1. 映画の話したすぎるラジオ
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2021-03-10 42:45

旧第14回「花束みたいな恋をした」とカルチャーと東京と仕事

「花束みたいな恋をした」を観て、カルチャーと仕事、東京と地方などについて思ったことを話しています。

後半では、有村架純の髪形と菅田将暉のすね毛を同列のベクトルで語ります。

00:09
はい、始まりました。ポッドキャスト吉野映画酒場第14回ですね。
えーと、大体2ヶ月ぶりの収録になってます。5分経たしております。
なんでこんなに間空いたかっていうと、大西が生まれたんですね。
それで、ちょっと子育てで収録どころじゃねえってなってたんですけど、
少し余裕というかリズムができてきたんで、収録再開したいなと思ってます。
映画自体も本当に映画館全然行けてなくて、
本当に映画館行くのも2ヶ月半ぐらいずっと行ってなかったんですね。
で、ようやく久しぶりに映画館行けて映画見れたんで、
その話をしたいなと思ってます。
今回話しようと思ってるのがですね、
花束みたいな恋をした、です。
もう本当、子育てしてある間、映画関係のアンテナ全然張れてなかったんですけど、
いつの間にかめっちゃ話題になってた映画ですよね。
たまに映画ファンの間でボコッと出てくる恋愛折れ語り主体系映画の一本って感じになるんですかね。
じゃあまず、映画ドットコムの紹介を読ませていただきます。
解説。
東京ラブストーリー、最高の離婚、カルテッドなど数々のヒットドラマを手掛けてきた坂本裕二のオリジナル脚本を、
須田まさきと有村霞の主演で映画化。
坂本脚本のドラマカルテッドの演出も手掛けた、
罪の恋、映画ビリギャルの土井博康監督のメガホンにより偶然な出会いから始まった恋の5年間の行方が描かれる。
東京京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山尾と麦と八谷経。
好きな音楽や映画がほとんど同じだったことから恋に落ちた麦と経は、大学卒業後フリーターをしながら同棲をスタートさせる。
日常でどんなことが起こっても日々の現状維持を目標に2人は就職活動を続けるが…。
はい、坂本裕二さんの脚本の、ちょっと全然文脈わかんないんですよね。
カルテッドとか本当話題になってましたけど、監督の土井博康監督、罪の恋は見てめっちゃよかったですよね。
本作は個人的には映画のエンタメ的にはぼちぼち楽しめたって感じで、
自分のこととか恋愛のこととかを考えるって意味で非常に興味深かった映画って感じでしたかね。
いろいろ本当思うところがあるというか、刺さる人は本当刺さるんだろうなっていう感じで、
ちょっと僕は距離を置いてみた感じもありましたね。
その距離を感じた部分みたいなのも話していけたらなと思うんですけど、
まず冒頭ですよね。結構前半と後半でこの映画に対する印象かなり違ってて、
前半はあんまり恋愛映画として見れなかったんですよね。
03:04
なんて言ったらいいのかな。もう一人の自分に出会ったみたいな話として捉えてて、
この麦くんとキヌちゃんが本当に趣味がまんまほぼ一緒なんですよね。
読書の趣味とか映画の趣味とか、靴が一緒っていうところに象徴されるように、
趣味がガッツリ噛み合ってるっていうところで、二人は感性が合うっていうので惹かれ合っていくわけなんですけど、
なんかそれがあんまり恋愛に見えなくて、あまりに自分と同じすぎるなと思ったんですよ。
本当にそこまで自分と合うものを見つけたら、恋愛感情かどうかは別にしてもそれは惹かれるだろうなって思って、
なんかそれが恋愛なのかどうかっていうのがいまいちピンと来ない部分があったんですよね。
で、この麦くんとキヌちゃんの趣味が合うっていうのは本当はちょっと微妙にずれてたっていうのは後半で出てくるんですけど、
そのずれみたいな部分が見えてくる後半はやっぱり恋愛映画として見れたって感じはあったんですよね。
その前半で麦くんとキヌちゃんが終電逃して、一緒に終電逃した別の男女と一緒にバーみたいなとこ行って、
その二人の映画の趣味とかがなんか合わねえってなってたけど、
その麦くんとキヌちゃんは映画の趣味が合うから惹かれ合うみたいな感じですけど、
あそこのサブカル視点のシャラ臭さみたいなのが結構引っかかるっちゃ引っかかりますよね。
翔翔くんの空に見てるやつとか実写版魔女の卓球見てるやつ見下すってかなり類型的サブカル感というか、
そのあたりのシャラ臭さは気になるっちゃ気になったんですけど、
そこでその二人の趣味がすごい噛み合うっていうのが分かっていくわけなんですけど、
意識しなくても揃っていくっていう喜びに惹かれていくみたいなのが、
