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【バザール in 山口】#07 上岡雄太郎 × 中村彩乃 × 今実佐子 × 松山聖央
2026-10-02 1:09:12

【バザール in 山口】#07 上岡雄太郎 × 中村彩乃 × 今実佐子 × 松山聖央

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ファンダメンタルズ バザール in 山口(2026年6月14日、山口情報芸術センター[YCAM])で行われた、90分の対話の記録です。
バザールは、科学者とアーティストが、これから交流を続けるパートナーを探す場です。この対話で両者ははじめて顔を合わせ、整理する前の言葉や断片を手探りで交わします。哲学研究者は、科学者とアーティストのあいだで触媒の役を担います。
専門の中で問いを続けてきた人たちが、専門の外側に手を伸ばす、あわいの時間です。

出演
科学者|上岡雄太郎(神経科学/東京大学 理学系研究科 生物科学専攻 助教)
アーティスト|中村彩乃(演劇)
アーティスト|今実佐子(絵画)
哲学研究者|松山聖央(ドイツの美学思想、環境美学、日常美学、雰囲気学/岡山県立大学デザイン学部建築学科 准教授)

ファンダメンタルズ バザール2026 一般公開
https://www.fundamentalz.jp/bazaar2026open

バザールを経て組まれた2026年度のペア・ユニット
https://www.fundamentalz.jp/post/20260711-pair

参加者へのインタビューは、YouTubeでご覧いただけます。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLMk8YwhV1K3I

ファンダメンタルズ プログラムは、科学者とアーティストの長期交流プラットフォームです。
お問い合わせ:contact@fundamentalz.jp

感想

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00:00
お願いします。
さっき言いかけていたのは、言葉でアーティストを喋らないみたいな話があって、
前のタイミングで三浦さんと話したときに、芸大の卒典に行ったときに、
キャプションが多いのとか少ないのとか色々あって、
作品があったらそれでいいのか、キャプションがいるのかいらないのかみたいな話があって、
そういうのってどういうものなんですか?
ネタバラシ文化みたいなのが最近、ネタバラシ文化って言葉が合ってるのかわからないですけど、
裏側を公開していくみたいなのは、なんかちょっと潮流的にあるのかな?
テレビを見ても、お笑い芸人さんがいつも何を気にしてやってるかとか、
トークでいつもの裏側喋るみたいな、ちょっとそういう流れが今あるのかな?
どうなんだろう?とか思ったり。
実話みたいな。
なんかそのキャプション含めて成立するみたいなように見える作品もあれば、そうじゃないのもあったりして、
芸大の卒典行ったときに本当に、読んでいったら、
ああなるほどなって、それでこの作品かっていうふうに思う時もあったりして、
でもなんかそれは作品で語れてないからどうなんだ?みたいな話もあるのと同時に、
昔は絵が絵だけで見せられたのは、宗教があったから、文脈をすごい共有してたから、
絵だけで、あああの場面ねっていう話になったから良かったとかっていう話もあって、
文脈があんまり共有されない世界においてキャプションは必須なんだろうか?どうなんだ?みたいなことを思ったりして、
さっきの言葉であんまり言ってないから良くないかもって言ってたけど、
なんかエミラーわかるだろうっていう可能性もあるかもしれなくて、どうなんだろうなって思って。
そうですね、やっぱりなんか今最近結構、
説明を必ずキャプションをつけて展覧会とかも、
そういうふうに発表している方もいらっしゃったり、
全然説明をなしで、作品に没入してもらうみたいな方もいらっしゃるんですけど、
私は言葉で書くと、やっぱりちょっとなんか少し距離が遠くなる感覚みたいなのがあって、
03:05
あとなんかその言葉ってやっぱりすごくガツンと直接くるからなんか重いもののような感じがして、
それもあってなんか言葉が怖いというか、扱うのが怖いっていうのがあって、
キャプションとかはあんまりつけないんですけど、
その代わり展覧会とかでは、結構在牢をして、見に来たお客さんとかで質問とかしてくださった方に直接説明をするっていう形をとってるんですけど、
なんかその説明するときも、これがよしよしとかの問題じゃなくて、
結構その正解をみなさんすぐ求めるという、
これってなんなんですか?
答えをすぐ出してほしいみたいな、なんかそういう時代なのかなっていうのもあって、
作品も説明だけじゃなくて、言葉での、
作品も見てたぶんパッてわかりやすい作品が最近受けてるっていうとまたすごい言葉が危ういんですけど、
なんかやっぱりパッて見てすぐわかる。
で、SNSとかでも見てパッてすぐわかるっていう、
すぐわかるものっていうのが最近の今の流れであるのかなっていうのがあって、
だから私は逆にそういうのをちゃんと見ないとわからない絵っていうのに、
直接見て、ちゃんと絵と対峙して、自分の肉眼で見て、
しかもその場でパッて立ち止まって見るんじゃなくて、
もういろんな角度から見ないとわからない。
ちゃんと絵を見る姿勢がないとわからないって、
なんかそうやって結局人間もそうじゃないですか。
そんなちょっと会話挨拶とか喋っただけじゃわからない。
なんかそれは絵もそうなのかなって思って、
で、なんかそういうスタンスであんまり言葉を扱うのが自分は怖いっていうのと、
ちょっとわかりやすさとかっていうのって、なんかどうなんだろうっていう。
それはなんかすごいわりと共通してるかもしれない。
あんまり主張が激しい感じの。
06:00
