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こんばんは、ゆうこです。このチャンネルでは、私の読書録や日々の学びを音声配信しています。
今日は、フラニーとズーイ、サリンジャーの本について話してみようと思います。
米国東部の名門大学に通うグラスケの美しい末娘、フラニーと俳優で5歳年上の兄、ズーイ。
物語は、登場人物たちの都会的な会話にあふれ、深い隠喩に満ちている。
エゴだらけの世界に疑問を覚え、小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー。
ズーイは、祭旗と言う和に富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。
ナイブで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作、村上春樹による新訳ということで、
私は村上春樹訳を読みました。新調文庫ですね。
このフラニーとズーイはですね、インスタの中で知り合った方からお勧めいただいた本で、
サリンジャーはね、私苦手なんですけれども、あの、せっかくお勧めいただいたので読んでみようと思って読んだ本でした。
フラニーとズーイね。あの、訳によってはズーイではなくゾーイと訳すパターンもあるそうですね。
春樹さんはフラニーとズーイと訳しているので、私もそれに習っていきます。
フラニーとズーイはですね、フラニーパートとズーイパートを2つに分かれています。
フラニーパートは60ページぐらい、結構短いんですよね。ズーイパートが結構長くて200ページぐらいあるのかなと思います。
フラニーとズーイは兄弟ですね。ズーイの方がお兄さんでフラニーが妹。
ただ、この2人はですね、2人兄弟ではなくて7人ぐらいかな。兄弟の中の一番下の2人なんですよね。
で、上の兄弟はですね、あの、ちょいちょい名前が出てきたりするんですけど、シーモアとかね、バディとか、ボーボーとか出てくるんですけど、
ボーボーだったっけな、ブーブーだったっけな。シーモアはね、亡くなってるんですけどね、この人がね、結構なキーマンなのかなというふうに思います。
フラニーパートはですね、フラニーがボーイフレンドとデートをしている場面から始まるんですけれども、読んでいくとですね、ちょっとねフラニーはね、
なんというか、今で言うところのちょっと病んでる感じなんですよね。
どんなことを言うかというとですね、大学生の女性がですよ、デートの時にこういうことを言うんですね。
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この人は演劇家にいて舞台女優をしているんですけれども、私はもうそれをやめちゃったのって言うんですね。
だんだん見ともない気持ちになってきたのよ。自分がいやらしいちっぽけなエゴむき出しの人間になっていくみたいでっていうね。
エゴというものに取り憑かれてしまうんですよね、フラニーは。周りの人のエゴも許せないし、それに対して許せないと思っている自分のエゴも許せないっていうね。
もう非常にデッドロックのような状況に陥ってしまっていて、周りのことが許せない、非常に傲慢で独善的な考え方になっていってしまって。
フラニーはとっても賢いので、それ自身にも自分がいち早く気づいていて、だからこそ自分が嫌で嫌で仕方ない。
そんな自分のエゴがもう嫌で仕方がないということで、ある宗教書を持ち歩いて、祈りの言葉をつぶやいたりするわけです。
そこでですね、デートの途中に倒れてしまって、ズーイパートではフラニーが実家の家のソファーでずっと寝たきりで、
もう食事も口にしないというところから、ズーイパートが始まっていくわけです。
で、ズーイはですね、このフラニーが心配なんですけれども、ズーイより心配する母親からフラニーと話してくれって、
あのズーイがお風呂に入っているところに母親がズカズカと入り込んできて、まあそんなことを一生懸命言うわけですよね。
あんたが話してきてよ、みたいにね、母が。この母もね、変わってて面白いんですよ。
グラスケの人たちはきっとね、すごく変わっている人たちばかりなんだと思いますね。
グラスケの子供たちは、小さい頃からのテレビ番組に出ていて、えーとなんだっけな、タイトルちょっと忘れちゃったけど、
子供が、頭の良い子供たちが出るクイズ番組みたいなものにみんなデビューしててですね、グラスケの子供たちは
見た目もみんな美しく綺麗で頭も良いっていうね。 ただそのとても宗教的価値観にあの
寄っているというかですね。 まあ頭の良い人がたどり着くところですよね。
仏教だとかキリスト教だとか、究極極めていて、その宗教的哲学であの
物事を考えている、すごくね、こうメタ認知しまくっている人たちなんですよね。
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あ、ワイズチャイルドという番組名ですね。 で、これに出てたズーイとフラニなんですけれども、まあそういった
