著者が福男さん、福男拓美さんということで、哲学研究者とメディア批評家ということで、
当然専門がフランス現代思想、当然と言いましたけどフランス現代思想で、
というのもさっき言った言葉と物っていうのは風光の本のタイトルなんですけどね、要するに。
そこから拝借しているということで、その辺の分野を研究されているとか、
芸術論とか映像論をやっておられる方で、
主な著者にメガスクリーンになるとき、ゼロから読むドゥルーツ、
シネマっていうのと、非美学、ジル・ドゥルーツの言葉と物、
あと人ごとクリティカルエッセイズっていうのがありまして、
この非美学、美学にあらずという本が、第15回のキノクニア人文大賞を受賞しておりまして、
2015年、2025年の、これは結構すごいんですけど、
2025年のラインナップを見ますとですよ、
センスの哲学があり、
なんで働いていると本が読めなくなるのかがあり、
あらゆることは今起こるがあり、
全く新しいアカデミックライティングの教科書があり、
ものすごいどれも人気になった。
それを倒した一冊。
というぐらいの本で、それで人気になられた方で、
この本が出たというところです。
先ほども言ったように、批評についての批評でもあり、
社会批評とか作品批評とか、いろいろ入った本でして、
第1回から第11回までの11本入ってますが、
解と書かれてまして、章ではないと。
連載時は当然、連載って基本的に解じゃないですか、雑誌の連載って。
それを単行文化するにあたって、本らしく章にしようかなと思ったと書かれてたんですけども、
この1から11が例えば連続的に話が展開していくわけではないんですね。
一個一個が独立して読めるエッセイになっているということで、解という言い方をされてます。
内容というか本の組み方が面白くてですね、
これもちょっと映像を見ないとわからないんですけども、
AパートとBパートに分かれてるんですよ。
11回の連載がある中で、AパートとBパートがありますでしょ。
Aパートは見てもらったらわかるように、下が空いてるページ組なんですね。
ページの下部分が空白になっている。
Bパートは逆にページの上部分が空いてる組で、読んでいくと。
一回の中でAとBがある。
例えば1がA、2がBみたいな感じ?
ということではないんですね。
一回の中にAもBもある?
第一回がまずAの1から始まり、その第一回の中にBの1があり、
さらにその一回の中にAの2があって、次は第二回はBの2から始まるということで、
ジグザグしながら話が進んでいくと。
最近ラスタさんがジグザグって言ってるような感じで。
これSFって言ってもちょっとホラー性もあるよねっていう言いにくさはありますけど、そのレベルではない。
既存のジャンルをどれ言っても半分ぐらい違うみたいな感じのする本でして。
ノンフィクションである?
ある。
間違いではない。
間違いないと思います。
定数としてはエッセイを読んでいる感じで読めると思うんですけども、
2部構成になってまして、第1部が第1回から第6回で、第2部が第1章から第4章まで進めまして、
第1部が地下鉄にも雨は降るということで、
著者は地下鉄の漏水対策、水漏れ対策に非常に興味があると。
いきなり面白い。すごい関係なくて素晴らしいですね。
それを例えば写真に撮ったりとかして、ある種のセルフフィールドワークみたいなのをしていると。
でもそもそもなぜ自分は漏水に惹かれるんだろうかということを著者自身も分かっていないと。
なのでそのフィールドワークを実際に続けながら、いろんなところをたどりながら、
そもそも自分はなぜこれに興味があるんだろうということも考えていく。
それが第1部。
第1部の最後、第6回で、自分というのは漏水対策のようなものを象徴する言葉として、
手に負えないものと呼んでいるんですけど、
手に負えないものに興味があるのではないかと閃いて、
第2部からは、著者の歴史というか、子供の時代に何が好きだったとか、
何の興味を持っていたのかというところを一回遡るという話があって、
あと見るとか作るとか編み直すというのが展開されるんですけど、
手に負えないというキーワードを展開しつつ、
著者の自分の経験とか好みとか、実際に今やっていることということが語られ直していくという2部構成になっておりまして、
1部と2部もだいぶ違いますし、
まず、漏水対策をフィールドワークする本というのもあまり見たことがないので、
それが半分ぐらい締めているということですかね。
半分以上は締めています。
このままずっとフィールドワークの話が進むのかなと思ったら、結構急に話が飛びまして、
著者は京都の我が会社屋さんが実家だったらしいんですけど、
その中でいろんなものを作っていく暮らしの中でこういうことがあったのではないかなという過去とかが語られ、
今自分がやっていることとかが語られて、
ある種の事例みたいなものが半分あってというものが一つ組み合わさっているという本でして、
こっちはもう何の前提知識もなく読める本ですけど、
多分読んだことがないタイプの本だと思うので、
