1. 夫婦関係学ラジオ
  2. #2−22 モラハラ加害者の変容プ..
2024-11-25 40:41

#2−22 モラハラ加害者の変容プロセスとは?|ゲスト:GADHA代表 中川瑛さん

モラハラ・DV加害者のための当事者会GADHA代表 中川瑛さんをゲストに迎え、加害者の変容についてうかがいます。中川さんは、モラハラやDV加害者のためのコミュニティ運営や書籍執筆を通じて、加害者の変容をサポートしています。加害者がどのように変わることができるのか、またそのプロセスについて詳しくお聞きします。


<目次>

加害者の変容と学びのプロセス

行動の変化と内面的な成長

痛みと悲しみへの向き合い方

加害者変容のステップと重要性

モラハラとDVの理解

感情の認識とケアの重要性

共同解釈のプロセス

暴力の本質と解釈の押し付け

子育てと夫婦の役割

共通解釈の重要性

社会における対話の必要性

発達障害と共感の探求

優しさの定義と理解

共感の育成とコミュニティの役割


◾️ゲスト:中川瑛さん

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◾️パーソナリティ:アツ

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サマリー

今回のエピソードで、中川瑛氏がモラハラやDVの加害者の変容プロセスに関する理論と実践を共有しています。特に加害者の行動変化と信念の変化の重要性、そしてその実現可能性について深く掘り下げています。加害者がどのように変容していくのかについても掘り下げています。中川瑛氏は、加害者が自身の傷つきと向き合い、感情を認識することの重要性を強調し、適切なコミュニケーション方法についても議論します。また、モラハラ加害者が変容するためのプロセスにおいて、情動調律と共同解釈の重要性を探り、ケアの視点から相手のニーズを理解し、関係の深化を図る方法について解説しています。さらに、モラルハラスメント加害者の変容プロセスについて、時代の変化に伴う暴力の定義の変化や、発達障害を持つ人々の共感能力向上の方法についても深く掘り下げています。中川瑛氏は、共感を育むためのコミュニティの重要性を強調し、支援の在り方についても考察しています。モラハラ加害者の変容プロセスやケアの重要性について語り、GADHAの活動内容についても紹介されています。

