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BC141『置き配的』と『「手に負えない」を編みなおす』
2026-06-16 56:55

BC141『置き配的』と『「手に負えない」を編みなおす』

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2冊テーマシリーズの第二弾です(第一回は以下)。

今回は、福尾匠さんの『置き配的』と友田とんさんの『「手に負えない」を編みなおす』の二冊を紹介しつつ、そこにある共通的なテーマを取り上げてみました。

プラットフォームが前提の社会において

収録時に参照したメモは以下に置いてあるので、書誌情報などはそちらでご確認ください。

◇ブックカタリストBC141用メモ | 倉下忠憲の発想工房

私たちは、プラットフォームが前提の社会に生きています。SNS的言論空間だけでなく、ITサービスそのものが全般的にその方向に進んでいます。企業が作った土俵の上で生活しているといっても過言ではありません。

その上で、言論的空間のプラットフォームは私たちにある傾向を持たせようとします。プラットフォームにとって「好ましい」立ち振る舞いをそれとなくするように環境設計するのです。

はっきりそれをしろ、と命令するまでもありません。”適切”な報酬を見つけ出し、効果的なUIを構築すれば、ユーザーは自ずからそうした行動をとるようになります。大量のA/Bテストと、私たちの即時のフィードバックが「どんな機能が誘導において有効か」という問題を進化論的に解決してしまうのです。

BC034『啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』 で「外部足場」という概念を紹介しましたが、そうした外部環境は自らを好ましい方向に拡張していくためだけに機能するものではなく、ある種のデバフ的効果も持ちえるものです。

だからこそ、私たちは何かしらの「対抗策」を持っておいた方がいい。

SNSをまったく使わなくても話はかわりません。私たちの身の回りは重商主義ならぬ重消費主義で満ちあふれていて、物事の価値や意義が経済性のみで測られます。私たちが社会=関係の中で生きていく以上、仮に自分がだけがそうした刺激から解放されたとしても、この社会の有り様はぜんぜん変わらないのです。

もちろん、そんな大きな問題を快刀乱麻に解決できるはずがありません。だからといって、何をしても無駄、ということはないでしょう。きっと手に負えないけども、手当てくらいはできる、ということがあるはずです。

別にそうしたプラットフォーマーを悪だと断じる必要はないのです(そもそも、その物の見方はあまりにも単純です)。それよりも日常に向ける目線、自分が感じる価値を多様に構築していく。それで人々の日常生活が少しでも変わるなら、まわりまわりまわりまわりまわりまわって、やや大きな何かが変わるかもしれません。



