしょうね。
これドラえもん誕生って自分でね、漫画にして貼るのでね、これ読んでほしいな、みんなに。
うーん。
で、わーぐっすり寝てしまったということで、この世の終わりじゃと、わしは破滅じゃと言いながらね、走り回るわけですけども、
その時に、おもちゃにつまずいた起き上がりこぼし人形、それから野良猫の思い出っていうのがヒントになって、ドラえもんっていうのが作られたと。
うーん。
実際にこのひらめきでキャラクターとかね、ストーリーが生まれるっていうことは、もう藤本先生はよくされてたということで、このドラえもんに限らずね。
うーん。
で、こうして誕生したドラえもんですけども、1970年、小学1年生とか、すでに6詩で同時スタートということで、連載が。
うーん。
この頃はね、もう全国になおとどろかせてたので、藤子藤男という漫画家は、最新作ということでね。
ただ、ちょっと梅干し殿下とか、あまり世間的なヒットはしてなかったっていうのが前回の話でもありましたと。
うーん。
どうですか?ドラえもんの反響は?っていうふうに、ちょっと気にしてたわけですよ。
うーん。
人気はいいほうなんですけどね、と。
やっぱり今はテレビ番組のキャラクターの人気が強いんですよ、と。
うーん。
やっぱりね、テレビでやってないドラえもんっていうのは不利なんですね、みたいな会話がやっぱあったわけですね。
うーん。
オバキューのときは、連載終了の人気爆発っていうのがきっかけでしたね。
06:04
はい。
じゃあ、ドラえもんが人気を爆発させたきっかけって、何だったでしょうかっていうことなんですよね。
うんうんうんうん。
これね、ドラえもんが全国に知れ渡ったきっかけっていうのがですね。
はい。
点灯虫コミックス第1巻が発売されたことなんですよ。
うんうんうんうん。
単行本が発売されたのは、連載が始まって4年もたってからなんですよね。
うーん。はいはいはいはい。
で、単行本になるっていうのはですね、雑誌を読んでなかった人が手に取れるってことなんですよ。
そうですね。
だから、当時の小学1年生とかね、2年生とか、もうちょっと下の学年誌とかにも連載されてましたけども、
雑誌って今でもそうですけども、よっぽどね、人気のあったものとかでない限り、重版されないじゃないですか。
うーん。
だから意外と単行本よりも、雑誌とかムック本のほうが、あとあとね、値打ち出たりとかするんですけど。
ほうほうほうほう。
点灯虫コミックスのドラえもん1巻が発売されたことで、雑誌を読んでなかった読者が本屋さんで手を取るっていうことができるようになったわけですね。
あー。
うんうんうんうん。
で、子供ももちろん読みますと。
はい。
で、おばきゅうとか、もっとね、前の時代の藤代作品を知ってた読者も、ちょっと歳を重ねてますけども、「あ、新作や。」って言って読むわけですよ。
うんうんうんうん。
なので、これをきっかけに、全国の本屋さんにドラえもんが置かれ、手に取るチャンスも増え、年齢層も広がりということで、大ヒットするわけですね。
うーん。
はい。
で、第1巻が出まして、1年後には早くも100万本を超えてます。
すごい。
はい。
で、これで、瞬く間に日本中に広がっていきと。
うんうんうんうん。
これが1974年の出来事なんですが、
はい。
えーと、続く1977年ですね。
うん。
これも誰もが今知ってる雑誌、コロコロコミック。
はい。
はい、創刊されます。
なるほど。
はい、えーと、このコロコロコミックっていうのはドラえもんがたくさん読める雑誌というふれ込みで。
うーん。
もちろん他のね、作品も載ってますけどね、ハットリ君とかも載ってますし。
はいはいはいはい。
えーとね、創刊号には200ページもドラえもんが載ってました。
あ、すごい。めちゃくちゃ多い。
うん。
これざっくりコロコロコミックの話をすると、
前回の終盤でも言ったんですけど、漫画っていう文化はすでに成熟してたんですよ、この頃には。
はいはいはいはい。
なんで、青年向けの漫画っていうのも世の中には存在したし、大人のコアな漫画ファンっていう人もいたと。
09:05
はい。
そんな中で、このコロコロコミックっていうのは小学館が出したんですけど、
子供たちに向けて漫画を読んでもらおうっていうコンセプト。
うんうんうん。
なんかちょっとね、一周回ってじゃないですけども。
はい。
低年齢向け、小学校の低学年ぐらいかな、ターゲットは上の方を見てもね。
まあ、そうですかね。
うん。
あの、創刊号ですよ。
創刊号の第1号にコロコロコミックというロゴよりもでっかくドラえもんが載ってるっていうね。
あははは。そうなんだ。なるほど。