いや、そんなじゃないみたいな。
これでもお二人にもそれぞれ聞きたい。
わかりやすさをどれだけどう扱うかと。
でも言葉も私は同じことを思ってて。
俳優はキャプションがもはやないというか、
もう舞台出て降りたら何もできることなくなってしまって。
ただでも言葉で言うとセリフを語るみたいなことがあるときに、
そういう意味で私は言葉は本当に怖いなって思ってて。
何にもわかってないのに、ちょっと昨日もやってたんですけど、
リンゴって言ったらそれがリンゴになるっていう了解を得れる舞台で、
あまりにも軽々しい言葉を扱えているような気持ちになっている俳優が多くて、
怖いなっていうのを私は思って。
言葉のその恐ろしさとか、内包できるものの大きさとか、
逆に少なさみたいなものの、
もうちょっとそこにいいイフがあった方がいいんじゃないかなっていうのはあるのと、
わかりやすさでも俳優もすごい求められるっていうか、
表現力とか演技力みたいなので、よくバロメーターされるんですけども、
演技力って何?ってずっと思ってて、
何なんですかね、なんだろう。
絵とか音楽で私何か技巧はわからないんですけど、
演技って何か結構語られるっていうか、
あの人上手いとか演技力があるみたいな、
でもそこの表出のわかりやすいのがいいのかとか、
わかりにくいのはじゃあ何もないのかとかって聞かれると、
そんなこと言ったらNOとか何もないみたいになっちゃうので、
何かそうじゃないだろうというところの、
何ですかね、ちょっとまとまりがあれになってきたのでお渡しするんですけど、
私も何か同じような引っかかりはその2つの項目に関してはあるんですけど、
いかがでしょうか。
そうですね、何かまずその、何かすごい大雑把に言うと、
やっぱりマルセル・ルシャンとか以降、
基本的にコンセプチュアルになっちゃってるので、現代アートが。
まあちょっと少なくとも造形芸術に限って言うと、
やっぱりそういう意味で、
そのコンセプトの部分って言葉でしか基本的になかなか説明できないので、
何かちょっとないと不親切ってこともやっぱあると思うんですよね。
あるいはそのコンセプトも理解してもらっての、ひっくるめての作品っていうところで言うと、
09:03
その鑑賞体験を満足なものにするにはキャプションも必要っていうところはあるんですけど、
何か私は作家自身がどこまで語るべきかっていうのはまた違う次元であると思ってて、
そこなんですよね。
だからそのキュレーターみたいな側が展示を作っていくときに、
どこまで言葉をつけるかとか、
あるいは作家が何ていうかな、その作品を作るとき、作品そのものにも付加する形で、
ある程度つけてるキャプションみたいなものはあると思うんですけど、
それをそうじゃなくて、いわゆるステートメントみたいなものとか、
作家が自分で作品の説明を書いちゃうみたいなのは、
何かちょっと割と抑制した方がいいと思っている方で、
なぜなら造形芸術にしても、舞台だとそもそもセリフっていう言葉も含まれてくると思うんですけど、
その作品の範囲外の言葉で全部説明できちゃうなら、
もう作らなくてもいいでしょっていう感じがするというか、
だから言葉にならないことを何らかの絵画なり、舞台とかパフォーマンスなりにしてるのかなと思うので、
作家本人にあんまり下手に説明しないでほしいとは個人的には思うんですよね。
作家にもそれをすごい求められてるっていう側面もあって、
展覧会の企画される側とかキュレーターの方で書いてほしいっていうのは私も思うんですけど、
そこも作家の役割みたいになってる場面もあるなっていう、
それは私が体験したっていうよりも、ちょっと見ていて、
これ全部作家がここまで書いてやってるけど、
でもそれってもうちょっと企画側も…
やれよ。
カメラがあるんで悪いこと言えないみたいな。
キュレーターが言ってること、違うなーみたいなことっていうのは基本あんまりないんですかね。
どういうもんなんでしょうか。
それとも鑑賞者として、私はこの作品ここが好きなんですよねみたいな感じでキュレーターが言ってくれるのか、
どういう感じなんでしょうか。
だからやっぱり間に立つ役割みたいなところもあると思うんですよね。
作り手の、直接作り手と対話もするし、歴史的な事実みたいなところはもちろんちゃんと抑えると思うんですけど、
12:01
それも踏まえて、でも半分鑑賞者の側としてっていうところもあると思うんで。
結構すり合わせてくれるというか、
事前にやっぱり前々から作品を知ってくださってたり、コミュニケーションをとってくださったりとか、
そういうふうに関係性があった上で展覧会とかしてくれるということがあるので、
必ずそういう、向こうがステイトメントを準備してくださる時も、
必ずこれでいいですかっていうすり合わせがあるというのが。
コンさんとかもやっぱり、何も言われないと抽象化学化って感じで受け取ると思うんですけど、
やっぱり化粧品を使って描いてるっていうところがコンセプト上は大きいと思うんですよね。
だからその辺はどうなんですかね。
やっぱりそこはでも、出していくべきものではあるわけですね。
ただその出し方がやっぱり、自分で正面から言うのがいいのか、
そういう第三者による解説で描かれるのがいいのか、みたいなところはいろいろありえますよね。
そうですね。
なんか、化粧品で絵を描くっていう、
そういう行為っていうか、パフォーマンス的にはあんまり見られたくはないっていうのがあって、
でも、絵というか、展示発表して皆さんに見てもらうって言ったら、
見てもらった側がどのように受け取っても、それはお客さんのためのそういう場というか、
見てもらった方に全部自由に受け取ってもらえればいいんですけど。
すみません、何でしたっけ?
今までにもやっぱり、具体的にどのっていうより、
第三者、キュレーターとかに描いてもらって、
描いてもらったことで自分でも、なるほど、そういうふうに見えるのか、みたいな発見があったりとか、
この解説めっちゃいいみたいなのとかもありましたか?