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感想

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00:03
面白かった方について語るポッドキャスト、ブックカタリスト。 今回は第141回、『置き配的』と『手に負えない』を編みなおす。
はい。クラシタのターンということで、前回始めました2冊セットシリーズの第2回ということで、
正直言いますと、この2冊を紹介したいがために始めた2冊を言っても過言ではないんですけども、
前回ちょっと時間配分を。
前回は難しい本形のやつ。
ケアと編集とリタート。
そっちだ、そっちだ。
やはりちょっとウォーミングアップということで、こっちから本格的にという感じなんですけども、
前回想定してた時間配分があまりにも、
良きもの良くなりすぎた。
ぬるかったので、ちょっと今回は前回と配置を変えて、
まず2冊それぞれをざっと紹介した後、その後にそれぞれの本のテーマを取り出してみたいというような感じで進めようと思います。
1冊目が置き配適ということで、
今、置き配というのを音声でしゃべっていまして、皆さん漢字変換が適切にできているかどうかわからないんですけど、
読まないと難しいかもですね。
最近Amazonとかで注文したときに、直接手渡しとかではなくて、
玄関とかに置いておく、置き、put onの配達っていう置き配に、ほにゃらら適という適をつけた、置き配適という本でして。
書紙情報を簡単にさらっておきますと、
2025年の11月20日に発売された、去年出た本ですね。
講談社から出ておりまして。
群蔵で雑誌ですね。雑誌群蔵で連載されていた。
その当時は、連載当時は言葉とものというタイトルだったんですけども、
それが単行本化するにあたって、置き配適というタイトルに変わった本です。
あれですね。群蔵に載っていたという、バリバリ諸哲学ものっていうやつですね。
そうですね。哲学、どっちかっていうと本書の内容は批評的な本なので、
批評と哲学がどう違うかは別の論点がいる。
大雑把には哲学でいいんじゃないか。
思想、哲学、批評ですけど、批評の本やと思ってもらえばいいと思います。
もちろん哲学の話題も出てきますけども、
どっちかっていうと、宇野さんの本、庭の本とかの語られているような文やと近いかなと思います。
03:02
著者が福男さん、福男拓美さんということで、哲学研究者とメディア批評家ということで、
当然専門がフランス現代思想、当然と言いましたけどフランス現代思想で、
というのもさっき言った言葉と物っていうのは風光の本のタイトルなんですけどね、要するに。
そこから拝借しているということで、その辺の分野を研究されているとか、
芸術論とか映像論をやっておられる方で、
主な著者にメガスクリーンになるとき、ゼロから読むドゥルーツ、
シネマっていうのと、非美学、ジル・ドゥルーツの言葉と物、
あと人ごとクリティカルエッセイズっていうのがありまして、
この非美学、美学にあらずという本が、第15回のキノクニア人文大賞を受賞しておりまして、
2015年、2025年の、これは結構すごいんですけど、
2025年のラインナップを見ますとですよ、
センスの哲学があり、
なんで働いていると本が読めなくなるのかがあり、
あらゆることは今起こるがあり、
全く新しいアカデミックライティングの教科書があり、
ものすごいどれも人気になった。
それを倒した一冊。
というぐらいの本で、それで人気になられた方で、
この本が出たというところです。
先ほども言ったように、批評についての批評でもあり、
社会批評とか作品批評とか、いろいろ入った本でして、
第1回から第11回までの11本入ってますが、
解と書かれてまして、章ではないと。
連載時は当然、連載って基本的に解じゃないですか、雑誌の連載って。
それを単行文化するにあたって、本らしく章にしようかなと思ったと書かれてたんですけども、
この1から11が例えば連続的に話が展開していくわけではないんですね。
一個一個が独立して読めるエッセイになっているということで、解という言い方をされてます。
内容というか本の組み方が面白くてですね、
これもちょっと映像を見ないとわからないんですけども、
AパートとBパートに分かれてるんですよ。
11回の連載がある中で、AパートとBパートがありますでしょ。
Aパートは見てもらったらわかるように、下が空いてるページ組なんですね。
ページの下部分が空白になっている。
Bパートは逆にページの上部分が空いてる組で、読んでいくと。
一回の中でAとBがある。
例えば1がA、2がBみたいな感じ?
ということではないんですね。
一回の中にAもBもある?
第一回がまずAの1から始まり、その第一回の中にBの1があり、
さらにその一回の中にAの2があって、次は第二回はBの2から始まるということで、
ジグザグしながら話が進んでいくと。
最近ラスタさんがジグザグって言ってるような感じで。
06:05
先ほどの連載当時、言葉とモノというタイトル、副題がついてたわけですけど、
言葉パートとモノパートに分かれているということですね。
簡単に言うと。
ある起きた現象とか言葉っていうのを、言葉側面から見ていくのと、
モノ側面から見ていくっていうのが、2つのパートが1つの方に並べて置かれていく。
一つの対象を複数の視点から見ることによって、立体的な思想を立ち上げていくというような
試みがされているということで、非常に文章としては読みやすいですけど、
かなり腰を据えて読む必要はあると思います。
まず前提として群蔵連載であるというところで、
まずだいぶ、なんていうの、気合を入れないと読めない感じがして。
そうですね、ある程度思想的なことは、もちろん随所随所で説明は入ってきますけども、
風向ってそもそも誰ですかというレベルだと、ちょっとしんどいものはあると思いますが、
逆にこの辺の話題が好きな方であれば、非常にエキサイティングに読めるエッセイというか、
批評集になっていると思います。
先に2冊目の本をいきますけども、
手に負えないを編み直すということで、手に負えないがここに入ってますけども、
友田敦さんという方が書かれた本で、
たぶんもしかしたら存じ上げられていないかもしれませんけど、
綾川文庫から100年の孤独を代わりに読むという本を出されている人で、
めっちゃ有名になりましたよね。
これ一見すると100年の本を読まなくてもあなたが概要を理解できますよ的なタイトルの本はいるんですけど、
全然違うんですね。そんな本ではないですね。
著者がその100年の孤独を読みつつ考えたことを、思いついたことを連想的に広げていく、
それを読者は横で見るというタイプの本でして、
非常に面白いことを書かれる方だなと思っている方が心眼を出されるということで、
手に取ったんですけども、この本を。
2025年の12月なので順番的にはこっちの方が後で、僕もこっちの方を後に読んだんですけど、
この本がね、さっきの方はある程度説明できたんですけど、非常に説明の難しい本でして、