まあね、成り物入りで。
はいはいはいはい。
ブームは投資したわけですね。
うん。
ちなみにこの頃、藤本先生37歳。
ああ。
今は僕37歳なんですけど、えらいことですね。
いや、すごい。ほんとすごいですよね。
ね。この時に、時々ほら、この時何歳ですって僕言ってるんやけど、
はい。
先生がいくつぐらいの時にこれがあったって言うと、ちょっと毎回ビビるんですよ、これ。
あははは。
まあ、置いといてと。
うんうん。
えっと、連載が6試で始まりの単行本が発売されのコロコロコミックが創刊されのと。
うんうんうん。
さらに、追い風は止みません。
うん。
1979年、テレビアニメになります。
うん。
はい。
で、この時はですね、確か1話10分の帯番組だったんですよ。
ほうほうほうほう。
なんで、毎日かな、月金だったか何曜日だったか、ちょっとわかんないんですけども、
同じ時間帯に20分ずつ放送するみたいな形式。
あー。
うんうんうん。
はいはいはいはい。
そっから、あれですね、30分の枠に、まあ昇格というかしてっていう、そういう歴史なんですが、
ちなみにこれ、昇格間のものを参照してるので、一切触れられてないですけども、
うん。
1回ね、今アニメを制作してるテレビ朝日じゃなくて、
はい。
日本テレビでドラえもんってアニメ化されてるんですよ。
あー、なんか話ありましたね、そんなの。
そうそうそうそう。
だけど、わりと出来が良くなかったというか、
うんうんうん。
なんか、わりと年表から葬られてる感があるんです。
うんうんうん。
この辺は、まあ今回は、あの、載ってないということで、
はい。
避けときます。
はい。
はい。
えーと、1979年、テレビアニメ化。
うん。
またたくまに、また広がるわけです。
うんうんうん。
そして、翌年、映画化です。
あー。
はい。1980年には、テレビから映画へと活躍の場を広げていきますと。
12:00
はい。
ね、第1作目、何でしたか?
のび太の恐竜。
そう。
はい。
のび太の恐竜ですね。
はい。
またあのー、ね、30分とかのアニメとか、
うーん。
雑誌に載ってるような、1話完結のギャグテイストとはまた違ったね、
映画ならではの大きなストーリーというか。
はいはいはいはい。
今度ね、大長編ドラえもんの100年版がまた出ますけどもね。
うんうんうん。
やっぱしっかり、何やろ、取材に基づいた、こう、科学的な考察が出てきたりとか、
それに裏付けされたストーリー展開とかね。
うんうんうん。
こう、スケールだって、のび太の街を飛び出して、ものすごくね、大きな話になっていくし。
はい。
で、それが、えっと、こっから毎年ですよ。
ね、続くという。
で、えっと、ドラえもん人気っていうのは国内だけに留まらず、世界中に広がっていきますと。
はい。
うん。アジア各諸国。
うん。
それからブラジル。
ブラジル。
うん。
で、ヨーロッパにロシアと。
うん。
この辺りは、えっと、当時としても海外で放送されてて、すごい人気だったようですね。
なるほど。
だから、ドラえもん関連の取材を受けるために、こう、世界中行きましたみたいな話とかも残ってたりするので、先生のいろんな本を読んでると。
うーん、はいはいはいはい。
で、どんどんどんどん駆け抜けていきますけども、1982年ですね、ドラえもんは、小学館漫画賞、児童文文賞を受賞と。
うん。
1984年、ドラえもんのコミックは5千万部を突破。
うーん、はい。
で、児童漫画を書いていく一方で、青年向けの漫画もどんどんどんどん発表していってと。
はいはいはいはい。
ドラえもん発表してからの藤子作品をざっくり言っていきますと、1971年、シン・オバケノキュウタロウ。
うん。
1974年、バケル君。キテレツ大百科。ミキオとミキオ。
うん。
この年多いね。
そうですね。
で、1975年がポコニャン。
はいはいはいはい。
1976年、ミドリノマモリガミ。これは短編です。
うんうんうん。
1977年、ウスパーマミ。
うん。
1978年、タイムパトロールボン。
うんうんうん。
うん。
1985年、チンプイ。
うん。
怒涛のラッシュですね。
そうですね。
はーい。
で、同じくこちらのね、小学館発行のものには載ってないんですけども、
はい。
えっと、中央口論社というところから藤子藤男ランドというね。
うんうんうんうん。
藤子、A、Fどちらのね、作品も織り混ぜて、毎週漫画の単行本が発表されるという。
うんうんうん。
15:00
あの、とんでもない運務が訪れてるわけです。
はーい。
うーん。
なんかね、あの、リアルタイムで経験してないのであれですけども、A作品、F作品ね、ずっとやってたって聞きますからね、テレビで。