子供の時から少し大人びた経験をしている。 で、自分のあの兄姉はもう親ぐらい離れているわけですよね、年齢がね。
すごくこう大人びた環境の中で育って、 宗教的哲学感みたいなものがめちゃくちゃ発達している2人。
で、そんな末娘のフラニがですね、悩んでいることを誰も解決してあげられないわけです。
で、あの可愛くて美しくて頭の良くて、演技も上手な末娘が、あの一人空に閉じこもって、あの学校も行かず、もう演劇もやめてしまうと言っている状況を
兄のズーイも母親も父親も何とかしたい。でも何を言ってもフラニには響かない。
そこで、あの登場というか、じゃあ何とかしようかというのがズーイなんですけれども、
ズーイもですね、あの一風変わっているグラスケの子供なので、
なんというか学面の悪い子を心配する兄を、兄でフラニに接するということにはならないわけですよね。
ズーイもズーイで、まあ結構傲慢だし独善的だし、そんな態度でフラニに、まあいろいろズケズケというわけです。
で、フラニを怒らせちゃって泣かせちゃって、もう話にもならない。そんなことになってしょうがないということで、
ズーイはですね、兄のバディと父も部屋に行って、ある走り書きを眺め見るわけですね。
そこに書かれているのはですね、すごく面白くて、何が書いているかというと、例えばですね、
バガバットギーターというところから出典されている、こんな言葉ですね。
人は仕事をする権利を持っている。しかしあくまで仕事そのものに対する権利のみである。
仕事の成果を求める権利はない。成果を求める欲望が仕事の動機であってはならない。
またそこに怠惰の入り込む余地があってはならない。
あとはですね、マルクス・アウリリウスの、それは自らの正義を愛した。
あとは小林一佐、片つぶり、そろそろ上れ、富士の山、などなどですね。
そういったいろんな賢人の仕事に対する価値観だとか、エゴに対する各人の認識みたいなものが、
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走り書きされたものが、シーモアとバディの兄たちの部屋に貼ってあるわけですね。
で、それを随意はこう見ていくわけです。
これってつまりどういうことかというと、今フラニーが陥っている、その自分のエゴが許せないというデッドロック状態で、
きっとこのグラスケの兄弟たちはみんなが通ってきた道なんですよね。
で、そうやってシーモアだとかバディだとかズーイだとかが、それぞれ20歳ぐらいの時に通ってきた。
通って自分たちも悩んだり、乗り越えたり乗り越えられなかったりして、でもなんとかその乗り越えをした奇跡みたいなものを自分たちの部屋に残したり、
兄弟に言葉できっと語り継いでるんだと思うんですよね。
それをもってズーイは兄たちの言葉、兄たちが自分たちが悩んだ時に頼った賢人たちの言葉を読み直して、最後もう一度フラニーと話をするんです。
ただ直前にフラニーに直接話をして、散々怒らせて泣かせてしまったので、
ズーイはですね、ある作戦を用いるわけです。
それは結局フラニーにバレてしまったんですけれども、電話越しでズーイとフラニーは話をすることになって、
このフラニーとズーイの話の中で一番有名なエピソードだと思うんですけれども、
太ったおばさんっていうのが出てくるんですよね。
太ったおばさんっていうメタファーというか比喩表現ですよね。
比喩表現を用いてフラニーに語りかけるわけです。
で、この太ったおばさんを用いた比喩表現でズーイが語りかける言葉、
それはズーイ自身が自分自身に語りかけたり、誰かに語られたことだったんだろうし、
それを語った兄たちがまた自分たちを、自分自身を慰めた言葉、比喩表現だったんだろうなぁと思うんですけれども、
それがフラニーにも響くということで、このフラニーとズーイのズーイ編が物語として閉じていくわけなんですけれども、
この本を読んで何を感じたかというとですね、まず一つはこのサリンジャーが書くフラニーとズーイっていう兄弟の物語、
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それをこの二人以外の家族も含めた家族の物語、一人一人がとてもユーモラスで、キャラが立っていて、すごく面白いんですよね。
とにかくユニークな家族を描いていて、当時この、何年ぐらいなんでしょうね、舞台としては1950年頃なのかな。
その当時のアメリカの若い青年たちがどういったことに悩んでいたか、特にこの今よりきっと宗教的な価値観に強く、
自分の自己概念みたいなものを支配されていたり左右されていたような頃の若者がどういうふうに考えていたのかっていうのが、きっと書かれているんだろうなぁと。
そういった面白さがありました。それを村上春樹さんが訳しているということで、とてもね、村上春樹的な小説になってたりするんですよね。