それは恋愛とかに限らず、人間関係ってちょっとずつ違う部分の中から同じところを探っていく面白みみたいなのが、
だんだん互いに対する愛着みたいなのになっていく部分とかってあるかなと思うんですよね。
この二人はもう特に相手を探る努力をしなくても、
ポンと投げた球がもう完全にそのまま打ち替えされるみたいなのを経験しちゃってるわけですよね。
そこがあんまり恋愛的というよりは同調って言ったらいいんですかね。
その本当に共感と同調でだんだん一緒になっていくっていうふうに見えたんですよ。
多分ここすごい誇張された表現になってるのかなと思って、
ここで麦くんから見たキヌちゃんとの比較として、名前忘れたんですけど、
麦くんがキヌちゃんに惹かれる前に惹かれてた大学の別の女の子っていうのがいるんですよね。
この子は完全に高嶺の花系なわけですよ。
で、麦くんをちょっと興味のないカラオケに誘って、
でも本人は来ないみたいな、ちょっとつれない感じを出す。
自分が恋を持たれていることをおそらく自覚的に他人に振りまいて、
自分の立ち位置みたいなのを作っていくタイプの女の子で、
06:03
比較的不器用めの麦くんからしたら圧倒的に高嶺の花なわけなんですよね。
これはわかりやすい恋愛かなと思って、憧れなわけですよ。
自分にないもの、自分が理解できないものを持っている相手に惹かれている状態だと思うんですけど、
それがもう無理ってなって、無理ってなってというか、
偶然終電逃した後、映画の趣味が合わない男女から離れて、
別の居酒屋に行くわけなんですよね、麦くんとキヌちゃんが。
で、その行った居酒屋でめっちゃ趣味の話が盛り上がって、
キヌちゃんがトイレ行ってる間に来た別のお客さんがその女の子なわけなんですけど、
ここでせっかく盛り上がってたのに、自分の知らない女の子が来て、
キヌちゃんが不適されて帰るってなった時に、
麦くんはその女の子の席に行かずにキヌちゃんの方を選ぶと。
ここで麦くんは憧れではなくて共感を選んだってことだと思うんですよ。
この女の子、後々全然出てこなくて、あんまりキャラクター的にも掘り下げられないんですけど、
多分その比較として分かりやすく出されているものなのかなと思って。
麦くんはここでも自分ととにかく噛み合う方、
自分にないものに自分を合わせていったり追い求めていくよりは、
ひたすら自分にもともとあったものと同じものを共有できる相手っていうものを一緒にいようとしていくわけですよね。
麦くんから見たキヌちゃんっていうのはそういう存在なわけですよね。
うん、なんだろうなぁ。
それなんだろう、恋愛なのかなって。
別にそんな奴いたら惹かれますよね。
それが恋愛になることもあるか。
例えば、麦くんは異性愛者ですけど、男でそんな奴がいたら、
多分絶対惹かれるというか、そいつに執着しますよね絶対。
それが恋愛感情にいくのかな。
ある意味もっと恋愛よりドロッとしたものになると思うんですよね、その感情って。
ごめんなさい、ちょっとフワッとした言い方になっちゃったけど。
恋愛映画というか、もう一人の自分と出会って自分自身と向き合うみたいな話にちょっと見えたんですよ。
これはなんか変な見方だとは思います、自分でも。
そこからこの二人ずっと一緒にいるわけなんですけど、
この二人のサブカル感というかカルチャーに対する向き合い方がもう結構あんまり共有できてないジャンルなんですよね。
映画とかだとクーリンチェ行こうとか言ってたのはわかるけど、
本ですよね、書籍の方は全然趣味が違ってわからなくて、
あんまり共感できない部分であったんですけど、
ただまあ、かなりその門切り型のサブカル人間として二人とも描かれてますよね。
そこはまあ、なんて言ったらいいんだろうな。
かなりまあ、ケッてなる部分は正直あったなと思って。
そこはまあ、あえてやってるんだろうなというか、
その最大公約数としてのサブカルみたいなものをあえてやってたと思うんですよね。
そこで具体的にサブカルを掘り下げてみたいなものにはしてないのかなというふうには感じて、
09:05
その最大公約数のサブカル。
これってサブカルって言ってるけど、
実質かなりマジョリティだと思うんですよね。
そのムイ君とキヌちゃんって。
例えばその本棚にアキラ置いててって、
本棚にアキラ置いてるのって別になんかサブカルじゃなくても、
大学でちょっとサブカルにどっぷり踏み込まなくても、
アキラいいよねってなる時期あると思うんですよね。
でもその辺りを今更アキラもなぁみたいなところまでのカルチャーに触れてる存在としては、
二人を描いてないのかなと思って。
それはなんでかっていうと、誰でも共感できるようにですよね。
自分だけはこれってちょっと変わってるよって思ってるけど、
実は最大公約数みたいなものとして、
