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  2. #63 インドに行った話
2022-03-27 15:04

#63 インドに行った話

昔は年度末は恐ろしい忙しさだったのですが、そんな時、ゴールデンウィークの飛行機を予約して「現実逃避」という希望を自己セッティングして乗り切っていました。
そんな感じで訪れたネパール・インドの一人旅で、私は仕事感の面でも建コン感の面でも、大きな影響を受けました。
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♪~
あれです。
どうもこんにちは。よろしくお願いします。
えー、春ですね。
えー、年度末ですね。
年度末も年度末。
うーん。
これを配信する頃は、まあ、ほぼ年度末っていうところですね。
あのー、どうですかね、皆さん。
健康業界、特に年度末っていうのは、
締め切りが集中するんですね。
あのー、いろんな業務の、我々「好期」って言うんですけど、
「好期」っていうのは、工事の「好」に、期末試験の「期」で「好期」って言うんですけど、
「好期」っていうのは、あのー、プロジェクトの締め切りのことですね。
で、その締め切りが2月、3月に集中するっていうことで、
健康業界っていうのは、この年度末、非常に忙しいっていう感じなんですけども、
ただですね、やっぱここ4、5年?もう少し?6、7年ぐらいですかね。
それってだいぶ改善されましてですね、
何が起こったかっていうと、年度またぎ業務っていうのが、
以前は軽減されてたんですよね。
軽減されてたっていうのは、発注者さんの方であんまりそういう発注方法をしなかった。
ただ、制度としては、当時からできたらしいんですけどね。
なぜかあんまり、なんでしょう、書内鉄通機がちょっと面倒があるっていうぐらいの話だと、私は思ってるんですけど、
それが、あのー、逆に積極的に活用しましょうと。
発注時期が重複する。
というよりも、発注時期というよりも、いろんなプロジェクトの締め切りが集中しちゃうと、
そこで健康は忙しくなる。
そうすると、その時期にやりきれないんで、この仕事はやめようとか、
まあまあ、そういう風になって、品質の低下にもなるし、価格の上振れにもなるし、
実際そうなんですよ、4月、5月、6月、7月っていうあたりは、健康はどっちかというと、
換算期、仕事が少ない時期なんで、その時期にピークが来るような仕事っていうのは、
われわれ積極的に参加するんですね。
そうすると、競争の原理が働いて、一般競争入札とかでも低めの金額で受注しようとする。
なぜなら、その時期暇だから。
っていうことが起こるわけです。
そうすると、発注者さんとしても、時期をずらして分散させる方がお得なわけですね。
そういう話で、お得だからというよりも、品質も安定しますよね。
この間、技術士という資格を活用して、働き方が改善できるんじゃないかという話もしましたけど、
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そういう話で、分散する方がいいという認識が広まって、
今では、昔に比べて年度末の厳しさ、忙しさは凄く緩和したなと私は思っているんですけど、
皆さんどうですかね?
