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2025-10-12 11:36

人生はアジの開き#61

30代男性B型はマルクス・ガブリエルの威を借りて人生をアジの開きとする

サマリー

今回のエピソードでは、人生の本質を「アジの開き」に例え、自由意志や意思決定に関する神経決定論について考察しています。マルクス・ガブリエルの哲学を通じて、世界の存在や意思決定の意味を再解釈し、人生における選択の可能性について議論しています。

人生とは何か
人生とは丸々なようなものである、 古今都在考えられ続けている話題ですよね。
みなさんは、人生とは何ですか?って聞かれたときに、何を思うでしょうか。 今回僕もね、ふと考えてみたんですよ。
人生とは一体何なのか、まあ意味があるのだろうかとか、 そもそも意味とは何なのかとか、
自分にとってしっくりくる人生ってどんな解釈なんだろう。 そう考えたときに、ぴたりとくるキーワードに先日出会いました。
それが、 人生とはアジの開きのようなものである。
この考えに至ったのは、ここ数年の読書体験がきっかけで、 いくつかの本を読んでいると、ある主張にね、何度も出会うんですよ。
それが、僕たちの意思決定っていうのは錯覚であるっていう、 まあそういう考え。
脳科学とか神経科学の世界では、神経決定論っていう主張が存在感を強めていて、
人間の行動パターンはすべて人間の意識が介入する前に決定していて、 僕たちは選択した気になっているだけみたいな。
脳の活動を観察すると、本人が決定するよりも前に、観察している人たちが本人の決定を予知することができるんですよ。
つまり、選択っていうか行動っていうのは、本人の意思ではなく、今までの経験とか環境によってすでに決定されていて、
僕らが認識している自由意志みたいなものは、本質的に意味を持たない。 まあ、そういうニュアンスの論なんですよ。
皆さんはね、これを聞いてどう感じますかね。 まああの、例えるんであれば、
アジですよね。 僕たちって生まれた時、大海原を泳ぎまわるアジとして、
このようにね、生を受けたって、そういうふうに思いがちなんですけども、 実際は運命っていうのはもう決まっていて、
アジとして生を受けているんじゃなくて、もう生まれた時からアジの開きとして人生がスタートしている。 そんな感じなわけですよ。
だから僕たちが何を選択しようとも、アジの開きとして生まれてきている以上、 アジの開きとして食べられる運命をたどるしかないわけです。
もしかしたらいろんなことをね、そのアジの開きなりに考えるかもしれませんが、神経決定論によればね、 私たちの育末っていうのはもう私たちの意思で変えることができるものじゃないんで、
アジの開きが、俺は大根おろしを乗せてもらうんだとか、 醤油をかけてもらうんだとか、
果てにはね、人間に食べてもらうんだって、そういうふうに選択しているようなものであって、 それってあの僕たちのね、選択とか自由意思じゃなくて、
ただ決められたレールを進んでいるだけなわけですよね。 だからこそ人生ってアジの開きのようなものである。
そう言えるわけです。 どれだけ頑張ってもアジの開きにしかならない人生、そんな世界。
マルクス・ガブリエルの哲学
ただね、これではね、あまりにも救いがないとは皆さん思いませんか。 ここでですね、この
神経決定論に対してロックスターのように登場する哲学者がいまして、 マルクス・ガブリエルっていう人物ですね。
あまりにもかっこいい名前。 タヤマーとね、比較したときにマルクス・ガブリエル。
まあいいなーってそんなこと思ったりも、まああの
するんですけども、 彼は言っているんですよね。
世界っていうものは存在しない。 これだけ聞くとね、
急に何言い出すんだって、まあそういうふうに思うんですけども、 これちゃんとした理屈があって、これがアジの開きの人生に希望を与えてくれるんですよ。
ガブリエルによると、 この世界っていう、一般に使われているね、世界っていう言葉は
全てを内包する一つの全体を指すものですよね。 世界の食べ物とか、世界の物質、世界の真理って、まあそういうふうに言っているときって、
世界っていう枠組みは、この世の全てを表す最大の枠組みであると。 まあそういうふうにね、私たちも考えていますよね。
ということは、 世界っていうものを除いたところに、何か物質とか概念みたいなものは存在してはいけないんですよ。