この作品内でのサブカルって描かれてるのかなと思って。
で、正直劇中で描かれてる舞台であるとか、
書籍であるとかってもう分かんない部分なんですけど、
以前僕が別のポッドキャストの回で話した、
シェアルームしてた幼なじみとかは、
かなりジャンル的に近いタイプなんですよね。
結構あの手の本。あの手の本って言ったらあれだけど、
名前だけ知ってるけど読んだことない本とかでも、
そいつは読んでたりはしてたので、どういうタイプの存在かっていうのは分かるんですよ。
麦くんとかキヌちゃんがどういう感じのカルチャーの
界隈にいるかっていうのは想像はつくんですけど、
ただエッジはそこまで効いてないんですよね。
俺ってここエッジ効いてるよねっていう一箇所持ってる。
まあ誰だってそうだと思うんですよ。
俺私のこの趣味ちょっとエッジ効いてるでしょっていうところって
誰でもあるなと思って。でもそれをかき集めたら
だんだんエッジ効かなくなるんですよね。
針だと思ってたものをいっぱい集めたら
まるいけんざんみたいになってとんがりがなくなった
みたいな感じになるのかなっていう風な言い方。
正しいか分かんないですけど。だから結果的に
私ちょっとカルチャーに触れてるみたいなのを
思えるような記号を
散りばめられた存在みたいなのがあの二人なのかな
っていう風な見方をして。それって誰しも
誰かと共感したい。万人と共感できるわけでは
ないんですよね。その一本一本のとんがりの部分で。
ただそのとんがっている部分を
誰かと共感した時にやった出会えたって喜びを感じれると。
で、その万人に共有できるわけではない
とんがりをいっぱい散りばめたことで
誰が見てもって言うほどではないけど
多くの人があの映画を見た時に
ここ人と共有できにくかったけど
人と共有できて嬉しいみたいなの
分かるわみたいなのの記号の集合体
みたいな感じっていう風に捉えたんですよね。
ちょっとこの捉え方正しいか分かんないんですよね。
僕がその界隈にそこまで詳しくないからっていうのがあって
ただまぁその舞台見に行くとか
有名人に会うとかって東京いたら
普通にできるんだろうなと思うんですよ。僕今
12:01
もともと出身川島で今大阪在住なんで
日本最先端カルチャーではないわけですよ。
大阪に住んでたら。東京の最先端から
こぼれ落ちてきたものは大阪まで届くんですけど
逆に言うと東京にいたら
普通にカルチャーに触れてったら
意識しなくてもエッジの尖ったことってできちゃうんだろうなって思って
そこの
自意識じゃないけど尖ってると
自己認識があるけど実は割と最大公約数に近い
みたいなのがきっとありふれてるんだろうなって思って
ありふれた孤独の話なんだろうなって思ったんですよね。
この映画って。私って
僕ってあんまり人と趣味合わないっていう
100万人いる人間の一人同士が
互いに出会ったみたいな。そういうものを
描くのに最大公約数的なサブカルの
集合体みたいな二人の描き方は割とよかった
だろうなと思って。逆にこれを誰か
この映画を見た人が完全にこいつら
完全にぴったりだってなったらその人にしか
刺さらない映画になったんじゃないかなって思うんですよね。
サブカルエッジの集合体だからこそ万人に
刺さるけど逆に刺さらないみたいな。
結果的にその刺さらなかった部分を自分に引き寄せよう
と思ってこの映画に対していろいろ考えたくなる
みたいな部分はあるんだろうなっていうふうには思ったんですよね。
いろいろこの映画の中にあるサブカル感はちょっと
いろいろわかんない部分があって、押井守
見てあんなに上がるのかなって。いや上がりますよそれは。
押井守で見たら上がるけど神ってなるのかなって。
僕は押井守そこまで
ってだけかなこれは。好きな人は
押井守好きだよな。そうですね。
押井守は神です。
この作品の東京
っていう舞台っていうののエモさ
そのエモさに裏付けされた
意識みたいなのってあるんだろうなと思って東京の
施設沿線を歩いてる絵とか
ってやっぱり独特のエモーションは
あるんですよ。地方在住者としてね。
大阪に住んでる人間が地方在住者っていうのはちょっと傲慢かもしれないですけど
やっぱりその東京って
いろんなメディアでいろんな作品の中で
物語描かれてきて若さとか精神とかの
イデアみたいな存在になってたりするわけですよ。
東京の施設沿線とか。そこを歩いてる絵
っていうのはすごい
自分が東京に住んでなくてもエモーションがあるし
逆に一層東京に住んでないからこそ感じるエモーション
みたいなのもあるかもしれないですね。そこには。
でもそのエモーションの内側に入れちゃうから
そこに甘んじれちゃう自意識みたいなもの
あるのかなとはちょっと思ったりして
さっきも言ったんですけど東京にいるだけで日本の最先端のカルチャー
