どっちかというと順番で言うと、ガド派が先にあって、自助会、当社会をやっている中で、こういう場所って本当に世の中に全然ない。
加害者ってなっちゃってから、じゃあどうしたらいいのかっていうことが全然ない。予防とか、そういう人から逃げましょう、離れましょうっていうのがあるんですけど。
そういう学びの場を作ってきたがあるねということで、その編用資源を研究し、実装するためのものとして会社の名前を変えて、そういうふうにやっているというところですね。
なるほど。ちなみに、いきなり聞いちゃうんですけど、DVとか村原の加害者っていうのは、買われるものなんですか?
そうですね。全員とかその瞬間に買われるかというとそういうわけではないですけど、人は学び変わるということ自体はできると思いますし、それ別に村原DVに限らずいろんなことがそうかなと思っています。
村原とかDVとかする人っていうのは、一般的な僕のイメージだと、もともとそういう気質があるだとか、生まれ持ったそういった性格的なものがあったりとか、
自分のやっていることをなかなか認められなかったりとかする部分があるんじゃないかなって思うんですけど、どうやって変えていくんですか?他の方では。
ありがとうございます。ちょっと話がすぐ長くなっちゃうので止めていただければと思うんですけども、そもそも人が学び変わるとはどのようなことかっていうことを考える人があると思っていて、村原DV加害者が買われるのかという問いの前に。
変わるってなんだろうと思った時に、例えば一例としては、職場の普通の仕事をしている中で、仕事の業績が結構上がってきて、今度から君リーダーになって部下も育てながらチームでやっていってね、マネージャー頑張ってねとかって言われて、
マネージャーかと思ってやってみて、自分と同じようなプレイヤーを育てようと思ったらやり方違う部下とかがいて、うまく成果が上がらないと困ったなと。そこで本を読んでみて、何かをやって言動が変わって、その部下というかメンバーに対するコミュニケーションの関わり方が変わったとすると、
それって変化と呼ぶのかどうかって話があると思うんですけど、これは厚さん的には学び変わることに含まれると思います。
変わったんじゃないですかね。その本来何なりの知識を得て自分の行動が変わった。行動は変わっているかなと思います。
根本的な人間的な部分は分からないですけど。
ありがとうございます。そうですよね。多分人が変わったかどうかって考えるときに多分ポイントになるのが、言動の変化をもって人が変わったとみなすのか、内面的な価値観や信念の変化まで含めて人が変わったと捉えるのかっていう、多分まず大きく2つ、人の変化を定義する、測定するための手段があり得ると一般に思われていて、
ここでやっぱりポイントになるのは信念の変化は究極的には外形的には評価できないっていう話があると思うんですね。
信念の評価は評価できない。それは目に見えないから。
おそらくそうです。つまり人は人の性格っていうものをどのように理解しているかというと、ある状況と類似する状況、AとA'があったときに、AのときにもXという行動を取り、A'のときにもXという行動を取ると、
この人はXという状況、そのような類似した状況の中で同じような行動を取る人、それを持って人はこの人はこういう人だと理解しているということですよね。
そうですね。行動から評価しますね。
ですよね。さっきの話でいうと、ある状況A、上司になったっていう状況の中で最初はXという行動を取ってたけれども、A'また別の場面においては今度はYという行動を取った。
だから部下に対する行動が変わった。それで人が変わったとみなす。これはある現象を一回で見て、変化があったから変わりましたよねって言っていて、
でもこれが次また同じような場面で、また昔みたいなコミュニケーションを取ったらやっぱり変わってなかったってことですか。
ということは言動の変化っていうのは常にそのときそのときで見てて、信念や価値観の変化っていうのはこれが例えば15年ぐらいずっとやっていると、あの人って本当に変わったんだなって思うものなのかなと思うんですよね。
毎回毎回の行動が変わっていれば、心から変わったんだなっていうふうには評価するかもしれないですね。