地域にもよるとか、あるかもしれないんですけど。
それで、なんせ、そういうことで、5,6,7年前以前は、年度末はひどいくらい忙しかったんですよね。
昔は大変でしたよという親父のつぶやきをしたいわけじゃなくて、
そういう時に私はどうしてたかなんですけど、ゴールデンウィーク。
ゴールデンウィークというのは、健康にとっては休みやすい時期なんですよ。
いろんな仕事が片付いているので、私なんか12連休とかをとって、
海外旅行に遊びに行くというのが楽しみだったんですね。
年が明けて1月とか2月に飛行機だけ予約するんです。
飛行機だけと、とにかく日本から飛び出すという、現実から離れるみたいな約束を、
格約をとるということが、忙しい年度末を乗り切る私の術でした。
もう一つあって、前に私がどういう風に技術者人生を歩んできたかという話の中で、
私はODAをやりたかったから建設コンサルタントという仕事を選んだという話をしたと思うんですけど、
その話の続きで、私は国内部署の配属になったんですよ。
なんですけども、海外に対する思いは依然としてあった。
それで、仕事で海外の仕事ができないのはしょうがないとして、
せめてプライベートで、発展途上国と、今でも言われているかもしれない、
少なくとも当時言われていた地域に行ってみて、そういう場所なんだなあって感じたいという思いがありまして、行ってみました。
今日はそんな話をちょっとだけしたいと思います。
前振りが長くなりましたけど、入社2年目のゴールデンウィーク、12連休ぐらいを使って、
ネパール・インドの旅に、一人旅に行ってきたんですね。そんな話をしたいと思います。
ということで、では参ります。
あれは何年だかもう忘れましたね。
2011年か。忘れないわ。2011年だわ。
2011年のゴールデンウィークですね。だから震災がその時あったんだ。
いやー、なんか遊んでる場合じゃないんだよなって思いながら、でも予約もしちゃったし、ここしか行けないしと思って行った記憶があります。
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言い訳じゃないんですけど、それ帰ってきた後の次のお盆には、
これも6泊くらいして陸前高田にボランティアに行きましたけど、その話も後で別の回にしましょう。
今日はインドの話。
さっき言ったような話ですね。
ODAに憧れがあったんだけど、国内配属になったし、海外行ってみたいということで、
バックパックを担いで、ネパール・カトマンズ空港というところに行きました。
カトマンズ空港に行く便と、確か10日後か11日後ぐらいに、
インドのコルカタっていう町から日本に帰ってくる便だけ取ってあったんです。
ネパールのカトマンズからインドのコルカタまでどうやって行くかっていうのは、
計画としてプランとしてはあるけれども、予約は何にも一個もしてないし、どの一晩たりとも宿も予約してないっていう、そういう状態であっていて、
カトマンズ空港から、もう名前忘れちゃった、なんとかっていう中心地までタクシーかなんかで行って、
まず宿探しから始めるんですね。
当時、地球の歩き方っていうのと、ロンリープラネットっていう旅本があって、
それを開いて、目星は付けてあるんです。この辺行ってみようって。宿の目星ね。
で、すいません開いてますかみたいな感じで泊まると。こんなようなことをやって、
次の日かな、バスでスノウリっていう、バラトプールっていう場所、ネパールの、これは国境近くの町なんですね。
インドとネパールの国境近くの町にバスで行って、そこで一泊して、ふらふら散歩して歩いて、
なんかネパールの人に呼び止められて、井戸端会議に参加して、楽しかったな。
で、次の日は国境を越えるって言って、ゴーラクプールっていうインドの町まで、陸路で国境を越えて、
このね、陸路で国境をまたぐってのも日本の国境線ってのは必ず海の上にありますんで、やってみたかったんですよね。
で、そこでね、ネパール・インドの陸路国境を渡って、ゴーラクプールってところに行って、そこでも泊まって、
そこからまたバスでバラナシという町まで行きましたね。
インドのバラナシっていうのは比較的バックパッカーには有名で、ガンジス川沿いの町でいい感じのところなんですよ。
それで、遠藤秀作さんという小説家の深井川っていう小説の舞台にもなっていて、その当時私深井川を読んだことなかったんですけど、
今では大好きな小説の一つですけど、当時はちょっと読んだことなかったです。
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で、インドに行って日本人に会って、あなた、深井川も読まないでバラナシ来たの?って言われたことありますけど、
知らんがな、どう読んで来たっていいじゃんかと思ってましたけど。
