2025-11-13 21:17

本当の自分に会いに行く

また着地点のよく分からない独り言です。

ライフをイキイキしていれば、みんな表現者。私はそんな表現者を増やしたいと思っています。

 

サマリー

このエピソードでは、自己表現の重要性や人生における個人のユニークさについて考察しています。特に、コロナ禍を経て自己認識が深まり、一人でいることの心地よさに気づいた体験を語っています。また、自分らしく生きることの重要性と、それに伴う社会との葛藤についても話されています。他者からの承認や支えの大切さが強調されています。

人生の表現
こんにちは、今日も聞いていただきありがとうございます。どんな日を過ごしていますか?
皆さんは自分の人生を表現していますか?あなたは表現者ですか?
最近一気に思うところがあって、ものすごく大きな気づきというか、人生を生き生き過ごしていれば、みんな表現者だと思っていて、自分の人生って一つだけじゃないですか。
誰の人生でもないし、全く同じ人生は辿れないし、まさに唯一無二だよね。
真似もできないし、誰もその人生を取ることもできない。その人生を人生がまさに表現って思ったんだよね。
忘れていたっていうのかな。本当はね、子供の時みたいにまさに無邪気っていうのかな。楽しいことで突き進むっていうの。
私はどっちかっていうと、一人の世界をすごく好きっていうか、大切にしていたっていうか、好んでやっていたので、一人で何かをするっていうのが好きだったんだよね。
もちろん大人数で鬼ごっこしたりとか、ごっこ遊びっていうのもしていたんだけど、どっちが好きって言ったら、どっちかっていうと一人遊びの方が好きなタイプだった。
それがあるからこそ、グループでの行動っていうのもできるっていうね。それをナチュラルにやっていたんだけど、だんだん成長していくとさ、
一人が嫌になるっていうか、一人ぼっちみたいなね。友達がいなそうとか、あっちで楽しそうにワイワイみんなで何人かで楽しそうにしているのは憧れるっていうか、そっちの中にいた方が変じゃないっていうか。
浮いちゃうのが嫌だっていうか、そういうところに敏感になっちゃって、そっちにいた方がいいんだろうなっていうのを覚えちゃったんだよね、きっとね。
そういうのだから、私は一人の方が実は心地がいいよっていうかさ、時には誰かと過ごすのもいいけれど、基本的には一人好きだよっていうのはもう忘れちゃっていたんだよね。
でもなんかどっちが生き生きしてるかって、この年になって思ったのは、結構一人でぼっとしてることがすごく自分は生き生きしてるなって思うようになって、
それがまさに自分のライフを作ってるっていうのかな。生きてる。まさに表現者だよね。だからみんな基本的には表現者なんだろうなって思って。
集団と個人
それを私はこの世代になってようやく気づいたっていうのかな、このミドルエイジって言われる、今私は40代なので、まさにミドルエイジなんだけど、
気づかないところで実は表現っていうものをしていて、それが自分の道なのか、人と真似だったのかっていうさ、割と世間一般の普通っていうものに埋もれちゃってたから、
自分の中での普通っていうのかな、通常の状態っていうのをもう完全に見失ってたんだよね。怖いね。怖いと思います。
今はどういう社会なのかってちょっとわかんないけど、私がいた世界っていうのは、それは自分が作り出した世界なんだけど、別にいいじゃん。一人でいたっていいわけでしょ。
一人でお昼ご飯、お弁当食べてたっていいわけじゃん。休み時間一人で過ごしてたっていいわけじゃん。でも私は一人は嫌だったんだよね。だから無理してでもグループの中にいたいっていう気持ちが一番にあって、無理してやってた。
これがすごくナチュラルにできる人はグループとか向いてるんだろうね。組織に向いてるんだと思うよ。
社会に出ても集団みたいな中でね、私は会社勤めをしていたので、色々やって会社勤めに落ち着いたんだけど、
