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おはよう、こんにちは、こんばんは。漫画について喋るラジオを略して、マンラジオのうっちーです。
この番組では、通勤時間片道2時間を漫画とポッドキャスに捧げる30代男性である私、うっちーが、大好きな漫画について自分なりの解釈を入れたり、感想やあらすじなどを先隔てに話して、毎週土曜日に配信していくという番組です。どうぞよろしくお願いしまーす。
今回の配信、12月11日ソロポッドキャストの日の配信でございます。
毎月11日は、主に1人で配信をしているソロポッドキャスターのための日でありまして、この日に数々のソロポッドキャスターが特別の配信をしたりします。
僕は、マンラジオにおきまして、前回と前々回のソロポッドキャストの日に、部署ラジというおまけコーナーで、戦国部署について話すということをさせていただきました。
第1回では、豊臣英永の話をさせていただきまして、前回の第2回では、中国の部署、岳飛で話をさせていただきました。
正直、岳飛の話、聞いていただける人少ないと思っていたんですけども、部署ラジ第1回の豊臣英永よりも再生数多いです。
むしろ、通常配信の漫画の話をしている時と比べても悪くない数字で、むしろ岳飛に負けている漫画のエピソードの話、結構あったりします。
部署ラジを聞いていただいている皆様、本当にありがとうございます。また、部署ラジの企画をそもそもいただいたりとか、また前回の中国の戦国部署での話というテーマをいただきました田山さん、本当にありがとうございました。
スポーティファイの方でもコメントいただきまして、誠にありがとうございました。しかもと言いますか、今回なんですけども、過去の部署ラジ2本を聞いた上で、リスナーの方からテーマをいただきました。誠にありがとうございます。
今回テーマをいただきましたのは、レミ様、レミ様本当にありがとうございます。いただきましたメッセージを読ませていただきますと、
うっちーさん、楽しく番組を聞かせていただいています。豊臣英永の話をされているのをきっかけに番組を聞くようになりました。
私は戦国時代が好きで、特に戦国時代が舞台の作品は映画やドラマ、漫画やゲームなどをたしなんでいます。
最近読んでいる対蘭という関ヶ原の戦いを舞台にしている漫画で、加藤清政がキーパーソンに描かれていることに驚きました。
関ヶ原の戦いで加藤清政がキーパーソンとは考えたことがなかったので、面白いと思っています。
ポッドキャスト番組で加藤清政について話している番組も多いんですけども、ぜひともうっちーさんなりの加藤清政の話を聞いてみたいなと思います。よろしくお願いいたします。
というメッセージをいただきました。まさかブショラジきっかけでリスナーさん増えると思ってなかったのでめちゃくちゃ嬉しいです。
テーマいただきましたレミィ様、ブショラジのきっかけいただきましたタイムさん、本当にありがとうございます。
では今回話をするタイトルに入らせていただきまして、内容に入らせていただきます。今回のタイトルはこちら。
加藤清政の紹介と影響力
本当に得がいい奴が最も恐れた男、加藤清政が持つ影響力とは。
今回加藤清政という武将で話をさせていただきます。日本の戦国時代が好きな方にとっては有名な方なんじゃないかなと思います。
今回レミィ様からは対乱という漫画も絡めてテーマをいただいているんですけども、この対乱という作品。
今回の配信の2024年12月11日現在では単行本では4巻までの連載中でして、関ヶ原戦いが舞台の漫画でございます。
今現在4巻までの段階ではまだ関ヶ原の戦いの前哨戦というところです。東軍と西軍がなぜ形成されていったかという流れを描いているんですけど、本当に面白いです。
この対乱は戦国という戦国秀久という戦国武将を描いた漫画を描かれておりました宮下秀樹先生の作品なんですけども、
宮下先生の作品の中で少し先生の考えとかが強く出過ぎることもあるんですけども、様々な資料をもとに描かれている作品でして、
