むらた
さあ始まりました、なんでも倫理ラジオです。このポッドキャストは動物と倫理のメディア、ASがお送りしております。
今回も引き続きこちらのお二人とお送りします。まず竹下さん。
竹下
はい、よろしくお願いします。
むらた
お願いします。
はい、そしてこうせいさん。
Kosei
はい、よろしくお願いします。
むらた
はい、よろしくお願いします。
今回は引き続き動物実験について取り上げていきます。
前回のパート1だと動物実験の実情的なところにフォーカスをして、
統計が行われている、いないとか、規制がどうなっているっていう話を聞きつつ、
まあ結構科学の現場のリアルみたいなところもちょっと感じられた回だったかなと思います。
で、今回のパート2は本題と言いますか、なんでも倫理ですので、倫理の面、良い悪い的なところにフォーカスをしてお送りしたいと思います。
はい、ということですけれども、竹下さん、動物実験は倫理学ではどのような議論がされているのでしょうか。
竹下
はい、まあ一番大きなのはやっぱりやっていいのかいけないのかっていうところですよね。
それの問いを扱う上でですね、いろいろやっぱり問題を複数に分けていって扱いたいなというふうに思います。
まず最初は、現状の規制ってどうなんですか。
それって現状の規制では十分なものになっているかどうかみたいなところを扱っていこうかなと思います。
それは前回のポッドキャストでも少し話しましたけど、現状の規制の一番大きな括りというのは3R。
復習すると、代替・削減・洗練・リプレイスメント・リダクション・リファインメントの頭文字3つを取ったRで3R。
代替というのは動物を動物じゃないものに置き換える。削減というのは動物の数を減らす。
洗練というのは動物の苦痛を減らす。そういうふうな枠組みだったわけですね。
なんですが、これで十分かっていうと、やっぱ十分じゃないよねって倫理学だったら言わなきゃいけないところもあるわけですけど、
じゃあどこが十分じゃないのかっていうところなんですね。
3Rにまず書かれてないことの一番大きな問題点としては、
代替もできません。削減もできません。洗練もできません。みたいな状況になった時に、
じゃあそれでもなお動物実験ってしていいんですか?しちゃいけないんですか?っていう指針は3Rだけからは何も言えないわけですね。
むらた
確かに。
竹下
だから本当はそれがもしかしたらもちろん人間の利益を目的にしているかもしれないけど、
本当に些細な実験のためだけに大量の動物を一気に犠牲にするのが必要なんですみたいなこと言われちゃったら、
3Rは何も言えなくなってしまうので、3Rだけではやっぱり不十分なんですね。
そこで大抵現代の動物実験倫理の規制の中で標準的に使われているのは、
前回も少しだけ話しましたけど、動物に与える危害、苦痛っていうのを上回るだけの何か利益、人間にとっての利益があるのかっていう、
標準的正当化ってこの回では呼びたいと思いますけど、
標準的正当化っていうのとセットで3Rっていうのは機能するっていう風に考えてもらうといいかなと思います。
そうすると人間の些細な利益のためだけに動物に多大な苦痛を与えるっていうのは、
人間にとっての利益、ベネフィットを動物に対してのハーム、危害を上回る、危害の方が大きくなっちゃうので、
そういう実験はできませんと、そういう風になるわけですね。
これがまず3Rに書かれてないことの問題ですけど、3Rに書かれていることの中での大きな問題点が一つ、
よく議論されるものがあって、それは3R内部で実は矛盾があるんじゃないかっていうものなんですね。
これは何かというと、リダクションとリファインメントが実はあまり整合してない、矛盾するというか衝突するんじゃないかっていう懸念です。
なんでかっていうのが問題なんですけど、例えばですね、動物って言ってもいろんな種がいて、いろんな認知能力を持っていて、
そうすると動物の種によっては苦しみの感じる度合いが大きかったり小さかったりする可能性がありますよね。
そういう時に、例えばここでは便宜的により認知能力の低いという言葉を使いますけど、
より認知能力の低い動物に置き換えることで、その苦痛の絶対的な量、大きさがもしかしたら減るかもしれない。
なんだけれども、その代わりに別の動物を使うと個体数をもっと多く使わなきゃいけない、みたいなケースがあり得るわけですね。
そうするとリダクションとリファイメント、削減と洗練がどっちを優先したらいいのかな、みたいな問題が生じるっていうジレンマになってしまう。
動物を減らすとその分苦痛が増えてしまうかもしれないけど、苦痛を減らそうとすると動物の数が増えてしまう、みたいな。
数を取ればいいのか、苦痛の量を取ればいいのか、どっちを取ればいいんだ、みたいな問題がリダクションとリファイメントの間、削減と洗練の間にはそういうジレンマが実はあるんじゃないか、みたいなことで、
3Rっていうのは統一した指針を出すことができないかもしれないねっていうのがちょっと言われたりすることがあります。
むらた
そっか、ぶつかるとは考えてなかったですけど、なるほど。
いわゆる認知能力を下げて動物を別の動物にして苦痛を減らしたとしてもその分実験に使う動物の数を増やすことになる。
竹下
これはリプレイスメントの広い意味でのリプレイスメントにも当てはまる問題ですよね。
その認知能力、リプレイスメントの狭い意味では動物実験を非動物実験に置き換えるっていう意味ですけど、もっと広い意味では別の動物に置き換えるっていうのもリプレイスメント。
ここでは先ほどと同じように認知能力の低い動物に置き換えるっていうのがありますけど、また同じくここでもリダクションとリファイメントとの衝突っていうのも生じてしまうということで、3R内部で一貫してない可能性がありますねっていうのは言われますね。
むらた
そうすると、それらの矛盾を乗り越える基準、理論みたいなところはどうなってくるんですか?