なぜなら、世界っていう言葉を全てを内包していなければ、 その意味を果たさないからなんですね。
世界の真理を探求しましたって言った後で、 なんかね、あーそれは世界の外の話かなーって、新たな概念が誕生しちゃったら、
それはもう最初に言ってた世界って、世界じゃないじゃんって、 世界っていう言葉と矛盾してるじゃんって、なっちゃうわけですよ。
じゃあこの世界っていう最大のね、大きな人まとまりは、 世界って言葉に入っているんですかって、これをねガブリエルは指摘しているんですよ。
もうちょっとわけわかんないと思うんで、 ちょっと僕なりのね、あの比喩を通じて説明したいんですけども、
例えるなら、部屋の中っていう言葉に世界を置き換えることができると思ってて、 部屋の中って、まあ部屋の中の椅子とか、部屋の中の机とか、
部屋の中の壁って、そういった部屋の中にあるものって、 部屋の中っていう言葉で内包できますから、
部屋の中っていうのはっていう文脈で、 その部屋の意味をね、考えることができそうじゃないですか。
でも実際は、これ部屋の中っていう言葉に、 部屋っていうまとまりって含まれてませんよね。
部屋の中をいくら説明したところで、 部屋っていう一個大きいまとまりは、あの説明できないんですよね。
っていうのがガブリエルの主張なんですよね。 同じように、世界の理はって話すときに、
この世界の理はの世界に、世界っていうそれ自体、そのまとまりの概念は含まれていないんじゃないんですかと、
ガブリエルはそう指摘しているっぽいんですよ。 まあじゃあね、皆さんあの、もやもやしてきたと思うんですけども、
まああのね、これ僕の解釈なんで、もしかしたら不正確なところがあるかもしれませんが、
このじゃあね、この世界の理はって話すときの世界に世界がとか言ってますけども、
じゃあ僕らが普段話している、世界のって、世界の物質はって、そういう言葉って、 これじゃあ何なんですかって、まあ思いますよね。
これは、ある特定の意味の場の世界でしかないって、まあ解釈されるみたいなんですよ。
世界の理はっていう時の世界は、もしかしたら物理学的な意味かもしれないし、 社会学的な意味かもしれないし、もしくは宗教的な意味かもしれない。
すべてを内包する世界っていうのが存在することができない。 ってことは僕たちが取り扱うのは、そういった様々なある特定の意味の場における
無数の世界でしかないですよね。 まあちょっとザザッと駆け足で話してきたんですけども、
ここで、アジの開きに帰ってくると、この世界っていうのが、いかに希望に満ちているかっていうのが見えてくるんですよ。
改めて考えてみますと、アジの開きは食べられるだけの物語に閉じ込められているって、 まあそう解釈することもできるんですけども、
これって食事っていう意味の場、 その世界においての存在がそうっていうだけなんですよね。
だからこれが芸術っていう意味の場であれば、お皿にポツンと置かれたアジの開きって、 また別の存在を示すわけじゃないですか。
もしくは記憶っていう意味の場であれば、 もしかしたらお袋の味みたいな、そういう形になるかもしれませんし、
僕が今ね、こうして使っている比喩という意味の場においては、 アジの開きは食べられるだけの存在に留まっていないわけじゃないですか。
ということはですよ、同様に意思決定と行動は無関係であるっていう、 神経決定論っていう主張は、
脳科学という意味の場においては真実かもしれませんが、 それは決して世界の真実ってわけではありませんよね。
倫理っていう意味の場においては、僕たちの意思決定、選択っていうのは確かに存在していて、 真実であるっていうことなんですよ。
人生に意味を与える
つまりですよ、つまり人生っていうのはアジの開きのごとく身動きが取れない。 そう見える中で、いかにして意味の場っていうのを広げていって、
自分の存在の解釈を深めていくか、この乾いた体に意味っていう潤いをいかに与えられるか、 そういうことなんじゃないのかなって思うんですよね。
もしかしたらそれはね、険しい道かもしれませんが、 だからこそね、人生は面白いみたいなふうに言われるのかもしれませんよね。
最後にもう一度だけ言います。 人生はアジの開きのようなものである。
ご静聴ありがとうございました。 田山でした。
11:36

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