そうですよね。またもう一個別のパターンとしては、状況Aとだいぶ違う状況Bにおいてもそういうような行動を取るのかっていう話があって、
例えば、職場の人には優しい人が家庭においては優しくないってことがあったときに、どっちがこの人の本性なんだろうみたいな話があったときにはちょっと難しいですよね、評価が。
職場では変わったけど家庭では変わってなかったら、本当に変わったのかこの人みたいになる。
だけどそれがどっちも同じような思考に基づいて言動が変わっていくと、この人って本当に変わったんだなと思われる。
つまり人間はおそらく人の言動を、その言動の背景にある信念や価値観というものを人は持っていて、その信念や価値観を持っている人は状況AであってもBであってもCであってもそういう行動を取るって思っているとき、
Aで状況、行動が変わってもBやCで行動が変わってなければ価値観は変わってないと判断することが多いと思います。
そういうことで導き出される加害者変容の意味というのは、加害的な言動をある場面Aとその類似するA'の場面で違う行動を取るということが一つの局面。
もう一つの局面は、ある状況Aと全然違う状況B、全然違う状況C。
例えば子どもとの関わり方、職場での関わり方、そして家庭での関わり方、あるいはセルフケアができるようになるとかっていう風に、
多様な局面の中で、もともとの価値観ではやらないであろう言動を継続的に取り続けていくことによって人は変わったと周りの人は思う。
もう信念が変わってるってことですよね。どんな場面においても、例えば家の中でモラハラしてる男性だったとしたら、
会社の中でも部下に対して昔はモラハラしてたかもしれない。だけどそうじゃなくなった。
いい上司になった。家庭でもいい父、いいパパになった。個人的な友人関係とかにおいても、なんかあいつ変わったね、いいやつになったね、みたいな感じになったとしたら、
その人は変容した。信念から変容したっていうことですか。
そうですね。ことともいえるし、私たちはそのようなことを信念や価値観ごと変わったと判断しているにすぎなくて、やってるのは、見てるのはあくまで言動だけだということですね。
信念は測定できない。本人も分からなくなっていくので。というわけで、加害者変容ができるかというと、それは明らかに可能だと思います。
なぜならば言動を変えること自体は誰もができることだから。
信念が変わるかどうかっていうのは、結局その人を中長期的に見続けることでしか判断ができない。
けれども、中長期的に言動が変わっていく人もいっぱいいると思いますし、そういう人を見て加害者変容できるねと思う人もいると思います。
加害者の方をたくさん見てこられたと思うんですけど、その信念も変わったというふうに感じたことはありますか?
それはもういっぱいあります。
そうですね。
それはあくまで、お前から見たらそうだろうと言われるだけなので、説明はできないですよ。説明というか、評価はできないということですね。
そうですね。
それは中川さんが見た、その人たちの行動を見た上で、信念も変わったのかなって感じたっていう。
もちろんそれの具体例はいろいろあって、僕が今でも覚えているのは、もともと3食毎日ご飯を食べるものだと思っていた人が、加害者変容を深めていく中で、あるとき朝そんなにお腹減ってないなと思って、
もう3食食べるものだと思ってた。朝もしっかり食べるものだと思ってこの人生ずっと生きてきたんだけれども、
今日はコーヒーだけにしてみたら午前中ちょっと体が楽でしたって話を聞いたときに、僕は泣くほど感動しまして。
つまりそれって、この人ってこれまでの人生ずっとお腹が空いているかどうかっていう感覚すら自分でちゃんとキャッチできずに、自分を痛まれるということができてこなかった。
3食食べるものだ、べきである、それが普通当たり前だと思っている人が、それが緩んできて自分の感覚を尊重できるようになったっていうことが僕はすごいことだなと思って。
同時にこれができないで、人の感覚や感性を大切にできるわけがないんですよね。
だって自分がお腹減ってるかどうかすらわからないのに、人の痛みや悲しみ、特に目に見えないような感情をキャッチしたり、それを知ろうと思ったりケアしようと思ったりできないので。