竹下
例えばですけど、一つには典型的な倫理学理論である功利主義とか権利論、いわゆる動物の権利ですね、みたいな基準を使うとか、あるいはそもそも人間の臨床試験で使われているような実験規制のレベルを持ってくる。
だから動物にだけ3Rっていうふうに適応するんじゃなくって、人間と同じような実験規制を持ってくることで、より一貫した形にできるんじゃないかみたいなことが言われることがあります。
じゃあ、次にそういう洗練されたあるいは発展した話に入っていこうと思いますけど、功利主義から始めていきましょう。
竹下
功利主義っていうのは何でも倫理の過去の回で何回も言及されている立場の一つですけど、
むらた
お得意の。
竹下
お得意の功利主義ですね。私大好きな功利主義ですけど、大雑把に言えば最大幸福、より多くの幸福を生み出すことが道徳的に良いこと、正しいことで、
より苦痛を増やすことが道徳的に間違っている不正なことだ、悪いことだっていうふうに考えるのが功利主義っていう考え方ですね。
功利主義の一番大事なところはいくつかあるんですけど、大きくこの動物実験の文脈だったら2つあるかなと思っていて、
一つは動物であれ、非ヒト動物であれ、人間であれ、平等にその苦しみを考える。その幸福とか苦しみっていうのを平等に計算するということがまず一つ。
もう一つは最大化。単に例えば人間の利益の方が上回っていればOKですではなくて、最大ですか、一番大きく増やしてますかっていうことが重要なんですね。
で、よくですね、動物実験理論のさっき私が標準的正当化って呼んだもの、つまり人間の利益の方が動物に与える苦痛よりも上回ってなきゃいけないっていうこの標準的正当化っていうのは功利主義的だと言われることがあるんですけど、
実は今の話をちょっと聞いただけてもわかるように結構違うんですね。で、違う箇所は何箇所か大きく3つぐらいあるかなと思います。
一つ目はまさにその平等にあんまり考えてなさそうっていうところで、その標準的正当化の中で人間の利益と動物の苦痛っていうのをどういうふうに比較計算するのかって明確ではないんですね。
大体倫理審査の中でそんな厳密な計算なんてしてるはずないので、ですけど、その適用するときにはですね、大体倫理委員会に参加している人とか動物実験してる人っていうのは当然種差別をおそらく支持しているだろうから、人間の利益の方をより大きく見積もってしまうわけですね。
そうすると功利主義のその平等主義的な側面とは標準的正当化というのは相入れないわけですね。
二つ目に重要なところは、功利主義は先ほども述べたように基本的には幸福と苦しみの問題しか考えないんですね。
だからこそ私はそれがいいところだ、シンプルでいいところだと思ってるんですけど、標準的正当化での人間の利益っていったときにこの利益って結構曖昧なんですね。
例えば、そうですね、アニマルテスティングだったら、それによって有効な薬の承認につながることで人間の幸福につながるんだ、みたいな話ができるかもしれないですけど、
もっと広いアニマルエクスペリメント、つまりテスティングに限らない実験の場合とかだと、
例えば人間に役に立つ知識が増えるから、その知識が利益なんだと言って、この知識という利益を得るためには動物の苦痛に与えることが正当化される。
知識を得られる利益の方がより大きいんだっていうような、そういう正当化をすることもあるんですね。
これ認識的利益っていう風に哲学の中だったら言ったりします。
なんですが、これは結構問題で、幸福、例えば喜びと苦しみだったら、なんか足し引きできそうじゃないですか。
できないって言ってる人もいっぱいいますけど、とりあえず直感的にはそんなにおかしい計算じゃないわけですよね。
なんですけど、知識を得ることの利益と苦しみと、どうやって足し引きすればいいんだろうっていうのがよくわかんないですよね。
それって単純な足し引きはできそうにないので、そういうところが実は標準的正当化はうまくいってないという風に考えられているところです。
だから、実は比較してるつもりで全然比較になってないんじゃないかっていう問題があって、この点は功利主義がより優れているところですね。
3つ目の問題点は、まさに功利主義は最大化を基本的には求めますけど、標準的正当化は上回っていればOKですっていう風に言うだけなんですね。
これが結構ですね、あんまりそういう議論を実験科学者がしているのはあんまり聞いたことはないですけど、
実は標準的正当化って何でも正当化してしまう余地が実はここにはあるんですね。
なんでかっていうとですね、例えば薬とかを新たに開発しますってするじゃないですか。
この薬によって将来いろんな人が生まれてくる中でその病気を患った人を治すことができますと。
そうするとですね、この薬によって達成される利益、潜在的な利益って人類存続している限りずっと増え続けそうですよね。
Kosei
確かに。
じゃあ絶滅する前提じゃないと計算にならないじゃないですか。
竹下
そうです。まさにその通りで、だからこの標準的正当化って上回ればOKって言うんですけど、