うーん。
うーん。
非常にうらやましいでございます。
ははははは。
はい。で、えっと、まあこのようにね、もうまさにドラえもんの人という感じで藤本先生のほうはすごく有名になっていくんですけども、
うーん。
55歳の時ですね、1988年、ある出来事が起きます。
えっと、コンビを解散されるんですね。
はいはいはいはい。
これはね、あの、言っても最近じゃ最近の出来事なので、88年でね、よく覚えてる人も多いと思うので、
うーん。
ショックだったわーって教えてくれる人も多いんですよ。
うんうんうんうん。
これ会見でね、
はい。
小学5年生の時に知り合って今年で55歳になります。
コンビを組んで40年近くになりました。
ここらでそれぞれ個性的に生きることにしようと2人で話し合いましたとね。
これを機会に僕たちは藤子藤を定年退職することに決めましたという挨拶をされて、
はい。
長年にわたるコンビを正式に解消。
うん。
それぞれね、あのー、1人の漫画家として忙しくなってたので、
はい。
活動としてはね、こうバラバラになりつつあったんですけども、ここで正式に発表して解散ということになりましたと。
はい。
うーん。
ここまでは当然ですけども、藤子藤雄とクレジットされた漫画がずっと出てたわけですけども、
うんうん。
ここから先に発表されるもの、プラス、あのー、重版がかかって、
うん。
刷新されるものは、その、上書きされちゃうんですよね。藤子藤雄Aと藤子F藤雄って。
うんうんうんうん。
なんで古い作品を見たときに、
はい。
その、合同のペンネームやと年代がわかるみたいな、そんな豆知識なんかもあったりします。
なるほどなるほど。
うんうんうん。なんで僕ね、ドラえもんの単行本とかたまにブックオフとかで見かけたときに、
はい。
もう完全にこれはマニアの書き方なので全然参考にしなくていいんですけど、
はい。
あのー、1巻とか2巻とかその新しい、番号が若い巻あるじゃないですか。
はい。
あのあたりが藤子F藤雄じゃなくて、藤子藤雄って書いてると、思わず買っちゃうんですよ。
ははははは。
その時代のやつやって言って。
はいはいはいはい。
ちょっとね、コレクターっぽいとこあるけど、わかってもらえる人多いんじゃないかな。
うーん。
で、今回のね、学習漫画の方で紹介されてるエピソードで、知ってこれいいなと思ったやつがあったんですけどもね。
はい。
この2人の藤子藤雄励ます会ということで、解散する会見ですよね。
18:00
うんうんうんうん。
その時に、手塚治虫先生も来られてたんですよ。
はあ、はい。
でね、こんなコメントを残されたようですね。
藤子さんが2人に別れることはとても残念なことです。
うん、ね。
うん。
でも、その反面実は喜んでいますって。
うん。
それは、2人がかりで書いている漫画には、どうしても僕は勝てなかった。
だけど、別々に活動するということで、これでようやく対等に戦えるようになりましたっていうふうに。
はあ、なるほど。
藤本くん、なびこくん、これからもお互い頑張りましょうっていう、こういう言葉で送り出してくれたようですね。
これは、ちょっと泣くよ。
うーん、そうですね。
ねえ、もうね、必ず登場してましたもんね、節目節目に。
はい。
手塚先生の存在っていうのはね。
いや、もうどんなにね、当時こう2人喜んだというか、まあいろんな感じはあったと思いますけどもね。
うーん。
やってきてよかったっていうふうに思われたんじゃないかなって、すごく思いますね。
うーん、そうですね。
で、さっきのペンネームの話なんですけども、ここから藤子藤代A、これ丸Aね。
うんうん。
で、藤本先生も藤子藤代Fやったんですよ。丸Fやったんですよ。
ほうほうほう。
やけど、どういうふうにしようかなと思ったときに、篠森翔太郎先生ね、お友達のね、アドバイスを受けて、真ん中に持ってきたらかっこよくないみたいな、外国人のミドルネームか、みたいな感じでかっこよくないみたいな話を聞いて、
うんうん、じゃあそれにしようっていうことで、藤子F藤代って真ん中のFになったんですね。
はいはいはいはい。
なんで、このね、何年だ?コンビ解消した88年に、出てる漫画1年だけね、藤子藤代丸Fの表記になってて、ちょっとレアリティ高い。
確かにそういうことですよね。
そうそうそう、1年間だけかな、丸Fを名乗ってた時期があったんですよ。
うんうんうんうん。
そう、若干ちょっと初めにね、初めて聞いた人にも親しんでもらえたりとか言いながら、ディープな感じになりかけてるから、ちょっと、軌道修正しますね、けども。