やっぱり描いてもらえると、自分が思ってもないことでもやっぱりうれしいですね。
ポジティブに捉えてくれてる。
こういうふうに見えてるんだ、みたいな。
やっぱり絵描いてると、どんどんこうなっていっちゃうんで、
そこをちょっともっとに戻してもらうというか、
やっぱりそういうふうに意見もらって、作品やっぱりどんどん描いていきたいので、
15:06
そういうふうに意見をもらう。
違うもの、例えば化粧品で描いてると、
そういう女性性的な文脈で捉えられることも多いんですけど、
自分はあくまで自画像、肌で自分の分身として描いてるんですけど、
そういう女性性として捉えてもらっても、
それはそれでおもしろいというか、
そういう見方もあるので、否定はしないんですけど、
でも、それがすごく過激な方向というか、
男尊女卑の世の中で、みたいな、
そういうので扱われると、色がついちゃうと怖いみたいなのはあるので、
フェミニズムの表現だみたいに言われちゃうと、
ちょっとそこまでで意図してるわけじゃないんだけどなとか、
そうですね。
捉えられてもいいんですけど、
なんて言うんでしょう、ちょっとわがままなのかな。
そうですよね。
主張がめちゃくちゃ強いアートのパターンと、
もうちょっとそうじゃなくて、
なんか感じ取ってもらいたいみたいな感じのアートがあるよねみたいな話で、
そうしてさっき向こうで話してた内容で、
みんななんかそんなに押し付けたくなくて、
押し付けられるとやっぱりちょっと嫌だなって思うし、
みたいなところがあって、それがキャプションの有無だったりとか、
むしろキュレーターが間に挟まってくれるオブラートを包まれていいみたいなところの、
元はそれなのかなというふうに話を聞いて思ったりしました。
研究に関してで、キャプションとかではないと思うんですけども、
やっぱり学会とかの他社からの問いかけとか、
問答によって自分の研究の姿が変わったり、
新しい何かみたいなのとかは?
全然変わりますね。
というかめちゃくちゃ変わると思っていて、
というか言いすぎるとやっぱダンプアウトなんですよね。
このデータからはここまでしか言えないでしょうとか、
これはオーバーエスティメントだとかっていうようなことが出てきちゃうんで、
そこはみんな研究者はかなり気をつけているかもしれないっていうのはある。
そのデータから論理的に言うのはここまでで、
18:03
これ以上を言うのであれば何とかだと想定されるっていうか、
何とかだと確かめられたみたいなことまで言っちゃうとアウトみたいな感じの、
言い方を相当気をつけるっていうのはあるかもしれないですね。
そういうのは論文の査読とかで言われることはありますし、
これを言うんだったらこういう追加実験をしないとダメなんじゃないんですかって言われたら、
分かりました、それやりますとかやってうまいこと言ったらこの主張でいけるとかそういうのはありますね。
データから言えることしか基本的に自然科学系のところは言っちゃダメっていう感じになってるんで、
そこは結構明確にあるかもしれないですね。
もしかするとアートと違うのは、自然科学とか学術研究全般かもしれませんけど、
聞いてる相手も同業者じゃないですか、かなり狭い範囲。
その中でどこまで真実性があるかとか検証をしているという営みだと思うんですけど、
アートの場合はかなり広い範囲に開かれていくので、
やっぱりそこで足渡しをする言語みたいなのが、言葉みたいなのが必要になってくるのかなと思います。
中村さんとかも、言葉も多分2つの段階があって、
展示とか発表の時にくっついてくるキャプションと、
それが発表されて、鑑賞者にある程度受容されて、
後からくる批評の言葉っていうのがあると思うんです。
演劇とかそっちの役割も大きい気がするんですけど、
1本何か講演やったらそれに対する批評が誰かから発されるというか、
その批評と向き合うみたいな。
すごい気になります。
でもそれで言うと、俳優なので俳優目線で言うと、
一番それをするのが演出家が、
まず何かやって批評というか、こう見えたよっていう擦り合わせをするので、
それがやっぱり面白いところでもあったり、
昨日言ってた権力構造じゃないんですけど、
その人に見え方を委ねるっていうセクション、
あの演出家なので、
でも言っちゃうとその人が偉い偏った見方をして、
偉い偏った批評として返してくると、
容易にハラスメントとかに繋がってしまうみたいな。
守りすぎてても、クリエーションだから、
21:02
結果的に何か出さないといけないという時に、
こっちもこっちである程度それを覚悟する弾力だったり、
覚悟した上のパフォーマンスして帰ってくるのを受け止めるのもいると思うんですけど、
俳優はそこでまずされるかな。
その後に評価で全体的な舞台のことを言われるんですけども、
逆にその時はあんまり個人のことというよりも、
大きく捉えられて言われるので、
一番反省するのは稽古かもしれないなとか思いながら。
確かにそこであまりにもいいよいいよとしか言ってくれなくても、
それ以上高まらないし。
勝手にやっぱりそこで疑ってかかっていくというか、
造語なんですけど演劇哲学ちゃんと思ってるみたいなのは、
哲学の方に前に言うのは非常に怖いんですけども、
何をもってして演技とするのかとか、何を良しとするかとか、
何を拠り所にするかは、
本当にそれぞれメソッドとかはあるけれども、
選ぶのは自分だから。
じゃあ少なくとも選んだことに対しては、
担保持てよっていう意味で、
私はその演劇哲学持ちなさいよみたいなことを言われてるのかなと思って。
だからあんまり言われなくても勝手に、
自分的にはもうちょっとこうかなみたいなのを自分のその哲学に、
すいません、かなり。
センポントされてる方の前で。
なんか主体と客体みたいなのを私はなんか、
この4人でセッションをできるみたいな時に、
なんかキーワードで出されてて、