バラナシで3泊、4泊したかな、そこではのんびりしました。
別に何するでもなく、お茶のチャイっていうんですけど、チャイって知ってるか。
チャイ飲んで、ふらふら散歩して、ラッシー飲んで、散歩して、みたいな。
そんな感じで。
その後に今度は新谷の列車、信頼列車で、コルカタまで行って、
コルカタではパラゴンっていうゲストハウスがあって、
それが昔から日本人宿として有名だったらしいんですけど、
私が泊まった時、そんなに日本人いっぱいなかったですね。
でもホテルパラゴン泊まってみたいと思って、コルカタではパラゴンと泊まりました。
サダルストリートっていうね、
バックパッカーストリートみたいなのがコルカタにあって、
そこでまたいろんな人とバンバン酒飲んで楽しかったですけどね。
そんなような運命で帰ってきたっていう旅でした。
話が少し戻って、私がインド、ネパールに行った理由っていうのは、
ODAに対する憧れだったわけですね。
ODAっていうのは日本語で言うと、政府開発援助といって、
日本の外務省の予算で海外、発展途上国にインフラを作ってあげたり、
病院とか学校も含めて作ってあげるっていう、そういう事業なわけです。
つまりは、日本は先進国ですよと。
あなたたちは発展途上国ですよね。
なので助けてあげます。手助けしてあげます。っていう側面がある。
部分的にはお金を貸すっていう行為なんで、利子つけて返してもらったりもするんで、
投資とも言える側面もあるんですけどね。
いずれにしてもそういう事なんですよ。
で、インドに行ったじゃないですか。
一番最初じゃない、一番強く感じたのは、みんな元気だなって思ったんです。
街も人も元気、活気が溢れてる。
ネパールもインドでも感じました。
それがね、日本との違いっていう風に私はすごく感じちゃって、
なんだろう、この人たちに手を差し伸べるって、なんかすごいおこがわしいんじゃないかって思ってきたんですよね。
結局私はその後、海外のODAプロジェクトには一回も携わることなく、
今14年目か15年目か忘れちゃいましたけど、15年間社会人を続けていて、
今でも当時のようにODAにかかりたいっていう気持ちは持ってないんです。
だんだんその気持ちって減っていったんですよね。
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その大きなきっかけは自分で言ってみて、
この人たちは私たちが偉そうに助けてあげるような、そんな対象じゃないっていう。
多分この元気と活力があったら、時間はかかったとしても、
日本の助けなんてたとえなくたって、きっと、
物的な豊かさっていつか手に入れるんだろうなって思ったんですよね。
それが早いか遅いかで、日本のODAによってそれが早まるってことは当然あると思って、
それはいいことでやるべきことだと思うんですけど、
そこに自分がかかわりたいかっていうと、その熱は少しそこのきっかけに下がっていったんですね。
冒頭にも言いましたけども、時を同じくして日本では東日本大震災が起こって、
私は日本でこれ以上さらに豊かにする必要なんてないしって思ってたんですけど、
豊かさとかね、インフラの整備の度合いという意味では成熟したと今でも思いますけれども、
リスクがありますよね。自然災害のリスク。
それについて私は健康にそんなこと何も考えずに入ってきたんですけども、
2年目に東日本大震災が起こった。
その翌年から私は震災復興のプロジェクトにいくつか関わることになって、
そういう中でもODAと国内っていうもの、自分が何に携わってどんな社会変化にかかわりたいかっていう考えが、
だんだん自分は国内にシフトしていく。そんなきっかけのなる2011年でした。
というような話ではあるんですけれども、
海外旅行はその後も続けていまして、年度末になる。
要は年が明けるぐらいですね。1月ぐらいになると今度のゴールデンウィークはどこ行こうかなって言って、飛行機をまず予約するっていうことをやってました。
海外旅行、だんだん海外じゃなくて国内旅行、離島、島に行ったりとかね、いろんな旅先が変わっていくんですけど、
ゴールデンウィークにどこか遠くに行くっていうことはずっとやってました。
コロナでしにくくなっちゃいましたけど、なんとなく今年2022年ぐらいからは旅行もしやすくなるのかなって思っていて、
旅行だけじゃなくてもいいと思うんですけどね、気分転換っていうものをうまくやっていきたいなと思っているっていうのと、
健康が今でもブラックだっていう人もいるかもしれません。私はホワイトに比較的になったなと思いますけども、
よりよりブラックだった時代の昔話でした。最後まで聞いていただきありがとうございました。
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