触れられちゃうわけですよ。そんなに
経済的に接種しようとしなくても
地方でめっちゃ頑張ってサブカルやってる人と
同じ濃度のカルチャーを
15:02
東京だと片手まで接種できちゃうわけですよね。
そこにある自意識の不安定さみたいなのが
生まれるのかなってちょっと思って
地方にいる、僕の試験ですけどね
僕の試験ですけど地方にいるサブカル
人間はめちゃめちゃ強いんですよ。
強固なんですよね。メンタルが。
経済的にもそうだし労力もそうだし
あらゆる面で自分の人生のソースをそこに注いで
自分をサブカル側として生きていくっていう覚悟が
できてるんですよね。地方でやってる人って。
東京だとなんかふわふわとそれが接種できちゃうっていう
そこのなんかそういうのってあるのかなと思って
何が言いたいんだろう。何が言いたいのかなこれ。
東京にいたら何者かになるみたいなのって
正直あるんだろうなと思うんですよね。で、実際
むぎくんも地方出身なわけですよ。新潟の長岡出身ですよね。
で、きぬちゃんはゴリゴリの
東京人で親は広告代理店
両親ともに。ここですごい比較されてるわけですけど
比較されてるしちょっとここから
その二人の違いみたいなのが。要は
全く二人が感性が揃ってて
まるで男女違うだけのもう一人の自分に出会って
そこが惹かれ合っていくように見えた二人が違うっていうのが
分かってくるわけなんですよね。で、多分そこ以下の
地方人と東京人のどうしようもない
断絶みたいなのがあるんだろうなっていうのは確かに
思って。きぬちゃんは東京的価値観とか
広告代理的価値観にほっといても
ズブズブに疲れる存在だから
そういうのから目を背けるだけで生きていける
みたいなのはあると思うんですけど。むぎくんは
意識的にそれを手に入れようとして
東京に来てるわけですよね。で、地方に帰りたくないと
言ってると。そこはね、貪欲さは
あるし、逆にその東京にすがる
ためになりふり構えないみたいなとこも
あるかなっていうのは思うちは思うんですよね
そこは心当たりあるというか
自己啓発本読んできぬちゃんにがっかりされるみたいなシーン
中盤であったと思うんですけど、同棲してからね
で、あれはあると思います
あると思います、僕。むぎくんの変容の仕方
カルチャー人間だった人間が
仕事の責任とかを背負っていく
これもね、またむぎくんの仕事の責任の
せい方って無責任なんですよね。仕事ってやらないと
ダメだからやるんだよねっていう。他人のせいにしながら
自分の仕事してるって
あれは無責任だと思うんですよ
ちょっとごめんなさい、なんか話ずれてるな
東京っていう何かにいるためには
自己啓発しないとならないっていう意識が
地方の人間にはあると
地方から来た人間にはあると
ちょっとさっきと言うこと変わってるな
地方在住さんサブカルメンタル強いっていうのは
東京に来たむぎくんが精神こぼれていくのって
18:01
ちょっと違うこと言ってるな
東京に行けば何者かになれるみたいなので
行くとそこにすがらざるを得なくなるみたいな
東京に行かずに
カルチャーを摂取するって覚悟を決めたら
ある種の歴戦のタフさが得られるみたいな
ちょっと詩的な言い方かな
ちょっとむぎくんの変貌は心当たり僕もあるんですよね
啓発本読みたくなる気持ち正直めっちゃ分かる
分かるんすよ
むぎくんは絵で食べていくっていう夢が
砕かれてるところなので
サブカルチャーじゃないところに自分の居場所を
作らないといけないってなってる状態なんですよね
それはもう経済力っていうのはどうしようもなく
存在してしまうわけですよね
そこで普通に就職
就職ってなんだってなるけど
就職して営業職に就いて仕事をしていくと
そうすることでカルチャーじゃない別の居場所を
自分
猫が鳴いている
猫が飛び跳ねている
カルチャーじゃない居場所を自分の居場所を
作らないといけなくなると
カルチャーで何者かになるって思ってたのになれなかったから
別のものでなるしかないみたいなのは正直分かるんですよ
最終的に僕とかは
多分両方に腰掛けて
なんとなくふわふわ生きていこうとしている段階
自己啓発本片手間で読んで
ビジネスYouTube動画とか片手間で見て
映画とか見て映画ポッドキャストやって
ノーノート暮らすみたいなバランスを
今の自分は身につけているけれども
そうじゃなかった時にそうやって生きていけるかってなった時に
極端に走るのは分かるんですよね
特にむぎくんは絵で生きていくっていう極端さを
もともと選んでた人間なので
違う方向に針を振るっていうのは全然あるかなって僕は思うんですよね
このDルに乗れなかったからこっちのDルに
ゼンベッドみたいなのはあるあるかなと
そこはやっぱりむぎくんは真面目なんですよね