組織の中に身を置くっていうのがそれまでの自分が通ってきた道っていうのをさらに活かすときっていうか、変な意味でね。その技術を身に付けちゃったから、いかに溶け込むかっていうところでさらに磨きをかけた。
本当に良くない見本を私はずっと作ってきましたよ。こうなって欲しいかっていう姿じゃないんだよね。
もっと自分で生きていいはずなのに、やっぱり集団の周りの大きな空気感に飲まれちゃうっていうのが自分にとっては弱いところであり、
でもそこをね、若い時に色々経験してきたからこそ今があるわけだから、すごく学びの時期を、若い時って学びの時期じゃないですか。
いかに経験をして、いろんなこれはうまくいくこれはうまくいかないっていう経験をとにかく重ねて熟成していくわけでしょ。
だからそれは本当に、それは体現したとは思っているんだけど、これはいいものでしょ、いい経験だったでしょとは言えないよね。
本当に悪い見本として出したいです。
変化と気づき
だから私は世間一般に馴染むように作り上げた偽物、虚構で生きてきたっていうね、ぴったりだわこれ。
でもずっとそれで生きていけないんだよね。
やっぱり気づく時に気づくんですよ。
気づくきっかけっていうのは人それぞれだと思うんだけど、私の場合はめちゃめちゃ違和感。
なんかあれ、なんか今までうまくいってたことがうまくいかなくなってきたよっていうのかな。
なんか違うな、なんだろうこの居心地の悪さ、居心地よくないぞっていうところからどんどんどんどんそれが大きくなっていって、
ちょうどコロナの騒動っていうのかな、ハプニング、地球のハプニングみたいなね。
地球のハプニングって言ったら地球に失礼だよね。
もうなんか人間界のハプニングっていうのかな。
あれでちょっとグワーッと私の中でもすごくかき回された感じっていうのかな。
2人目の3級中っていうのもあって、そこからちょっと1回スピードダウンしたところからまたエンジンをかけて、
社会に3級、育休明けで復帰した時にあれって思ったんだよね。
まあそれはそうだよね。
3級前はもうそれまで通常モードずっと前と同じ前の世界で私が消えて、戻ってきた時はもうコロナ真っ只中っていうのかな。
ピークはワクチンとかまだない時だったと思うよ。
普通に世界がロックダウンとかしてる学校も休校とか取られた後ぐらいかな、復帰したのは。
なんか今復帰しなくていいって言われたから、ちょっとだけ落ち着いた時に復帰したんだよね。
でももうやっぱり、私のいた世界の変わりようっていうのに、正直ちょっとついていけなくなったっていうのかな。
なんかちょっと気持ちが悪いぞみたいなね。
それがさ、私がほら異物なだけで馴染んじゃえば、また前みたいに普通に何も普通にやれると思ってたんだよね。
でもさ、全然どんどんどんどん離れていっちゃって、全然よくなるところか、
もうすごいさらに無理してやらないと全然ついていけないっていうところですごく苦しんじゃって。
その時はまだヒューマンデザインには出会ってなくて、
本当私がしっかり学ぶようになったのはコーチについて、
学ぶようになったのは会社員を辞めてからなんだけど、
マインドのそういうプログラムとかはちょうど受けてたんだよね。
違和感を持ち始めた時。
そこで潜在意識とかそういう世界をバッチリその世界に入って、
そういうことなんだっていうのを自分の中でめちゃめちゃすごく新しいことだったんだよね。
それがさだから40歳になるくらいだったんだけど、
だからすごくいいタイミングであったんだと思うんだよね。
なんか来るべき人が来るべき時間があって、
それでもうさ、私はもうちょっとこの今まで十分やってきたし、
もうそろそろ自分で生きてもいいんじゃないかっていう風に変わっていって、
自分の中でやることによって、
自分の中でやることによって、
自分の中でやることによって、
自分らしく生きることの重要性
自分で生きてもいいんじゃないかっていう風に変わっていって、
それでも長いことを社会に合わせて普通でいたいっていう、