何が来るかわからんぞという心構えで読まれるといいと思います。
両方の本は面白いですけど、
思想に興味がない方でもこの手に負えないを読み直すと多分読めると思いますし、
何ならちょっといろいろ知的生産の技術的にも学べるものが多いのではないかなと思います。
本を書く程度はほぼ間違いなく知的生産ではありますよね。
知的生産を進める上でテーマの設定とかっていうのがあるわけじゃないですか。
当然人によっては今バズってるからっていうこともあると思うんですけど、
自分の人生に関わる深いテーマ性をどう見つけるのかという
一つのサンプルになってるなとちょっと僕は思ったわけですね。
基本的に研究テーマっていうのは、
例えば学校の先生、教授とかと相談したから決めていくってことが多いと思うんですけど、
市民の知的生活っていうのは基本的にソロ活動なので、
テーマの深掘りとか問い直しっていうのがなかなかしづらいと思うんですけど、
こういうふうに実際にやりながら考えていくことができるという実践例になっている本かなと思います。
そういう2冊を今回取り上げつつ、
共通的なテーマが見つかればいいなということを進めていきます。
今回はこれならあれですね。ちゃんと時間配分大丈夫ですね。もうこれで。
とりあえず2冊の本で今回は終わったので一段落というところで。
1冊目の本からお気配的というタイトルがあって、
的がついてるんですけども、そのお気配とかお気配的っていうのはどういうことかという本書の主張をピックアップすると、
まず定義としてコロナ禍以降に社会はお気配的なものになったと。
ここでいうお気配っていうのは単なる物流の変化ではなくて、むしろ情報技術の変化であると。
お気配したことがある人はいると思うんですけど、
されたことじゃないかな、イメージとしては。
お気配注文をしたことがある方はわかると思うんですけど、
到着はメールとかで来るわけですね。
荷物が到着しましたって言って。
玄関の外に出たら荷物が置かれているという状況になっていると。
それはすべてインターネットを介した情報テクノロジーによって成立してるわけですね。
しかもそこで行われている行為の意味そのものが変わっているのではないかと著者は言うわけですね。
意味が変わっている。
まず、お気配ではない届けるものっていうことを考えたときに、
例えばポストに投函してとか手順があったときに、送る人はポストに入れると。
郵便会社はポストから回収して、受け手のところまで行って、受け手の郵便受けに入れると。
受け手の人は帰ってきて、その郵便ポスト開けて荷物を受け取るということがステップが分かれているわけですけど、
それぞれがまず自分の行為の責任の範囲がまず限定されてますね。
ポストに入れるまでとか、届けるまでとか、受け取ってからとかというふうに分かれている上に、
ちゃんとそれが届いているかどうかが情報として確定しないわけですね。
昔の郵便制度でいうと。
半個もらわん限りないですね。そのシステムでいうと。
そのような情報的隙間があるからこそ、いわゆるデータの誤配というのが起こるわけですよ。
分からん状況があるから。
でも今は例えば、荷物が届きましたというあの通知は、もちろんその発信、
荷物を届けた本人にもログとして残るし、プラットフォームAmazonにもログとして残るし、
僕にもメールが来るわけですね。すべてが同時なんですね。
しかもみんな同じ情報を一斉に抱えて捉えていると。
つまりそのかつてその郵便にあったような隙間が全くなくなっていると。
そしてすべてを支配しているのはまさにプラットフォーマーだけであるという情報テクノロジーが入ったことによって
単に置いてもらえるようになりましたというだけじゃなくて、
人が荷物を預かって届けるという行為に含まれた意味そのものが変わってきている、
変質しているのではないかということを一つ言いたいために置き配という言葉を出したと。
結局面白い話なんですけど、
置き配で配達している人は荷物を届けるためじゃなくて、
荷物を置いたという写真を撮るために物を運んでいるんだという話がされまして、
荷物を運びたいからじゃなくて、荷物をそこに置いたという写真を撮るというある種のありばいではないですけど、
その情報、そのメタ情報ですね。届けたというメタ情報を保持するためだけに物を届けていると。
これはある種ポジショントークと一緒ではないかという話が出てくるんですね。
インターネットによるポジショントークというのは非常に面白くて、
内容じゃないんですね。何を言ったか言ってないか、何に関することを言ったか言ってないか、
ということだけなんですね。内容は関係なくて、あの人は現政府の批判を言った、言ってない、
それだけなんですね。これがいわゆるポジショントーク。内容は関係なくて、
ある陣営、どっちかの陣営に自分は属しています、属していませんというメタ情報を発信するためだけに行われるものを、
本書ではポジショントークと呼んでいると。
俺が認知しているポジショントークとはちょっと違う感じがするけど、そうではないってことなのかな?