真面目だしきぬちゃんはゆるい
ゆるいって言うとあれだけどしなやかなんですよね
その意味では趣味的なカルチャーの摂取っていう意味では
きぬちゃんの方ができてるんですよきっと
もともと2人が出会うまでやってたことを
きぬちゃんはラーメンブログをやってて
むぎくんは絵を描いてたと
むぎくんはそれを職業にするっていう目標を明確に持ってたけど
きぬちゃんはそうではなかったですよね
そこの違いっていうのはきっとあって
カルチャーを地に根差したものにしないまま
摂取して生きていける人と
カルチャーを地に根差さないと
そこに居つけない人の違いみたいなのが
あらわになっちゃうみたいなっていうことなのかな
それが東京人と地方人の違いみたいな部分でも
21:00
現れてるのかもしんないですね
ちょっと話取り留めなく進んじゃってるんですけど
2人が付き合い始めて同棲して
同棲し始めてから急激に
互いの違いっていうのがあらわになっていくわけなんですよね
その仕事に対する捉え方もそうですし
カルチャーに対する自然な取り入れ方みたいな部分ですかね
きぬちゃんの方が自然にカルチャーを摂取できるし
むぎくんは努力しないと
カルチャーを摂取できない人間っていうのが分かっていくと
その努力するためのソースは仕事に全部取られちゃうわけなんですよね
中盤でパズドラしかやる気しねーみたいなシーン
めっちゃいいなと思って
パズドラしかやる気しねーっていうシーンより
音楽だけが流れるシーン
むぎくんが職場に寝袋で泊まり込んで
他に何もやる気しねーからパズドラだけやってるっていうのを
音だけで表してるっていう
あのシーンすげーよかったなと思って
あのシーンの絶望みたいなもの分かりますよね
スマホゲーやりすぎる問題ってめっちゃあると思うんですよ
これは割と精神的な体力があんまりないタイプの人
僕みたいな人は割と陥りがちかなと思って
僕もめっちゃ心当たりがあるんですけど
能動的に考えないといけないカルチャーを摂取するのがしんどいから
口開けてたらなんか入ってくる娯楽を取り入れたいみたいなのは
めっちゃあるあるだなとは思うんですよね
そういう需要
今の労働時間長すぎ問題に対する需要と供給のガッチで
スマホゲーって存在してるんだろうなっていうのは
パン的に出てるシーンですよね
スマホゲー文化を否定したいわけではなくて
世の中にあまりにそういう口開けてたら入ってくる娯楽みたいなものが
当てはまるカギ穴が増えすぎてるんだろうなと思うんですよね
みんなそのカギ穴を持っちゃってると
考えなくていい
ただ光って音が鳴って動いてってなる
お金を払うとその光と音と動きが派手になる何かに
お金と時間を割いて気持ちよくなりたいみたいなのの
カギ穴が増えてるんだろうなって思ったりはする
やっぱあれはね
すごい悲しいシーンですよね
キヌちゃんはそこは割とゆるくやれちゃうというか
頑張らずに生きていける
頑張らずに生きていけるって言葉卑怯だな
片肘張らないバランスで生活っていうものを営んでいけるタイプなんですよね
ウギ君は多分そう振りまおうとしてたけど
そうはなれないタイプなんですよ
片肘張らずに生きるっていうことに対して
片肘張らざるを得なくなる
あるいは片肘張らないという生き方に
努力することもできなくなるみたいなのは
めちゃめちゃあるあるだと思います
こういう話を描いてたのが僕の好きな映画で
奥田タミオになりたいボーイと
出会う男全て狂わせるガールっていう映画が結構僕好きで
奥田タミオになりたい男の子がいて
その子が別の女の子に惚れるっていうシーンなんですけど
これはあなたみたいな恋をした人とは対照的に
24:01
モテ的に男の側から理解の及ばない女の子に恋愛する話なんですよね
それは女の子もそうだし
この奥田タミオになりたいボーイ云々関連の方は
原作が漫画なんですけど
原作の方がちょっとその辺り読み取りやすくはなってたんですけど
奥田タミオっていう存在はもうなんかゆるく生きれてて
サブカルチャーの中で
女の子に恋をした男の子がいて
その存在はもうなんかゆるく生きれてて
サブカル的な世界観の中でゆるく生きていける
象徴みたいなもののことなんですよね
その奥田タミオっていう言葉が象徴しているものっていうのは
そういうものになりたいって思ってたけど
実は奥田タミオめっちゃ頑張ってるよねって話で
結局ゆるーくカルチャーの中で生きたいと思ってた男の子が
環境に適合して
意識の高い文化的な人間
業界人になっていくっていう話なんですよ
そこには適合できたけれども
喪失したものがあるっていう悲しみもあるわけなんですよね
そこはハンタムみたいな声がしたとも
ちょっと近い部分はあるかなというか
ハンタムみたいな声がしたは適合できなかった話で
奥田タミオにないたいボーイの方は