理論上の話としては実はほぼどんな状況でも上回る状況で作れてしまうっていう問題があるんですね。
だから標準的正当化って実は機能してないじゃない、理論的にもうまくいかないじゃないかっていうような、そういうのもちょっとあったりします。
Kosei
確かに。
むらた
そうか、じゃあ何を話してたんだ今までそれは。
竹下
もちろんこれは理論上の問題で、本当に動物実験やってる人たちがこれに気づいているかどうかっていうのはちょっと微妙なところですけど、
理論的な可能性としてこういう可能性が残されてしまってるっていうのは倫理学者としては望ましくないなって思うわけですね。
Kosei
確かに。
そう言われると何だったんだろうって思っちゃいますね。
竹下
その点功利主義は最大化と言ってるわけですね。
で、最大化っていう時にはこれはちゃんと他の選択肢と比較して最大じゃなきゃいけないですよっていうふうに言うわけですよ。
なので、例えば仮にですね、ある試験を使うことで人間の潜在的な利益が無限大になってますよってなったとしても、そういう選択肢って別に他にもあるわけですよ。
例えば代替法でできるんだったら代替法でも同じように薬作れるわけで、そしたらそっちだって無限大にあるわけじゃないですか。
人類絶滅しないとしたらですけどね。
でもそうすると無限大同士で相殺してくれればいいわけで、他の部分でちゃんと計算しましょうと。
例えば動物の苦しみをより小さくした方がいいよねみたいな話にもつなげていくことができるし、
あるいは本当この最大化っていうのはどう評価するかにもよりますけど、
実はそもそもそんな病気がこの後数千年も続いていく見込みが実はないかもしれなくてとか、
そういうこともちゃんと考慮しながらその最大化、つまり他の選択肢と、実験するかしないかだけじゃなくて、
他の選択肢とも比較して一番良い方法を選びましょうっていうのが功利主義の考え方なので、
標準的正当化よりは結構優れたところがあるのかなというふうに思っています。
じゃあこの功利主義でどうなるかっていうのが難しいとこですけど、
ここで例えばピーターシンガーというこの功利主義と動物の解放というのを提唱した当の人物がですね、
動物の解放で実は動物実験を認めているような文章がちょっとあるんですね。
それは何かというと、要するに類人猿ではないかな、猿を使った研究によってアルツハイマーに関しての何かしらの知見を得ることができると、
かつそれが他の手法には代替できない、やっぱり猿の脳内メカニズムを探索することによって達成されたものですみたいな、
かつそれによって救われた人がかなり多くいます。
しかも他の手法ではこの多くの人はまだ救われませんでしたみたいな科学者の言説を全部前提にするんだったら、
この実験は正当だったかもしれないっていうふうにピーターシンガーは認めるんですね。
ここが動物の解放を読んで、
例えばアニマルアクティビズムつまり動物擁護運動にすごくコミットするようになった人にとっては、
なんてことだってピーターシンガーは種差別側に回ってしまったのかみたいなことを言われてしまうところなんですけど、
ピーターシンガー自身やっぱり功利主義者としては、
場合によってもしかしたら動物を犠牲にすることが許されるかもしれないねっていうのは、
やっぱり理論的には認めなきゃいけないところだし、そういうことを書いているっていうのがこの動物の解放の動物実験のパートにはあります。
Kosei
なるほどね。
でもそれは差別っていうことではないんですよね。
シンガーとしてはあくまですごく平等にフラットにいたときにみんなが幸せなことでしょうっていう意見なんですね。
竹下
シンガーとしては別にチンパンジーとか実験対象にしなくてもよくて、
人間でもいいかもでとは言うわけですね。
Kosei
なるほどね。
竹下
でもそれこそもっと許容不可能というかね、もっと反直感的というか受け入れがたいものではあるわけですよね。
例えばシンガーが面白いのは、これはネット記事とかですけど、
竹下
当時コロナ禍、数年前コロナ禍だったときのワクチン開発のときに動物実験もマウス、ラットとかを対象にしながらいっぱい行われたわけですけど、
シンガーとかが一個ネット記事で書いてたのは、もっと人間ボランティアを増やすべきだっていうようなネット記事を書いてましたね。
そのあたりすごく一貫してるなと思いますけど。
Kosei
なるほど。
むらた
してますね。
Kosei
でもそれ思ったことありますね。
動物で実験するのってちょっと申し訳ないけど、じゃあ僕がやろうかなみたいな。
それこそ同意もできるしな、みたいなことは割と思ったりしたことがあるな。
竹下
まさにそこが権利論の一つのポイントになってくる、次に話そうと思ってる権利論のポイントになってくるところかなと思うので、
じゃあちょっと次の方に移っていきますね。
竹下
権利論、功利主義はやっぱり動物実験を許しちゃう時があるからっていうので、
なんてことだと、やっぱり功利主義はダメダメだと人々は思っちゃうわけですね。
私は功利主義を支持しますが、とはいえ動物倫理としてはもうちょっと強く言いたいところもあるわけですよ。