本当にストーリーにやっぱり筋が通っているんですよね。対乱という作品におきましても関ヶ原の戦いの成り立ちであるとか、
菊川博弥や暗黒寺英系たちの動きにも踏み落ちるなという点もありましてめちゃくちゃ面白いです。
戦国時代が好きな方には是非とも読んでいただきたい作品の一つが対乱でございます。
この対乱におきまして加藤清政がかなりキーパーソンに描かれておりますので、そこに触れようかなと思います。
加藤清政なんですけども、戦国時代が好きなネット民ではおなじみの徳川家康が最も恐れた男の一人に名前を挙げられることもよくあります。
最も恐れたというのになぜか一人ではなくて何十人もいるというネタなんですけども、でも確かに徳川家康は加藤清政のことを厄介な人物と感じていたんだろうなという面もあったりします。
そんな家康を悩ませた男の一人加藤清政について今回話をさせていただきます。
まず加藤清政、生まれは諸説ありますけども、西暦1559年頃に終わりの国で刀鍛冶の加藤清忠の子供として生まれたと言われています。
また清政が幼少の頃に父親が亡くなったと言われていまして、父親が亡くなって生活に困ることになるんですけども、その時に加藤清政の母親と橋場秀吉の母親が親戚同士だったということもありまして、そのつてをたどりまして秀吉に仕えることになります。
この番組なんですけどもことごとく武将の家に生まれてない戦国武将ばかり話しておりますけども、豊臣秀長、岳飛、そして今回の加藤清政となっておりますけども、
本来は武将の家で生まれた子供の方が武将として諸説しやすいです。ただとはいえ加藤清政も武将の家の子供ではありませんでした。
ちなみにこの時子供の頃から秀吉に仕えることになるんですけども、秀吉は武将の生まれではないということもありまして、親の代からの家臣とか、昔から自分に仕えてくれる家臣が少ないという弱点が秀吉にはありました。
その弱点を解消するための一環として親戚援助から子供を預かって、その子供たちに戦い方とか政治のこと外交のことなど様々な英才教育を施していました。
この英才教育を受けていた中には加藤清政が入ってきますし、それ以外にも福島正則であるとか黒田永政、石田道成もいたと言われております。
また加藤清政はこの英才教育を受けていた子供たちの中でも兄貴分だったということでかなりの影響力があったんじゃないかなと言われております。
そんな英才教育を受ける中で秀吉は加藤清政に対して戦闘面よりも政治や外交などの文官とか行政官と呼ばれる方面での才能があるなぁと考えておりました。
なので加藤清政としてはそういった行政官としての英才教育も秀吉から受けておりました。
ただその後秀吉と柴田勝家の間で起きた尾崎の派閥争い、静か岳の戦いが起きます。
この時に加藤清政は戦闘力でも大きな貢献をいたしまして、柴田軍の武将を打ち取るなどの活躍を見せます。
そういったこともありまして静か岳の七本槍という秀吉がこの静か岳の戦いで特に活躍したよと表した7人のうちの1人に加藤清政は入り、
武力面でも天下に名を届かしました。ただこの静か岳の七本槍なんですけども本当は9人いたとかでも頃がいいから7人になったのも言われますけども
とにかく加藤清政の名が全国に広まりました。そして秀吉はもともと加藤清政に対しては行政官としての才能を身に出していたということもありまして
様々な大名との交渉役であるとか実際に領事経営に携わせられることが増えてきまして
そういったのをクリアしていきまして秀吉からの信頼を貸し取っていくことになります。 そして加藤清政はその後九州の彦、今でいう熊本あたりの一部に領地を任されることになります。
ただこの彦という土地なんですけども農民からの一揆が多くそのせいで加藤清政の前にその地を任されていた
佐々成政という武将は切腹させられることになります。 そんな不安定な土地に入った清政なんですけども
清政が入ってからは一揆とかを起こされることはなくしっかりとした統治を行います。 また加藤清政は彦の北の方が領地だったんですけども
南の方は小西幸永という武将の土地でしてこの南の方では一揆が起きてしまうんですけども