加害者変容の理論
こんにちは、夫婦関係学ラジオパーソナリティのアツです。このポッドキャストでは、多彩なゲストを招きし、家事・育児・キャリア・セックス・フリン・離婚など、様々な夫婦の葛藤をサバイブするためのナレッジをお伝えしていきます。
今回は、人も社会も学び、変われると信じられる世界を目指す株式会社変容資源研究所代表 中川瑛さんにお越しいただきました。
中川さんは、加害者変容理論をもとに、書籍や漫画原作の執筆、加害当事社会の運営企業・自治体との連携などを行っています。
代表的な加害者当事社会として、もらはらDV 加害者のためのコミュニティ 加藤派。
代表的な書籍は、もらはら夫とは変わる中、99%離婚、ハラスメントの起きない職場の作り方などがあります。中川さん、今日はよろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
加藤派のことを知ったのが、他の女性の方がゲストに来ていただいた時があって、その方が夫へのDVチックな言語で困っていて、
その時に、あなたのやっていることは加害なんですよってことを分からせるために、加藤派のホームページの文言を読んだっておっしゃってたんですよ。
その時に初めて知って、加害者、DVとかもらはらスタジオって変われるのかって、すごいびっくりしたんですよ。
ホームページを見ると、加害者の編用をサポートしているとあって、いったいどうやって変われるのかなっていうのを、ちょっと詳しくお聞きしていきたいなって思うんですね。
その前にすごい僕、気になってるんですけど、この株式会社編用資源研究所って一体何をしているところなんですか。
名前がすごく不思議で、何をしているところなのかなと思って。
ありがとうございます。ちょっと背景で言うと、僕がもともと8年9年くらいやっている会社があって、その社名を変更したっていう、そういう前提はあるんですけれど。
会社の社名を変えた理由並びにやっていることとしては、編用するための資源、リソースっていうものをこの社会に増やしていきたいなっていうことを思ってやっているんですけれど。
そういう意味が。
変化のメカニズム
どっちかというと順番で言うと、ガド派が先にあって、自助会、当社会をやっている中で、こういう場所って本当に世の中に全然ない。
加害者ってなっちゃってから、じゃあどうしたらいいのかっていうことが全然ない。予防とか、そういう人から逃げましょう、離れましょうっていうのがあるんですけど。
そういう学びの場を作ってきたがあるねということで、その編用資源を研究し、実装するためのものとして会社の名前を変えて、そういうふうにやっているというところですね。
なるほど。ちなみに、いきなり聞いちゃうんですけど、DVとか村原の加害者っていうのは、買われるものなんですか?
そうですね。全員とかその瞬間に買われるかというとそういうわけではないですけど、人は学び変わるということ自体はできると思いますし、それ別に村原DVに限らずいろんなことがそうかなと思っています。
村原とかDVとかする人っていうのは、一般的な僕のイメージだと、もともとそういう気質があるだとか、生まれ持ったそういった性格的なものがあったりとか、
自分のやっていることをなかなか認められなかったりとかする部分があるんじゃないかなって思うんですけど、どうやって変えていくんですか?他の方では。
ありがとうございます。ちょっと話がすぐ長くなっちゃうので止めていただければと思うんですけども、そもそも人が学び変わるとはどのようなことかっていうことを考える人があると思っていて、村原DV加害者が買われるのかという問いの前に。
変わるってなんだろうと思った時に、例えば一例としては、職場の普通の仕事をしている中で、仕事の業績が結構上がってきて、今度から君リーダーになって部下も育てながらチームでやっていってね、マネージャー頑張ってねとかって言われて、
マネージャーかと思ってやってみて、自分と同じようなプレイヤーを育てようと思ったらやり方違う部下とかがいて、うまく成果が上がらないと困ったなと。そこで本を読んでみて、何かをやって言動が変わって、その部下というかメンバーに対するコミュニケーションの関わり方が変わったとすると、
それって変化と呼ぶのかどうかって話があると思うんですけど、これは厚さん的には学び変わることに含まれると思います。
変わったんじゃないですかね。その本来何なりの知識を得て自分の行動が変わった。行動は変わっているかなと思います。
根本的な人間的な部分は分からないですけど。
ありがとうございます。そうですよね。多分人が変わったかどうかって考えるときに多分ポイントになるのが、言動の変化をもって人が変わったとみなすのか、内面的な価値観や信念の変化まで含めて人が変わったと捉えるのかっていう、多分まず大きく2つ、人の変化を定義する、測定するための手段があり得ると一般に思われていて、
ここでやっぱりポイントになるのは信念の変化は究極的には外形的には評価できないっていう話があると思うんですね。
信念の評価は評価できない。それは目に見えないから。
おそらくそうです。つまり人は人の性格っていうものをどのように理解しているかというと、ある状況と類似する状況、AとA'があったときに、AのときにもXという行動を取り、A'のときにもXという行動を取ると、
この人はXという状況、そのような類似した状況の中で同じような行動を取る人、それを持って人はこの人はこういう人だと理解しているということですよね。
そうですね。行動から評価しますね。
ですよね。さっきの話でいうと、ある状況A、上司になったっていう状況の中で最初はXという行動を取ってたけれども、A'また別の場面においては今度はYという行動を取った。