そこで出てくるのがやっぱり権利論、動物の権利っていう考え方になってくるわけですね。
そこだと動物の権利でどうやって守るかって言ったら、一つにまさに先ほど言った同意の問題です。
それは動物がまさに同意できない、非ヒト動物たちは実験に対して同意できないので、
同意できないのにすごく危害を加えるわけだから、それは権利を侵害してるよねっていう風になるわけですね。
でも他方で少なくとも同意能力がある、責任能力とかを持っている典型的な大人の人間であれば、
もちろん人権持ってますよ、人権、権利を持ってますけど、
同意することによって臨床試験とかに参加することが許容される、許される、
道徳的にも許されるし法的にも許されるわけですね。
だからこの点でその同意能力のあるなしというのを考えると、
どちらに権利があったとしても動物、非ヒト動物については同意できないからやっちゃダメだけど、
人間の場合だったら同意している人については臨床試験とかやってもいいかもね。
それは許されるよねっていうふうになっていくわけですね。
そうすると権利論から素直に議論するのであれば、
ほとんどの非ヒト動物たちは同意能力を持っていないと思われるので、
竹下
動物実験の全面的な禁止というのが素朴に考えれば出てくるということになるし、
これは動物擁護活動家とか、あれは我々にとっても嬉しい結論の一つには思われそうです。
むらた
そうすると逆に権利論が批判される場合っていうのはあるんですかね。
竹下
次にこの権利論、動物実験全面禁止で良さそうなんですけど、
実は動物実験全面禁止の望ましくなさっていうのはちょっとあったりするんですね。
それは何かというと、動物のための動物実験っていうのさえ禁止されてしまうという点にあるんですね。
例えば私たち犬猫と一緒に生活したことないですけど、犬猫と一緒に生活している人たちはもしかしたらいるかもしれません。
そうすると現代の犬猫っていうのはやっぱりいろんな病気にもかかっちゃうし、
日本だったらワクチンとかをちゃんと打たないとそもそも一緒に過ごせない、飼育できなかったりするわけで、
ワクチンとか等の開発されたその経緯はまさに犬とかで動物実験をしたからそうしたことが出来上がってきたわけですよね。
人間でいうとこの臨床試験に対応するような犬での臨床試験とか猫での臨床試験っていうのが行われてきたから獣医学も発展してきたわけですけど、
動物実験を全面的に禁止するっていうことは、それはすなわち将来例えばまだ開発されていない犬猫の治療法とかも開発できなくなってしまう、
それが防がれてしまうっていうような結果になりそうなわけですね。
ここで代替法があるじゃんって思いたいかもしれないんですけど、代替法でできる範囲のことっていうのは現状の技術レベルではまだまだ不足しているわけですね。
加えて人間でさえ最終的には臨床試験を絶対挟むわけですよ。
つまり人間でちゃんと最後に実験をしてそこで有効性と安全性を確かめて見事最終的に承認されるっていう風になっていくわけなんで、
動物実験が全面的に禁止になってしまうと、人間でいうところの臨床試験っていうのも動物でも行えませんっていう風になっちゃって、
動物にとって不利益になるっていうのが動物実験全面禁止論の一つの問題点としてあるかなというふうに思っています。
これは実はちょっと人間のケースにも似たようなところがあってですね。
人間の臨床試験ってさっきから人間臨床試験してますねって話をしてますけど、
臨床試験の対象になっている人間の属性構成って結構成人男性に偏ってるんですね。
そうすると、成人女性であまり臨床試験ってされてこなかったっていう歴史があって、
それによってその薬の効き目が実は男女違った時とかに臨床試験で男性だけ通ってそれでOKって出たけど、
女性では実はそんな有効じゃなかった、あるいは安全じゃなかったみたいなことがあり得る、その余地があったわけですね。
加えて、よく薬とか市薬品とか買った時とかに説明書とかを読むと、
妊婦とか子どもについては安全性が確立されてませんとか効果がわかりませんみたいな記述があるのを読んだことありますよね。
あれってまさに臨床試験で妊婦を対象にしてないからなんですね。
でもそれ困りますよね。
当事者にとっては困ってしまうわけですよ。
これが妊婦とか赤子とか人の子どもとか赤子に対して実験をしなかった、臨床試験をしなかったせいで、
その有効性と安全性が確立してこなかったわけです。
これはある種の全面禁止による不利益の一つなわけですね。
これは同様に非ヒト動物に対しても当てはまる。
つまり私たちと一緒に生活しているような犬猫とか、あるいはもっと小型の動物と一緒に過ごしている人たちもいると思いますけど、
全部動物実験、全面禁止しましょうってなると、
まさに犬猫とか一緒に過ごしている非ヒト動物に対して、にとって有効な薬とか治療法の開発っていうのが全部ストップしてしまって、
望ましくない結果になってしまうっていう問題が実は全面禁止論には含まれています。
むらた
その点、功利主義だったら、動物実験でちょっと危害があったりしても、