そうですね。この文脈で言うポジショントークはメタ情報、内容そのものよりも、
私はどっちの陣営に属しているんですかというメタ情報を伝えるためだけの発信ということですね。
そのようなポジショントークはTwitterなどのプラットフォームで行われると。
結局そこに投下されるあらゆるものがコンテンツと呼ばれるものになってしまって、
プラットフォーム上で消費されていると。
お気配的なシステムにおいては、当然よく言われる言い方で言うとプラットフォーム化する社会であり、
これはプラットフォーム資本主義とかテクノ保険制という言葉とほとんど同じニファンスを持っていると。
で、著者としてはすべてがコンテンツになって、あらゆる発言がポジショントークとして消費される空間というのは我慢ならんというか、
批評家なので彼は、著者は。
どうにかしたいと、それを本書では考えていこうというふうにして、
その観点からいろいろ11回の論考が行われるわけですけど、
そこに軸としておそらくこれが打ち出せるんじゃないかということで、
作品と日記という一つの対抗軸が提唱されますね。
つまりコンテンツではなく作品を、ポジショントークではなく日記をというのが本作の大きな切り口。
主張、解決方法みたいなやつ。
そう、提案されているのがそこになると。
この作品と日記の、僕はこの日記の方に僕のハイライトがついたわけですけど、
僕は結構日記的なものが非常に好きなんで、
その日記っていうものが、いわゆるこの現代のプロットフォーム化する社会に
どう対抗、レジスタンスのツールとして使えるのかという観点で読み進めておりました。
あらゆる発言がポジショントークとして消費される空間というのは基本的に、
特にプロットフォームがそうなんですけど、発言させられるわけですね。
いろんなものを反応させられる。
これ結局、素か密かで言うと、密なわけですね。非常に密度が高い。
何かを言いなさい、何かを言いなさいと言って、僕らは反応的にされているけど、
結局、例えばそのような状況に対抗して、僕は何も言いませんっていうことも結局一緒なんですね。
この話題については何も言わないということは一つのメッセージになってしまうわけです。
ネタ情報が存在してしまう。
つまり、そこの何か激しく言うのと、めっちゃ黙ってるは結局一緒のことだと。
そこから意味のないものから意味を立ち上げる訓練というか、
それをしていくことでその人の物語力というか意味生成力が
上がっていきますし、それが上がることが多分僕は
そのプラットフォームが垂れ流しにする
安直な物語へのカウンターになると思うんですよ。
こっち側に物語のレベル、物語武器力みたいなのが低いときに
やっぱり物語が流れてきたらそれ流されてしまうと思うんですね。
そういうときに物語なんて、物語は悪だから
物語的に解釈するのはやめようという運動があると思うんですけど、
物語的に解釈するのはやめようということ自体が物語なんですよ。
そうじゃなくてやっぱり対抗できるぐらいの物語力を
立ち上げることが多分ポイントで
それはさっき言ったようにイベントに沿った
よく言われているストーリーに沿って物語を書くことじゃなくて
こんなものが物語になるのかという発見ができることなんですね。
僕が思うに。小説を書くって基本的にそういうことだと思うんですよ。
自分の中にあるこんなものが物語になるかどうかわからないまま書いたら
物語になっちゃったっていうものを書くのがストーリーテリングの一つの
コアだと思うんですけど、別にそういう言い方だと別に小説を書くのもいいですし
やっぱり日記を書くのでもいいし、ログを取るのでも何でもいいんですけど
僕らがプラットフォーム化した情報社会と
100%距離を置けるんであればともかくとして
それはハレトケと同じで極端にしてしまうのは良くない
そうした話は単純になりますけど
現代社会で生きる上でそうしたものが持つ力があることは確かに
それを使っていきつつ、かつそこに抗えるようにするためには
こちら側の、ちょっとマッチョに聞こえるかもしれない
こちら側の物語力とか価値を感じる力っていうのを再構成していく必要がある
これは難しいのはやっぱり
もう僕ら標準で意味装置、物語装置を持っているので
ある種のアンラーンが必要なんですねこれは
もともと持っている
アンラーンの書でもあるとこの2冊が
戦争哲学もはっきりアンラーンの書ですし
ここも当たり前と思って見逃しているものから立ち上げるという
一見すると浪水大作なんて何が面白いんやろっていうところから始まらないと意味がないんですよ
初めから共感できるものであれば
この意味の再立ち上げっていうのは起こらないんで
だから僕が今この話をして
この本に興味を持ったら浪水大作が興味がないにしても
騙されたと思って読んでみる
この騙されたと思ってっていうのが実は非常に重要で
騙されたと思ってっていうんじゃないってことは
初めから僕はその意味を知ってますってことなんですね
で騙されたと思って読むのは
その意味が僕にはまだ分かりませんけどっていうところからスタートするわけですよ