あなたから、ないがしろにされているように感じる。大切にされているようには思えない。もっと私を大切にしてほしい。
妻からそう言われたことはありますか?妻への思いやりはどうすれば育めるのか?
仕事に家事に子育てに忙しい僕らでもできる、妻への思いやりの育み方を今回はお伝えします。
家事・育児・キャリア・性の問題・夫婦になることで生まれる様々な葛藤をどうすれば僕らは乗り越えられるのか?
アツの夫婦関係学ラジオではそのためのヒントをお送りします。
ということで今回は、妻への思いやりの育み方なんですけど、夫婦関係に思いやりが欠かせないと言われますけど
思いやりって言われた時に、なんかすごい定義が曖昧だなって思う人も多いと思うんですよ。
僕も以前感じたことがあって、思いやりが足りないって言われた時に、具体的にはどういうことなのか、どう定義づけできるのかっていうのが
ちょっと僕は男性は思ってしまうことがあると思うんですよね。
ただ優しければいいのか、ただ黙って話を聞けばいいのかっていう風に脳裏的に考えてしまう癖がどうしてもあると思うんですよ。
じゃあ思いやりとは何か。妻に対して思いやりを持とうって言った時に
思いやりの定義が自分の中にないと実現が難しいなと思うんですね。
僕自身は次のように定義しているんですね。
自分や他者が苦しんでいることに気づき、それを積極的に和らげようとすること。
これはですね、僕のポッドキャストをずっと聞いていただいている方は、聞いたことあるって多分思うと思うんですけど
これはダライダーマン14世によるコンパッションの定義なんですね。
慈悲の心とか思いやりと訳されるコンパッションをダライダーマン14世が定義している言葉がこちら。
自分や他者が苦しんでいることに気づき、それを積極的に和らげようとすることですね。
僕は妻への思いやりっていうのは、すなわち妻に対するコンパッションじゃないかなって思ってるんですよ。
妻が苦しんでいることに気づき、それを積極的に和らげようとすること。
これは何も夫か妻に対してだけじゃなくて、妻から夫に対する思いやりも同じことが言えるんじゃないかなって思うんですよね。
思いやりっていうと定義が曖昧で、具体的にどうしたらいいのか分かりにくくなるんだけど、
このダライダーマン14世が言っている言葉はすごいシンプルですよね。
自分のパートナーが苦しんでいることに気づいて、それを自ら積極的に和らげよう、何とかしようって思うこと。
転んで怪我をした子供に対して、助けなきゃと思って駆け寄る、あの時のこの気持ち、それが思いやりじゃないかなって思うんですね。
これはそのままコンパッションの定義にもつながっていく同じイコールだなって思うんですよ。
じゃあ、具体的にこういった思いやりを妻に対して持つにはどうすればいいのかっていうことなんですけど、
僕は3つのステップが重要だと思っているんですね。
それぞれ順番に今日は話をしていきます。
第一ステップは、妻以外の他者に対するコンパッション、これをできるようにするってことなんですね。
いきなり妻に対して思いやりを持とうって思ったときに、関係性が悪かったりすると、
なに急になるみたいな感じになったりとか、いきなり自分の態度が変わったら妻はどう思うんだろうとかって怖くなったりすると思うんですよね。
そんなこと望んでないとか言われたらどうしようとか、不安になったりもする。
今までの夫婦関係のコミュニケーションの中で、妻に対して今までとは違った対応を取ろうとして、もしくは取ったことがあって、
そのときに妻からの対応、反応があまり良くなかったっていう体験もあるんじゃないかなって思うんですよ。
じゃあそのときにどうしたらいいのかっていうと、まず妻以外の他者に対してコンパッションを送る、思いやりを向けるってことで慣れていくってことですね。
具体的にやることはコンパッションビームなんですね。
ビームって何?って思うとは思うんですけど。
僕もこれは前回の放送に出ていただいた東京生徒大学大学院準教授の石村先生が主催されているコンパッショネイトマインドトレーニングっていうのを向けたんですけど、