あの、やれやれとか言っちゃうし。それは、また他の方の役を見るとちょっと違うふうに表現されているのかもしれなくて、
違う人の役を読んでみたいなと思ったりもしました。 もう一つはですね、
これはいわゆるその愛が書かれた物語なんだろうなと思っていて、 兄弟の愛だとか家族の愛だとか、神への愛というものも書かれていると思うんですよね。
で、その神という概念、宗教的哲学がすごく書かれている小説なんですけれども、それは西洋的、東洋的、どちらも入り混じって書かれているので、
私たち日本人、カジュアルブッディストの私たちでも、感覚的にわかるような東洋的な哲学の話もここには書かれていて、さっきも小林一佐の
俳句が出てきた通り、すごく西洋入り混じった哲学的な価値観が描かれている小説でもあるんですけれども、そこで言うと、自分は何のために生きるのか。
もっとフラニーの具体的な言葉で言うと、何のために演じるのか。 私はなぜこう舞台に立つのかみたいな。
演技をして、どのような成果が欲しいと思っているのか。
何か見返りを求めるということは、それ自体がエゴなんではないだろうか。 それは神に見返りを求めることでもあり、それは信仰するとは言えないんじゃないか。
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というような。 その一神経に対する
見返りを求めてしまう自分のエゴを救いたいと思ってたどり着くのが、東洋的哲学。
自分が欲から離れて、迷子から解放されて楽に生きていくのを求める、みたいなところに揺れ動いたり。
でもまた、キリスト教みたいなものに戻ってきたり。 そんなことが、ある意味器用に生き生きしているグラスケの兄弟たちなんですよね。
最後、フラニーとズーイはですね、自分のエゴに対して、どうやってこの折り合いをつけていけば良いのか。
ということを、さっきも出てきた太ったおばさんに例えて、着地点を見出すわけなんですけれども。
結局は、それは
神に対して自分が信仰している姿を貫くということだなぁと、
最終的には私にはそのように思えたんですよね。 それがきっと愛だと思うんですよね。
この小説の中ではそういうふうに描かれていることが、
読んでいるとは、そういうことなんだろうなぁと思うんですけれども、
やっぱり私は愛が何なのかっていうのは、
本質的にはよくわかっていないなぁと一方でも思って、 それは何でそう思うかというと、自分がそういう行動を起こすということがないからですよね。
なんか、 自分のエゴについて悩むことは当然あって、傲慢だなぁとか独善的だなぁって思う、
フラニーが言っていることもすごくよくわかるんですけど、 だからといって私はこの太ったおばさん理論では、自分自身を納得させることができない。
それはやっぱり、神に対する愛とか、愛そのものを私がよくわかっていない、 本質的にわかっていないからなんだろうなぁと。
そういうものよりかは、東洋的な哲学の、 究極自分が幸せであればみんなも幸せという、
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なんかそういう、八百万の神みたいな。
なんかそういう方がしっくりくるからだなぁと思うんですよね。 だから何か一つのものを信じ抜くということができない。
そんな風に感じましたね。 まあそこまであの、いろいろ考えなくてもとっても面白い小説なので、
えっと、 そうですね、サリンジャーはなんかすごく苦手意識があったんですけれども、
なんかこれを読んでちょっと、ちょっとだけ払拭された気持ちになりましたね。
でもね、最初の方はね結構しんどかったです。 フラニーパートはね、「なんなのこの子?」みたいな感じで。
大丈夫かなっていう。 で、ズーイパートに入っても、
もうこの妹にしてこの兄貴か、みたいな。 すごくこう、傲慢な兄弟なんだなぁ、みたいな。
で、そこに出てくる母親、やっぱこういう兄弟の母ってこうだよね、みたいな。 変わってるなぁとか。
でもだんだんそれがあの、面白くなってきて。 で最後、あの、ズーイのね、素晴らしいフラニー絵の、
なんて言うんですかね、問いかけ?みたいなものには本当に心が打たれるというか、 あの感動して、
あらすじにも書いてある、そのナイブで優しい魂を持ったサリンジャ文学というものは、 あ、こういうことなんだなぁっていうのがちょっとね、わかった気がして、本当に読んでよかったなぁと思う本でした。
伝わってるかなぁ? 全然検討違いのこと言ってたら恥ずかしいんですけれども、
私にはそんな風に思えた本でした。 ご紹介いただいて本当に良かったなぁと思います。ありがとうございます。
ということで今日は、サリンジャーのフラニーとズーイ、村上春樹役の本について話してみました。
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今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。 ではでは。