他者へのケアのためには、自分自身へのそういった気づきが必要になる。
超大事ですね。加害者変異をの要の一つはそこだと思います。
その加害者変異をステップバイステップで説明するとしたら、どういった順序になるんですか。
そうですね、いくつかバリエーションはあるんですけれども、一番多いパターンというかあり得るパターンというのは、まずは自分が何に傷ついてきたのかということをちゃんと認められるところから始まると思いますね。
自分自身の傷つきの体験。
おっしゃるとおりです。例えばもうガタガタの場合で言うと、離婚や別居の危機になったときって、もちろん被害者の方から見ると、何か当たり前な状況というか、もう逃げなきゃ、自分が苦しいから逃げているわけなんですけど、実際加害者の方でカウンセリングに行く人とか本当にいっぱいいるんです。
加害者がカウンセリングに行くんですか。
それは何でかというと、自分なりに一生懸命生きてきた。当たり前に、例えば父親というのは男はお金を稼ぐもの、大黒柱であるもの。だから家のことは妻がやること、子育ては妻がやることというふうに思って生きてきて、仕事も頑張ってやってきた。
あるとき、妻や子供が家からいなくなって、孤独になるときに、自分が相手を傷つけた側だなということにはまず思い至らなくて、まずはこんなに頑張ってきたのに、一体何なんだ。何でこんなことになっちゃったんだろうという葛藤や混乱、それに紐づいた形で傷つき、痛みみたいなものが発生すると。
そのときの傷つきの感情とかも、被害者の方とか周りからすれば、いやいやDV加害者みたいに何を言ってんねんという感じ。何カウンセリングみたいな。カウンセリングに行くお金があっていいねみたいな。そんな話ですよね。
傷ついてるのはこっちだぞって。
そうですそうです。
最近的には見えますね。
そうなんです。でもその、そこにある混乱や傷つきを無視して、いやいやそれはあなたがDV加害者だからですよね。あなたがDV加害です。悪いことです。だから周りの人がいなくなるのは当然です。あなたの人生間違ってました。変わった方がいいですよ。
要するに正論で上から目線でやっつけてやろうと思えば、本当にいくらでもやっつけられるような状況なんです。でもそんなときにこそ、その痛みや悲しみにまず向き合われるってことがすごく大事な加害者変容のステップになるだろうと僕自身は思っています。
それはそのときの傷つきの体験に包括するんですか。その妻が出ていったとか、そのときの自分の気持ちをちゃんと感じようってことなんですか。
それも一つですね。まずそれがすごく大事だと思います。やっぱりそのモラハラDVというものの、そもそも加害って何って論点があると思うんですけど、それを仮に人の感じ考えることや感情や大切にしているものを無視したり過論じたりして、自分のそれの方が正しいとか適切だとかそれが普通だというふうに押し付ける行為をモラハラDVだと一旦仮に置いておくと、
そういうふうにずっと生きてきた人って、自分の感情や感覚をそんなに大事にされてこなかったってことも結構多くて。
そういう方が多いんですか。
そうですそうです。それはもちろん説明の仕方いろいろあるんですけど。なのでまずその感じること。だから中にはだからですね、自分はDV加害者なんだからこんなことで悲しんじゃいけないってわかってるんだけども、孤独な夜とか一人でいるとすごい苦しいんですみたいな。
とかあったときに、その感情はいいも悪いもないというか、そこにあって悲しむべきじゃないとか苦しむべきじゃないっていうその考え方が実はそもそもモラハラDV的な考え方のままなんですね。信念構造が変わってない。
ここを緩めていくってことがすごい大事なところなんですけれど。
こうすべきとかああすべきとかっていった概念に自ら縛られてる。
その通りです。
自分の妻とか子供とか大事な人に対してだけじゃなくて自分自身に対しても自分をがんじがらみしてる。
そういう人がたくさんいらっしゃると思いますね。
なるほど。
だからこそそうできない人を見ると甘えてるとかずるいとか、例えばだから自分は仕事ですごい頑張ってるのに家事育児で弱音を吐いてる人を見ると、いやいや自分だってこんな頑張ってるのに俺は弱音も吐いてないのに何弱音とか吐いてんの?みたいな。