その中に出てきたワークなんですよ。コンパッションビームっていうのが。
ウルトラマンかって思うと思うんですけど、何か出すのかって思っちゃうと思うんだけど、ビームって言ってるんですけど、祈りみたいな感じなんですよ。
何かっていうと、誰かに対してこの人が幸せでありますようにっていうふうに相手の幸せを祈るっていう行為なんですよね。
これをコンパッションビームって呼んでるんですよ。
これをいきなり自分の妻に対してやろうとすると結構難しかったりすると思うんですよ。
なかなか慣れなかったりとか、普段やってなかったりするとちょっと抵抗があるとか、どうしようとかって多分なっちゃったりすると思うんですよね。
なので妻以外の他者に対してそれをすることで徐々に慣れていくっていうのがいいんじゃないのかなって僕は思ってるんですね。
そうすると妻に対してもコンパッションを向きやすくなるんじゃないかなって思ってます。
例えば僕が以前やってた方法とか今やってる方法を2つご紹介するんですけど、
以前やってた方法は会社で仕事をしてますと取引先とかと打ち合わせとかしますよね。
もしくは上司とか同僚とかとミーティングをしますと。
ミーティングが終わった後にみんなバラバラと自分の席に帰ったりとか、取引先だったら玄関まで見送ったりとかエレベーターまで見送ったりとかすると思うんですよ。
その時にいなくなっていくその人の後ろ姿を見ながら〇〇さんが幸せでありますようにって心の中で祈るんですね。
もしくは今日が〇〇さんにとって幸せなものでありますようにとか〇〇さんの人生が幸せでありますようにって心の中で祈るんですよ。
怪しいなって思う人もめっちゃ多いと思うんですけど、宗教臭いって多分思うと思うんですよ。
なんか信仰宗教みたいな感じとか怪しいなって多分思うと思うんですよ。
僕も最初怪しいなと思って、すごい抵抗があったんですよ。え?って思ってできるかなと思ったんですけど、
これって当然の反応だと思うんですよ。
そういう人の善意とかを悪用した宗教団体って存在するし、そういった人の善意を逆手にとっていらんものを売りつけたいとか高いものを売りつけたいとかっていう人たちってたくさんいるじゃないですか。
そういう事件もたくさん起こってるし。
それを考えると素直なそういった感情を、優しさとかそういうのを外に丸出しにすることってすごく怖く感じるんですよね。
なんか悪用されるんじゃないかとか利用されるんじゃないかみたいな気持ちになっちゃったりとかするんで、そういうふうに不安に思うと思うんですよ。
もちろんこれは当然の感情だと思うんですね。そういった反応になっちゃうのは当然だと思うんですよ。
だけどよく考えてみると他者に対する思いやり自体は何も悪いことじゃないですよね。
それは悪用とする人がいることが悪いことであったり、その人たち自身が悪い人であったりとかするわけですよね。
純粋に他者に対する思いやりというのは全然悪いことじゃないと思うんですよ。
実際そうですよね。純粋な思いやりというのは。
だけど今僕らが生きているこの社会って自分の利益とか自己実現を追求する流れっていうのが強いじゃないですか。
その流れの中に身を任せすぎてしまうと、他者への思いやりを推奨する思考自体がうさんくさいなって思っちゃったりすると思うんですよね。
だけど人が人間としてというか生物として幸せに暮らしていくためには、他者とのコラボレーションとか他者との協力っていうのはどうしても必要になるわけで、
そこに必要とされてくるのって他者に対する純粋な思いやりとか優しさ、慈悲の心だと思うんですよね。
それが湧き起こることには何の悪いこともないし、誰かに思いやりを向けること自体はすごく尊い行為なんじゃないのかなと思うんですよ。
人間が生物として幸せに暮らすためには他者への思いやりっていうのは欠かさないものなんじゃないのかなって思うんですよね。
それを商売にしてひどいビジネスをする人が世の中にたくさんいるわけで、
そういった現象があるから、他者への思いやり自体も悪くないものとして見えてしまうんじゃないのかなって思うんですよ。
なので、他者への思いやり行為自体は僕は尊いものだと思うんです。