なんか上岡さんにもなんとなく主体と客体じゃないんですけど、
自由意志じゃないんですけども、
ちょっと非常になんかぼんやりしたボールの投げ方なんですが、
そこちょっと私興味と言いますか、
主体と客体。
すいません。
いえいえ、面白そう。
これ、どう何をどう聞いて。
そうですね。
それ、キョとジップとは違いますよね。
ちょっと私も関係は、どう関係してるのかちょっとまだ手探りなんですけど、
主体ってなんだみたいなことにつながる気がして。
そうですよね。
主体というか、本人が自由意志として何かを発してるのかどうかみたいな話とか。
そうですね。
24:01
サイエンスは割と突き詰めていくと全部物理にしようとするから、
主体が消えるんですよ。
自然現象があるから、そういうイニシャルステートみたいなのがあって、
そこから次こういうステップを踏めば確実に次これになるはずでしょっていうのを積み重ねていって、
生き物の行動が生成されるというような位置を形に、
で説明をしようとしているのが神経科学だったりするので、
それはなかなか難しいは難しいんですけれども、
突き詰めていくと割とディタミニスティックになってしまうはずで、
決定論的な感じになってしまうとは思うんですけれど、
どうしても人間観測できない部分とかがあったりして、
その意味では結局のところ確率的なものにも見えてしまう。
その次の動きがどうなるかとかっていうのを確率的にしかわからないみたいな感じになると、
でも確率が自由意志なのかっていうとなんかちょっと違う感じもするじゃないですか。
何かやろうとした、思ってたけど直前でやめるみたいなことをやると、
なんか自由意志っぽい感じがあるけれどみたいなのがあり、
でもそういうのを予測しようとしているのが科学という。
それが予測できなかったときになんていうかっていうと、
自由意志があるから予測できませんでしたじゃなくて、
そこは多分確率的な過程だから予測できなかったっていうふうに言うっていうところがあって。
自由意志はいろんな人が論じているんで、
ダニエル・デネットとかは社会をうまく動かすために自由意志があったほうが良いよねっていうことを言っていて、
それはそうなのかなというふうなところもあって、
それを信じるベースとして我々が自由意志を持っているっていう幻想を持っていなきゃいけなくて、
じゃないと人がすることもできないっていうのがあるから、
そういうのを担保するベースとして一般市民に開かれた素材が小説だったりとか演劇だったりとか、
いろんなところで自由意志って我々にはあるんだっていうことを言うことによって、
みんなが自由意志を信じていくっていうプロセスがあってもおかしくないと思っているのはありますね。
その神経科学とか行動科学の考え方、そこの原理の中では、
自由意志とか自我とか意識みたいなものは扱えないというか、ないものとしているというか。
意志決定の論理とかそういうのは研究されてますけど、
27:00
それもでもアルゴリズミックにその意志決定を、前にこういう情報が来てたからこの確率がこのぐらい上がって、
だから次の時で右か左か選ばせたらこっちの確率が上がりましたねみたいな、
そういう説明の仕方をするんで、だから自由意志だねにはならないかなという。
何をやったら自由意志が証明できるみたいな感じのところがあり。
その時、例えば対象となっているAさんという人の人となりとか、
そういうとこはやっぱりそっち側の話としては議論の訴状には登ってこないわけですよね。
Aさんはこういう人でとか優しい性格でとか。
それ確率に落ちちゃうじゃないですか。
全部確率に落ちていく。
こういう性格だからこの確率が上がったんだよねみたいな感じの話になっちゃうと。
でも戦中の真剣のトラジェクトリーがランダムだみたいな話はあるわけなんですけど、
だいたい同じところになんとなくは乗ってくるっていうのがあって、
でも毎回同じトラジェクトリーではないっていうところがあって、
その感じが人間の意志決定の感じと近いのかなと思っていて、
だいたい人間は外れた選択は取らないけれど、
でもこの人は傾向としてこういう時こういうの取りやすいよねみたいな、
でもその時はそうじゃないことがあるかもしれなくて、
そういうやつなのかなみたいなことを思ったりしますけど、
そこで何があるかっていうと全然いろんなところにランダム性が入ってくるんで、
難しくてっていうのはありますね。
なんか殺人を例えば犯してしまう人がいるとかって言った時に、
直前までそのトラジェクトリーとしては殺人じゃない方に入ってたんだけど、
なんかたまたまランダムでそっちに行って殺しましたとかって言った時に、
それを一応自由意志でやったんでしょっていうことになるっていうのはあるので、
結果的に起きた行動があった時に、
その人が定常的に取りやすいトラジェクトリーの中での行動だったのか、
そこから外れたところでの行動なのかっていうのは、
衝動性があるかないかとかで判決とかって変わったりしますよね。
そういうところでもしかしたら調整してたりするのかもしれないなっていう。
面白いですね。
なんとなくみたいなのが科学的にというか、
それは僕今適当に言ってるだけだから、
何か数多の科学者からバチボコに叩かれてるんですよ。
でもそういうふうに解釈もできるのかなみたいなことは思ったりはしますね。
30:01
同じであればですね、戦中と同じであればですけれど。
なんかそれ聞いてると、
自分で自分を生きてる時よりも素で生きてる時より、
その演技を、役を生きる時にその感じって、
もしかしたらちょっと俯瞰的に見やすいのかなとか思って、
この役はこういう人だよねみたいなことを落とし込んでやってる時に、
いやここでこいつは人を殺さないぞとか。
でも脚本上は決まってるわけじゃないですか。
はい、決まります。
でもそれが演じてみると、
なんかこれは変だみたいに感じたりすることもありますか?