類書がないと言ってしまえばそれで済むんですけども。
ジャンルを無理やり言うならば?エッセイ集?
何ですか?
フィールドワークの記録と言うべきなのかな?
ちょっとね、本当に難しい。
その段階から難しい。
難しいですね。当てはめられないという感じ。
なんかどこかを当てはめた時に、ちょこっとずれてしまう本っていうのはあるわけじゃないですか。
09:04
これSFって言ってもちょっとホラー性もあるよねっていう言いにくさはありますけど、そのレベルではない。
既存のジャンルをどれ言っても半分ぐらい違うみたいな感じのする本でして。
ノンフィクションである?
ある。
間違いではない。
間違いないと思います。
定数としてはエッセイを読んでいる感じで読めると思うんですけども、
2部構成になってまして、第1部が第1回から第6回で、第2部が第1章から第4章まで進めまして、
第1部が地下鉄にも雨は降るということで、
著者は地下鉄の漏水対策、水漏れ対策に非常に興味があると。
いきなり面白い。すごい関係なくて素晴らしいですね。
それを例えば写真に撮ったりとかして、ある種のセルフフィールドワークみたいなのをしていると。
でもそもそもなぜ自分は漏水に惹かれるんだろうかということを著者自身も分かっていないと。
なのでそのフィールドワークを実際に続けながら、いろんなところをたどりながら、
そもそも自分はなぜこれに興味があるんだろうということも考えていく。
それが第1部。
第1部の最後、第6回で、自分というのは漏水対策のようなものを象徴する言葉として、
手に負えないものと呼んでいるんですけど、
手に負えないものに興味があるのではないかと閃いて、
第2部からは、著者の歴史というか、子供の時代に何が好きだったとか、
何の興味を持っていたのかというところを一回遡るという話があって、
あと見るとか作るとか編み直すというのが展開されるんですけど、
手に負えないというキーワードを展開しつつ、
著者の自分の経験とか好みとか、実際に今やっていることということが語られ直していくという2部構成になっておりまして、
1部と2部もだいぶ違いますし、
まず、漏水対策をフィールドワークする本というのもあまり見たことがないので、
それが半分ぐらい締めているということですかね。
半分以上は締めています。
このままずっとフィールドワークの話が進むのかなと思ったら、結構急に話が飛びまして、
著者は京都の我が会社屋さんが実家だったらしいんですけど、
その中でいろんなものを作っていく暮らしの中でこういうことがあったのではないかなという過去とかが語られ、
今自分がやっていることとかが語られて、
ある種の事例みたいなものが半分あってというものが一つ組み合わさっているという本でして、
こっちはもう何の前提知識もなく読める本ですけど、
多分読んだことがないタイプの本だと思うので、
何が来るかわからんぞという心構えで読まれるといいと思います。
12:04
両方の本は面白いですけど、
思想に興味がない方でもこの手に負えないを読み直すと多分読めると思いますし、
何ならちょっといろいろ知的生産の技術的にも学べるものが多いのではないかなと思います。
本を書く程度はほぼ間違いなく知的生産ではありますよね。
知的生産を進める上でテーマの設定とかっていうのがあるわけじゃないですか。
当然人によっては今バズってるからっていうこともあると思うんですけど、
自分の人生に関わる深いテーマ性をどう見つけるのかという
一つのサンプルになってるなとちょっと僕は思ったわけですね。
基本的に研究テーマっていうのは、
例えば学校の先生、教授とかと相談したから決めていくってことが多いと思うんですけど、
市民の知的生活っていうのは基本的にソロ活動なので、
テーマの深掘りとか問い直しっていうのがなかなかしづらいと思うんですけど、
こういうふうに実際にやりながら考えていくことができるという実践例になっている本かなと思います。
そういう2冊を今回取り上げつつ、
共通的なテーマが見つかればいいなということを進めていきます。
今回はこれならあれですね。ちゃんと時間配分大丈夫ですね。もうこれで。
とりあえず2冊の本で今回は終わったので一段落というところで。
1冊目の本からお気配的というタイトルがあって、
的がついてるんですけども、そのお気配とかお気配的っていうのはどういうことかという本書の主張をピックアップすると、
まず定義としてコロナ禍以降に社会はお気配的なものになったと。
ここでいうお気配っていうのは単なる物流の変化ではなくて、むしろ情報技術の変化であると。
お気配したことがある人はいると思うんですけど、
されたことじゃないかな、イメージとしては。
お気配注文をしたことがある方はわかると思うんですけど、
到着はメールとかで来るわけですね。
荷物が到着しましたって言って。
玄関の外に出たら荷物が置かれているという状況になっていると。
それはすべてインターネットを介した情報テクノロジーによって成立してるわけですね。
しかもそこで行われている行為の意味そのものが変わっているのではないかと著者は言うわけですね。
意味が変わっている。
まず、お気配ではない届けるものっていうことを考えたときに、
例えばポストに投函してとか手順があったときに、送る人はポストに入れると。
郵便会社はポストから回収して、受け手のところまで行って、受け手の郵便受けに入れると。
15:04
受け手の人は帰ってきて、その郵便ポスト開けて荷物を受け取るということがステップが分かれているわけですけど、
それぞれがまず自分の行為の責任の範囲がまず限定されてますね。
ポストに入れるまでとか、届けるまでとか、受け取ってからとかというふうに分かれている上に、
ちゃんとそれが届いているかどうかが情報として確定しないわけですね。
昔の郵便制度でいうと。
半個もらわん限りないですね。そのシステムでいうと。
そのような情報的隙間があるからこそ、いわゆるデータの誤配というのが起こるわけですよ。
分からん状況があるから。
でも今は例えば、荷物が届きましたというあの通知は、もちろんその発信、
荷物を届けた本人にもログとして残るし、プラットフォームAmazonにもログとして残るし、
僕にもメールが来るわけですね。すべてが同時なんですね。
しかもみんな同じ情報を一斉に抱えて捉えていると。
つまりそのかつてその郵便にあったような隙間が全くなくなっていると。
そしてすべてを支配しているのはまさにプラットフォーマーだけであるという情報テクノロジーが入ったことによって
単に置いてもらえるようになりましたというだけじゃなくて、
人が荷物を預かって届けるという行為に含まれた意味そのものが変わってきている、
変質しているのではないかということを一つ言いたいために置き配という言葉を出したと。
結局面白い話なんですけど、
置き配で配達している人は荷物を届けるためじゃなくて、
荷物を置いたという写真を撮るために物を運んでいるんだという話がされまして、
荷物を運びたいからじゃなくて、荷物をそこに置いたという写真を撮るというある種のありばいではないですけど、