その分も加藤清政が一揆を沈めるということもしまして 行政官としての見事な手腕を発揮することになります。
関ヶ原の戦いとその後の影響
その後秀吉が天下を取りまして日本を治めた後 大陸で領土を広げていくために文禄慶長の役が行われます。
よく言う朝鮮出兵ですね。この際にも加藤清政はかなりの戦功を挙げます。 文禄の役では朝鮮の王女を捕まえるなどかなりの戦功を挙げていたと言われます。
ただその後民の国からの軍の派遣もありまして戦いは硬着していくことになります。
その後秀吉軍と朝鮮民の国の間で停戦が結ばれることになるんですけども この停戦の際なんですけども
朝鮮の王女を捕まえるなど戦功を挙げていた加藤清政は いやいや戦争継続しましょうよと主張しておりました。
が小西幸永であれとか石田三成などはこれ以上の戦争継続は困難だよという意見もありまして
強制的に停戦になったと言われております。 実際加藤清政の軍は戦功を挙げていたと言いましても他の部隊は思っていたほどの戦功を
挙げられていなかったということもありまして 戦争継続が難しいと考えられました。他の部隊が戦功を挙げられていなかったので加藤清政の戦功
これも嘘なんじゃないかと疑われていたことでした。 とはいえ加藤清政からすると海を渡るという無理をした出兵
しかも自軍は戦功を挙げる程度に強制的に停戦となった。 それによってろくな褒美ももらえないという状況になったことでこの時の停戦をかなり恨んでいたとも言われます。
この時の停戦なんですけども小西幸永が絡んでいることもありまして様々な憶測がされていたと言われます。
小西幸永は自分の領土で起きた一揆を加藤清政に抑えてもらったという経緯があります。
一般的にはこれで加藤清政に感謝をしてもいいんですけども、 ただこのことによって小西幸永としては自分のメンツを潰されたと考えていたのではないかと言われています。
実際小西幸永は加藤清政に一揆を収められたことで加藤清政の方が政治上手いじゃんと思われてしまったことや自分の失敗を他人に尻拭いしてもらったという印象がついてしまい
他の大名や領民から軽く見られることが増えてしまったということもあったと言われます。
その小西幸永が停戦控除に関わっていたことから加藤清政の活躍を心よく思っていなかったのではないかという憶測も生んでおりました。
ただ実際には秀吉が朝鮮や民の国へ出兵して欲しかったもの、例えば重要な港での貿易権利とか様々な外交面の確約を得る
これはやっぱり難しい状況だったということもありまして、そもそも上手く選考を挙げられていない部隊も多かったということもあって、様々な政治判断で停戦はやむを得なかったと言われるんですけども
加藤清政としては自分は上手くなっているのになぜ何も得られないのかと不満に思っていたと言われます。
その後2度目の朝鮮出兵こと京中の駅でも加藤清政は活躍を見せます。
圧倒的な敵の軍勢から少ない編数で自分の領土を守りきったというのはあります。
ただその際には食糧不足を招くことでかなり苦しい戦いを強いられていたと言われます。
この時の食糧不足の経験から後に加藤清政が築き上げる天下の名城熊本城では壁り官票が仕組まれている、畳なども食べられる工夫をされるといったことがありまして
加藤清政としてはこの時の経験が相当辛かったんだなぁということが伺えます。
ただそんな京中の駅も秀吉がなくなるということから終戦を余儀なくされます。
加藤清政としては兵労不足とかもありまして自分の兵をかなり失いました。
食糧や戦費という戦争にかかったお金を大量に失うことになるんですけどもその上で特に得られるものがなかったです。
このことで加藤清政はその後の領土経営においても頭が抱えるほどの損害を招くことになってしまいました。
加藤清政の死後にはこの時朝鮮出兵において抱えた不才などが原因の一つとなって加藤家は戒役をさせられたと言われております。
加藤清政をはじめ多くの戦国武将になって苦い経験となった文禄慶長の駅、特に領土が増えたわけではなく恩賞がもらえた武将はほんの一握りでした。