だから部下に対する行動が変わった。それで人が変わったとみなす。これはある現象を一回で見て、変化があったから変わりましたよねって言っていて、
でもこれが次また同じような場面で、また昔みたいなコミュニケーションを取ったらやっぱり変わってなかったってことですか。
ということは言動の変化っていうのは常にそのときそのときで見てて、信念や価値観の変化っていうのはこれが例えば15年ぐらいずっとやっていると、あの人って本当に変わったんだなって思うものなのかなと思うんですよね。
毎回毎回の行動が変わっていれば、心から変わったんだなっていうふうには評価するかもしれないですね。
そうですよね。またもう一個別のパターンとしては、状況Aとだいぶ違う状況Bにおいてもそういうような行動を取るのかっていう話があって、
例えば、職場の人には優しい人が家庭においては優しくないってことがあったときに、どっちがこの人の本性なんだろうみたいな話があったときにはちょっと難しいですよね、評価が。
職場では変わったけど家庭では変わってなかったら、本当に変わったのかこの人みたいになる。
だけどそれがどっちも同じような思考に基づいて言動が変わっていくと、この人って本当に変わったんだなと思われる。
つまり人間はおそらく人の言動を、その言動の背景にある信念や価値観というものを人は持っていて、その信念や価値観を持っている人は状況AであってもBであってもCであってもそういう行動を取るって思っているとき、
Aで状況、行動が変わってもBやCで行動が変わってなければ価値観は変わってないと判断することが多いと思います。
成功事例と感情の変化
そういうことで導き出される加害者変容の意味というのは、加害的な言動をある場面Aとその類似するA'の場面で違う行動を取るということが一つの局面。
もう一つの局面は、ある状況Aと全然違う状況B、全然違う状況C。
例えば子どもとの関わり方、職場での関わり方、そして家庭での関わり方、あるいはセルフケアができるようになるとかっていう風に、
多様な局面の中で、もともとの価値観ではやらないであろう言動を継続的に取り続けていくことによって人は変わったと周りの人は思う。
もう信念が変わってるってことですよね。どんな場面においても、例えば家の中でモラハラしてる男性だったとしたら、
会社の中でも部下に対して昔はモラハラしてたかもしれない。だけどそうじゃなくなった。
いい上司になった。家庭でもいい父、いいパパになった。個人的な友人関係とかにおいても、なんかあいつ変わったね、いいやつになったね、みたいな感じになったとしたら、
その人は変容した。信念から変容したっていうことですか。
そうですね。ことともいえるし、私たちはそのようなことを信念や価値観ごと変わったと判断しているにすぎなくて、やってるのは、見てるのはあくまで言動だけだということですね。
信念は測定できない。本人も分からなくなっていくので。というわけで、加害者変容ができるかというと、それは明らかに可能だと思います。
なぜならば言動を変えること自体は誰もができることだから。
信念が変わるかどうかっていうのは、結局その人を中長期的に見続けることでしか判断ができない。
けれども、中長期的に言動が変わっていく人もいっぱいいると思いますし、そういう人を見て加害者変容できるねと思う人もいると思います。
加害者の方をたくさん見てこられたと思うんですけど、その信念も変わったというふうに感じたことはありますか?
それはもういっぱいあります。
そうですね。
それはあくまで、お前から見たらそうだろうと言われるだけなので、説明はできないですよ。説明というか、評価はできないということですね。
そうですね。
それは中川さんが見た、その人たちの行動を見た上で、信念も変わったのかなって感じたっていう。
もちろんそれの具体例はいろいろあって、僕が今でも覚えているのは、もともと3食毎日ご飯を食べるものだと思っていた人が、加害者変容を深めていく中で、あるとき朝そんなにお腹減ってないなと思って、
もう3食食べるものだと思ってた。朝もしっかり食べるものだと思ってこの人生ずっと生きてきたんだけれども、
今日はコーヒーだけにしてみたら午前中ちょっと体が楽でしたって話を聞いたときに、僕は泣くほど感動しまして。
つまりそれって、この人ってこれまでの人生ずっとお腹が空いているかどうかっていう感覚すら自分でちゃんとキャッチできずに、自分を痛まれるということができてこなかった。
3食食べるものだ、べきである、それが普通当たり前だと思っている人が、それが緩んできて自分の感覚を尊重できるようになったっていうことが僕はすごいことだなと思って。
同時にこれができないで、人の感覚や感性を大切にできるわけがないんですよね。
だって自分がお腹減ってるかどうかすらわからないのに、人の痛みや悲しみ、特に目に見えないような感情をキャッチしたり、それを知ろうと思ったりケアしようと思ったりできないので。
他者へのケアのためには、自分自身へのそういった気づきが必要になる。
超大事ですね。加害者変異をの要の一つはそこだと思います。
その加害者変異をステップバイステップで説明するとしたら、どういった順序になるんですか。
傷つきの認識
そうですね、いくつかバリエーションはあるんですけれども、一番多いパターンというかあり得るパターンというのは、まずは自分が何に傷ついてきたのかということをちゃんと認められるところから始まると思いますね。
自分自身の傷つきの体験。
おっしゃるとおりです。例えばもうガタガタの場合で言うと、離婚や別居の危機になったときって、もちろん被害者の方から見ると、何か当たり前な状況というか、もう逃げなきゃ、自分が苦しいから逃げているわけなんですけど、実際加害者の方でカウンセリングに行く人とか本当にいっぱいいるんです。
加害者がカウンセリングに行くんですか。