こんな感じで、2人が活動を分けてと、独立というかね、して、それぞれの漫画家さんとして、また歩みを進めていきますということですね。
はい。
1992年には、先ほどね、5000万部突破したっていうコミック本が8000万部を突破されて、この頃になると、もう僕も普通に見てますからね、1990年代ってなってきたら。
21:02
うんうんうん。
普通に思い出深い、僕の経験として。
映画とかも見に行ったなーって、すごい思ってますわ。
うーん。
ただ、お年もお年ですよ。解散時点で55歳っていうことで。
はい、そうですね。
ちょっとずつ体調を崩されるっていうふうなこともあったようです。
過去にはね、この血格とかも患っておられますし。
はい。
1年間体調を崩して、制作できなかった大腸編があるっていう話もね。
ありましたね。
とか、のび太のパラレル左右記っていうのが、まさにこの頃なんですけど、コンビ解消した頃なんですけども、原作が存在しながらいいんですよ。
うん。
とか、クモの王国という作品も、連載途中で体調を崩してしまって、後半は絵物語という形で、漫画ではなくね、イラストに文字をざーっと書いて、結末まで持っていったみたいなこともありまして。
うんうんうん。
先生、あまり顔色が良くないんですけども、大丈夫ですか?みたいな声かけられたりとかね。
うん。
奥様とかね、娘さんもいらっしゃるんですけど、家族に心配されて、みたいなこともあったようですね。
うん。
でも、読者の子供たちには内緒にしといてくださいと。
そうですよね。
余計な心配をかけたくないからと。
うんうんうんうん。
結構なんか、今でもそうなんですけど、再掲載っていうのは多かったんですよ、漫画の。
うん。
過去に発表した作品をもう一度掲載するっていうのが。
うん。
なので、全然子供として読んでる分には、そういうことって分からなかったですよね、この頃っていうのは。
はいはいはいはい。
特にね、生活ギャグなので、いつ頃発表されたっていうのが、そんなに出ないじゃないですか。
そうですね。
これなんか読んだことあるとか、似たような話とか、実際に似てる話とかもたくさんあるし。
うん。
そんな形で、連載はしっかり続いていきながらも、ご自身の体のちょっとずつね、悪くなっていくところとかとも向き合いつつ、漫画家を続けてらっしゃったということなんですが。
うん。
そうですね。
ドラえもんの映画の原作が遅れたから、ちょっと仕事するよということで、仕事部屋ですね。
に向かわれた先生。
川崎市のご自宅ですよ。
うん。
無理なさらないでくださいねって奥さんに見送られて、こう向かわれたんですけども。
うん。
ご飯ができましたよっていうことで、読んでも降りてこない。
うん。
で、心配した家族が、仕事部屋の様子を見に行ったところ、鉛筆を握ったまま、木を失って売られたということです。
24:10
で、病院に運ばれますと。
1996年の9月20日の出来事です。
うんうんうん。
このとき、のび太のネジマキシティ冒険記という、大長編を執筆中だったんですけども。
はい。
その原稿の上で倒れて売られたっていうふうに記録が残ってますと。
うんうんうん。
で、家族に発見されて、意識が戻らないまま3日間、病院で過ごされたんですけども、
1996年9月23日、62歳、お亡くなりになられましたという、そういうことですね。
うんうんうん。
本当にね、これは言われてるんですけど、漫画家として大王女というか、
うんうんうん。
その瞬間ね、こう亡くなる瞬間まで、原稿に向き合って鉛筆を握っててと。
はい。
もうなんか、この生き様に本当に感動するというか、胸打たれるというかね。
うんうんうん。
本当に、やってくれますやんみたいな感じですよね、ファンからするとね。
そうですね。
この漫画、一応ここで終わってるんですけども、最後にこういうふうに書いてるんですよ。
藤子F藤代、本名藤本博。彼は少年の日に浴衣小本という友と出会いました。
そして、漫画一筋の人生を駆け抜けました。
手塚治虫との出会い、時和荘の仲間たち、その他数え切れないほどの素晴らしい出会いがありました。
ドラえもんのいる世界が誰の心にもちょっぴり懐かしく映るのはなぜでしょうか。
それはきっと、広志が出会った人たちや広志自身の夢と人生が漫画の中に込められているからではないでしょうか。
はい。
最後に、藤本先生、これご自身で言われた言葉ですね。引用されてます。
うんうんうん。
子供の頃、僕はのび太でした。
波外れて不器用で、自筆な僕にとっては、よくこれだけ書き続けてこられたというか、書き続けさせてもらえたというか、
これはやはり大変なことなのです。
皆様、長い間ありがとうございました。
