2025-07-29 09:08

ミスの吹聴

言いたくても言う必要がないなら言わない。あなたのミスは誰も気にしていない。あえてこうした考えをすることで適切な行動を取ることができますよという話です。


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サマリー

このエピソードでは、ミスを吹聴することがコミュニケーションの一環として取り上げられます。自分の失敗を周囲に説明したがる心理やその影響、さらには他人のミスを優しく受け入れる重要性について考察しています。

ミスの吹聴の心理
はい、どうも。丸山のコミュニケーションです。
まずは、おめでとうございます。
ということで、今回は、ミスの吹聴という話をしていきます。
はい、ミスの吹聴ですね。
ミスしたことをイフラスと言いますか、
仮にあなたが、何かしら、ああ、これ間違ってたな、とか、やってしまったな、というようなこと、
これを周囲に弁明の意味を込めて、吹聴するというようなこと、
実は、これこれ、こういう理由があって、ああ、だったから間違えちゃったんだよ、とか、
いや、分かってたんだけど、やってしまったんだよ、と言うんですね。
言ったり、もしくは、そのように言っている人が周囲にいる場合に、
ああ、してしまっているな、と思ったり、もしくは、ああ、あの人、ミスを吹聴しているな、と思ったり。
一つ、対人関係というところで、これも一つのコミュニケーションにおける考え方ということですね。
私もそうですけれども、こういう経験は誰でもあると思うんですよ。
何か間違えて、それを周囲に説明したくなるというか、
仮にその過失が自分自身、あなた自身に100%ではないというような、
そういう場合であればあるほど、自分は悪くないんですよというような、
そういう意味も含めて、理由を周囲に説明したがる。
別にそのこと自体が悪いということではなくて、防衛本能の一種ですから、
それを言っている本人からすれば、いいことというか、
説明して叱るべきことだよなというようなこともあって言っていると。
ただこれは、結論から言えば、誰も気にしていないので、聞かれていないのであれば、言わないでいいですよというようなことですよね。
ですから、まず、仮にあなた自身が不意調している場合に、自分自身のミスを不意調している場合は、
こういう考え方を持ってみたらどうですかというようなことですよね。
これがあなたではない、他の誰かが言っていると概ね気づくと、
あの人言わなくてもいいことを言っているなというふうに気づくようなことであったとしても、
自分自身のこととなると、そうした視点が見えなくなるということがありますよね。
他人は自分のことをそこまで気にしていないというようなことがまず前提としてあって、
たとえ自分自身が顔から火が出るほど恥ずかしい、そういう表現もありますけれども、
そのこと自体に、そのぐらいの感覚を覚えていたとしても、
それを覚えているのは自分だけなんというような、その本人だけなんというようなことが主にしてありますよね。
誰にも聞かれていないし、気にもしていない。
けれども自分自身がこのまま放っておいたら、
人に何て思われているのか恐ろしいから、恥ずかしいから言うと。
自分から言うことによって、いやまあわかっているんですけどねというふうに、
ミスをした理由はわかっているんですけどね、でもあえて説明させてくださいというような、
他人の目を気にすること
そういうですね、行動を起こすということ。
仮にもし何かあなたがミスを犯したとしても、そこまで気にしていないです。
ああそうなんだぐらいにしか思っていないですよね。
これは逆を考えてみてもそうだと思います。
あなたが誰かのミスを例えば目にして耳にして、そういうときに、
それをずっと覚えているということってないと思うんですよ。
1日2日ぐらいはそういうことを覚えていたとしても、
1ヶ月2ヶ月したら、ああそんなこともあったねというふうに、
あなたから見た他人が何かミスをしたとして、
それを逐一思い出すということはないんですよね。
これが自分のこととなると、見えなくなる。
自分のことはね、自分が一番見てますから、
それを他人も同じように思っていると錯覚してしまうようなことがあるわけですよ。
だからこそその事象が発生したときに、聞かれてなければ、言わなければ、
なおさら他人の記憶から消えることが早くなるのにもかかわらず、
自分を弁明したいからと言ってそういうことを言う。
いちいち言わんでよろしいということなんですね。
言うほどに、ある種の株が下がるだけといいますか、
ああこの人は自分がミスをしたとしても、
自分で責任を取らずに理由を説明して、
そういうね、自分以外の人のせいにする人なんだなというふうに、
あえてそういうふうに思われる理由を作ってしまっているといったことになるわけです。
こういう理由があってなんていうふうにね、
仮にあなたが誰かに説明弁明をされたとしても、
まあ別にどうでもいいですけどねというふうに思えることもあると思うんですよ。
それで何ですかというふうにですね。
ですから人の顔をいろいろ伺って、
言うというようなこともその弁明説明をする一因になりますので、
こうしたミスを不意地をしてしまうというようなときには、
そういえば誰も気にしていないんだと、
別に自分が恥ずかしいからって誰にも聞かれていないのに、
あえて言う必要もないなというふうにですね、
説明弁明を思いとどまってみるというのも、
一つ今後の対人家系において活用できる考え方ですね。
あとはそのあなたが他人に対して、
あの人ミスを不意地をしているなと、
別に誰も聞いていないのに言っているなというふうに、
そういう人がいた場合にはですね、
温かい目で見守ってあげてください。
また言っているよと、しょうがないなというふうにですね、
そこは同意してあげて、
そうですね、確かにそういう理由があったんですね、
それは別にあなたのせいじゃないですよ、
仕方ないんですねというふうに、
やんわりと包んであげるというか、
そこに目くじらを立てて、
いつもそういうふうに言い訳ばっかりして、
なんだこいつはと、
そう思ったとしても、
そのことで腹を立てて、
イライラしていたとしても、
あなたにいいことは一つもないですから、
よしよしと仕方ないですねというふうにですね、
そういう温かい心を持って見守ってあげましょうと、
そういうことですね。
つまり何が言いたいのかというと、
ミスの不意地を、
あなたが自分のミスをあえて説明したいから、
周りに言うということもあれば、
誰かが言っているということもある。
これらに相似ていることは、
ミスというものは、
それをした本人が一番気にしている、覚えているのであって、
他人はそこまでその人のことを気にしていませんよと、
誰も聞いていないし、
温かい目の重要性
気にしていないことをあえて恥ずかしいから言うというか、
弁明したいから、
本当はそうじゃなかったから言いたいと、
そういう気持ちも確かにあります。
ただこれは、
まあそうなんだぐらいにしか、
別にどうでもいいけどなというふうに、
そのぐらいにしか思っていませんから。
説明を求められない限りは、
仮にミスをしたとしても、
それをあえて言う必要はないです。
これをあえて言わないことによって、
時間の経過とともに、
相手の記憶からそれは忘れ去られていくことで、
覚えているのは自分だけですからね。
結果としてミスをしたのであれば、
その時は見ていたり聞いていたりしますから、
それは覚えているでしょうけれども、
時間が経てば自分以外は忘れるんだなというような、
そういう考え方を持って、
仮にミスをしたとしても、
それをわざわざ周りに説明弁明しようとはしないでください。
仮にそれをしている人を見たら、
またやっているなと、
仕方ないなと、
優しい気持ちで見守ってあげてください。
というようなところですね。
ミスや間違いというものは、
誰でもやりますから、
自分自身はそれを次の糧にして、
他人がやっていたのであれば、
それは温かく見守って、
わざわざ風潮しない、
風潮している人を見たら放っておく、
そういう対応をするとね、
また一つ人格が磨かれていきますので、
やっていきましょう。
はい。
ありがとうございました。
09:08

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