それは何でかというと、自分なりに一生懸命生きてきた。当たり前に、例えば父親というのは男はお金を稼ぐもの、大黒柱であるもの。だから家のことは妻がやること、子育ては妻がやることというふうに思って生きてきて、仕事も頑張ってやってきた。
あるとき、妻や子供が家からいなくなって、孤独になるときに、自分が相手を傷つけた側だなということにはまず思い至らなくて、まずはこんなに頑張ってきたのに、一体何なんだ。何でこんなことになっちゃったんだろうという葛藤や混乱、それに紐づいた形で傷つき、痛みみたいなものが発生すると。
そのときの傷つきの感情とかも、被害者の方とか周りからすれば、いやいやDV加害者みたいに何を言ってんねんという感じ。何カウンセリングみたいな。カウンセリングに行くお金があっていいねみたいな。そんな話ですよね。
傷ついてるのはこっちだぞって。
そうですそうです。
最近的には見えますね。
そうなんです。でもその、そこにある混乱や傷つきを無視して、いやいやそれはあなたがDV加害者だからですよね。あなたがDV加害です。悪いことです。だから周りの人がいなくなるのは当然です。あなたの人生間違ってました。変わった方がいいですよ。
要するに正論で上から目線でやっつけてやろうと思えば、本当にいくらでもやっつけられるような状況なんです。でもそんなときにこそ、その痛みや悲しみにまず向き合われるってことがすごく大事な加害者変容のステップになるだろうと僕自身は思っています。
それはそのときの傷つきの体験に包括するんですか。その妻が出ていったとか、そのときの自分の気持ちをちゃんと感じようってことなんですか。
それも一つですね。まずそれがすごく大事だと思います。やっぱりそのモラハラDVというものの、そもそも加害って何って論点があると思うんですけど、それを仮に人の感じ考えることや感情や大切にしているものを無視したり過論じたりして、自分のそれの方が正しいとか適切だとかそれが普通だというふうに押し付ける行為をモラハラDVだと一旦仮に置いておくと、
そういうふうにずっと生きてきた人って、自分の感情や感覚をそんなに大事にされてこなかったってことも結構多くて。
そういう方が多いんですか。
そうですそうです。それはもちろん説明の仕方いろいろあるんですけど。なのでまずその感じること。だから中にはだからですね、自分はDV加害者なんだからこんなことで悲しんじゃいけないってわかってるんだけども、孤独な夜とか一人でいるとすごい苦しいんですみたいな。
とかあったときに、その感情はいいも悪いもないというか、そこにあって悲しむべきじゃないとか苦しむべきじゃないっていうその考え方が実はそもそもモラハラDV的な考え方のままなんですね。信念構造が変わってない。
ここを緩めていくってことがすごい大事なところなんですけれど。
こうすべきとかああすべきとかっていった概念に自ら縛られてる。
その通りです。
自分の妻とか子供とか大事な人に対してだけじゃなくて自分自身に対しても自分をがんじがらみしてる。
そういう人がたくさんいらっしゃると思いますね。
なるほど。
だからこそそうできない人を見ると甘えてるとかずるいとか、例えばだから自分は仕事ですごい頑張ってるのに家事育児で弱音を吐いてる人を見ると、いやいや自分だってこんな頑張ってるのに俺は弱音も吐いてないのに何弱音とか吐いてんの?みたいな。
愚痴こぼすなんて役割をちゃんと果たしてない。俺はこんなに頑張ってるのにみたいな。
そういう自分も相手も苦しめるような価値観の中に生きてしまっているってことがよくあると思いますね。
なるほど。それが加害者のファーストステップであり特徴も一つってことですね。
傷つきの理解
そうなんだと思います。
その次はどういったステップになりますか?
そうですね。そこから先がちょっとこの順番もいろんなパターンがあるんですけど、自分の傷つきや痛みや悲しみというものをまず情動調律。
そこにそういう感情や感覚があるよねということを認められることを通して、痛みや傷つきや悲しみというものが分かってくると、
と同時に、悲しみや痛みとかってこういうふうになんかジャッジしたり評価したりいいか悪いかとか言われることじゃなくて、
こういうふうにまずあるってことを認められることが大事なんだなって分かってくると、自分がやってなかったってことを知る。
パートナーとかお子さんに対してやってたか。その人たちの不満や悲しみや痛みに対して、
こんなんじゃダメだとか、普通こんくらいできるとかそうすべきだとか、なんでその後で弱音吐いてるんだとかって、
もし自分が言ってきたんだとすると、それでまず1個分かるわけですよね。ああやってこなかったなこれを人に対して。
いろんな時に良かれと思って、多くの場合良かれと思って、もっと頑張れとか社会はもっと厳しいんだとかって言ってきたけど違ったかもみたいな。
でそこでじゃあどうすれば良かったんだろうっていうふうに話が進んでいった時に、
加害的な言動じゃなくてケア的な言動って何なんだろうってことをようやく考えられる状態になるっていうんですかね。
この辺のステップをすっ飛ばしちゃっていきなりあなたはDV加害者で良くなかったです。これこれこれはハラセメント加害ですって言われても、
じゃあそうじゃないコミュニケーションって何とか、そのコミュニケーションを学びたいと思うような動機づけっていうものがないんですね。
職場のハラセメントだと分かりやすいですけど、あなたパワハラしてますよって言われても、どこからどこまでパワハラしたのかよく分かんないし、
じゃあそれがハラセメントだと言われたとして何がハラセメントじゃないリーダーシップとかハラセメントなのかってことも一緒に教えてくれないと普通に分かんないですし、