ありますし。
一個一個のセリフとか行動とかその話の流れとして。
なんか本当に大きい出でアシストしてくださったんですけど、
なんでこいつこれ言うのみたいなのが、
会った時の絶望感と高揚感が両方。
なんか序盤でロシアの有名な劇作家のチェイホフという人がいて、
三人姉妹という作品があって、
その次女役をやった時に、
もちろんロシアの劇作家が書いてるので、
そもそもの体とか価値観とか、
どのタイミングでどれを言うかってコードがずれてるっていうのを、
でもやはりするみたいな時に、
私メランコロジーで憂鬱なのっていうのが、
冒頭の5分ぐらいのタイミングで、
なんかスタスタスタって出て行こうとして、
長女にどこ行くのって言われて、
なんか出て行くみたいな。
私今メランコロジーで憂鬱なのって言うんですけど、
言えなさすぎて、
もうマジでメカニズムがわからないというか、
メランコロジーって言葉を認知はするんですけど、
言ったこともないし、
なんかメランコロジーで憂鬱なのって、
何が起きたら言うんだろう。
兄弟の日みたいな時の、
やっぱここでめっちゃ絶望するし、
でもこれを言えはするんですけども、
何をもってして言えたとするかみたいなのを、
紐解いていくのが俳優の仕事だったり、
それをジャッジするのが演出家の仕事なんですけど、
そこに向かうまでに何かを、
セリフがなくてもなんとなくこのセリフで、
このフックの感情をかけてってやって作るんですけど、
今日は上岡さんの話を聞いてると、
非常に幻想派的なというか、
自分の感覚だけでしかない理由で、
メランコロジーで憂鬱を言うためのフックをかけてるけど、
そのフックですら、
なんだ、入らないな気持ちに。
唐突にランダムに。
前半と後半の一部だけなんですが、
一回ちょっと待ってくださってるかもしれないので、
33:00
質問タイムいきたいと思います。
質問じゃなくて、
このふくだり面白かったとか、
笑えたでもいいし、
フックどういう話だったっけとかでも、
なんでもいいんで、よかったら見てみてください。
メランコロジーというボッキャブラリーが
持ち得てない日程なんで、
今のキーワードで話を進めてもらいたいなと。
そのまま続けてもらいたい。
どういう話の展開になるかなとか。
それゆえに、
皆さんがどういう反応をするのかな、
どういう考えるのかなっていうか、
どういう発言をされるのかなっていうことが、
ちょうど私的にはクライマックスのどこかに
上がってきたと思う。
ここからさらに盛り上がったかもしれないので、
また後からお願いしたいと思います。
自由意志。
そういう意味で、
自由って言う言葉が一番一緒に書いてある。
そういう意味でも自由みたいなものは書いてない。
ああ、そう。
そういう意味でも一つ書かれたのが、
宣誓主としての
どういうふうに進むべきかみたいなのが
理念して書いてある。
で、
制御されている。
そういう意味で、
自由意志って書いてある。
そうですね。
意思の定義によるのかもしれないですよね。
だから意思っていうのは、
何かをやろうとする方向性みたいな意味合いでいけば、
制約された意思みたいなのは存在するかもしれなくて。
それは意思じゃないじゃんって言われたら、
そうかもしれない。
別の単語を当てはめたほうがいいかもしれなくて。
そうですね。
だから意思って、
自由意志とかそういうもの自体が
非常に人間的なという感じはしますよね。
生き物とかが自由意志とか
言ってるイメージはないですよね。
確かに。
あるような自由意志がさ、
あとだけ出ないだろうみたいな感じが。
だってこうなったらこうやらない?みたいな感じ。
なんかフリスビー投げられたら取りに行くよね、
ぐらいの感じ。
雰囲気なんじゃないかなと。
反射的な。
反射で説明しようとしてますね。
反射と習慣とみたいな感じですね。
反射っていうと比較的
正徳的なもののイメージですけど、
36:01
学習的になっていくともうちょっと
変わるのかなという感じですかね。
大丈夫そうですか。
100層オープネっていう話ですから、
メタブラシとか結構満員してるよね。
確かにそうかも。
だけどアーティスト側からは
ちょっと苦覚いく感じとか
そこはあんまりアーティストには
語ってほしくないかもしれない。
どれに共感しながらとか。
だけどこの中で
今回の話について
図書館に使っていただいていることを
見られる、理解していただいて
受け取られるのは
自由だね。
それが強くなるとこもある。
解釈の満場で
みんないるとおっしゃったんですけど
そうだよねって思うと
アーティストを
こうしている街が
いろんな場所だし
それってこう
図書館に住む一人に
あるってことだよね。
そういう感じだよね。
きれいな
図書館で働く人がいて
そこの幅を
会話に乗ってすり合わせられると
すごく言葉が幸せな部分になると思う。
僕なんか自分は
特徴なしで
みんなで話し合いながら
作品を見ながら
会話する時間が
持ってくるんですけど
じゃあ何が正解かっていうのが
見えるか
同じ作品でも見えるかに
変わって
最終的な
指定か
だったら
作品を見ることが
正解なのか
感傷者同士が
楽しく
喋って終わるのが
正解でもない
それも不正解でもない
言葉というのは
最終的な言葉と
関係がすごく
出ていないので
言葉が多すぎると
意味がなくなっちゃう
どういうバランスだと
幸せなのかなって
思っておられるかは
39:00
ちょっと伺ってみたいなと
これ答えていい?
答えられるのかな?
対話型
感傷回とか
そういったことも
やってもらったことがあって
イベントに参加してくれた
お客さんが
私の作品を見て
何分間か見て
静かに見て
その後
思ったことを
バーっと
皆さん
言っていく
それで最後に
私が
この作品は
テーマでというか
こういう主題で
書きました
っていうのを
終わるっていう
そういう
イベントだったんですけど
それで私は
確かにそのイベントを
やってもらったときに
いろんな
思いもよらない
道路に見えるとか
川に見えるとか
体に見えるとか
体の線に見える
内臓に見えるとか
いろんな言葉をもらって
すごい面白いみたいな
それで次の
制作のヒントになるような
言葉をたくさんもらって
よかったんですけど
でもそれで
私が最後
お客さんに
こういう人で書きました
ってなって
お客さんは
何を
持ち帰れたんだろう
っていうのは
今ちょっとお話ししてて
それを
私はハッピーだったけど
お客さんはどうだったんだろう
っていう
逆にちょっと
それを問い直すような
それで
ネタバラシじゃないですけど
正解は最後