適合できてしまったけれども
喪失したっていう話になってるんですよ
あと恋愛対象の女の子が理解
共感できすぎる存在と全く理解が及ばない存在って
間違いもあったりとか
比較したら割と面白い日本かなって思いながら見てました
カルチャーっていうものの表現の仕方に関しても
面白い日本かなって
話がどんどん逸れていくな
ムキ君も奥田タミオになりたいボーイなんですよね
カルチャーで何者かになりたいと思ってると
だから絵を職業にしたいと思ってるけれども
キヌちゃんはカルチャーの片意識張らない部分だけで
生きていける人なんですよね
何者かになるところまで必要としていないんですよね
ここの違いはめちゃめちゃ
でかい違いですよね
そのあたりがあらわになっていくことで
生活理論とかある部分でチグハグになっていってしまって
二人の生活っていうのは壊れていくわけなんですけど
喧嘩のシーンとか
本当に心当たり悪すぎて怖い
あの喧嘩の仕方はよくあるやつですよね
一緒に行ってあげるよみたいな
お互いにやりたいことを一緒にやりたいのに
やりたくないことをやってあげるみたいな
心当たり悪い
一応僕も結婚してて
妻がいてっていう立場なので
そのあたりは距離を置いて見れちゃってるんですよね
ただ本作が最後二人が破局しかけてるタイミングで
むぎくんが恋愛感情がなくなっても
結婚したらなんかうまくいくから結婚しよう
みたいなことを言い出すシーンがあるわけなんですよ
ずっと二人が5年前仲睦間近った頃は
趣味の話を楽しくしていたファミレスで
27:02
別れ話をしようとしている時に
恋愛感情なんてなくなっても結婚生活うまくいくから
結婚しようって言い出すと
あれは多分めっちゃある男側の話なんですけど
客観的に聞くと
お前殺されてるのか?みたいに聞こえてしまって
だからなんだろうな
いやいや木口ちゃんはもう結婚するならするで
一回リセットボタンを押して
ちゃんとプラスの状態から感情を始めろと
多分そのプラスの感情は消えていくけど
ちゃんと傷つきながら消えていけと
一人だけ傷つかないようにゼロの状態から始めて
ゼロで結婚しようみたいなの言うのは卑怯じゃん
って思ったんですよねあれ聞いて
卑怯でしょそれだって傷つけよ
ときめきが失われる痛みをちゃんと味わいながら
生きろよ
ときめきないけど惰性で一緒にいようぜって
ズリーと思って
やっぱり象徴だと思うんですよね
世の中のカップルっていうものがそういう風に結婚して
惰性で結婚して何かうまくいくってことあるよねってことを
あのセリフに端的に表してると思うんですよ
あそこまで極端なこと言わないにしてもね
ただ結局2人は別れちゃうわけですよね
そのファミレス別れ話してるファミレスの隣の席
かつて自分たちが趣味の話を楽しくしていた席に
かつての自分たちと同じように
初めて出会ったぐらいの男女が来て
お互いの読んでる本を見せ合ってっていう
かつて自分が失ったものを見せつけられて
もう取り戻せないというより
何を失くしたかっていうのを思い出したんですよねあそこで
自分たちは今持ってないのではなくて
失くしたのだということを築いてしまうと
そうなったらもう一緒にいれないよねっていうの
あそこほんと秀逸なシーンですよね
聞いててわかります?僕が何言いたいかって
多分ね自分でも言いたいこと
ゴールが決まらないまま喋ってる方
思いついたことを連ねて言ってるんで
結論がまだ見えてないんですよこの話に
あの2人が別れた理由って僕多分
初めに噛み合いすぎたからだと思うんですよ
結局ほぼまるで性別が違うだけの
もう一人の自分かのような存在にあって
趣味の違いを埋め合ってみたいな
手間を取る必要がなかったせいで
喪失感が巨大すぎたのかなっていう風に見えたんですよね
ここで完全に合わない相手
趣味も結構違うけど相手に惹かれると
そこで趣味の違いを埋めたりであるとか
性格の違いを埋めて一緒にいたいってなると
それでも喧嘩して倦怠期も経て
それでも一緒にいようってなったら
楽さが少ないから結婚してたと思うし
そういう人がきっと多いんだと思うんですよね
2人はあまりに噛み合いすぎていたから
30:00
噛み合わないってなった時に
もう失われたものの巨大さに耐えられなかったんだろうな
っていう風には見えたんですよ
ここでようやく後半で恋愛の話に見えてきたんですよね
前半がもう一人の自分に会って嬉しいっていう話に見えたと思うのが
同棲し始めてから互いの違いが目立ち始めて
あそこでようやく恋愛になったんじゃないかな
っていう風な見え方はしたんですよ
なんか互いに違うわと
ただようやく互いの違いを認識し始めるタイミングに
仕事っていう互いの根本的な噛み合わない部分
カルチャーっていうものに
しなやかに触れていけるきぬちゃんと