そんななんか上から目線で正しいふうに言われても学びたいって思わない。どっちかというとこんなぐらいでハラセメントなんてうるさいな、ハラセメントハラセメントとかって言って否認してしまうってことがあるかなと思います。
動機は確かに生まれにくいですね。
共同解釈の構築
そうなんです。
じゃあ自分が切りつきの体験をしたことに気がついて、つまり子供に対しても同じようなことをしてたんだなっていうことに気がつくことで何とかしたいって思うようになるんですか。
例えばそういうパターンもあると思いますね。あとは親子関係、自分が親が自分にしてきたこととかがあれも課題だったなって傷ついてたんだな自分はっていうふうに気づけるとか、職場でも自分気づいてきたなとか部活とかも結構きつかったなと。
その時その時やってよかったって思ってたり感謝してたりすることもあるんですけど、別にそれと傷ついてきたことって両立するのであれってちょっと嫌だったなみたいな。
そういうことにどんどん気づいていくっていうことが多いですね。
その次はどういったステップになるんですか。
そっからがやっぱり試行錯誤というフェーズに移るんですけども。
つまりケア的なものが何なのかっていうことがある程度わかってくると。
わかってるけどできないっていう。これは英語でもプログラミングでもスポーツでも何でもそうだと思うんですけど。
ケアとは何なのかわかってきたっていうのはケアとは何なのかっていうと何になるんですか。
それはさっきで言うと感性とか感情相手が大切にしていることをそこにそのままあるってことをまず認めるってことから始まる。
それが1個。ちょっと長くなっちゃうので端折りますけど2つ目が共同解釈。
ある解釈を一緒に作っていくということをするんですけど。
例えば良い父親とは何かっていうことを1人がその人の中に持っていることがよくあると思うんですね。これが良い父親なんだと。
でも一緒に暮らしにとって良い父親って何かってことは実は共有されてないかもしれないし。
共有するだけじゃ足りなくてだいたい人ってみんな違うことを考えているので良い父親っていう概念に対して。
良い父親って何だろうってことを一緒に生きていきたい人と一緒に作っていくことが大事。
良い父親って何なんだろうって誰も答えを持ってない。
なぜ答えを持ってないかというとおそらく関わる人によってそれが変わるから。
良い父親って何かっていうのは関係の中にある。
だからその関係の中で良い父親ってものを作っていく必要があるんですけど
この関係っていうものがそもそも一緒に話したいと思える信頼関係はどのように構築されるかっていうのがあって
良い父親になりたいって言ってももう相手が全然いいですみたいになっちゃったらできないわけなので。
相手が素直に思っていることを共有できなければ結局良い父親っていうものが忖度になっちゃって
今その父親、その人、みたいな人みたいなことを言わせて
やっぱり自分は良い父親なんだなって思うことって簡単なわけですけど。
その素直に思っていることと感じて考えていることを共有できる信頼関係の構築があって初めて共同解釈が可能になるんですけど
その関係性の構築っていうのが圧倒的に情動調律から始まるので
共同解釈って結構難しいのでまずはとにかく情動調律をしていこうっていうのが経話の基本。
その情動調律が一番難しそうですね。
難しいんですけど、分かってくるとだんだん
何て言ったらいいんだろうな。最初思っていたよりは全然
最初とか僕本当に自分が加害者ってことを自覚して
加害とかケアっていう観念を理解していく中で試行錯誤するわけなんですけど
最初30分くらい黙っちゃうとかって
それはお奥さんと話してた?
そうです。今これってどういう、この人は何を感じかないで何を大事にしてどういうことで傷つくんだろう
なんかもうパンク?考えたことがないから
フリーズしちゃうみたいなことがあったりもしましたね。なんで難しいんですけど
それをこうやっていく中で、でもそもそも情動調律するぞって思ってしたことが
別に全然情動調律になってないってことってめっちゃいっぱいあって
例えばこう投げかけた言葉が優しさのつもりで言ってることなのに
ちょっと普通に傷つくからやめてほしいとか上から目線のアドバイスいらないとか
情動調律の重要性
失敗するんですよね。そこでつまり情動調律とは何かってことなのかというと
その試行錯誤をしていく。パートナーとできるとは限らないですけど
他者との関係の中で試行錯誤を練習していく
どういう練習をするんですか?
それは結局ケアを試すってことだけですね
例えば?
それはあらゆる言動なので
例えば妻が家の中の家事とか育児とかでいろいろ悩んでて
夫にやってほしいと思ってると
だけど夫は忙しいんだからそんな早く帰ってこれねえよ
できねえよ家のこと全部安定みたいな
なってるとしたらその場に起きる情動調律ってどういった形なのですか?
ありがとうございます。情動調律というレベルでとどめておくのであれば
それはまずは相手が不満を感じていること
あるいはもっとその奥にある孤独感
子育てという大変な責任を伴うことを
自分一人でやっているという恐怖
これがうまくいかなかったとしたら私のせいになってしまうのではないかという不安
そういったものがあるっていうことをまず丁寧に理解するっていうところ
が例えば情動調律の一つの例
でもこれも別にパートナーはその後全然望んでないかもしれない
その場合情動調律の失敗とかになるわけですけど
これつまり正しい情動調律というのがないということですね
あるのはただ関係性だけ
相手が望んでいることをするのであれば情動調律になるんですか?
ちょっとそれは別ですね
望んでいることというよりは
情動調律というレベルで言うと
それは情動調律というよりはケアに近くなると思います
ケアっていうのが相手のニーズを知ろうとしてケアしようとして間違っていったら学び直すプロセスなんですけど