それを上回るこの他の治療薬とかが出てきて助かる動物たちがいればOKにできるんですもんね。
竹下
そうです。
功利主義いいと思うでしょっていう。
でもですね、権利論も別にそれで黙ってないんですね。
権利論側もなんとかその全面禁止論の不利益っていうのを認識している人も一部いてですね、権利論をいい感じに変えていこうとしている。
それによって権利論の内部で許容される動物実験のあり方っていうのを模索している人たちもいます。
なので次にちょっとその話に移っていこうと思います。
むらた
権利論の中でもいけるかもしれないんだ。
竹下
そうです。で、大きくですね、2つ、結果1つかな、大きく1つよく議論されているルートがあって、
それは小児研究、人の子供を対象にした臨床試験の倫理との比較なんですね。
人の子供も同意能力ないわけですよ。
責任を負えない、ここでいう人の子供っていうのは小中学生とか場合によって幼稚園児とかも含まれてくるかもしれませんけど、
そういった未成年の同意能力がないとされているような子供たちのことを想定しています。
そうすると小児医療特有、だから子供しかかからないような病気とかがあるわけで、
そうするとそれは大人で臨床試験したってしょうがないわけですよね。
なので、子供を対象とした臨床試験というのが現に行われています。
その場合には当然安楽死なんてしないし、当たり前ですけどね。
ちゃんと生きて返さなきゃいけないし、
場合によってはその子供にとってもちゃんと利益になるような仕方で臨床試験しなきゃいけないですよ、みたいな条件があったりとか、
この辺まだ小児医療の倫理っていう、それだけでトピックが倫理学の中であるんですけど、
そっちでいろいろ議論が盛んなところですけど、少なくとも同意ができないような子供であっても、
インフォームド・アセントって言って3位っていうふうに日本語だったら言ったりし、3位とか賛同って言ったりするんですけど、
同意よりは弱いけれども、ちゃんと子供もそれに臨んで実験に参加していて、
加えて子供が最終的に死んだりしないように、ちゃんと子供にできる限り被害を小さくした形で臨床試験をしなければならないと。
そういうふうな規制というか、すごく強い規制の中にあるんですね。
こうすると、ちゃんと人権と両立する仕方で、同意能力がないような子供に対しても臨床試験を許せる基準っていうのをいくつか作ることができます。
これを皮皮と動物にも適用しましょうというわけですね。
つまり犬猫とかであっても、最終的に安楽死なんてしないで、ちゃんと生きて帰らせる、ちゃんと生きて戻らせるし、
犬猫にとってできる限り被害の少ない苦しみの小さな仕方で、あるいは犬猫にとって利益になる仕方で臨床試験を行うということによって、
動物の権利の内部でも許容可能な動物実験っていうのを認めていく余地がある程度は作れるというふうになっていくわけですね。
むらた
なるほど、でもまあ小児実験との比較で、同じように動物に対してもできるかもねっていう話はできつつ、
わかんないですけど、功利主義とかでは許容できるような実験でも権利論でできないっていうことは変わらずありそうですね。
竹下
あるとは思いますね。やっぱ功利主義と権利論では認めるその実験の余地、範囲が結構変わったりはするとは思いますけど、
ただ重要なのはですね、今権利論の中でもその許容可能な動物実験っていうので、
安楽死とかしないでちゃんと最終的に保護者のもとに返すみたいな、そういう動物実験を想定しましたけど、
功利主義も権利論も現状のほとんどの動物実験については、いやダメでしょっていうところでは共通しているっていうのは言えてもいいのかなとは思っていて、
この手の功利主義と権利論が分かれるみたいなケースは、もっと動物実験の規制がガンガンに強くなったよりは、
動物擁護の人にとっては望ましい社会で、分かれてジレンマになるようなケースでちょっと分岐する、
功利主義と権利論では見解が分離するようなところはあるかなとは思いますけど、
現状はおおむねどっちの立場もほとんどの動物実験ってダメそうだよねみたいな感じのことは同意できているかなとは思います。
むらた
ここで署名の募集のお知らせです。
現在、NPO法人動物実験の廃止を求める会、認定NPO法人アニマルライツセンター、
PEACE 命の搾取ではなく尊厳を、の3団体が化粧品の動物実験禁止の法律を求める国会請願署名を募集しています。
関心のある方は概要欄のリンクからチェックしてください。
Kosei
ちょっとこれ聞くのが難しくてごちゃごちゃ喋っちゃうんですけど、
動物にとっても嬉しい動物実験っていうことがあるんでしょうか、みたいなことを聞きたくて、
例えば風邪薬を開発してますと、
効果を確かめるからには風邪をひいた動物に投与しなきゃいけないですよね。
それが効く確率がまだ70%ぐらいとかいまいちわかってないから実験するんだと思うんですけど、
それを上げたら70%で風邪が治るわけじゃないですか、その対象動物は。
もちろん動物実験にはいろんな種類があって、どれぐらい入れたら死ぬかみたいなこともあるわけで、
そういうのは絶対だめだと、倫理的には正当化されないと思いつつ、