という一言で、氏名くくられておりますと。
はい。
うーん、はい。
まあね、やっぱりね、人間の生き様ということで捉えてもね、本当にいろんなことが起こって、ドラマチックで、
27:03
戦争が終わった、終戦を迎える段階で、小学生でみたいな時代の方ですから。
はい。
まあ、わりとね、やっぱり有名な漫画家さんなんで、こういう生き様というか、生涯って有名というかね、あるんですけども、
何回、何回ね、この話を聞いても、言葉変ですけど、いいもんだなというかさ、
素晴らしい人生を送られたんだな、先生はっていうふうに思いますね。
で、本当に最近のお話になりますけども、
1988年までコンビでね、藤子藤代として活動されてた藤子藤代A先生ね、阿備孝本先生も、
はい。
ね、2022年にお亡くなりになられたので、
うん。
これでも本当に、藤子藤代という漫画家に、さよならを言わないといけないなという。
うん。
そういうね、感情も持ちながら、藤子藤代というのを続けていきましたと。
はいはいはい。
で、一応、僕本当にこの、どうしようかなと思ったんですよ。不勉強なのもすごい承知な上で、
はい。
あと1回使ってね、A先生の話もちょっとできる分したいなと思ってるんですよ。
うんうんうんうん。
なので、もうちょっとだけ続くんじゃということで、
はい。
最後にね、藤子藤代の締めくくりとして、もう1回撮りたいなと思ってるので、よろしければそれもお聞きください。
はい。
はい。というわけで今回は終わっていきます。
はい。
はい。というわけでですね、たぶんこれで7回続いたんじゃないかな。
数えてみたら、藤子藤代。
はい。
もう、小学生の時にね、出会うところから62歳で亡くなるまでっていうところを、
本当にね、軽くというか、いくらでも深掘ることはできるんですけども、
はい。
あの、追うことはできましたので、一旦のね、終了とともに、
もう1回ちょっと、あび子先生の話もしたいなっていうあたりで締めくくったんですけども、
はい。
こういう話って久しぶりにしてたよね、さっぱさんに。
そうですね、うんうんうん。
ちょっとずつ、この藤本博先生っていう人の、こういう人やったんやっていうのが、こう、さっぱさんの中でもできてきたんじゃないかなと思うけども、
よく私の知ってるね、藤子先生に近づいてきたって言ってましたけども、どうでした?この辺まで聞いて。
いやそうですね、まあ、なんだろう、途中からっていうか、まあやっぱ本格的にその漫画家としての活動が始まってからって、
30:08
めちゃくちゃ忙しい人だったじゃないですか。
で、だから、その最後まで、その漫画家としての人生を全うしたというか、そういう印象がすごい強いなと思ってたんですけど、まあやっぱそれを改めて感じたっていうか、
っていうのはありますね。
ねえ、なんか62歳ってやっぱり若いじゃないですか。
そうですね。
だって、藤子先生が最近までね、ご存命あったっていうことを考えると、全然だって今だって、生きておられた可能性のあるっていうことを思うとね。
この時、亡くなった時に全然小学生だったんで、全くピンときてなかったんですよ。知ってたんですけど、亡くなったっていうのを見たし。
まあ、そこらへんのショックっていうのは、年上のリスナーさんとかがよくというか、リアルにね、衝撃受けられたんじゃないかなと思うんですけど。
逆に言うと、子供の時よくわかってなかったからこそ、今こうやって取り上げてね、しゃべれるのかもしれへんなっていうふうに思ったりはしますね。
うーん、なるほど。
はい。
まあ、こんな感じで終わっていこうかなと今回は思いますので。
はい。またいろんなネホテルとかお待ちしております。
はい。
少し不思議ないと、この番組では皆様からの感想、反応、F作品、A作品への愛をお待ちしております。
それでは、宛先の方よろしくお願いいたします。
はい。メールアドレスはfushigi7110 at gmail.com。
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ハッシュタグはハッシュタグ不思議な。不思議はひらがな。名はカタカナで検索してみてください。
はい。それからお名前だけで送っていただきますメールフォームの方もご用意しております。
エピソードの概要欄もしくはTwitterの少し不思議ないとアカウントのプロフィールのところにリンクがありますのでご活用ください。
はい。
はい。それでは、皆さん次のお話でお会いしましょう。
さようなら。
またね。
32:38

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