そういうふうに認識を変えてみると、誰かに思いやりを向けること、思いやりっていうのはコンパッション、向けるっていうのはビームってことですね。
祈りをビームのように相手に送るってこと。
誰かに思いやりを向ける、コンパッションをビームするってことは、そんなに違和感ないことじゃないかなって思うんですよ。
そんなに違和感を覚えないんじゃないかなって思うんですよね。
そういうふうに認識を変えてみると、他者に対する思いやりというのは人間として自然な行為であって、
それがあることで僕らは幸せを感じやすくなるっていうふうに認識を変えてみると、自然なことじゃないかなって思うんですよ。
そうやってみると、例えば仕事の打ち合わせの後とか、もしくは職場から出るときに、
そういったいろんな場面でコンパッションビームを使うっていうことがやりやすくなってくると思うんですよね。
〇〇さんが幸せでありますようにって祈るってことは。
僕も最初すごい抵抗があったんですけど、やってみようと思ったんですよ。
大学の先生が言ってるし、怪しい宗教家が言ってるとかじゃないし、信仰宗教の教祖が言ってるとかじゃないから、
信じてみようと思ってやってみたんですよ。
実際こうやって祈ってみると、本当に少しずつ心の中が変化していって、
現れていくような気になるんですよ。
優しさに満たされるような感覚っていうのは感じやすくなってくるんですよね。
これは本当にやってみないと分からなくて、僕が一緒に受けたトレーニングの他の方の一人は、
すごい仲の悪かった、敵視していた同僚に対してこのコンパッションビームを行ったらしいんですよね。
それを続けていったら、すごい関係性が良くなったらしいんですよ。
もう信じられないような天地がひっくり返るような体験だったらしいんですけど、
もう絶対この人とは仲良くなれないだろうなっていう、もう嫌いっていう人っているじゃないですか。
職場とかで苦手な人とかっていると思うんだけど、
そういう人に対してコンパッションビームを送り続けることで、
自分の中のその人に対して認識が変わっていって、関係性が一気に変わったっていう例があったんですよ。
僕も苦手意識を感じている人に対してこれをよく行ってたんです。
最初はできないんで、そんな苦手じゃない普通の取引先とか、
何の感情も抱いてない仕事相手っているじゃないですか。
仕事上の相手みたいなね。
っていう人たちに対してコンパッションビームを最初送り始めて、
こっちは勝手にやっているんで向こうは何も気づかないんですけど、
こっちは勝手に一方的に幸せを祈っているだけなんで、
っていうのを続けていったらだんだん慣れてきて、
自分が苦手な人に対してもそれをやるようにしたんです。
最初はすごい抵抗があったんですよ。
なんでこんな俺に意地悪する人に幸せを祈んなきゃいけないんだって思ってて、
辛かったんですけど、
何度もやっていくと優しい気持ちになれるんですよね、不思議なことに。
その人のこと、自分嫌いなんだけど、
その人が幸せでありますようにって祈ったその瞬間とその食欲の0.5秒くらいって、
心の中に優しさが満ちてくるんですよ。
ジュワーって広がってくるんですよね。
それが心地よかったんですよね。
最初は結構それをやっていて、
そうですね、それをやってましたね。
あとなんだったかな、その後やって…
そうだな、それは誰かと別れるときとかにそういうのってよくやるんですけど、
その後よくやってたのは、一人でいるときに、
僕よく3時間に1回ぐらい外5分ぐらい散歩するんですけど、
散歩しながら丸まるさんが幸せでありますようにっていう風に、
その人と別れたのはもう3時間前とかあったりするんだけど、
なんかちょっとあの人のこの言葉嫌だったなとかってあるじゃないですか。
なんか言われてあれ嫌だったなとかってあったりする。
それをなくしたかったんですよね、僕は。
向こうとしては何の悪意もないことだったりとかするんだけど、
こっちとしてはちょっと傷ついちゃったっていうのってやっぱあるじゃないですか。
それをなくしたくて、散歩しながら丸まるさんが幸せでありますようにとか、