こうでした
みたいな感じに
お客さん
その答えを
受け取っちゃうのかな
とか
本当にバランスっていうのが
難しい
ですね
どうしても
問題集みたいに
いろいろな解き方とか
間違いもあるんだけど
42:00
最後は模範回答がある
みたいに
期待
みんなしてるし
こっちもいつの間にか
それを忖度してるっていうか
その期待に答えなきゃ
みたいな
風になってるところは
ちょっとあるのかもしれない
ちょっとやっぱり
寄せに行っちゃうというか
なんかちょっと
言い逃げみたいな
感じになっちゃったり
でもやっぱり
現代アートとかで
作家が生きてる以上
やっぱり作家の声聞きたい
言葉聞きたいは
それは
当たり前だと思うんですよね
私
それが
すごくいいところ
だと思うので
本当に
自分のあり方というか
作品がいくら
分身ですといえど
じゃあこっちはどう
動いたらいいんだろうっていう
すごく
ここの
あやふやさというか
なんか
境界の部分というか
なんか
そういうのを感じます
すみません
ちょっとお答えできず
長くなってきてすみません
それはやっぱり
なんか答えがあって
それを見せたいというわけではなくて
これそのものが
表現したいものである
っていうのが
ベースなんですかね
そうですね
これそのもの
これで答えがあるわけではなくて
表現したいわけでもないわけですよね
こう思って描いたけど
感じ取り方は別に
あまりに
違う
ハードな感じで
先ほど言ってたような
すごい
尊重秘伝みたいな
そういうのに対するとかって
取られるとちょっと
違うっていうのは
あるかもしれないですけど
幅があっていいわけじゃないですか
そうですね
これで一個の
痕跡の
合体みたいな
一つの作品で
その日
その瞬間の
私の言った痕跡
そう捉えていますね
伝える時に
これが答えでしたって
伝えるんですか
私はこう考えて描きましたけど
そのあなたの考えも
それはそれでOKです
っていう感じで伝えるのか
やっぱりどう
こういう風に
自画像として描いてて
線が入ってるのは
作品は
こういう
理由でとかを
45:01
説明を
するんですけど
それを
今答えたのが
正しいとかじゃなく
本当に
好きなように捉えてもらっても
大丈夫ですとは
お伝えはしてます
なんかさっきの
最初の
キャプションを
書くのは
やらないけれど
材料して
話すのはやりたい
っていう話があって
あれは
どっちも言語やん
って思って
じゃあ入っとけば
いいのでは
って思ったんですけど
でもその後で思ったのが
やっぱ会話で
出てくる情報って
聞いてくれてる人に
フィットした回答を
返すから
いろんな聞き方ができる
から聞き手にとっては
キャプションを読むよりは
自分の理解が
本当に合ってるのか
みたいなところを
確かめる意味では
多分会話したほうが
全然よくって
なのかな
と思って
だから
さっきの答え
答えない
みたいなところも
相手が
言った内容に応じて
何か
多分ちゃんと
会話みたいな形になると
より伝わる
みたいなところは
あるのかな
って思ったり
なんか熱々の状態を
やっぱり届けたい
みたいな
中村さんが
昨日の
トークの時に
声が総合芸術
だっていう
お話されてたんですけど
声のトーンとか
声色で
結構受け取る
受け取り方も
すごい変わると思うので
声を使って
発して
説明するっていうことは
そんなに
文章で
残して
っていうよりかは
なんか
ハードルが
私にとって高くない
まだできること
っていう
それで結構
在労してる
言葉
言葉自体が
やっぱり
長い歴史の中で
語られる言葉
声の言葉から
書かれた言葉
文字の言葉の方が
やっぱりより確かで
だからより強い力を持つ
っていう風に
シフトしてきたっていう
歴史はやっぱりあって
やっぱり
語られただけの言葉って
残らないので
そういう意味では
やっぱり弱いんですよね
だけど一方で
今おっしゃったように
直接
働きかけるっていう
力を持つので
アフェクティブな
意味では
感情にも
訴えかけるっていうような
意味では
むしろ強いんですけど
実際なんかやっぱり
文字を持たない
言葉って
廃れてったりするじゃないですか
そういう
やっぱり
強さ弱さみたいなのが
あったりは
するんですけど
なんか
そういう意味では
そういう
声の語られる言葉を
見直すみたいなのは
大事なのか
はしれないです
最近記録媒体として
オーディブル最近
記録媒体として
48:02
可能じゃないですか
そういう残り方も
してくのかなみたいな
ちょっとすごい
速度で聞けるので
倍速とか
3倍速に近い
それで
耳に
はい
脳にもちゃんと
それをやりすぎて
なんか頭ずっと痛い
みたいになった時が
やめようと思って
最近やめたんですけど
目で読むぐらいの
速度で話すのが
ちょうど脳に優しいんだ
みたいな感じの
なったことがあったので
それはちょっとあれなんですけど
でもそれでやっぱり
思ったのが
オーディブルって
全員同じ人の声で
読まれるんですよ
だから本が
全部同じ人の声で
入ってくるから
ちょっと
違うなっていう感じが
最初に読んでた本が
すごいSFの本だったのに
その次が
全然違う本で
同じ声で
再生されると
あれこれだって
あの時の
あっちの記憶が
こっちの本に
混入してくる
みたいな
面白い
ありそう
なんか
やだなって思って
そんなのもあって
ちょっとオーディブル
やめたみたいな
あったんですけど
あれって
声選べないんですか
女性とか
なんかオーディブルは
マジで人が読んでる
やつなんで
朗読してるんですよ
だからもう
朗読データがあるだけなんで
機械に読ませるとか
じゃないんで
数はない
でもなんか
小説によって
なんか有名な俳優さんとかで
これはこの人
読んでますみたいな
そうですね
その
めちゃくちゃ売れてる本とかだと
そういう感じになったりする
かもしれない
逆に
Kindleとかで
デジタルで読み上げさせるやつを
いろんなバージョンで読ませる
とかは
いいかもしれないですけど
なんか時々
同じ人がまた出てきた
みたいな
そういうかもしれない
面白い
質問から
シームレスに対応して
すいません
ダメダメダメ
そこに行きましょう
大変
じゃあ
ちょっと
4時5分くらいまで
また
その間に続けてもらって
また質問タイム
はい
なんか
昨日の話とか聞いてた中で
やっぱり
虚と実っていうところが
なんか一つ
共通点として
面白い
キーワードかなと思ってて
その辺もちょっと
聞いてみたいんですけど
はい
私
なんか
カウンター返しみたいな
それをちょっと受けての
あれなんですけど