適量を与えたときに治るかどうかを検証するような実験においては動物のためになることもあるのだとしたら、
そういう実験は正当化されるどころか多少推奨されるときもあるのかどうかみたいなことが気になりました。
竹下
まさにそれは、ちょっと話ずれたところから入っていこうと思うんですけど、
人間の臨床試験にもおいてもボランティアで募ることもありますけど、
常に病気の人を対象とした臨床試験というのも当然あるわけですね。
例えば新しい薬とか新しい治療法とかそういうのをまだちゃんとした最終的な承認は通ってないけど、
いろんな許可、同意のもとで臨床試験として行うみたいなことはあり得るんですね。
これは当人たちにとっても利益になることがあるわけですけど、
そういう場合の但し書きというか注意書きには当然その治療法、その薬の使用法という薬が本当にちゃんと確立しているわけじゃないから臨床試験をするわけで、
場合によってはもっと重篤な被害になってしまったりとか死んでしまったりということもあるわけですね。
そのリスクを承知で臨床試験に臨まなきゃいけないというような文脈があるわけですね。
これが推奨されるか、つまり人間の場合にこうした臨床試験が推奨されるかどうかというのは何とも難しいところではあるわけですね。
当人たちの同意があるからギリギリ許されてる範囲ですけど、同意なしにそれしていいんかみたいな問題はちょっとあります。
これは小児研究でも同じ問題が出てきていて、結局子供の利益になる、あるいは子供にとっての危害を小さくするけど、
それでも別にリスクゼロなわけではない。場合によっては死んでしまうかもしれないけれども、
でも臨床試験しないことにはその効果、薬とか治療法の効果が確立できないから、いずれにせよ誰かで実験しなければどうしようもないわけですね。
これと実験もだから同様におそらく当てはまるだろうと思うわけですけど、じゃあこれが推奨なのかっていうのは結構難しいラインですよね。
Kosei
なるほど。難しい。もっととっちらかしたことを言ってみたくなったんですけど、そもそも実験って何なんだろうって思ったんですよね。
で、例えば僕これを話そうと思って打ち合わせしてた話なんですけど、僕は化粧水をこないだ使ったんですよ。
ヒリヒリしたんですね。ヒリヒリしたんですよ。これを感じたときに、これ実験してんの?みたいな。
ていうか俺実験されてるじゃんって思ったというか、なんていうかその実験で発現するようなことが現れたんですよ。
で、そう考えたときに、いや改めて実験って何なのかなって思ったときに、ネガティブなことが起こる可能性がすごく低いことを確かめることじゃないですか。
でもやっぱりゼロじゃないからヒリヒリしたりしちゃうわけじゃないですか。
ってなったときに、実験中の化粧水と実験後の化粧水ってリスクの数字しか違わないんじゃないかっていうふうに思ったんですね。
実験前の化粧水は70%ぐらいで、わからないけどちょっとわからないっていう。
実験した後は同じものなんだけど、かなり確率が低いから大丈夫って一応うちが保証しますって言ってるだけみたいなものだとしたときに、
実験前と実験後みたいなものがあんまりうまく区別できないんだとしたら、
例えば権利論みたいな視座から考えたときに、リスクが70%だったらそれを投与することは相手を手段化してて、
リスクがゼロに近いんだったらそれは手段化してないみたいなことになるのかとか、
そういう数字の話になっていくのか、権利論がみたいなふうな疑問を持ったんですね。
だから結局のところ、権利論においてその実験と実験じゃないものの区別みたいなものをどう考えるのかなみたいなことが今不思議に思ってるっていう感じです。
竹下
一つには、それは理論上の問題というよりは多分実践上の問題で、
どこかに例えば閾値、どっかの基準っていうのを設定して、
それをクリアするかしないかみたいなところで、どうしても実践上を線引きしなきゃいけないっていうのはあると思うんですよね。
結局、アニマルテスティング、動物実験もそうですし臨床試験もそうですけど、
ある一定のいくつかの安全性試験であったり有効性試験であったりってこの基準をいくつかクリアして、
ようやくそれで証人が降りるっていう形になるわけなんで、
これは制度的な問題あるいは実践上の問題として、権利論の落とし込みと具体的な現実の文明の落とし込みの一つの方法として基準を設定するっていうのはあるかなと思います。
いろんな化粧品とか医薬品とかもそうですけど、
とはいえあなたにもし副作用とか出たりしたら、直ちに手法を中止して医者の元に行ってくださいとか、
そういう注意書きが振られているわけじゃないですか。
我々の実験ってどうしても統計的な話でしかないんですよね。
その一定の薬を投与したグループと投与しなかったグループあるいはプラセボグループと比較して、
ここに有意差があるのかないのかとか、そういうレベルで統計としてマスの割合で判断するしかないので、
個人差というか例外的なケースっていうのが出てきてしまうっていうのは現状の制度上というか、