でも多くの損害を被ったということで多くの武将が不満を持つことになりましてそこから関ヶ原戦いつながっていくことになります。
不満を持っていた武将たちが誰か政権中枢の人間に責任を取らせようという流れになります。
政権中枢の変遷と反乱
その結果政権中枢にいたうちの一人石田水成が失脚することになります。俗に言う石田水成襲撃事件というものが起きます。
不満を持っていた戦国武将7名が石田水成の自宅を襲撃したというものです。
この事件が起きた経緯がいろいろと言われているんですけども一つの説としましてはこの当時政権というものは後大郎という大名を5人
特に大大名の5名ですね徳川家康、前田利家、毛利照本、浮田秀家、植杉拡厚と
五武行という政権における様々な実務になっていた5名 石田水成、浅野永政、増田永森、永塚正家、前田玄一の5名
この合計10名で話し合って決めるという合議制のものでした。この10名の中にいる石田水成は
実質的に文禄慶長の役において九州の地で出兵している兵たちに人手や食料を送る様々な手筈を整えておりました。
ただ朝鮮出兵で不満を持った部長たちからしますとこの石田水成の手筈が誤っていたから朝鮮出兵は失敗したんだ
必要な食料や物資が送られてこなかったのは石田水成のせいだと考えるものも多かったです
特に石田水成を休団していた主な人物石田水成襲撃陣に携わった
戦国武将7名の中には加藤清政が筆頭としていたと言われます。この加藤清政としては石田水成が文禄の役において
定戦に持ち込まなければよかったんだという考えを持っていたこともありまして厳しく休団をしました
加藤清政としてはうまくいっていた文禄の役で定戦に持ち込まれたと、しかも石田水成が定戦に持ち込みたかったからこそ
実際の戦況よりも悪く戦況を報告していたという噂もあったことから現地で戦っていた加藤清政たちの怒りを買っていたとも言われます
ただ加藤清政をはじめ戦国武将7名としましては石田水成を出脚させようと
石田水成や石田水成の後には小西幸永も出脚させようと
そうやって2人の領土を没収して恩賞として朝鮮出兵に参加した面々で配分するべきだという考えが強く
石田水成の襲撃が起きたと言われております ちなみにこの時に石田水成を襲撃した7名の武将
これ資料によって武将の名前変わったりするんですけども 有名なところですと加藤清政、福島正則、黒田仲政
池田照政、浅野幸永、加藤義明、細川忠憲の7名と言われております
この7人の中でリーダー格だったのが加藤清政と言われております この7人の襲撃によって石田水成は武将たちから人気がないこととか
正しい政治できなかったんじゃないかということで責任を取る形で失脚をすることになります ただ失脚といっても
しばらく自分の領土でおとなしくしてろよ、天下の政治には関わるなよという いわゆる陰境を命じられた形でして領土を没収とまではいかなかったです
関ヶ原の戦いと加藤清政の決断
また小西幸永に対しても責任を取ることができなかった 実際小西幸永に関しては石田水成と違って朝鮮の現地に行っていたと
こともありまして責任を取ることができなかったと言われております こういったこともありまして加藤清政たちにとってはやや負に落ちない形で
決着をしました ただ石田水成が天下の政治には関われなくなったということもありまして
その後は徳川家康の権力がますます強まることになるんですけども その徳川家康と徳川家康を止めようとする勢力が形成され
それが関ヶ原の戦いという形で起きていきます ではこの関ヶ原の戦いにおいて加藤清政の立ち位置どうだったのか
今回テーマをいただきましたレミィ様の話でもありましたけども なぜ清政がキーパーソンだったのかという話をさせていただきますと
加藤清政自身はこの関ヶ原戦いの時には日後の自分の領土におりました と言いますのも関ヶ原の一連の流れの前に加藤清政の領土よりも南の方
薩摩の方になりまして島付という戦国でもかなり有名な武将の家があるんですけども その島付の中で
家臣が反乱を模索していたというのがわかるんですけども その際加藤清政は反乱を起こそうとした家臣と密かに連絡を取っていたということが
