さてここからが本題です。 今回自分が登壇した大学コンソーシアム京都の第30回FDSDフォーラムは名前の通り、大学の先生や職員の方に向けたものですね。
その第3文学会で、学校教育における生成AI活用の現在と今後の課題というテーマで、コーディネーターは京都聖火大学の隅田哲郎先生がやってくださって、
お茶の水大学附属中学校の渡辺幸喜先生、漫画家の菅谷光先生、ゲームセンター嵐の作者の方ですね、と自分の3人でそれぞれの立場からの活用事例の報告とフロアからの質問に答えるというような内容の文化会でした。
今回のこのイベントは有料イベントなので、あまり内容について詳細に明かすのはあんまり良くないだろうなというふうに思うので、詳細はぼかすのですが、今回のイベントで議論となった活用の方向性としては、
生成AIを使いこなすことでできることを肯定的に考えつつ、AIで代替できないような感覚のようなものや喜びのようなものを大切に生きたいという、そういう目線合わせというか共通認識が持てたようなそんな感じですね。
この後、ざっくりとちょっとどんな内容だったのかなというのを思い出しながら話をしてみます。
まず今回のイベントで感じることとしては、やっぱり教育に関わる方々の生成AIに対する関心というのは非常に高い状況にありますね。
これはまあどこ行ってもよく話題になることでありますが、レポート課題のあり方には多くの先生方が頭を悩ませているところですね。
生成AIの便利な機能であるとか凄さというところは十分に理解している。
でも、じゃあそれを実際学生に使わせるとなると、本当にそれで教育としていいのかなというようなことだとか、結局ズルの道具として使ってしまうことになって、教育として意味をなさなくなるんじゃないかなみたいなことで、教育としてどうしたらいいかということに頭を悩ませているんですよね。
言葉を選ばないというのであれば、生成AIを使うことによってバカになるんじゃないかみたいな、そういう記号を持たれている方もやっぱり中にはいるんだなっていうのは話を聞いていて感じたところですね。
テレビゲームをやったら直接的にバカになるっていうことがないのと同じで、生成AIを使っているからといってバカになることはないんじゃないかなというふうに個人的には思います。
ただもちろん、生成AIをずっと使いっぱなしになっていて、自分で考える習慣というのが減ってしまうのであれば、頭の動きは鈍くなる可能性というのはもちろんあると思います。
ただこれもニワトリが先か卵が先かみたいなところがあって、頭を使わなくても欠けてしまうような、そういうようなお題のレポートを出されてしまったのであれば、生成AIでこなす方が合理的に見えちゃう場合もあるんですよね。
大学での勉強はもちろん合理性だけでは語れない、ある意味で基本的なスキルトレーニングだったりするところもあるので、
めんどくさくて無縁だったとしても、ちゃんと自分で手を動かして肌感としてつかまなければいけない勉強の仕方もあるのは間違いないかなというふうに思うんですが、
でもそういう意図の共有というのがうまくいかないで、学生の方が生成AIで課題を効率的にコスパよくタイパーよくこなすっていうような使い方をされてしまうと、これはまあ良くないんじゃないかなというふうに思うわけですね。
もちろんこの生成AIをレポートに使っていいかどうかというのは大学だけの問題ではなくて、当然だから高校中学校レベルでも降りてきている問題ではあるんですよね。
どのレベルであれば使っていいのか、どの課題であればむしろ積極的に使うべきなのかみたいなことを議論するレッスンプランって、実はコモンセンスエデュケーションのレッスンプランなどにもあったりするので、
決して日本の局所的な問題ではなくて、海外なんかでも今まさに子どもたちと議論しながら考えなければいけないというような、そういうフェーズにあるんだなというのはちょっと思うところですね。
またやっぱり意見として多く出ていることとして、ハルシネーションが気になる、要するに誤情報ですね、誤りの情報がたくさん含まれるのでリテラシーが重要になるんじゃないかというようなそういう意見は多かったですね。
ただこの点に関しては個人的に少し思うところもあって、もちろんハルシネーションをゼロにすることは多分生成AIの仕組み的に現状ちょっと難しいんだろうなと思うんですが、
例えばパープレキシティだとかフェローだとかジェンスパークだとか、そういう検索エージェント型の生成AIを使うのであれば、
それぞれの文の根拠となっている出典はここですよという情報がついている状態で出力されるので、
むしろネット上のよくわからない情報をコピペで貼ってくるというような状況よりもちゃんと検討するんじゃないかなというふうに思うようになってますし、
そういうような検索型の生成AIでなかったとしても、最近の生成AIはハルシネーションの割合というのは結構減ってきましたよね。
例えばChatGPTの3.5のイメージでハルシネーションが多いというふうに言っているのであれば、今4.5ですからね。
4.5のハルシネーションの出方を見ると、やっぱり3.5のその時よりは全然割合としては減っているなという感触はありますよね。
生成AIの性能であるとか使い勝手だとかどの場面で使うのかということに関しては、
やっぱり事業者である教員、我々の方が一旦試してみるっていうのは非常に重要なんだろうなという気がしています。
また菅谷光先生の話で、実際に先生が炎上騒ぎに巻き込まれたということから、
なぜ生成AIが嫌われるのかということをお話しされていたんですけれども、
そこの要点としては、
推測や技能を簡単に再現されてしまうことに対して、
なんかやっぱり違和感を持つ人が多いんだろうなみたいなことが話題になっていましたね。
で、こういうようなAIに対する嫌悪感だとか違和感みたいなことをテクノロジー好きな人っていうのは、
感情的な話だなというふうにちょっと軽く見がちな傾向があるかなっていうのは個人的に思うところなんですけれども、
ただそういうものを軽く見ているのは簡単なんですけれども、
やっぱり自分のような文系人間からすると、
その違和感は多分放置しないでちゃんと議論した方がいいんじゃないかなという気はします。
というのも、その違和感をちゃんと論じて、
何が嫌なのか、何が気持ち悪いのかということを議論することで、
多分今後どのように学んでいくのかみたいなそういう学び方の過程みたいなところを議論するところの
土台とかにもなってくるんじゃないかなというふうに思うんですね。
さっきもちょっと紹介した顧問専修エディケーションのレッスンプランの中にも、
AI チャットボットが人間の代わりになるかみたいなそういう趣旨のものっていくつかあるんですよ。
なので、違和感や疑問点だとか、感情的に何か思うところがあるものに関しては、
ちゃんと対話のテーブルに一旦全部並べることが必要な時期なんじゃないかなというふうに個人的には思っています。