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2021-07-08 12:38

今日の10分de1テーマ「諸子百家に見る何が正常で何が異常か」について(前編)

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本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。第5回目は「諸子百家に見る何が正常で何が異常か」について話してみました。 #孔子 #荀子 #韓非子 #諸子百家 #中国古典

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はい、皆さんこんにちは。エイドリアン太郎です。10分1テーマのお時間になりました。
この番組は、私エイドリアン太郎が興味のあるテーマについて1日10分話すという内容になります。
本日のテーマはこちら!
諸子百家に見る何が正常で何が異常かについて
諸子百家に見る何が正常で何が異常かについて
はい、ということで始まりました。
本日は、僕は最近結構諸子百家の本を読むのにハマっていて、それを読んでいろいろ思ったことがあったので、その話をしたいと思います。
頭整理するために話すんですけど、うまく10分で収まるかなと思いつつ、とりあえず話したいなと思います。
諸子百家って春秋戦国時代にいっぱい出てきた思想家たち、中国の思想家たちのことですけど、
いろいろね、儒家とか道家とかいて、最後は法家っていう法律を重視するっていう一派が大勝利というか、
始皇帝の秦に取り入れられて、その辺ぐらいでね、諸子百家っていう状態は、戦国時代でみんな思想家を取り合っているという状態で出てきたもので、
それが法家が秦に取り入れられて、諸子百家の時代は終わるんですけど、
孔子っていうのは、神を大事にするというか、神の心ね、神って倫理みたいなもんだと思うんですけど、
神の心を一人一人が持ってば、人の関係とか親子関係とかも良くなるし、国も良く治まるよみたいな考え方の人で、
神を持っている人が自然と行動するときに出るのが礼だっていうんですよね。
だからちょっと僕らの今言う礼儀正しいとかの礼とはちょっと違うんですけど、
例えば面白いエピソードとして、
孔子がお食事かなんかに呼ばれたときに目が見えない人がいて、
目が見えない人が入ってきたときに、
こちら椅子ですよ、こちら座れますよ、こちらお料理ですよみたいな感じで案内をするんですよね。
それを見てた弟子が、それが孟者に対する礼ですかって聞いたら、
そうです、これが孟者に対する礼ですって言ったっていう謎のちょっとしたエピソードがあるんですけど、
それとかね、つまり礼儀正しいとかじゃなくて、
神を持っていると自然と行動が、神の伴った行動というのが出ると、それが礼なんだと。
それは例えば目が見えない人に対して、そういうふうにちゃんと案内するということが礼なんだってことなんですよね。
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そこからですね、孟子はそういうことを言ってね、みんな神の心を持とうよとか言ったんですけど、
全然政治家とかには取り入れられずに、時代がどんどん下っていくわけですけど、
今度は巡視って人が現れますと。巡視って人はもうちょっと現実主義的になってて、
全員神者というかね、神を持っている人のことを君子って言うんですけど、
全員君子になるのは難しいだろう、さすがにと。
そもそも人間の本性というのは悪で、ほっとくとすごいノフォーズというかね、とんでもない悪いことをしたりとかしちゃうと。
だからちゃんと学習しないといけないんだと。
その学習するっていうのは何を学習するかというと、社会の決まり事とか道徳っていうこととかを学んでいかなきゃいけないんだと言ってるんですけど、
その道徳とかその決まり事みたいなことを礼って言ってるんですよね。
この礼ってちょっと孔子の言ってる礼とまた違いますしね、あと僕らの言う礼儀正しいの礼とも違いますよね。
巡視の言う礼っていうのは何というか、心の中の規範意識みたいなものと、
あと外にあるルールっていうのの両方の意味があるというか、中間的なものなんですよね。
さらにですね、巡視の弟子の完備師っていうのがいるんですけど、
完備師っていう人は巡視まではね、孔子の流れを汲んでいる儒家って言われる儒教を推進している人たちなんですけど、
完備師はそこからですね、ちょっと脱皮して法家っていうこの法律一番やっていう考え方を押し進めた人なんですけど、
その人になるともう心の問題っていうのはほとんど取り上げられなくなって、
もう法であると、ルールが一番大事なんだっていうので、
そのルールっていうのを徹底することで王の力を絶大にして、それで国を治めようっていう人だったんですよね。
それがすごい真の始皇帝に気に入られて取り入れられて、最終的に完備師大勝利というか法家大勝利ってなるんですけど、
完備師自身は脅し入れられて殺されちゃうんですが、
ちょっとこの考え方はホップスのリヴァイアさんっていう本もありますけど、
あれの考え方に近いですよね。国家権力がめちゃくちゃ強くなれば国は良く治まるんだと。
リヴァイアさんってファイナルファンタジーかって感じはするんですけど、旧約聖書に出てくる竜の化け物かならしいんですよね。
それぐらいの竜の化け物ぐらいの力を国が持てば世界がうまく治まるんだと。
もっともっと国を強くなるみたいな感じの考え方なんですよね。
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完備師はそれに近いなと思います。
この3人見てると理想主義的なところから現実主義的なところにどんどん下っていってるわけですよね。