その情報、そのメタ情報ですね。届けたというメタ情報を保持するためだけに物を届けていると。
これはある種ポジショントークと一緒ではないかという話が出てくるんですね。
インターネットによるポジショントークというのは非常に面白くて、
内容じゃないんですね。何を言ったか言ってないか、何に関することを言ったか言ってないか、
ということだけなんですね。内容は関係なくて、あの人は現政府の批判を言った、言ってない、
それだけなんですね。これがいわゆるポジショントーク。内容は関係なくて、
ある陣営、どっちかの陣営に自分は属しています、属していませんというメタ情報を発信するためだけに行われるものを、
18:01
本書ではポジショントークと呼んでいると。
俺が認知しているポジショントークとはちょっと違う感じがするけど、そうではないってことなのかな?
そうですね。この文脈で言うポジショントークはメタ情報、内容そのものよりも、
私はどっちの陣営に属しているんですかというメタ情報を伝えるためだけの発信ということですね。
そのようなポジショントークはTwitterなどのプラットフォームで行われると。
結局そこに投下されるあらゆるものがコンテンツと呼ばれるものになってしまって、
プラットフォーム上で消費されていると。
お気配的なシステムにおいては、当然よく言われる言い方で言うとプラットフォーム化する社会であり、
これはプラットフォーム資本主義とかテクノ保険制という言葉とほとんど同じニファンスを持っていると。
で、著者としてはすべてがコンテンツになって、あらゆる発言がポジショントークとして消費される空間というのは我慢ならんというか、
批評家なので彼は、著者は。
どうにかしたいと、それを本書では考えていこうというふうにして、
その観点からいろいろ11回の論考が行われるわけですけど、
そこに軸としておそらくこれが打ち出せるんじゃないかということで、
作品と日記という一つの対抗軸が提唱されますね。
つまりコンテンツではなく作品を、ポジショントークではなく日記をというのが本作の大きな切り口。
主張、解決方法みたいなやつ。
そう、提案されているのがそこになると。
この作品と日記の、僕はこの日記の方に僕のハイライトがついたわけですけど、
僕は結構日記的なものが非常に好きなんで、
その日記っていうものが、いわゆるこの現代のプロットフォーム化する社会に
どう対抗、レジスタンスのツールとして使えるのかという観点で読み進めておりました。
あらゆる発言がポジショントークとして消費される空間というのは基本的に、
特にプロットフォームがそうなんですけど、発言させられるわけですね。
いろんなものを反応させられる。
これ結局、素か密かで言うと、密なわけですね。非常に密度が高い。
何かを言いなさい、何かを言いなさいと言って、僕らは反応的にされているけど、
結局、例えばそのような状況に対抗して、僕は何も言いませんっていうことも結局一緒なんですね。
この話題については何も言わないということは一つのメッセージになってしまうわけです。
ネタ情報が存在してしまう。
つまり、そこの何か激しく言うのと、めっちゃ黙ってるは結局一緒のことだと。
21:02
だから、そこを変えていく回路が必要だという話で、
イベントレスネスっていう概念を著者は提唱されてまして、
イベントっていう英語に
イベントはないの名詞形?
そういうことですね。イベントレスネスという。
で、著者は日記と日誌を区別して定義してるんですけど、
基本的に日記というのは書くべき何かがあった日だけに書くのは日記ではないと言うんですね。
どんな日でもとりあえず書くと。
取り立てて何もなかったとしても、とにかくその日が終わるという強制力において書くことこそが日記の枠組みであると。
何かがあったから書くんじゃなくて、日記が書かなあかんからもう今日終わっちゃうし、
とりあえず何か書こうという動機づけで書かれるものが日記のフレームであると。
だいたい毎日、日頃記録取ってる人間はよく知ってますけど、
毎日来てたら取り立てて今日は何もなかったなっていう印象として残らなかったなっていう日の方が多いわけですね。
でも、著者はむしろそこにそういう日こそ日記は試されるし、
何もなかったなと思いながら日記を書き始めてくると、
何かツラツラと出てくることがある。
振り返ってみたらそっちの方が良い日記になっていることが多いという話があって、
これは非常にわかる方法ですね。
大変素晴らしい日記論ですね。
これは非常に素晴らしい日記論で、
著者は実際ウェブ上に日記を何年間か書かれていた経験もある。
多分ウェブで検索したら見つかると思うんですけど、
日記に対する批評としては非常に素晴らしいわけですけども、
もう少し引用すると、
SNSは常に言及するべきイベントを提供し、
あるいは自身の生活を充実したものとして提示するためのイベントの形式を提供すると。
それに対して日記においては、生活のすかすかさ、
粗密で言うと粗の方から出発することで、
何をイベントとみなすかという解像度を上げ、
その形式を拡張することができる。
そしてそれを継続することで、
自身のうちに日記用のセンサーのようなものが育っていき、
カメラを持って街を歩く時のように、
見慣れたものの別の様相が立ち現れてくるという一文がありまして、
これは非常に深いなと僕は思うわけですけども、
何でもいいですけど、ハッシュタグでも何でもいいですけど、
Twitterである発見を誘われるようなイベントフルネス、
イベントフルか、イベントフルなものが、
ああいうの追ってるのか、イベントフルネスだったのか。
大竹 イベントフルな日々ですね、言い方としては多分。
大竹 それは結局外側から押し付けられた、
これがイベントですよという定義に沿って、
日記的なものを書いているわけですけど、
そうじゃないと。
いや、何もなかったなと思いながら、
でも、あ、そういえば今日のカレー肉多かったな、
みたいな何でもいいですけど、
24:00
っていうのを思い出して書いた時に、
初めてその人なりのイベントの定義が立ち上がるわけですよね。
それは別に他の人に誇れるものではないしろ、
その人の人生のリアリティっていうのを、
多分、構成していくんじゃないかなと思うんですよ。
だから、何も書くことがないと思っている人が、
強制的に日記というものに立ち向かって、
それでも何か思い出して書く時に、
その人の生活を眺めるレンズの解像度が上がっていく。
そういうものを促す装置として、
日記っていうのが捉えられるんではないか、
という話が部分的に出てきまして、
これも本書全体からしたらごく一部の話なんですけど、
僕はここに非常に知的生産というか、
こういう知的生活全般に通用する、
あるいはデジタルノートを考える上でも非常に重要な話が
なされているんではないかと思います。
ここが自分的には何なら自己肯定感にもつながるような、
重要な部分ではないかと思っていて、
何もなかったなとか、
あとよくあるので、
その話面白いからウェブとかに書いてよっていうと、