わかります 他の大業のお家創造に加担していたことであるということで加藤清政は徳川家康から禁止を命じられていた
という経緯から加藤清政は日後で禁止をしておりました 実際関ヶ原の戦いにおいて重要なポイントとなる
合図成罰 徳川家康が上杉陰勝を懲らしめるために軍を出したというものなんですけどもそれが上杉陰勝が
合図にいたことから合図成罰となりますけども この合図成罰の原因は上杉陰勝が大阪に全然来ないで自分の領土に
籠っていることから起こります なぜ自分の領土に籠っていることが良くないのかと言いますと
そもそも秀吉亡き後は五部行と五大郎での話し合い 合議制で政治を行うことになっていました
言いに行きをしておとなしくしていることを命じられた石並千代は鈍角として 他の五部行や五大郎はよっぽどのことがない限りは話し合いの場が設けられた
あそこに出なければいけなかったです が上杉陰勝としては自分の領土に引き籠っていました
引き籠っていた理由としてはいろいろと諸説ありますけども 例えば冬の間は雪が多くて移動が大変だったとか
周りの大名たちが不穏な動きを見せているので領土が心配だったから その他には徳川家康がどんどん力をつけていくたまに
巻き込まれたくなかった中枢と距離を置きたかったか など言われておりますけども
どんな理由にせよ何ヶ月も大阪に出てこないのはおかしい それは合議戦を守る気がない豊臣家の決まりを守らない反逆だとみなされて
徳川家康が上杉陰勝に制裁を加えるために軍を出したのが藍津政抜です 加藤清磨さんはこの藍津政抜に自分も参加させてくれと徳川家康に頼んでいましたけども
家康からは大人しくしてろと命じられまして 加藤清磨さんは領地いるしかありませんでした
この藍津政抜から本格的に積極的な戦いへと流れが始まります 毛利てるもとが政治の中心地である大阪城に大軍を率いて入場します
そして大阪城の主 日本の主は毛利てるもとと思わせるような形になります
そして西軍が伏見城という城に攻め入りましてここから本格的に 西軍と東軍の戦い
反徳川家康と徳川家康の軍との戦いが起きていきます この頃西軍の総大将である毛利てるもとは
日後にいる加藤清磨さんに対して再三手紙を送っていたそうです 西軍に味方をしてくれ一緒に徳川家康を倒そうと手紙を送っていました
毛利てるもととしては加藤清磨さんが仲間になることは大きな意味があると考えていました 加藤清磨さんは石田三成襲撃事件の時の7人の部署の中で筆頭であったことや
豊臣秀吉の英才教育を受けていた部署たちの中で兄気分のような人物でした なので加藤清磨さんが仲間になることで多くの部署たちが西軍に味方すると考えていました
加藤清磨さんは日後にいるとはいえ加藤清磨さんと仲の良い福島雅則や黒田永磨さん 細川忠沖などは徳川家康と一緒にアイズ西抜で参加しておりまして
もしも加藤清磨さんを西軍に入れることができたとなるとこのアイズ西抜で参加している 東軍内の部署たちが願えるんじゃないかということも期待できました
もしも願いができた場合徳川家康が江戸あたりからアイズに行こうと伺っている時に もし願えることができた場合
大阪の西の方からは西軍が進行していき そしてアイズにいる上杉軍も徳川討伐の意思があるということで
西軍と上杉軍で挟み撃ちにできますし さらにその挟まれている東軍内で寝返りなどが発生すれば東軍はボロボロになります
そうやって徳川家康をあっけなく倒すことができると考えていました なので毛利寺本は加藤清磨さんに仲間になってくれるように再三お願いをしていました
が結局は加藤清磨は西軍ではなく東軍につきました 理由としては徳川家康の方が毛利寺本や上杉賭き方などよりも強いと考えていたとか
西軍の総大将は毛利寺本ですけども 西軍内で意欲的に働いていた石田三成や小西幸永に対して
負の感情が強く一緒に戦いたくないむしろ敵と思っていた だから東軍についたなど諸説ありますけども結局は加藤清磨さんは東軍につきます
加藤清政の影響力とその後