遵守は中間的な感じがするわけですけど、
面白いなと思ったのはそれに合わせて統治についての考え方っていうのが変わっていってるわけですよね。
統治って言うと国の統治とはちょっと遠い感じがするんですけど、
もうちょい近いことを言うとマネジメントみたいなことだと思うんですが、
それについての考え方が変わっていってると。
それが孔子の場合だと、みんな君子になろうなんですよね。
孔子は良いことを言っててね。
君子っていうのはどういうものですか。
君子にはどうやったらなれるんですかって言われて、
なりたいと思ったらなれるって言ってるんですよね。
なりたいと思った瞬間、もう君は仁者だよみたいな感じで。
そんなこと言ったら俺もなろうかなみたいな気持ちになるわけですけど。
そうやってみんな君子になろう。
そして人間関係、親子関係も全部うまく治まれば、
国を治めてる人も仁者であれば、みんな丸く治まるよと。
一方、遵守の方は賢者よ、賢い人よ、のし上がれっていう考え方なんですよね。
遵守は霊っていうもので世界を統治するのが良いんだって考えてるわけですけど、
霊っていうのをちゃんと身につけた人っていうのが、
身につけてない人を共闘してどんどんどんどん上に上がっていくべきなんだって考え方なんですよね。
だから遵守は身分差別もOKだって言ってるんですよ。
霊のあるなしによって身分っていうのは固定されていくものなので、
その差別っていうのは当然あるべきだと。
逆に全員平等だったら大混乱になっちゃうって言ってるんですよね。
これも分かりますよね。
別に身分差別っていう文脈で分かるというよりは、
会社の人が全員横並びだったら会社もすごい大混乱なわけで、
ちゃんと会社ではヒエラルキーがあるわけじゃないですか。
だからそうやって賢者がのし上がっていって、
その結果身分差別っていうのができてくる。
それはもうそういうもんだからいいんだっていう考え方ですよね。
じゃあ次にカンピシがどう言ってるかっていうと、
一言言うとバカをのさばらせるなって言ってるんですよね。
これも面白いですよね。
もう賢い人が上がるとかね、全員君子になるとかすごくじゃなくて、
とにかくバカをのさばらせるなって言っていて、
この流れが面白いわけですけど、
まず理想主義的なところから現実主義的なところにどんどん流れていくっていうので、
まずシステムとしては強化されていってますよね。
みんなでいい人になろうからね、礼だよってから、
もう法律だけみたいな感じになっていってるわけで、
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それに合わせて人への期待感が小さくなっていってるんですよね。
みんなで君子になろう、君子になろうと思ったらなれるよ、
賢い奴はどんどんのし上がれってことね。
とにかくバカ、もう賢いとかいいから、
もうバカは下がってろっていう、
この3者の流れが面白いわけですけど、
結果的にはクショシヒャッカンの時代ではね、
カンピシの考え方が大勝利すると、
真に認められて大勝利するわけですけど、
ただその始皇帝が死んで、
神はもう速攻で崩壊するんですよね。
で、結局大勝利したかと思ったら、
全然継続できなくてすぐに終わっちゃったと。
で、これは何でかなっていうんですけど、
2つ多分落とし穴があって、
1つは法のもとの平等という考え方じゃなかったんですよね。
王様が徹底的な権力でみんなを支配するための法だったんで、
逆に言うと王様だけは違い封建なんですよね。
ここは法のもとの平等みたいな、
全員平等だよっていうちょっと西洋的な、
フランス革命とかああいうような時の
法のもとの平等の考え方と違うところなんですけど、
王様だけが絶大な権力を握っているということは、
王様次第で国はぶっ壊れちゃうわけですよね。
実際神はそれでぶっ壊れちゃったわけですけど、
始皇帝が死んだ瞬間に崩壊しちゃったわけですが、
もうあと1つは、
法律って人を罰則とかで縛ったわけですけど、
心を縛ってなかったんだろうなと思うわけですよね。
それは何かっていうと、
人はなんで悪いことをしないのかって言ったら、
2つの側面があると思ってて、
1つは法律があるからで、
もう1つは道徳があるからなんですよね。
法律はね、
例えば僕が腹立つと思って、
いきなり殴りかかったりしないのは、
まず1つは法律があるからですよね。
殴ったら罰金、
何百万以下の罰金と、
長役何年以下の長役みたいなのがあるから、
やんないっていう側面もあるわけですけど、
さすがに殴るの悪いなとか、
そんなことしちゃちょっと良くないなっていうような、
道徳心の方がどっちかっていうとデカいですよね。
なんか悪いことするのをやめようと思うときって、
法律、長役あるからなとかね、
罰金何百万以下あるからなとかよりは、
むしろ道徳的にね、
ちょっと良くないことだからやめようみたいなことの方が、
大きいと思うんですよね。
だから、
カンピシの方は、
それが語りにしかなかったんじゃないかっていう風に思うわけですよね。
法律をすごい徹底してるんですけど、
じゃあなんでその法律守んなきゃいけないのっていう、
心の部分が置き去りになってたと。
逆に孔子とかね、
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はもうその心の方に全振りしてるわけですよね。
で、
巡視が中間的なわけですけど、
だからその、
なんかその両輪のうちの語りにしかなかったと。
で、その反省を生かして、
カンがね、
心の部分もやっぱ必要だと、
人を統一するには心の部分も必要だというので、
儒教を取り上げていくわけですけど、
この辺でもうそろそろ時間になったんで、
続きはまた明日お話しします。
ではでは、失礼します。
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