何にも大したことないみたいな話とか、
面白いと思えないことすらもこの言い方で言うと、
やっぱり日記で解決できるよね。
時間をかけることで何が面白いかの定義そのものを変えていく。
自分で改定していく。
平成可能性の中に開いていくという行為を初めてすることができるので、
日記を例えばスタートするときに続けやすいから、
ある種のフレームを提供されることがあるとは思うんですけど、
これについて書きましょう。
それは補助理由としてはいいと思うんですけど、
どっかの時点でやっぱり何を書けばいいのかということそのものを発明していく。
その規範を外さないといけないですもんね、いつかは。
どっかで外すことによって、
私にとって面白いというのはこういうことだということを発見していけば、
日記を書くこととブログを書くことの境目がどっかで薄れてきて、
普通に書けるようになってくるんじゃないかなと。
だからこれは結局目を鍛えることなんですね。
日記を書くということは。
目、レンズとかでもいいですね。
意義としての目ですね。意義じゃない概念としての目っていう。
心の目ということですね。
機械的に言うとレンズの解像度を上げる。
どういうふうに日常を見るのかとか、何を面白いと思うのかっていうそのものを
外部から押し付けられた、特にプラットフォーマーが好むような形とは違う。
むしろ、たぶん好まれないような形の開いていくという、
そういう回路を育てる試みとして、
このイベント、熱々な日記っていうものが提案されてまして、
これは普通に実践可能というか応用可能な考え方じゃないかなと思います。
自分がフェイスブックを使わなくなったのが、このイベントフルネスな日記しかないから。
27:04
インスタグラムとかでもそうでしょうね。きっとね。
もちろんそれはちょっと時代が古くて何なら10年前の話ではあるので、
今そうではないのかもしれんけど、
でもやっぱ構造としてああいうプラットフォームはイベントフルネスなものを
多く生み出すという構造にはなってしまいますよね。
少なくともアフォーダンスはありますし、
Xなんか特にイベントフルな方をプロモートするというか、
よく見られやすくするんで、
普通にタイムラインを見ているときに、
そういうところが見えにくく、
イベントレスネスなものが見えにくくはなっているとは思いますけど、
だから僕は逆にどうでもないことをつぶやこうという運動を最近好き。
どうでもないというか、
今日何食べたとか何か作ったとか、
寒いとか、
そういう日常感覚のつぶやきをつぶやくことがある種の抵抗になる。
つまりXを無視するんじゃなくて、
Xの中で別の回路が立ち上がることがいいんじゃないかなと思って、
最近積極的にしょうもないツイートをしておりますが、
そういうふうにいろいろ使い勝手のある、
この物事を何をイベントとするのかという定義を
自らの中で立ち上げていく、
そのための営みというのは、
いろいろ使い勝手のある概念ではないかなと思います。
これは1冊目から中止した日記と、
どっちかというとイベントレスネスと、
それが名を変えるという話なんですけども、
2冊目の本から取り上げたいのが、
個人的な研究ということで、
あるいは日常のフィールドワークといってもいいんですけど、
先ほども紹介したように、
地下鉄の漏水対策に興味を持つ著者と、
一応生きてますから、
僕も地下鉄の漏水対策を見たことがありますけど、
生活圏内に地下鉄はないからあれですけど。
全然、ちなみに俺認知したことなかったです。
たまに柱とか上の方とか、
柱の下の方までビニールがかかってたら、
さすがに気づくと思いますけど、
上の方とかでもちょこちょこビニールがかかってたりするんですね。
ビニールがかかってたりとか、
他にもいろいろあると思うんですけど、
僕今解像度が低いのでビニールがかかってます。
ひょっとしたらあらしたさんより、
地下鉄乗っている回数とか頻度が多いかもしれんけど、
まじ認知したことがなかったですね。
地下鉄の漏水対策に興味があるんですって、
他の人に言っても、
結構さっぱりさっぱりだから。
一般的にはそう言われるでしょうね。
それは結局、著者自身も、
それを合理的に説明できない時間が随分と続いていて、
本書の第1章を落としながら、
それが探求されるわけですけども、
まず漏水対策というのは、
一つとして同じものがなく、
全く同じ場所によっても、
時によって変化しているということが紹介されまして、
僕も考えてみたらそうかなと思うんですけど、
30:02
面白いのは、
気にしていない人にとってみれば、
どれも同じようにしか見えないだろう。
存在すら目に止まらないかもしれない。
興味を持った人には一つ一つが違って見えるが、
興味のない人には同じものにしか見えない。
あるいは、鼻から存在すらしていない。
むしろ一つ一つの違いが見えるということが、
興味を持つことなのかもしれないというフレーズがありまして、
これ最後の一文ですね。
ちょっと噛んでしまいましたが、
ここが非常に重要で、
これはさっきの日記と話と一緒だと思うんですけど、
結局僕らは変わり映えない1日を送っているのは、
自分の1日に興味があんまりないからなんですね。
それは素晴らしい発言ですね。
これは日記を書くとか記録をログを取るようにして、
注意を向けると違いが見えてきて、
それはイコール興味を持つことと、
多分コインの裏表なんですね。
なんなら究極的に自分自身という存在に興味を持つということですよね。
まさにそういうことなんですね。
なんだかよくわからないけれども、
その対象に興味を持ってしまって、
それに調べたりとか情報収集をしていくという、
そういう学術的な機関に入っていて、
論文を書かなければならないというアカデミックなリサーチではなくて、
個人的なプライベートなリサーチ、研究というのを、
僕は個人でやったらいいなとは思っているんですけど、
そういうのって僕はセルフスタディーズと呼んでいるんですけど、
スタディーズは研究という意味ですね。
研究とか勉強という意味ですけど、
これはセルフというのは自分自身で行う研究であるとともに、
自分自身の研究でもあると思うんですよ。
何かを好きである、なぜだろうがわからないときに、
例えば私はなぜそれが好きなんだろうって、
椅子に座って考えても一生わからないわけですよね。
大抵わからない。
その対象そのものについて考えるよりも、
むしろその対象を研究していく中で、
なんとなく浮かび上がってくる仮説、
自分はこうだからこれが好きなのかもしれないという、
だから事故をそのまま研究するんじゃなくて、
事故が研究している何かを通して事故を知るみたいな、
この二重構造でないと、
多分自分っていうのは見えてこないんじゃないかなと、
僕は思ってるんですけど、
まさに本書それをやっておりまして、
セルフスタディーズのそのものをやっておりまして、
事故が行う研究を通して、
事故が発見されていくというプロセスが、
主に第一章の後半部分で展開されるんですけども、
そこで、
著者はこれは手に負えないといういいワードで