これが相手にとって嬉しいのかなと思ってケアをしてみて
ケアの中に情動調律もあるって感じなんですけど
やってみて
いや全然このこと望んでないとか違うとかって言われて
そこでえ何だよってならないで
あじゃあニーズを理解し間違えてたんだな
ケアの仕方を間違えてたんだなっていう風に
学び直していくっていうこのプロセスを踏んでいくということが大事なのだと思います
共同解釈のプロセス
それが情動調律なんですか?
情動調律はその前の方ですね
相手のニーズ
例えばそうだな
家事をしてほしいっていうのがあった時に
その家事の具体の何かをやるということがケア的な行動だとすると
情動調律というのはそもそもなぜ家事をしてほしいと相手が思っているのかっていう
相手の価値観や信念を探りに行きながら
それをそこにあるということを認める
言動ということになると思います
なるほどなるほど
日常生活の中でトレーニングしていく
そうですね
相手のことをそこまで考えようって思うのって
確かに動機がないとできないと思うんですよ
だから一番最初に動機があったと思うんですけど
動機があって相手の考えやニーズとか
言動の背景にある孤独感とか
そういったところまで思い寄せていく
それができたら次はどうなるんですか?
それができたらもう会社編用としては
かなりどこまでいってると思いますね
その後にやっぱり共同解釈っていうものが発生してきて
これはあんまり取り扱ってないのは
めっちゃ難しいっていうのと
情動調律ができるようになればある程度
共同解釈ができるようになる部分があるからなんですけど
例えば家事の分担をどうするかっていう話し合いとかは
共同解釈的な営みになると思います
共同解釈についてもう一回教えてもらいたいんですけど
例えば家事がありますと
家庭の中に家事がありますと
夫妻がいますと
2人にとって納得できる家事分担をするっていうのが
共同解釈になるんですか?
そういうふうに言えると思いますね
それを伴いながらやる
それはケアでもあると思うんですけど
概念としては
そういう事例もそうだと思います
共同解釈についてもうちょっと教えてもらっていいですか?
そうですね
ちょっとこれを話すと
もっといろんな話をしなきゃいけなくなるかもしれないですけど
そもそも人間っていうのは
僕は解釈する生き物だというふうに思っていて
嬉しいとか悲しいとか原始的なものもそうだし
暑いとか寒いとかもそうだと思うんですけど
それってこう解釈を伴っていて
ちょっと待ってね
この話から知らせると止まらなくなっちゃう
つまり人間が傷ついたり困ったりするのは
他者と解釈が不一致の時に
合ってないってことですね
傷ついたり困ったりするので
それを一緒に構築していくプロセスっていうものを
踏むことによって
私とあなたっていうものが安定してくる
暴力の本質っていうのは
相手の解釈を踏みにじることなんですけど
私はこれが嫌だって言われた時に
いやそれは嫌だと思うべきではない
それを解釈教養って言うんですけど
嫌だこれを喜ぶべきだとか
ありがたがるべきだっていうふうに
相手の解釈を押し付けて
オーバーライトっていうか
上書きするような行為を解釈教養と呼び
これを加害の本質だと捉えてるんですけど
これで情動調律が欠如した状態でもあるし
情動調律をした上で
で私たちにとっていい舵分配ってなんだろう
みたいなことを考えてないという点で
共同解釈もできてないわけなんですけど
社会文化と対話の必要性
話し合った上で
お互いのニーズが完璧に満たされることってないので
人間がみんな違う以上
例えば家事とか育児っていうのが
家の中にタスクとして存在して
それに対する捉え方が
2人とも同じになるっていうこと
そうですね
共同解釈
おっしゃられたとおりです
例えば今
例えば僕だったら
子供3人いるんですけど
10歳10歳6歳で
6歳まで大きくなってきたら
そんなに手がかがらないよね
だから俺ちょっと外行ってきてもいいよねって
僕は思ってるとして
妻はいやいやちょっと待ってくれよと
6歳って来年小学校だよと
めっちゃ忙しくなるよと
いろいろあるし上の子の習い事もあるしで
大変なんだよ
っていうのは解釈がずれてる
まさにですね
子育てに対する解釈がずれている
それを2人が
その子に対する解釈を
2人がすり合わせていくというか
同じ解釈に合わせていく作業が
共同解釈
のまさしくおっしゃられたとおりです
それって考え方って人によって違うから
なかなか共同にならないような気もしますよね
おっしゃられたとおりですね
解釈一致と共同解釈がちょっと別かもしれないですね
解釈が一致するっていう状況を
それはほとんどあり得ないんだけれども
目指して一緒に考え続けていく
っていうことが
共同解釈だと言えると思います
つまり動的な営み
普通の言葉で言うと
対話とか話し合いに近いと思うんですけど
分かろうとする姿勢みたいな
おっしゃられたとおりです
そうです
それが大事だと
それが出来上がってくると
変容したと言えるんじゃないか
おっしゃられたとおりです
加害の本質をケアの欠如
ケアをしていない状態を
加害とみなすのであれば
共同解釈
その全体の情動調律ができるようになって
共同解釈ができるようになってくると
それを加害者変容したと
言うことが可能かもしれないですね
なるほど
これが
なんだろうな
これがもう普通の人が
たくさんできるようになったら
諸原とかデビューの小物の人いなくなると思うんですけど
何割ぐらいの人ができるようになるんですか
どうなんですかね
どこかにいらっしゃっている方たちの中では
その辺の数字の測定みたいなことはあまりやってないので
しっかりしたことは言えないんですけれど
割と能力なんですよね
能力
はい 訓練できるもの