カルチャーっていうものにガップリ噛み合うか
そうでなければカルチャーの中で生きていけないむぎくんっていうものっていう違いを
本来なら恋愛が始まるような
互いの違いを埋めていくタイミングで仕事っていう
最も二人の違いを端的に強烈に噴出させてしまう
事象に出会ってしまって
ギャップに耐えられなかったのが
この二人の破局の原因なのかなっていう風には僕は見てました
だからそこの前半から後半への
転換みたいな部分でやっぱりこれは恋愛映画だなって思ったんですよね
ちょっとそこがすごい極端な話であるんですよ
もっと現実の恋愛って曖昧なものというか
お互いが似てる部分とお互いが違う部分
お互いの共有できない部分
お互いの受け入れられる部分とかって
もっとまだら色に存在していると思うんですけど
この映画においてはカルチャーと仕事っていう
分かりやすい互いの噛み合わない部分と噛み合う部分っていうものを
前半と後半に配置して
一緒に入れたものが一緒に入れられなくなったよねっていう
という風な見方をしてました
表現が極端だからこそ現実はそうじゃないって思う部分も
もちろんある映画ですけど
だからこそ自分だったらどうなんだろうみたいなのを
すごい考えたくなる映画でもありましたよね
今一人当たりしてるんでいまいち整理できないまま喋ってるんですけど
多分これ人と話したらめちゃめちゃ盛り上がりますよね
本当に
互いのエピソードトーク交えながらだったら
それぞれのカルチャー的なエピソードを交えながらね
あとすっげードデモイ話なんですけど
大学入って大学生の恋人同士が
部屋から出ないで何日もセックスし続ける
みたいなのってあれって現実にあるんですかね
ちょっと僕そういう
エピソードを持ってる人間が周りにいたことがないから
ファンタジーだと思ってるんですけど本当にあるのかな
飽きない?飽きそう
映画の話とかしたくなりそうだなと思って
そうそうそう
そんなに自分が若くないんだなって思うところが
二人が出会って互いの話をしていくわけですよね
じゃんけんでパーかグーに勝つわけがないみたいな
しょうもない話でお互いの根っこの感性みたいなのを
共有し合っていくわけなんですけど
今の自分だったらそんなことしてないよなと思って
33:00
互いに対する理解を深めていこうというよりも
とにかく映画の話がしてみたいなのが先走るなと思って
だって自分が投げる球を全部打ち返せる人間
隣にいたら映画の話24時間するでしょ
それはちょっと惹かれるから
お互いのこと知りたいより
映画の球投げ続けて映画の球相手に
打ち返させ続けるでしょそれは
相手もそれがやってくれるって分かってるから
それするでしょそこはやっぱり
年取って時間とか趣味合う人とかに
より触れにくくなってるからこそ
自分の球を打ち返せる存在っていうのは貴重なわけですよ
もうその人のパーソナリティより
打ち返せるアビリティの方に
注目したいっていう感じになるんですよね
だからもう俺の投げる球打ち返してくれっていうので
映画の話をし続けるみたいなのになるんだろうなと
お前がじゃんけんでパーがグーに勝つわけがないみたいな
そんな話はいいと今年見た最近見た映画の話をしろと
その映画の感想を俺も返すから
お前も投げろってなると思うんですよね
これは多分多いっすよもっとお互いに関する
自分と近い人間と振り合いたいっていう
思いがもっとあると思うんですよね
大学生とかだと今の自分はもう
映画の話ができたらそれでいいやみたいなのが
あるだろうなっていう変な見方をしてましたね
あとね、須田まさきさんちょうどいい感じでしたね
この無意義君を演じるのに
ういういしい大学生を演じても疲れ切った社会人を演じても
どっちも成立するぐらいの年齢ぐらいで
どっちも成立するぐらいの元々の様子を持ってて
大学生のノリから疲れた会社人間になったっていう
意向が割とすんなり飲み込める見え方をするっていうのが
すごい良かったなと思って
あんまりそこ両立するってないんじゃないかなって思ったんですよね
結構類まれというか
一方でやっぱり有村一美さんは華やかっすよね
やっぱり基本的に
本作の役でも大学出て社会に出てから
社会に出て勝つって言い方もね
この話の中で描かれてた
会社人間になればいいみたいな価値観にのっとってる言い方だから
ちょっとね、言葉あんまり使いたくない言葉なんですよね
社会に出るとか社会人っていう言葉
あんまりに関連的に使われてるから
使わざるを得ないんですけど
社会人になってからも割とライトに生きていけるので
キネちゃんは
そのキャラと有村一美さんの大学生の時と
社会に出てからの時とで
雰囲気がそこまで変わらない華やかな感じっていうものも
そっちも合ってたなと思って
枯れていく須田まさきと