くくれるんじゃないかという話でして、
手に負えないというのが非常に絶妙なワードを生じてして、
本当に何もどうしようもないというレベルではない。
33:03
その漏水というのもそうですよね。
まず大洪水は手に負えないという表現ではないわけですね。
もうお手上げということです。
要するにお手上げになってしまうものではない。
かといって、ある手を打てば、
もうその問題は今時代片付きますというものでもない。
局所的な対処療法しかできない。
でも対処療法はできて、
そこは一旦その不都合が抑えられるっていう、
そのような領域の行為を手に負えないという言葉で
うまく説明できて、
そこから連想が広がっていくということで。
言葉としても正確に考えてみると、
やっぱり手に負うことができないんですもんね。
だからずっとは負えないけど、
手当てはできる。
この手当て可能とお手上げの間にあるものを、
その手に負えないものとして。
結局、人が生きていく、あるいは都市を営むとか、
すべてこの手に負えない性の中に収まるもんじゃないかな、
という話はあるんですけど。
僕もそう思うんですよね。
基本的に大体のことは手に負えないの。
政治というものは手に負えないものである、
みたいな感じがするし。
基本的にそういう新しい領域を見つけて、
それを手に負えないというキーワードを
紐づけることで、
著者自身の理解とともに、
このキーワードから色々広がっていくという本があるんですけども。
著者の思い出話の一つとして、
事件らしい事件が起きない小説というのが結構好きらしいですね。
穂坂さんのプレーンソングという小説があって、
僕は読んだことがないんですけど、
いわゆる気象転結が激しいようなストーリーではないと思うんですけど、
あんまり悲しい出来事とかが起きない、
悲しい出来事が起きそうだというような感覚すらも起こさない、
というようなタイプの小説だと思うんですけど、
そういう小説を好んで読んできた人間からすると、
例えば日常において何も起こらないということは、
まずなかなか感じられない。
当たり前のことしか起きない、
その当たり前すら普段は意識していないわけですね。
だから生きているときは、
当たり前のことしか起きてないなと思わないわけですよ。
そうあって当然という中で生きていると。
例えば何も起こらない小説を読むことで、
何も起こらないんだということが初めて自覚されるという、
ややこしい構想があるわけですけど、
何も起こらないせいに小説を通して初めて体験できる。
つまりさっき言うと、
イベントレスネスな日常を初めて自覚することができるという。
だから何も起こらない小説を読むことによって、
目が変わるわけですね、こっちでも。
36:00
ここでもやっぱり目が変わってくる。
日常を見る目が、
当たり前のことしか起きてない日常を見る目が磨かれる。
そうすると、その当たり前のことの中に、
ちょっとした違いがあるとか、いろいろ気づくことができていくと。
だから、目をどう変えるのかという観点において、
そういう何も起こらない小説を見るというのが有効という話があって。
再び引用ですけども、
今世界は人に反射的に注意を向けさせるべく巧妙に設計された仕組みが溢れている。
また同時にそれをこうするようにして、
自分とは直接関係ないものをなるだけ排除し、
意識しないことを良しとするミニマリズム的姿勢が広まっている。
これらは対立しているようでいて、
実際には相互補完的である。
そしてそのことによって、
本来私が人々に興味を向けてほしいと願うものへの
興味の持続が幅が割れていることも事実なのだと。
もうこの前半部分は、
お気配的とほぼ同じことを多分言ってると思うんですね。
で、言ったらその日常にある細かいもの。
話題に上がらないもの。
イベントレスネスなものを見る目が、
僕たちは養われない。
育まれないままに生きていると。
で、著者自身はできればいろんな人に
そういう目を育んでほしい、持ってほしいと願っていると。
来た時に、
片方で強固なプラットフォーム社会があると。
で、著者の願いとしては、
日常にある様々な当たり前なものを目にして、
そこに自分たちの勝ちづけを持ってほしいという願いがあると。
その願い自体が、すでに手に負えないものだと
著者は理解するわけですね。
一刀両断で解決できるものでもないけど、
でも全く無理だという場合でもないと。
何かしら手当を繰り返すことで、
話が前にちょっとずつ進んでいくだろうという観点があって、
そこから作るというキーワードに繋がっていくんですね。
ここは本を実際に読んでほしいんですけど、
この作るというキーワードと、
1冊目の本が出てきたのは、さっき日記を取り上げましたけど、
作品という言葉が対立軸で出たんですね。
作ると作品は多分こうしてるんですよ。
なので、この2冊は実はほぼ同じことを言ってるんですよ。
まとめてしまうと雑だけど、
プラットフォーム的資本主義への対抗手段が、
日記と作るであるみたいな。
そういうことです。
作品を作る内容はここで作品を作ると言ってもいいし、
当たり前的な日常を見る目線を磨く、
その手段としての日記というものを
対抗軸に据えているという点で、
この2冊は多分共通してますし、
39:00
それはつまり問題意識とそれに対するアプローチが、
おそらくこの路線がかなり有効度が高いんだろうなというふうに
ちょっと思うわけですけども、
それは実際に後々検証していきたいところですけど、
もう1個思うのが、
イベントにあふれた日常っていうのは、
晴れ時計で言うと毎日晴れなんですよね、要するに。
計っていうものへの眼差しがない。
計っていうのは、いわゆる日常であり、
同じことの繰り返しだったわけですけど、
イベント、晴れを見る目で計を見たら、
つまらんわけですよ。
でも僕らは、
晴ればっかりもダメだけど、
晴れがなくなればいいっていうもんでもないと思うんですね、やっぱりそれは。
それはそうだっていうことですよね。
晴れを見る目と計を見る目を、
別のものとして捉えた上で、
計を見る目っていうのを、
そこにある、だから、
計っていうのが大切だよねというふうに、
主覚を逆転させるんじゃなくて、
計は計のあり方があるんだよねというふうに、
別軸を立てるっていうことが必要で、
2つとも目とかレンズっていう表現が出てきましたけど、
何かを見てそこにどんな意味を取り出すかっていうのは、
これ聞くとセンスの哲学と同じ話だと思うんですね。
意味とか物語を問う前に形を見ろということが、
センスの哲学の一つのメッセージだと思うんですけど、
あるいは僕らが最初に感じてしまう意味の手前で捉えろということですね。
形を見ろね。
形っていうのは、形とかリズム、パターンっていう言葉が出てくると思う。
うねりとかいう言葉が出ると思うんですけど、
毛の連続とか当たり前とか意味がないとか、
そういう僕らが意味として知覚しやすい、
あるいははっきりとしたイベントとして立ち上がっているものの
手前にあるものを見ようということで、
これも結局目を鍛えるという話と通じるかなと思います。