実験科学の性質上しょうがないところ、しょうがないって言って済ませていいかっていう問題ももちろんありますけど、
そうなってしまうようにはなっていると思います。
Kosei
そう考えると意外と僕らも実験動物といえば実験動物、もちろんすごくリスクの低い実験だけど、
やっぱり特定の薬がすごいたくさんの人のうち1人ぐらいになんかすごい嫌なこと起こるかもしれないし、
でもまあ飲んでるわけですよね。
竹下
これもっと難しいのはワクチンの副反応の問題とかですよね。
公衆衛生上の問題として、じゃあワクチンが一定の安全性と有効性が認められましたってなって、
まあ有効性の方はいいですよ、効かなかったら効かなかったで、ちょっと悲しいですけど、
どっちかっていうと問題なのは安全性の方で、
やはりワクチンによって死んだ人がいるっていうよくないくつかの事例がネット上とかで検索していれば当然見つかりますし、
それをもとにワクチンに関して陰謀論が起きるようなことを主張する人もいると思うんですよね。
私はそういう主張自体は一定程度理にかなったところというか理解可能なところはあるかなとは思いますけど、
もうちょっと政治の問題として、ワクチンによって死ぬ可能性がある人っていうのは絶対にいるんですよ。
しかもワクチンを強制、まあ日本は強制ではなかったですけど、一部の国には強制的に打たせるっていう方針を出してたところもあったわけですよね。
そうすると数万人どころか数百万人単位でワクチン打たせるわけですよ。
そうしたら例えばリスクが例え0.01%とかでも数百万とか数千万の単位でワクチン打てばどっかで絶対誰か死ぬんですよね。
でもその誰かは不特定ですけど誰かは死ぬわけですよ。理論上は。で実際死ぬわけですよ。
でもそれが必要になるわけですね。ワクチンの有効性から考えればそこで功利主義的に比較するのであればワクチンは打つべきだっていう風になるわけですけど、
いやその数パーセントあるいは0.何パーセントによって人が死ぬこと自体が問題なんだという風に考える場合には、
例えばこうしたワクチン問題とかに対して仮に政府の陰謀論とかないという風な前提に立ったとしても、そうしたワクチンの強要というのは望ましくない。
それは誰かを死ぬリスクにさらすことを政府が許容しているんだっていう風な議論をすることもできますね。
でもこれは他方でワクチンが有効だという前提に立つんだったらワクチン強制しないことによって生じる様々な危害。
つまりコロナの場合だったら多くの人がもっとコロナにかかる可能性と天秤にかけなきゃいけないことになってしまうわけですね。
Kosei
なるほどですね。
この実験のことを基本的には人ごととして先ほどは話してきましたけども、我がこととして考えるとまた違った印象になるなと思ってます。
竹下
本当にその通りだと思いますね。
この問題というのが実はもっと大きな問題につながっているんだということも同時に抑えておかなきゃいけないことかなとは思いますね。
むらた
面白いですね。政治が功利主義的に回っているのか、権利論っぽく回っているのか。
交錯してぶつかっているんだなっていうのをふわふわと感じてました今。
そうかそうか。
じゃあちょっと話戻りますけど
さっき権利論的に行くにしても功利主義的に行くにしても、わりと今行われている動物実験の多くは否定されることになるだろうということでしたけど、
どのあたりがラインなんですかね、それぞれ。
特に功利主義の方が許容するもの多いと思うので、どういう実験なら許容されるんですかね。
竹下
もちろん個別の文脈にも依存するとは思いますけど、
例えば基本的に人間にとってそんなに利益にならないもの、例えばまさに化粧品とかそうですよね。
ヴィーガン化粧品これだけもう世の中にあって、すでに動物実験、過去の動物実験を参照するだけで十分確立された知見が得られるようなものにもかかわらず追加で実験をするみたいなことは、
全く許容できない範囲になってくるんじゃないかなというふうに思いますし、
あと、アニマルテスティングの文脈だけじゃなくて、アニマルエクスペリメント、もっと広い動物実験というのを踏まえると、
例えば教育目的で動物を実験の対象にするっていうことも功利主義的にも結構難しい。
仮に現状いろんな教育の代替法とか出てきたりとか、
確かイギリスの大学だったかな、獣医学コースで一切動物実験とかを経ずに獣医免許ライセンスを取れるようなカリキュラムコースがあるらしいんですけど、
そういう形で、教育の中でも動物実験の置き換えというのがちゃんとできてきているわけですよね。
だから、こういうのに関しては動物実験は全面、全くもって正当化されないだろうということは言えると思います。
加えて、功利主義が私がいいなって思っているところは、
代替法の確立の方にもっと予算を継ぎ込むべきだっていうことがおそらく言えるだろうということですよね。
現状の動物実験、多少は今はしょうがないかもしれないけれども、予算配分の分配がおかしいだろうみたいなことはおそらく言えるはずで、
政府とかあるいは科学コミュニティ全体として、現状動物実験に立脚したパラダイムの中にある、
動物実験に立脚しないとそもそも論文を書けないような現状にあるわけなので、