技術に近いというか
スキルなんですね
そうです
問題はこのスキルが
必要だと思っていない人が多いってことなのだと思うんですよ
日常生活において
そうです
例えば社会的な背景も確実にあるので
男女の役割分担がはっきりしている社会ほど
対話が不要なんですね
役割がはっきりしているほど対話が不要
そうです 役割が決まっているからですね
つまり良い夫とは何か
家事をするのは誰か
そういった様々な社会的な
本来であれば対話の対象となり得るようなことから
もうカチカチと決まっている社会では
対話の能力って不要なんです
むしろ無駄な時間になっちゃうんですね
定められてますもんね
そうです
話は必要がない
おっしゃる通りです
そういう形はあらゆる宗教もそうだと思いますけれども
儒教とかに典型ですけど
その礼儀とかって
はっきりしていればしているほど
考えなくていいんですよね
相手が目上かどうか
相手の方がバッチが多いかどうか
バッチが多かったら
この席はここに座っていただく
料理の品数が違う
うんなんか
日常のあらゆる動作の中に
そういう礼儀みたいなものが
厳格に組み込まれているほど
対話が不要な社会になると思います
一方で
現代日本もそうだと思いますけれども
いろんなことってもっと多様で
包摂できる社会の方がいいよねってなってくると
必然的にあらゆることが
まだ決まっていないことになっていく
と何ならば変わっていくものになっていくと
話し合う力が必要になってくる
ということで
だから今身につけてない人が多いっていうのは
身につけなくていい社会を生きてきた人たちでも
あるんだと思うんですよね
それはだから
諸原やDVっていうものが
単独で概念として存在しているのではなくて
社会の中で何を暴力と捉えるのか
時代と暴力の定義
っていうことの変化に伴って
DVやハラスメントという概念が出てきた
し恐らく今後もDVやハラスメントの
概念は変わっていくのだろうというふうに
思います
時代の変化によって変わっていくということですね
おしゃれ通りです
例えば昭和の雷親父みたいな時代だったら
あれ普通だったしとなる
そうです おしゃれ通りです
それが昭和が終わって
平成も終わって令和になって
普通じゃないしって変わってきた
これがあと30年50年とか100年とか
経ってくると
また諸原の定義も変わってくる
発達障害と共感の探求
ってことですね
間違いなくそうだと思います
諸原というか暴力の定義が変わる
暴力の定義
それはもうちょっと正確に言うと
暴力の定義が変わるということの意味は
人間とはどのような存在なのか
っていうものの理解の変化にも
多分つながっている
と思いますし
じゃあこれです
話もさすがに止まらなくなっちゃう
さすが哲学専攻さんだけあって
そうか
僕ちょっとお聞きしたかったのが
自分のニーズを掘り起こしたり
相手 例えば自分の妻とか
夫とかのことを
何を求めているのかなって
ニーズを探ろうとしたりとかするのって
発達障害を抱えている人でもできるんですか
そうですね
いろんな論点がありますけど
一つは発達障害を何だと捉えるか
っていう話があると思っていて
ちょっとこれも話し出すと止まらなくなりますけど
僕イギリスで研究していたものの一つが
医療者改革なんですけど
ドンピシャで例えばADHDって
めちゃくちゃ診断数増え続けてるんです
そうなんですね
製薬会社からすると
メンタルヘルスの薬って
めちゃくちゃ利益率高いので
そういう会社が予算を出して
研究者に論文を書いてもらって
発達障害が増えているっていうような
お金の動きもあったりするんですけど
問題だとされつつ
ずっとこの社会で行われている
精神科診療内科系の
病や障害の定義の問題と
特に薬で解決できると考える場合には
製薬業界のインセンティブっていうものがあるので
そもそも政治的な側面も
いろいろあると思うんですけど
っていう前提で述べると
ある程度の意味でできるようになると思います
例えば僕前インタビューした方
リスナーの方で
出ていただいた方がいらっしゃって
その方ASDって判定されたんですね
共感ができないと
分かんないと
今でも分かんないとおっしゃっていて
自分なりの定義で
共感をブレイクダウンしていって
アクションまで起こして
実行しているんですよ
そういうやり方あるのかと思ったんですけど
他の方にいらっしゃっている方でも
同じようにASDの方とかも
いらっしゃるのかなと思うんですよ
どうやって共感というか
妻の解釈を想像したりとか
分かったりとかってできるんですか?
ありがとうございます
そもそも僕ASDとADHD
診断を受けているので
普通に当事者なんですけど
当事者?
同じだと思う
今の話と同じだと思いますけど
ASDって何?って話があるんですけど
あえてそれを
すごい理屈っぽくて
共感が苦手と考えるならば
おそらく3つぐらいのステップが
必要だと思います
一つ目は
インセンティブ同期付けの話があって
そもそもそういうケアってものをできないと
人間は孤独になる
という話をまず理解する必要があって
孤独になって困らない人は
別にそれでいいと思いますし
そもそもおそらくパートナーシップっていうのは
必ずしもそんなに必要ない人も
結構いると思います
一時期やっぱり開婚社会
みんな結婚する社会があったので
別にそんなにパートナーシップや
子供に対する愛情が沸かない人間も
結婚する社会であったことっていうのは
別にみんなにとっては
ハッピーだったんじゃないだろうなって
割と素朴に思ってるし
実際ガダハにいるメンバーの方にも
そういう人はいらっしゃいます
自分がこういう人間だと分かってたら
そもそも結婚しなかったし
するべきじゃなかったんだなって
自分みたいな人の気持ちも分からないし
ある意味そういう