だから毛の日常というものを極端なことを言えば、
コードログ書いておいたら形は見えるわけですよね。
そこから自分の意味を新しく
意味とか物語を見出すことができるっていうことが一つの解法だと思うんで、
だから僕らロギングホニャラとかよく言ってますけど、
この文脈でもう少し思想的に深めたり
そうか、正当化というか根拠というか
記録の何の意味があるんだがもうちょっと深くできる。
あなたが感じる意味を再構成するとか新しく立ち上げるためにこそ、
まずデータというか形というか物そのもの、
言葉じゃなくて物そのものにアプローチしていくという
42:02
そこから意味のないものから意味を立ち上げる訓練というか、
それをしていくことでその人の物語力というか意味生成力が
上がっていきますし、それが上がることが多分僕は
そのプラットフォームが垂れ流しにする
安直な物語へのカウンターになると思うんですよ。
こっち側に物語のレベル、物語武器力みたいなのが低いときに
やっぱり物語が流れてきたらそれ流されてしまうと思うんですね。
そういうときに物語なんて、物語は悪だから
物語的に解釈するのはやめようという運動があると思うんですけど、
物語的に解釈するのはやめようということ自体が物語なんですよ。
そうじゃなくてやっぱり対抗できるぐらいの物語力を
立ち上げることが多分ポイントで
それはさっき言ったようにイベントに沿った
よく言われているストーリーに沿って物語を書くことじゃなくて
こんなものが物語になるのかという発見ができることなんですね。
僕が思うに。小説を書くって基本的にそういうことだと思うんですよ。
自分の中にあるこんなものが物語になるかどうかわからないまま書いたら
物語になっちゃったっていうものを書くのがストーリーテリングの一つの
コアだと思うんですけど、別にそういう言い方だと別に小説を書くのもいいですし
やっぱり日記を書くのでもいいし、ログを取るのでも何でもいいんですけど
僕らがプラットフォーム化した情報社会と
100%距離を置けるんであればともかくとして
それはハレトケと同じで極端にしてしまうのは良くない
そうした話は単純になりますけど
現代社会で生きる上でそうしたものが持つ力があることは確かに
それを使っていきつつ、かつそこに抗えるようにするためには
こちら側の、ちょっとマッチョに聞こえるかもしれない
こちら側の物語力とか価値を感じる力っていうのを再構成していく必要がある
これは難しいのはやっぱり
もう僕ら標準で意味装置、物語装置を持っているので
ある種のアンラーンが必要なんですねこれは
もともと持っている
アンラーンの書でもあるとこの2冊が
戦争哲学もはっきりアンラーンの書ですし
ここも当たり前と思って見逃しているものから立ち上げるという
一見すると浪水大作なんて何が面白いんやろっていうところから始まらないと意味がないんですよ
初めから共感できるものであれば
この意味の再立ち上げっていうのは起こらないんで
だから僕が今この話をして
この本に興味を持ったら浪水大作が興味がないにしても
騙されたと思って読んでみる
この騙されたと思ってっていうのが実は非常に重要で
騙されたと思ってっていうんじゃないってことは
初めから僕はその意味を知ってますってことなんですね
で騙されたと思って読むのは
その意味が僕にはまだ分かりませんけどっていうところからスタートするわけですよ
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意味の再構築とかリセットとかは
ちょっと今の僕にはその意味分かりませんけどから
スタートを切れるかどうか
だからこれはコスパに賭けてる人間にはできない賭けなんですねこれは
どうなるか分からない
そういう風にも言えるのか
だからある種僕をちょっと信頼してもらって
ギャンブルに賭けるようにちょっと賭けてもらうことによって
初めて新たな意味の再構築が起こるということで
人が誰かを信頼して行動を起こすことの意義は
やっぱりその価値の変容にあるかなと思います
自分がもともと持っている意味装置とは別の装置を立ち上げるということですね
人間の価値みたいなものの言い方として
それもなんかやっぱりだいぶ出てきそうな気がしますよね
出てきますねきっとね
この人が言うことだからちょっと俺を信頼してやってみるみたいなことは
クロードに言われても嫌だよって思うけど
そういう言い方されたら嫌やね
すごい嫌だわって絶対やらんわぐらいになっちまうけど
でもやっぱり価値の隙間というか
今あいちゃっている価値の狭間を超えるためのジャンプは
信頼とか憧れみたいな人間特有のマインドセットな気がするんで
そこをどう使えるかとかあるいはどう託せるかっていうところが
人間の価値の広げ方の一つの課題であり希望でもあるかなという気がしますね
なんかね結構やっぱ
俺は個人的にこのやっぱ浪水対策に興味があるという人のことを
もうそれだけでめちゃくちゃ面白いやんって思うんですけど
それもかなり価値の開拓が進まれてる
よしよしは置いといて
人類の半分ぐらいはマジで理解しようともしないような印象があって
そこは何なんだろうなっていう言い方はちょっと雑なんだけど
そういう人たちはどういう価値観で生きているんだろうなというのを
割と真剣に思ったりするんですよね
だから価値を開拓することに慣れてない?
誰かが牽引付けたものだけが価値というところが
一歩も動けないという感じじゃないですかね
結局自分自身の価値観がとてつもなく固く固定化されてしまっている?
安全ではありますよね
動揺とか動くことがないので
固い建物として固いっていう感じ
だからでもすげー自信に弱いんですね
人生が足りないやつですよね
そこがポイントですけど
でも日本社会の場合はそういう人が多くなりそうな気がしますけどね
疑うなということが多いわけです
疑うなでもあるのかそれは
言い方として
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この価値が絶対です
他の価値は認めませんっていうことが多いんで
これって面白いんですよって
僕らブロガーは言うわけですね
他の人がまた価値を認めてないものに
周りを気にせずこれって面白いですって言うわけですけど
あれは結構日本社会で勇気のいることだと僕は思いますけどね
言われてみれば
ご近所さんにそういう話をするかって言ったら
せんと思うな確かに
そういう
ある程度インターネット気心知れた空間であるからこそできる
だから環境次第ですね人間の
完全な内面のハズルというよりは
その人が置かれている環境とか
立ち振る舞いを統制する何かによって
こういうのが出たり出なかったりするということは
あるとは思いますけどね
そしてやっぱ基本的に多数派が
こういう価値観を認めようじゃない
考慮しようともしないのであれば
人は言わんくなってしまいますよね
そういうことを
それもだから
10人に5人ぐらいはどっちでもいいと思っていて
3人ぐらいが絶対嫌と思ってた時に
5人は合わせるから