愚痴こぼすなんて役割をちゃんと果たしてない。俺はこんなに頑張ってるのにみたいな。
そういう自分も相手も苦しめるような価値観の中に生きてしまっているってことがよくあると思いますね。
なるほど。それが加害者のファーストステップであり特徴も一つってことですね。
そうなんです。
じゃあ自分が切りつきの体験をしたことに気がついて、つまり子供に対しても同じようなことをしてたんだなっていうことに気がつくことで何とかしたいって思うようになるんですか。
例えばそういうパターンもあると思いますね。あとは親子関係、自分が親が自分にしてきたこととかがあれも課題だったなって傷ついてたんだな自分はっていうふうに気づけるとか、職場でも自分気づいてきたなとか部活とかも結構きつかったなと。
その時その時やってよかったって思ってたり感謝してたりすることもあるんですけど、別にそれと傷ついてきたことって両立するのであれってちょっと嫌だったなみたいな。
そういうことにどんどん気づいていくっていうことが多いですね。
その次はどういったステップになるんですか。
そっからがやっぱり試行錯誤というフェーズに移るんですけども。
つまりケア的なものが何なのかっていうことがある程度わかってくると。
わかってるけどできないっていう。これは英語でもプログラミングでもスポーツでも何でもそうだと思うんですけど。
ケアとは何なのかわかってきたっていうのはケアとは何なのかっていうと何になるんですか。
それはさっきで言うと感性とか感情相手が大切にしていることをそこにそのままあるってことをまず認めるってことから始まる。
それが1個。ちょっと長くなっちゃうので端折りますけど2つ目が共同解釈。
ある解釈を一緒に作っていくということをするんですけど。
例えば良い父親とは何かっていうことを1人がその人の中に持っていることがよくあると思うんですね。これが良い父親なんだと。
でも一緒に暮らしにとって良い父親って何かってことは実は共有されてないかもしれないし。
共有するだけじゃ足りなくてだいたい人ってみんな違うことを考えているので良い父親っていう概念に対して。
良い父親って何だろうってことを一緒に生きていきたい人と一緒に作っていくことが大事。
良い父親って何なんだろうって誰も答えを持ってない。
なぜ答えを持ってないかというとおそらく関わる人によってそれが変わるから。
良い父親って何かっていうのは関係の中にある。
だからその関係の中で良い父親ってものを作っていく必要があるんですけど
この関係っていうものがそもそも一緒に話したいと思える信頼関係はどのように構築されるかっていうのがあって
良い父親になりたいって言ってももう相手が全然いいですみたいになっちゃったらできないわけなので。
相手が素直に思っていることを共有できなければ結局良い父親っていうものが忖度になっちゃって
今その父親、その人、みたいな人みたいなことを言わせて
やっぱり自分は良い父親なんだなって思うことって簡単なわけですけど。
その素直に思っていることと感じて考えていることを共有できる信頼関係の構築があって初めて共同解釈が可能になるんですけど
その関係性の構築っていうのが圧倒的に情動調律から始まるので
共同解釈って結構難しいのでまずはとにかく情動調律をしていこうっていうのが経話の基本。
その情動調律が一番難しそうですね。
難しいんですけど、分かってくるとだんだん
何て言ったらいいんだろうな。最初思っていたよりは全然
最初とか僕本当に自分が加害者ってことを自覚して
加害とかケアっていう観念を理解していく中で試行錯誤するわけなんですけど
最初30分くらい黙っちゃうとかって
それはお奥さんと話してた?
そうです。今これってどういう、この人は何を感じかないで何を大事にしてどういうことで傷つくんだろう
なんかもうパンク?考えたことがないから
フリーズしちゃうみたいなことがあったりもしましたね。なんで難しいんですけど
それをこうやっていく中で、でもそもそも情動調律するぞって思ってしたことが
別に全然情動調律になってないってことってめっちゃいっぱいあって
例えばこう投げかけた言葉が優しさのつもりで言ってることなのに
ちょっと普通に傷つくからやめてほしいとか上から目線のアドバイスいらないとか