子供への愛着みたいなものを
そんなに沸かない人間が
子供を持っちゃったこと自体が間違いだった
って言ってる人もいて
それはある程度の意味で
そうなんじゃないかなっていうか
その人にとっては
そういう見え方があるんだなっていうところで
まずインセンティブの問題がある
2つ目の問題が
問題というか論点が
じゃあ何をすればいいのかっていうことの
知識を得るっていうこと
僕自身も元々
優しく
人に優しくしなさいとかって
全然よく分からなかったです
意味が
優しくするってのは
どのようなことなのかっていう
定義を求めて
あまり教えてもらえないのでみんな
優しいとは何なのかっていう
そうですそうです
そういうことって
もっとラフに優しい
やっとるだけ優しくするってこと
人の気持ちを考えるってこと
とかって言われて
分からない
どうしても人の気持ちって分からない
だからっていう感じなんですけど
分かる人は分かるみたいなんですけど
それは分かるというよりも単に
共通性が高いってことだと思いますけどね
こういうことで傷つくってことが
みんなそうなら
多数派なら
それが普通に優しさになり
自分もこれで傷つかないのになー
って思うことが多ければ
自分の思いのままには
優しくできないっていうだけのことで
これは神経発達症とかって
言うと思うんですけど
今は発達障害じゃなくて
つまり多様性のものの一つなんだって
理解
多数派と少数派の違いみたいなことが
あると思うんですけど
なんかそれと似てるのかなと
思うところもあります
というわけで
共感ができないと言われる
ASDの方がどうやって
共感できるようになっていくか
っていうと
さっきおっしゃったように
もっと知識を得ることが大事
ということになりますね
共感とは何なのか
優しいとはつまりどういうことなのか
っていうのを知っていくってことですか
知られてはいいですね
その背景にあるのは
それがないとそもそも
関係が終了してしまうけどいいですか
っていう論点があるんだと思うんですけど
これは結婚したり子供がいたりすると
またちょっと別の論点が発生しますけど
コミュニティの重要性
一旦そんな感じ
インセンティブの話と
知識の話と
あとは試行錯誤を
サポートするコミュニティですね
これが大事だと思います
それはすごい大事だなと思うのはやっぱり
被害者の方とか
これ一回諸原DVの話にしますけど
諸原DVの被害者の方が
サポートするのって
心理的にすごい負荷がかかる
とは思うんですね
それが発達特性のケースもあると思うんです
ASD的だから
あまり共感ができなくて
優しくできないって
分かってたとしても
実際されてる人間たちは
普通にめっちゃきついので
正直障害とかなんか関係ない
普通に今私が辛いって
みたいなことに
サポーティブにかかるのって難しい
けど
同じような仲間と
同じような悩みを抱えながら
やってる人たちが
あれこれ口をこぼしたりすることは
すごい効果あると思うんですよ
つまりガタオハのコミュニティが
そうなってるわけですけど
全然人に優しくするって
何なのか分からんみたいな
エスパーしろってことか
みたいな投稿があるわけですよ
そういうことに対して
分かるみたいな
エスパー無理だよねみたいな
どうやってやったらいいんだろうね
みたいなこととかを
いろいろ話したりするんですけど
それはじゃあ
例えばその
共感って
こういうことだよね
優しさってこういうことだよねって
分かる多数派がいたとして
それが社会の多数派だったとして
小数派として
いや共感って分かんないなっていう
優しさって何っていう
人たちが一定数いると
この社会の中では
それは少ないから
共通性は持ちにくいんだけど
そういった人たちが
集まっているガタオハみたいな場所だと
そういう社会になってるっていう
分かるっていう社会になってる
だから自分の
何だろうな
自分なんか分かってもらえない
っていう感覚も
癒しやすいし
変容のための努力もしやすくなっていく
それは本当にその通りだと思います
ただまあ
今分かりやすく言ったから
そう言ってますけども
実際にはガタオハの中にもちろん
いろんな人がいるので
喧嘩になることもある
いやそれはおかしいだろう
みたいなことが起きたり
上からのアドバイスが発生して
喧嘩になったり
そういうこと自体はあるので
別に一枚岩ではないんですけれど
そうですね
でもASDっぽい人とか
あのー
回避性というかですね
黙っちゃうタイプの人とか
いろんな
ガタオハっても
モノハラDVって
外向きには言ってますけど
本質的には
ケアの欠如がかかりって理解してるので
ケアの欠如って
解釈を浮気してるタイプもそうなんですけど
共同解釈をしないことも暴力
だと捉えてるんですよ
モラハラ加害者の理解
ケアの欠如だから暴力と捉えてるんだと
結構いろんなタイプの人がいるんです
ガタオハの中には
その中にもいろんな派閥がありつつ
派閥っていうかあれがありつつ
共通点の多い人たち同士で
ケアし合うみたいなことになってるかな
そこでケアの練習みたいなのが
してる感じ
まさにおっしゃる通りです
その通りだと思いますね
なるほど
それが練習
うん
なるほど
わかりました
ありがとうございます
ちょっといろいろ詳しくお聞きしたいんですけど
ちょっと次回に
持ち越ししたいなと思ってて
次回は中川さんの
ご自身のお話を
お聞きしていきたいなって思ってます
はい
ということで今回はここまでとなります
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ではまた次回お会いしましょう
さようなら
40:41

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