3人が強く否定するイメージですよね
そんな絶対面白くないぐらいの話で
特定多数がそう思っているように思えるけど
案外話を聞いてみると
5人ぐらいは面白がってくれる人もいるというのが
インターネットで生活してきた人間の
感覚ですけどね実感ですけどね
そこがやっぱ自分が希望を持った
インターネットの素晴らしさみたいなところではあったからな
それはやっぱりもう1回再構築していく上で
そのプラットフォームとの力
アフォーダンスとどう抗うのか
やっぱり考えていく必要がありますし
ゴルゴさんはたぶんもともと自分の好きなことが
マスにあんまり合致してなかった
ほとんど合致してなかった
だからたぶんそれは他の人にも
そういうものがあるんじゃないかっていう
イマジネーションをたぶん育まれたんじゃないかなと思うんですよ
そうかそうか
かつてはたぶんね自分の好きじゃない
好きなもの以外を認められはしなかったんだろうけど
40年も経てばそこは広がっているのかもしれない
だからやっぱりインターネット空間が
僕らに与えた経験の大きな部分ではあるんですね
いろんな人がいていろんな好きがあって
いろんな形で発信があるということを
わざわざと見てきた20年ぐらいだったわけですけど
でも例えばいい大学に出ていい会社に
勤めてルートで生きてた場合
どこまでそういう多様な経験ができたかは
かなり怪しいかなという気はしますけど
そうですねマジでただの結果論だけど
いわゆるいい会社とかいかんくって良かったなと
今は本当に負け惜しみなく思いますからね
正常倍率ではあるけど
いろんな言い方が別にできる
フリーランスで生きることが正解とは言いませんけど
51:02
市民の周り10人いた時に1人ぐらい
フリーランスと人がいてもいいよなとは
僕は思いますけどね
生き方の多様性としては
講義のフリーランスとかなら今の時代なら
10人に1人いやクラスに1人かな
3,4人に1人かな
3,4人に1人ぐらいはいいかもしれないし
そうやって自分が生き方を考えようとした時に
フリーランスもありだなって思える方が
多分幸せだと思うんで
それが選択肢としてあることが
だからそういういろんな価値観を肯定する人たち
あるいは一見すると何が面白いか分からないもの
面白がってる人たちが周りに増えることによって
さっきの多税に無税理論で言うと
増えていくんじゃないかな
それを認める人が増えていくんじゃないかなとは思うんで
それはインターネットこれから僕らは多分使っていくと思いますけど
その記録していくこと日記を書くことと
共に何かを作り始めることということが
一つ大切なポイントかな
ログも作るという行為に近いとは思うんですけど
自分の足跡を作るみたいな
そういうのも近いし
この作ると作品については
今回は深く触れませんので
興味がある方はそれぞれの本で何を語られるかは
見てほしいんですけど
作るという行為は
対象をじっくり見ることに繋がるという話が出てきまして
すごくよく分かります
だから目を磨くという意味でも
何かを作るって非常に実践的ですし
前回の話で聞くと
自分で料理を作ると人の料理が分かるようになるんですよね
本当に
初めて外食でどうやって作るんだろうという観点が生まれた
これちょっとニンニク多めに使ってるなみたいなことが
普通に分かるようになってきますし
当然例えば自分が作ることをした後に
料理動画を見ると
はるかに理解度が上がってくるんで
とりあえず一回作ってみる
作れるものは限界はあるにしても
料理でも衣服でも何でもいい
作業机でも何でもいいんですけど
作るという経験を通すことで
自分の見る目っていうのを変えていくというルートもありまして
日記とかログ的なものを貯めていくとか
あるいは自分で何か興味があるものを作ってみるっていう
それは芸術でも工作でも分野は何でもいいんですけど
絵とか音楽とかも代表的ですよね
そういうような行為を可能な限り日常で取り戻してみる
100均とかいったら簡単芸術セットは簡単に揃いますんで
高級なものとか
道具から入る人もいるとは思うんですけど
経済的にあれやったら1000円ぐらいで簡単に芸術セットも始められるんでね
だから作るとかログ取るとかっていうのは
何の役に立つねんっていうことを言われたときに
あなたを目を変えるんですよという言い方が
54:02
できるようになったんではないかなというのが
この日立から受け取った内容でございました
勝手に無理やり付け加えさせていただくなら
目を変えることで幸福にも気づけるようになるのではないかと思って
それはそう思いますね
いろんな意味に気づけるということは
いろんな嬉しさとか楽しさにも気づけますし
さっき言われたように
そのこと自体が自己を肯定するというほど強くはなくても
生きててよかったな感がちょっと強まってくるかなという気がしますね
あと日常がつまらなくなくする工夫はそこでもあると思うんですよね
どれだけ熱中しつつ同時にメタに見れるかというこのバランス
そうですね
熱中している瞬間はしているんだけど
そこからまたさっと戻れる
どっちがいいんだろう
ちょっと難しい部分はあるけど
でも例えば何かイベントに行って
コンサートに行って帰ってきて日記を書くみたいなことすると
その往復があるよね
そうですね
コンサートの楽しみ方がやっぱり一家制のものではないものになる印象はありますよね
そうしておくことで
だからやっぱり振り返るとかっていうことの意義はそこにありますし
前に前に速度よく進んでいく前進していくってなると
その振り返りが多分省かれてしまうので
経験的に経験値的に多分ちょっと損してる気もするんで
本当にコスパを考えるんであれば真なるコスパを考えるんであれば
振り返った方がいいよっていうふうには言えるかも
俺そもそも日記書いてる理由がかなり自分はほぼそれですね
なるほど
なんか忘れたらもったいないやんっていう
なるほどね
だからそういうのをやって日記なんて本当に明日から始まりますし
書くことの内容
今すぐ始められますね
書くことの内容から始まるんだっていうことに気づけると
日記の内容変わってくると思いますよあれは
書くことの内容なんてもう少しも思わなくなったもんな
書くことはあるんですけどそれは目が育ってないからというところで
書くことないから書けないからが日記の本番だと気づくと
むしろある種のゲーム性が出てくると思うんで
そこらへんからの考えを変えると
日記とかログとかっていうのが続きやすいんじゃないかなと思います
はいということで今回のご意見ご感想あれば
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感想お便り励みになっております
サポーターも募集しているので
よかったら概要欄から詳細等ご覧いただければと思います
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました
ありがとうございます
56:55

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