自分にかけちゃった呪いみたいなのを解放するのって2年くらいかかったんだよね。
見えなかったんだよね。もうやめたいんですみたいなね。その一言がよ。
私も子どもを持ってまで社会復帰したいっていうのは、
もちろん収入とか生活のためもあるよ。
やっぱり暮らしを豊かにしていきたいじゃないですか。
楽しみたいし、大変だけど楽しみたいし、大変だよね。
大変だよね。子どもは別の個体だから、
自分の思うようには動かないから、
うまくいかないことの方が多くて、
仕事を普通にフルでして、その後に朝もそうだけど仕事して、終わったら今度子どもって、
それを週5とかでやるのを繰り返すわけでしょ。
本当によくやってたよ。
本当にそれなんかも当然だと思ってたから、
だからすごく自分をいじめてたっていうのかな。
完全に辛いよとか苦しいよっていうのを無視して、
無視して、もう引っ叩いて、お尻ベシベシ叩いて、
それしかやってこなかったっていうのかな。
また頑張れるよみたいなね。
本当のところの自分をひたすら無視して、
ひたすらゴーっていうね。
行けーみたいな。座ってんじゃねーみたいな。
休めねーんだ。座ってんじゃねーみたいなね。
もうやばいよね。
今思うと本当にやばかったと思う。
本当ごめんねっていう気持ちもそういうのも持って、
今があるんだけど、
癒してあげるっていうかね。
だから自分の人生っていうものを振り返れないし、
もう一回できないしね。
生き生きしていくっていうのは本当に忘れてた。
ね。
だから本当はみんな表現者で、
他者からの承認の大切さ
自分の人生をやり切るっていうことがすごく私は大切だよって思っていて、
知らないところで表現はしていくし、
見てる人は見てるっていうかさ、
みんながそういうわけじゃないけど、
本当は見てる何人かがいて、
特定の人っていうのがいて、
本当のところをわかってくれる人っていうのがいるんだよね。
そういう、この人なんかすごくいいことを言われたとかって、
体の中がブーって震えるような怖いとか嫌な気持ちじゃなくてね、
あったかいものをもらった気がするみたいな、
そういう人っていうのは結構記憶の中にも残ってて、
20代の、20何歳だろ、5、6くらいかな。
私は駐車場が車で通勤してたんだけど、駐車場がなくて借りてたんだよね。
駐車場の公屋さんのお家に現金払いで、
毎月何ヶ月か貯めて持ってってもいいんだけど、
現金でお家に行って駐車場代を支払いに行ってたんだけど、
そこのおばあさんがいて、
お家の若い人っていうかお嫁さんかな、
だいたいお嫁さんが結構対応してくれるんだけど、
たまにおばあちゃんが来て、
おばあちゃんが私が生産を待ってる間に、
いろいろ書いたりするからちょっと待つんだよね、10分くらい。
おばあさんがよっこらしょって玄関のところに座って、
別に私知り合いじゃないからさ、
こんにちはみたいなお世話になってますみたいな感じは言うんだけど、
あんた偉いよ、お仕事してるの偉いよって全然知らないのに、
ひたすら褒められて、偉い偉いって言ってくれて、
親に偉いって言われたことがないなって思って、
すごく不思議な感じがしたんだよね。
私の親はめっちゃ厳しいからさ、
私は特に十分やってるとかよくやってるとか、
そういうの一切言われたことがなくて、
でも一回くらい褒められたことあるだろうって思うけど、
本当に記憶になくって、
とにかくもっと社会に貢献できる、もっと頑張れるみたいなね、
だから十分やってるとかよくやってるっていうのは一切なくて、
もっと頑張って当然だみたいな、
両親も結構社会でゴワーって感じだったから、
もう絶対褒めないんだよね。
それが全く知らないおばあちゃんが、
あんた働いてるの偉いよとかって言ってくれたのが、
なんだろうこの気持ちって表現が難しい。
ありがとうございます。
21:17

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