そのパラダイムそのものを変えていかなきゃいけない。
それのためには代替法の確立であったりとか、この代替法の中にはインビトロ、
日本語だと試験管内って言ったりしちゃいますけど、
細胞レベル、動物の個体を使わないような動物組織を使うレベルの実験に置き換えるとか、
インシリコって言ってコンピューターシミュレーションの方法とか、
あるいはもうちょっと最近の研究になってくるとオルガノイドって言って、
臓器単位でそれだけをちょっとミニチュア臓器とか言ったりするときもありますけど、
単なる細胞とかじゃなくて臓器を模したようなミニチュアな組織体を使った実験とか、
あるいは功利主義者としては同意が取れる人をもっとボランティアで実験探すといいんじゃないとか、
そういう形で置き換えを進めていく方に予算をつぎ込みましょう。
お金をつぎ込むことでより多くの幸福、ここで言うとどっちかというと動物の苦痛を減らす側の方がメインですけど、
っていうことを承認していくだろうと。
ただそれができない領域とかになってきたときには比較考慮をしましょうと。
だから本当にそのある動物の個体をどれぐらい犠牲にすることで、
どれぐらい救われる人の見込みが出てくるのかっていうのをちゃんと計算しましょうと。
単に知識が得られるっていうぐらいの利益では全然動物実験ってのは正当化されなくって、
ちゃんとそれが人間の幸福、あるいは人間だけじゃないにしても幸福苦痛を感じるような主体にとっての利益と
ちゃんと比較して計算をしましょうっていうことを進めていくと。
で、いうことになるかなって思います。
むらた
そうですね、話聞いててそういえばと思いましたけど、
さっきの話で人類が存続する限り利益が上回るみたいなことは言えるけど、
でも功利主義はただそこだけじゃなくて最大化っていう、
むらた
それが本当に選べる選択肢の中で利益を最大にするのかっていうところがポイントということだったので、
今あるやつを良い悪いってその場でパッて言うっていうことよりも、
もっと代替法でより最大になる方を探っていきましょうとか、
ちゃんと計算して、各選択肢を計算していきましょうっていうところにいくんだなと思いました。
竹下
はい、そうなると思います。選択肢を新たに作り出すっていうこと自体の選択の幸福最大化っていうのも計算したりするわけです。
それはすなわち代替法の確立とかなわけですけどね。
面白いですね。なかなか計算が難しいところなんだろうなというのもかなり想像するところで、
やっぱり今思いつくのがベストか分からないじゃないですか。
もう少し、もっと考えたらもっといいの思いつくかもしれないし、なんかアイデア勝負なところもあるし、
けど、まあそんなずっとアイデア出してるわけにもいかないし、
考えたときに最大を、これが最大だろうって決めるのもなかなか難しいところがあるのかなと思いつつ、
まあでも、いい指針なんだろうなとは想像するんですけど、
なかなか現場的には難しさも存じないと思いました。
むらた
ほんとですね。
竹下
結構こう、功利主義的に考えるときって制度と個人を分けて考えるときがあるんですけど、
制度設計のレベルとか、つまり行政とか政治家がどういう意思決定をするべきかっていうときには、
まさに予算配分の問題であるとか、制度を設計するとか、規制をどれくらい強めると、
どれくらい幸福と苦痛をどう増減するかみたいなことは、
まさに政治家っていうのは大体そういうことを念頭に置きながら、
それと人権ともちゃんと整合しながら、そういう意思決定をするわけですけど、
それは比較的ちゃんとデータを集めてじゃあ考えましょうみたいになっていくわけですよね。
そこでまさに政府統計が動物実験の場合必要ですねってなってくるわけですけど、
そういうデータをちゃんと集めるっていうのも功利主義の場合は重要だよねってなっていきますよね。
でももちろん科学者個人にとってその功利計算するっていうのは非常に厄介なんで、
そこは私としてはもうちょっと政治のレベルで頑張ってほしいかな、つまりちゃんとデータを揃えるとか、
あとはその科学者個人の内部であっても科学コミュニティのレベルで自主的な規制のレベルをもうちょっと強めるであったりとか、
あとはそのあんまり代替法って当然その教育カリキュラムの中でちゃんと教えられるわけではないので、
その代替法の使い方、そもそも代替法の存在を知らない可能性もあるし、
知っていてもそれどうやって使えばいいかわかんないから結局動物実験しちゃうみたいなことも当然あるわけで、
だから代替法としてどういうものがあるかっていうのは、例えばね、検索システムみたいなものがあるともしかしたらよかったりするかもしれないですよね。
Kosei
絶対いいじゃないですか、それ。
竹下
まあそういうところでね、AIとかが使えたらいいなって私は思ってるんですけどね。
Kosei
もう今すぐにでも作ったほうがいいんじゃないですかね(笑)
確かにね、なるほど。
結構やれることはあるんですね、今最大化しようっていうふうに考えているときに。
竹下
いろいろあると思います、工夫は。