今日が丸まるさんにとってより良い1日でありますように
っていう風に祈るようにしたんですよ。
そうしたら苦手意識が結構なくなっていったんですよね。
これは結構慣れもあるんじゃないかなと思います。
あとやりやすい環境、僕はすごい天気がいい日が当たってる公園の中、
自然が結構多いところを散歩するようにしてて、
そうすると自分の気持ちもリラックスしやすいので言いやすくなるんですよね。
自分が言いやすい環境を作るっていうのも大事かもしれないですね。
こうやって2、3ヶ月間ぐらいこういうことをやっていくと、
自分の体の中にコンパッションが染み込んでくるんですよ。
当たり前のようになっていって、他者に対する思いやりを持つことに
心地よさを感じるようになっていくんです。
これ優越感とかそういうんじゃなくて、
誰かに対して思いやりを持っているっていうそのこと自体が
幸せな気持ちにさせてくれるんですよね。
これ不思議なもので、っていうのがあります。
これで多分自分の子供に対してみんなやってると思うんですよね。
この子が幸せになりますようにとか、この子の今日1日が幸せになりますようにとかね。
例えば小学校に通っている子供で、自分の子供が小学校に通っていて
いじめられてるとか嫌なこと言われたとかっていう話があったときに、
例えばそれは一緒に解決したりとかして、もしくは子供が自分で何とかして
もうパパ大丈夫だからとか、もうママ大丈夫だから、行ってくるねって言って
朝、子供がランドスライドしよって出ていく。
そのときに多分心の中で祈ってると思うんですよ。
この子が今日1日無事に過ごせますようにとか、いじめ子がいじめられませんようにとか
辛いことがあったときにこの子がその困難に立ち向かいますようにとか
今日あの子に何も起こりませんようにとかって祈ってますよね。
多分祈ってると思うんですよ。そういう感情ってありますよね。
僕も子供がね、そういったこれが何だよとかあれが何だよとかって言ってるときに
そういう日に学校に子供が朝行くときにバイバイいってらっしゃいって言うときに
すごい思うんですよ。子供の中で。
大丈夫かなって、この子が今日1日頑張れといいなとか
困難に立ち向かえるといいなとかっていう風にすごい感じるんですよ。
それに似てるんですよ。
子供に置き換えると結構分かりやすいと思います。
それを妻以外の人間に対して行っていくっていう感じですね。
これ2、3ヶ月もやってるとだんだん慣れてくるので
当たり前になってきます。
これを極めることを多分悟りを開くって言うんじゃないかなと思うんだけど
だけど別に僕らは修行僧じゃないじゃないですか。
修行してるわけじゃないからそこまでする必要なくて
他者に対する思いやりっていうのを当たり前のように持つことができて
他者に思いやりを向けるときに心がジュワッと温かくなるっていう
そういった幸福感を感じられれば十分だと思うんですよね。
何とかしてあげたいっていう気持ち。
子供に対して多分感じてると思うんだけど
そういった感情を他の他者、取引先とか仕事の相手とか友達とか
そういった人に、自分が出会った全ての人に
そういった感情を何となく感じられるようになったら
第一ステップはクリアだなと思ってます。
いよいよ最後のステップですね
妻に対する思いやりを向けられるようになるため、妻に対する思いやりを育むための3段階のうちの最後のステップ
ここまでくれば、妻に対する思いやり、コンパッション、感情は自然と芽生えているし、育まれていると思うんですよ
次は、それを言葉にして伝えるというステージですね
この段階まで来ていると、湧き水があふれ出るかのように、妻に対する思いやりは出ていると思うんですよ
心の中ですごく出ていて、自分でもそれを認識できていると思うんですよね
それを言葉にして伝えるというターンですね
それはさっきのように、いつもおいしいご飯をありがとうとか、いつも家事をしてくれてありがとうとか、いつも育児をしてくれてありがとうとか
いつも子供の宿題のチェックをしてくれてありがとうとか、そういうふうな妻に対して感じている感謝の言葉
心の中で思っていることと同じことを伝えるということですね