あとさっきの
自由意志問みたいなところで
昨日松山さんがおっしゃった
無関心性っていうのは
私初めて昨日知って
とても面白いなと思って
無関心性の
昨日一回聞いただけだと
きっと今理解しきれて
いないまま走ってるんですけど
51:00
主体
客体を
分けすぎずというか
あれの何というか
主体客体とか
どこまでが実なのかみたいな
どこまでが意思っていうか
喉乾いたとか反射だと思って
川流れてて喉乾いたとか
それをただ綺麗で見るって
もう反射だと思うんですけど
あーちょっと
すいません
走り出してしまったのに
何も辿り着けないまま
走り出した
無関心性の定義を
最初に持ち出している
関東の場合は
まず人間が感じる良さっていうのを
主に3つに分けていて
一つが
身体的な満足なんですよね
それはお腹空いた時
ご飯食べて
満足になるとか
っていうことなんですけど
それは快楽の快で
もう一個が倫理的な良さで
困っている人に席を譲るみたいな
人としてやるべきこと
みたいな
善悪は善
もう一個が美なんですよ
美さんの美で
それが快とか善に比べて
快とか善っていうのは
やっぱりいいと思うから
解消を手に入れたい
っていう風に
実際にそれを欲求するっていう
働きにつながっていくんですけど
ご飯だったら
そのものを自分のものにして食べたいし
いい行いでも
それを自分がやりたいみたいな
実現したいっていう風になるんですけど
美の場合は
目の前にこの白爪草があって
これがすごく美しいなって思っている時に
直接的には
だからといって
これを自分のものにしようとは思わない
確かに花を摘んで帰ることもあるかもしれないんですけど
美しいって感じている瞬間には
例えばこれを食べようとか思っていないじゃないですか
だからこれがここにあるがままのこの姿が
ただただ私にとって心地よいっていう
その状態のことを
それが美の経験なんですよね
その時にこれが
取って売ったらお金になるとか
あるいは誰かにプレゼントしたら
その人が喜んでくれるとか
そういうさらに外部の目的のために
役に立つからいいんじゃなくて
ただただここにあるだけでいいっていう
そういう態度で向かい合っているのが
無関心であるっていうことなんですよね
カントが言っているのは
利害関心
孫徳感情に基づいた関心ではなくて
自分の孫徳とは切り離した上で
それでもこれがここにあるのがいいっていう
54:04
3つあったら身体性と倫理的等々
売ったらお金になるのはどれなんですか
それはそのカテゴリーじゃないですか
それでいうとローマン
無関心であると
身体性とか倫理性の良さは排除できる
というわけではない
無関心であると美的な承認が
生まれるから
その時にある美が美だっていう話
でも美には3つあって
身体的な美と倫理的な美と
良さ
良さと美だから全然違うってことなんですね
良さの中の1個が美
なるほど
その真の美っていうのは
無関心であっても美しいと思うみたいな
そうですね
美的経験の
無関心性
本当はそれだけじゃないんですけど
その美的経験を特徴付ける大きい
重要なものとしてそういう無関心性が
尊徳感情で嬉しいは
良さのどこにも入らないっていう
尊徳感情で
そうですね
それはまた別の
良さではない
良さではない
でもそれだと
尊徳感情の関心はないっていう
消極的な定義になっちゃうので
それをむしろ
美的に承認していることだっていう
ポジティブな言い換えをしているのが
全部
審釈タイムで失礼します
だから美的な経験においては
例えば
それこそ科学的に
例えばこの花を
タンポポだって間違って見てて
本当は白爪草なのに
タンポポ綺麗って私が思ってても
いいんですよ
その美の経験としては
これがタンポポか白爪草か
科学的にどっちが正しいかっていう意味では
間違いなんだけど
美しいって私が思っている
この経験自体は
間違いじゃない
それ自体はすごくリアルな経験として
私にとっては少なくとも主観的にある
っていう意味では
それこそ結構実で言うと
実なんですよね
それがその舞台の話
昨日おっしゃってた話とも
すごい関わってる気がして
舞台そのものは嘘なんだけど
その嘘の場の中で
あるセリフがすごくリアリティを持ってる
っていうのは
一つのやっぱり実だと思うんですよね
それと同じような形で
57:01
美的な経験においては
必ずしもそういう科学的な知識とか
論理的な正しさは
あるいは倫理的な
善悪とは一致しないんですけど
あるときそれがすごい
迫ってくるときがある
それ自体はリアルである
っていうのは
同じ好評かな
っていう気がして
あー面白い
究極
究極でも
こう思って
自分ないもので
ここにでも
厳しい劇場で
草を持ち込んじゃダメです
って言われてる
全部マイムで行こうみたいなときに
あの美しかった
白爪草を自分の中で
立ち上げて
美しいっていう
セリフを言うときに
ここにはない虚を
でも自分が感じたってことの
実をお客さんに
見てもらうことは虚だけども
その中でお客さんが
わかんないけれども
そこに何かを感じて
その白爪草を
何かその人の中で立ち上げるのは
実みたいな
あーなー
その人の脳内で感じたこと
あることは間違いない
っていうような意味合いなんですかね
経験としては
なんか思い出してるみたいなのと
近いんですかね
思い出してる
そうですね
まあありありと思い出す
みたいな状況
自分が体験したこととか
じゃないと
まずそのイメージも
しづらいというか
投影しづらい
人殺しの役をするときの
実っていう
言ってしまうと
私は人を殺したことはないんですけども
でもいつか来るべきときに
するときの
なんと言いますか
見てる人も少ない
と思うんです
人を殺したことがある人っていうのは
何ですかね
人の脳というか
でも実っぽく見えたりとか
自分の中でない経験
がなんか
現れてきて
感動したり恐怖を
感じるみたいな
それは何なんですかね
想像してるんでしょうね
結構トップダウンから
各定時両屋への
戻ってくる
回路っていうのは
かなりあると言われていて
なんでその
四角屋っていう
ボトムアップで
1:00:02
網膜から入ってきた情報
自体を処理することもあるんですけど
トップダウンで上から降りてきた
情報を処理する方がむしろ
多いんですよ確か
ファイバーの数的には
トップは脳の工事の
中に入ってます
バッグの中に
なんでその網膜で
見えたものを処理するっていう
ものだけに一時四角屋みたいな
使われているだけじゃなくて
トップダウンから
元工事な言語とか
想像とかそういうところから戻ってくるっていう
ファイバーの数がめちゃくちゃ多い