みずみずしいままの有村一美みたいな対比
良かったなと
有村一美さんがね
2人が付き合い始めて
初めて海に行くシーン
多分絵の星とかそっちなんでしょうね
生島の食べたから
36:00
時に噛みあげるんですよね
これは僕の持論なんですけど
有村一美は噛みあげた時が本気だと思ってるんですよ
有村一美さんってね
顔の輪郭ちょっと丸いじゃないですか
だから普段両サイドを
髪で隠すような髪型してること多いですよね
本的には多分あれが
基本の有村一美だと思うんですよ
もう有村一美にとっての
鎧を着てる状態だと思うんですよね
ただですね
両サイドを隠した状態の有村一美さんって
本当すげー華やかな美人って感じだと思うんですけど
髪をあげて
両サイドの輪郭見えた状態になると
身近な美人になる感じがするんですよ
逆にそこがいいんですよね
基本的に大学で
前半で一人でいた時とか
ずっと両サイド隠してるんですけど
美希くんと付き合い始めて
海に行った時に
髪をあげてるんですよ
後ろで縛って
丸めの顔の輪郭が出て
ようやくそこで打ち解けたって感じがするんですよね
やっぱそういうのがすごいいいんですよね
いいんですよ
打ち解けたなっていう
鎧が外れたなっていう
有村一美という人間を守っていた鎧が外れたなっていう
逆に鎧が外れたというか
むしろ攻撃力が上がってるわけですよ
鎧ではなくて拘束具だったわけですよね
有村一美という人間のポテンシャルを
すべて出すための拘束具なわけですよ
両サイドの髪は
髪をあげて心が打ち解けたっていうのが
表現されることで
120%のパワーが出てるわけですよね
それと近いものはね
キヌちゃんの就活シーンで
圧迫面接受けて駅で泣いてるシーンの時に
美希くんがスリッパとハーフパンツで迎えに来るシーンで
砂まさきのすね毛が出てる
当たり前ですよね
すね毛生えてますよね
ずっとその長いズボン生えてたんで
すね毛出てないわけですけど
そのシーンでいきなり
ラフな感じというか
すね毛が出た砂まさきが出てくるわけですよ
そこで一気に身近になるというか
隙が見えたみたいなのが良かったんですよ
有村一美の顔の両サイドの髪と
砂まさきのすね毛は打ち解けたことの象徴
乱暴な言い訳だな
ちょっとその暴力的な強引な表現でしたけど
打ち解けたみたいなのが
その瞬間に見えたりして
良かったなとか思ったりね
この映画は
ちょっと自分はカルチャーの側で生きてる人間だって意識がある人と
是非色々喋ってみたいなっていう映画ですよね
取り留めない話したな
全然自分でもゴール見えないまま喋り始めたからな
この後続けてもう一本撮るつもりなんですけど
そっちもゴール見えないまま喋ると思います
そっちはね
シン・エヴァンゲリオン劇場版ですよ
に関して喋りますよ
そこまで詳しくないんですよね
好きなんですけどね
好きなんですけど
そこまで詳しくないから
わりと分かってないことを喋っちゃうかもしれないですね
てな感じで花束みたいな恋をしたでした
39:03
わかりました?
はい、あとお知らせになります
これまでも何回かやらせてもらってた
大阪の南森町にある
光店長がお店をやるっていうカフェバー
週間曲がりで
映画の話したすぎバーを開いて
店長がやらせてもらいます
今回がですね
日付が3月27日土曜日です
緊急事態宣言も明けたので
これまでちょっと2月は開催しなかったりとか
1月は昼間からのカフェ営業にしたりとかで
ちょっとその夜の営業避けてたんですけど
緊急事態宣言も明けたということで
週間曲がりの本来の営業時間
19時オープンの23時クローズで
やらせてもらおうと思ってます
メインテーマは映画の冬を明ける
春到来の映画トーク三昧と
ちょっと映画見にくい状態しばらく続いたのが
また見やすくなってきて
ちょっと盛り上がってきてると思うので
季節の冬と映画の冬がどっちも明けて
春が来たねっていう風な感じで
映画の話できたらなと思ってます
本当にハナタみたいな恋をしたもそうだし
シン・エヴァンゲリオンもそうですけど
本当に語りがいのある映画が続いてあるんで
ぜひ来ていただけたらなと思ってます
ちょっと新作映画見れてなかったけど
ハナタみたいな恋をしたと
シン・エヴァンゲリオン2本の玉あれば
ガッツリ話できるでしょ
それぞれ多分人と話しながらだったら
何時間でもいけると思うので
ちょっと今回僕新作見た玉少ないんですけど
その分頑張ってお話できたらなと思いますので
ぜひ来てください
以上です
それではよしの映画サカバ第14回
ハナタみたいな恋をしたの回を終わりたいと思います
それではまたお会いしましょう
さよなら
42:45

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