コンパッションビームと感謝のワーク、第2ステップの部分ですね
これを続けていれば、こういった感情って自然に湧き上がってくるので
伝えることに対しては抵抗感はなくなっていると思うんですよ
恥ずかしいなとか、嘘くさいなとか、という感情もそこにはないはずなんですよね
なぜなら、自分の脳が思いやりを向ける、与えるということに慣れているので
他者に対する思いやり、自分に対する思いやり、そういったコンパッションの概念に疑問を抱かなくなっているんですよ
僕も最初にコンパッショナイトマイントレーニングを受けるとき
その前あたりかな、とかは
そのコンパッションビームとか、他者に対して思いやりを向けるとか
ということにすごい恥ずかしさがあったんですよ
あと自分から自分に対する思いやりを向ける、自分が自分に思いやりを向けるという
その考え方自体も意味がわかんなくて
自分が自分に思いやりを向けるってどういうことだって
俺は一人しかいないぞって思ってたんですよ
一人しかいないのに、どうやって自分に思いやりを向けるんだよって思ってたんですよ
すごいやってみないとわからない概念が多いんですよ
だけど、この第二ステップが終わっていれば
つまり自分に対するコンパッションとして
妻に対するコンパッションの感覚というのは心の中に構築されているから
恥ずかしさとか嘘くささとかっていうのはそこにはないはずなんですよ
だけど、例えば妻に対してそういった思いやりある言葉をかけたときに
冷たくされたとか、冷たくされたってなったときは
もしかしたらそれは妻のセリフコンパッションが足りていないのかもしれない
だからあなたからの思いやりを拒否するのかもしれない
もしくはあなたに打算があるんじゃないかと疑ってるかもしれない
私がいろいろ言ってるからどうせやってるんでしょうとか
私のことを持ち上げといて他のことをやらせようとしてるんでしょうとか
っていうふうに疑ってかかってるかもしれない
っていうのは結構あると思うんですよ
そこが怖いから思いやりを向けられないとか
そういった言葉をかけれないっていうのはあると思うんだけど
セリフコンパッションと今回の第一・第二ステップができていれば
そういった変な疑惑をかけられたりとか
拒否されるかもって恐怖感があんまりなくなってくるんですよね
なぜかというと道に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に捨てると同じことなんですよ
妻に対するコンパッションを向けるっていうのは
あまりにも当たり前のことすぎて
なんでそんな疑問に思うのっていう感じになるんですよ
疑問に思われてることすら何の痛みも感じないよっていう感じになるんですよ
不思議なことに
自分にとってそれが自然なことだから
自分が自分に対する思いやりを向けることも
自分が他者に対して思いやりを向けることも
道に落ちているゴミを拾ってきれいにするのと同じように
自分の家の玄関を掃き掃除するかのように
燃えるゴミの木に燃えるゴミを捨てるかのように
息を吸って吐くかのように
当たり前の処分の一つになるんですよ
すると
なんであなたは酸素を吸って二酸化炭素を吐いてるの
何か打算があるのって言われてるのと同じ感覚なんですよ
妻から何かそういうふうに見られてもね
酸素を吸って二酸化炭素を吐くのは当たり前の行為って
そこに何の疑問も抱かないですよね
普段毎日息を吸って吐いてますけど
当たり前の行為じゃないですか
それを何か疑われても
え、なんで疑うん?ってなるじゃないですか
いやいや普通だよってなりますよね
何も別に傷つかないですよね
なんであなたは呼吸してるんですかと聞かれても
別に傷つかないと思うんですよ
それと同じで
なんであなたは私に対してこんなに思いやりを向けるんですかと聞かれても
そんなに傷つかない心境になってるはずなんですよ
僕はそこまで何とかなりました
それはなぜかというと当たり前だから
息を吸って吐くかのように
妻に対するコンパッションを向けることができるから
だから当たり前のことすぎて
疑問に思う隙すら存在しないんですよねそこには