その後は東軍こと徳川家康が関ヶ原の戦いにおいて西軍を完膚な決めに倒します 実際毛利寺本や石田三成としては豊臣家がもっと西軍に味方してくれると思っていたんですけども
当てが外れたというのもありまして西軍はあえなく敗れます この関ヶ原戦いまでの一連流れ東軍と西軍の戦いはよく豊臣軍と徳川軍の戦いだと
言われることもありますけども実際は徳川対反徳川という感じです 正直この関ヶ原の前の段階では徳川家康以外の大統領は前だけは徳川寄りでした
毛利、植杉、植北は反徳川でしたし 後部業の中にも徳川にはついていけないという考えの者も多かったです
そういった反徳川の人物が集まって形成されたのが西軍でして 豊臣家としては中立の立場かむしろ東軍、徳川寄りでした
例えば豊臣秀吉の奥様であり秀寄りと母親である与土殿は東軍と西軍どっちも戦うのやめろ
謙華両聖杯だよということを話していましたし 秀吉の聖筆である北の丸所は様々な武将に徳川の力になってあげてくれと
手紙などを出していたと言われます 北の丸所は秀吉が行っていた英才教育の時にもよく携わっておりまして
加藤清政や福島正則、黒田長松などはめちゃくちゃ可愛がっておりまして 加藤清政たちも北の丸所には頭が上がらないという状況でした
その例として石田道内周辺一元なので思うような結果が得られず やきもきしていた加藤清政たちを落ち着かったのは北の丸所の説得だったと言われております
そんな感じで関川の戦いは豊臣軍対徳川軍ではなくて 反徳川対徳川でありましたが結果的には徳川の勝利となります
ただモーリ・テルモトが考えているように加藤清政が西軍についていてくれた そして東軍内での値替わりがあったら東軍はボロボロとなって
徳川家康は負けていた可能性は多いなります そういった意味でも関川の戦いにおいて加藤清政はかなりのキーパーソンだったという見方をしてもいいのではないかなと思います
が個人的には加藤清政は仮に西軍についたとしても そこまで影響力なかったんじゃないかと考えているところもあります
と言いますのも加藤清政、モーリ・テルモトからの仲間の誘いであるとか 東軍に就こうと決心するまでの間なんですけどもめちゃくちゃ悩んでいたと言われます
東軍と西軍どちらに就くか迷っていた時間がかかっていた だからこそ再三手紙が来ていたと言われておりますし
実際その誘いの手紙に対して中途半端な返し 仲間になるかもねーくらいの微妙な返しをしていたりとか
また家役から加藤清政に対して君はどうするつもり 東軍西軍どっちに就くのといった手紙に対して
西軍から勧誘されてますけども西軍にはなってないですという返しをしまして 東軍の力になりますという返事は先延ばしにしていたという面もあったりします
加藤清政は相当迷っていたそうです 加藤清政は日後熊本あたりの領土ということもありまして
周りが西軍についていたのが多かったんですよね それもあってなかなか自分の領土が心配だったというのもありまして
東軍になりますと即答しにくかったという面があったりとか 西軍の石田三成が小西幸永嫌いだったからという説に関しては
小西幸永のことは確かにかなり嫌っていたようではあるんですけども 石田三成とは元々仲が良かったという記述も数多く残っておりまして
優秀な行政家になった性質を持つ加藤清政は 好き嫌いだけで西軍か東軍決めるような人物でもないだろうとも言われております
そもそも好きか嫌いかでいえば石田三成襲撃事件で 石田三成や小西幸永に対して目立った処分が下せなかった際
その場を主に仕切っていた徳川家康に対して 加藤清政もなんとなく腑に落ちない感情を持っていたとも言われています
そういうように立地的なこととか心情的なことから 加藤清政はなかなか東軍につくという決心がついておりませんでした
が加藤清政が迷っている間 加藤清政の仲間たちは自分たちの判断でどんどん活躍をしていきます
福島雅典は東軍の先頭になって西軍との戦いに向けての軍の移動を先導しておりましたし
黒田永政は父親は黒田官兵衛譲りと言いますが 外交手腕なので多くの味方を東軍に引き入れました