っていう風に言われていて
なのでそういう意味では
視覚的な像を
想像するとか
思い出すっていうのは比較的しやすい
のかもしれないですね
そうするとやっぱ
すでに一回殺人の場面を
映画とかで見たみたいな
そうですね
そういうの引っ張られるかもしれないですね
それをよりリアルに
想像できると
戻りとくのがどんだけ
うまくいくかっていうのはちょっと分からないんですけど
そうですね
戻し具合がうまくいくかによって
そこからまた行動側に出力するときの
精度が変わってくるっていうのは
なんかあるかもしれない
戻し具合
例えばあれなんですかね
演技力とは何かと思ってたけど
でもやっぱり
いい俳優さんっているわけで
演技力が高い人は
戻し具合が
いいんですかね
どこだか分かんないですよね
戻し具合は結構みんな同じぐらいなんだけど
そこからその行動に
どのくらいちゃんと映せるかとか
それもあるかもしれないですね
それってもうちょっと
殺人の演技とかまでいかなくても
単にダンスとか
体操みたいなときに
お手本を見て
自分の体にうまく落とし込めるかみたいなのも
やっぱり近いところがあるんですか
そうですね
イメージして
自分の運動神経
どのぐらいどうなんだろう
小脳とかになっちゃうのかな
ちょっと分かんないですけど
それを見て
それをちょっと無理やり
こじつけると
見たときには
自分もそのままバッチリ踊れる感じがすごいするけど
やったら全然
全然ダメみたいな
なんかその
虚と実どっちなんだ
俺の中では
めっちゃうまかった
踊れてない方が
虚なんですけど
そういう意味は結構
お前らが今日見てるな
そうですよね
そうですね
1:03:01
あとなんか
洋子さんの場合は
そういうすごい
戦虫みたいなレベルで
神経を一つ刺激したらどうかみたいなこととかを
してる
自然科学の世界と
でも普段
生身の一人の
身体を持った人間として
生きてるっていうことで
そこの虚と実っていうのも
どうバランスを取ってるんだろう
っていうか
私はそれこそ最初
自然科学の分野にいたんですけど
なんかその
目にも見えないし触れられもしないみたいな
検出するデータとしてしか分かんない
みたいな世界が
なんかもうちょっと
何なんだろうこれって思っちゃったところがあって
ないと思ってない
ところがあるかもしれないですね
実だと思って
見ている
例えばその戦虫とかは
顕微鏡とかで一応
見てると
全然見れるので
肉眼でも頑張れば
ほこりみたいな感じですけど
ちょっと動いてるなみたいな
見えなくはない
感じですね
顕微鏡で見ると
動画とかあったりしたら
結構動いてるのも
見えたりはするんで
そういうのを見てるとあるなっていう感じは
あるかもしれないですね
でもおっしゃる通り科学物質とかって
結構
有機化学とかって何やってるか
わからんみたいな
謎の液体をこっちに移して
気がついたら色が変わると
確かにあったんだみたいな
間接的に理解するみたいな
DNAとかも割とその感じで
パッと色が変わるとかだったら
あったんだなってなるんですけど
途中まであるかないかわからない液体を
ひたすらこっちに移して
混ぜてみたいなのをやるんですよね
学生実習とかだと
それで大体何もなかったりするんですけど
何を操作してたかな
虚無を操作してたみたいな
なるんですけれど
確かにそういうのは
ありますよね
そういう意味では
何か
仮説とかを作ったりして
これ本当なのかなどうかなって
思ったりしながら進めていくけれど
途中でそれっぽいデータ出てくるんですよね
でも本当かなって思いながら
進めていって何個かの方法で
やっぱり同じもん出てきた
ってなると確かっぽいわ
ってなるみたいな
それが実になる瞬間かもしれないですね
実験系だと
それがアハ体験とかに
近いかもしれないんですけど
色んな他のデータとかが繋がって
こういうことじゃん
ってなる瞬間ってのが
それが実が立ち上がる瞬間
みたいなのがあるかもしれないですね
気持ちよさそうですね
繋がる
2年に1回くらいしかないんで
それまである
なんだろう
ってやり続けるみたいな
感じになるので
1:06:00
本番何ステージかして
そこまではもちろん稽古するんです
そして動機を
動機づけたりとかなぜこのセリフを
言うかとかなぜこの振る舞いをするか
っていうのは精査していくんですけど
やっぱ本番になるとグンって
色んなものが変わって
稽古中は照明が入らないとか
舞台美術がないみたいなときに
急に本番の
何ステージ目かに相手が
言ったことの
意味が分かるというか
あっこの役って
こういう道理だったから
言って
こういう道理で言われるから
この役自分の役は
理解して次のセリフ
言うのかっていうのを
感じてすごい今までと
違う欲望というか
違う出力で
自分のセリフが出たときに
2年に1回とか
毎回とかじゃないんですけど
なんかあのときにやっぱり
なんだこれ
どこを妥協
この実感は実だな
それってちなみに
観客側に伝わる感じなんですか
どういうもんなんですか
見てて今入ったなみたいな
私それ
過去あんまないですけど
結構でもお客さん的には良かった
とか
極端な例は
泣いてしまったの
舞台上で泣くって結構
情報が多すぎて私は
嫌いでかなり
巨大な情報を渡しすぎて
情緒がもう
こっちにしかないっていうか
泣いてる人見るっていうよりも
どっちかっていうと
泣く人はお客さんなのに
お前泣くなよさっきって
泣く演技ではないんですよ
泣く役ではないけど泣いちゃったってことですか
そうでその
結構涙を流すという行為を
結構禁句的に
思ってるんですけど
なんかさっき
あるステージですごい全然違う
聞こえ方をして
しまった時になんか
わって出ちゃったっていうのが
やばいぞと思いながら出ちゃったっていうのの
出ちゃったってなんだ
みたいなのを考えながら
次言ったら知らない欲を
が出てきた時に
そのステージは
演出家の人も
なんかそんなに酔っている
感じではないようには見えた
みたいなフィードバックがあって
あれは何だったのかみたいな
ハマる瞬間がなんかある
竹浦に行っても
涙が止まらなくて
なんで泣いてるのかわからないみたいな
それは
体験として良かったんですか
ちょっとどうだったんだ
の感じは
泣けたみたいなことにしてはいけない
と思いつつ
演劇ってなんだろうっていう
すごく違う興味を持った
1:09:01
一手だったので
私的には続ける動力になった
という感じは
01:09:12

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