細川寅は東軍と西軍が本格的に戦いを始めるという矢先に 戦いが起きることを憂いた妻が自決したと言われております
この時に西軍が軍を起こさなければ妻は死ななかったと考えて 西軍を倒すべく東軍の武将として気合を入れて働いていたと言われています
こういった具合に加藤清政がどっちつかずの反応をしている間に 清政の仲間たちは自らの意思で東軍として戦っておりました
なのでこの状態では清政が仮に西軍に就くとしても それほど多くの大名が願えることなかったんじゃないかなと言われております
確かに毛利手本の構想通り加藤清政が西軍に就いた みんなが願ってくれたとなったら徳川家康は敗れていたと思います
そういったこと意味では徳川家康が最も恐れた男として名前が挙がるのはおかしくはないです
ただ本当にそこまでの影響力を持っていたのか それは当時の人ではないとわからないことであったりします
というところが加藤清政という人物にて なぜ敵側の戦いでキーパートンに挙げられているのかという話でございました
ここからはアフタートークです 本編では加藤清政って影響力ないかもという話をしましたけども
実際にはやっぱり影響力持ってたんだよなというのはよく言われています
関羽原の戦いの後に1603年頃に加藤清政は豊臣の声援をお貸しされたりしておりまして
豊臣家からの信頼が厚かったなとはよくわかります 豊臣家と徳川家の仲が悪くなった頃に
なんとかこの両家の間を繋ごうと加藤清政はやはり奔走していたと言われます
その動きが加藤清政ほどの人物がこんなに動いているのに 無限にする徳川家って無礼だなと思われるのが
徳川家は嫌がっていたとも言われまして なかなかこの加藤清政の動きに対して嫌な気持ちを持っていたとも言われます
なので加藤清政は脳一血で亡くなったと言われているんですけども 徳川家に暗殺されたんじゃないかという噂が立っていることでございます
また加藤清政の死後は息子の代になると加藤家開域されてしまいます どれくらいかと言いますと
加藤清政の影響力
彦根54万国あった加藤家は 令和の庄内藩1万国という場所も国だかも全然違うところに開域されることになります
これは清政が朝鮮出兵の際に残していた借金が原因だなどと言われたりしますけども 徳川家は加藤家の力を届けたかったかという説もあったりします
ただこの加藤家が開域後 彦に入った細川太郎氏は清政の礼儀を先頭にかざして彦に入り
熊本城に入る際 あなたの城地をお預かりしますと言って清政を敬う態度を示したと言われております
そうしないと彦の地において自分が統治がうまくいかないと細川太郎氏は考えていると言われます
それほど彦において絶大な人気があったことや影響力も強かったのが加藤清政と言われております
実際加藤清政は川の氾濫が多かったり水害などが多かった彦の土地をしっかりと地水工事を行ったことで水害などを圧倒的に減らした命訓と言われております
秀吉の担いだ通り優秀な行政官として働いていたと言われまして それが良民からの絶大な人気を生んだと言われます
正直歴史については意味が多く もしも加藤清政が政軍に就いていたらどうなっていたかわかりません
もしかしたら毛利天本の想定通り徳川を討伐できたかもしれないぐらい それぐらい清政が政軍に入るという偉大な影響力があったかもしれません
ただ清政が政軍に就いても当軍が勝っていたかもしれません ただ明城熊本城であるとか良民からの絶大な人気なのは揺るぎないものだと思われますし
加藤清政は現代まで残る確かな影響力を持っていた人物であるのではないかなと思われます
エンディング
といったところで今回の話を終わりにさせていただきます 今回もマンラジオの特別配信部署ラジオを最後までお聞きいただきましてありがとうございました
クスケンラジオやマンラジオでもテーマは常に募集させていただいてるんですけども 特に部署ラジオはもう今のところテーマは常にギリギリの状態です
どなたかテーマ頂けることを首を長くしてお待ちしておりますのでどうぞよろしくお願い致します 今回も最後までお聞きいただきまして誠にありがとうございました