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心の愛なる皆様、アロハです。愛です。今日は8月の8日、火曜日の11時15分ぐらいかな。
朝ですね、Pちゃんを太陽光の下に晒すという時間を過ごしております。
8月8日というとですね、お好きな方はご存知の通り、ライオンズゲートの期間で一番ね、
シシザー太陽エネルギーが宇宙からね、パカンと降り注ぐ絶好調の火ということで、
皆さんね、アファメーションしたりと、瞑想したり、儀式したりということでね、いろいろとお忙しいかと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。
私も割とね、そういう宇宙的、星的お祭りとか好きなんで、結構乗っかるんですけど、まあまあね、でもね、もうやること変わらないっていうか、
望み掲げている世界も変わらないし、コツコツね、日々何するかっていうこともね、分かっているし、日々積み重ねつつ、昨日より良くしつつ、
最高を描きつつ、最悪を想定しつつ、最善を尽くすっていうね、もうそれしかないなーっていうね、半ば諦めに近いようなね、境地にね、至っているような次第でございます。
はい、そんなわけでね、今日も地味にピーちゃんと日向ぼっこしてるんですけど、日向ぼっこっていうか、今日はちょっと曇りですね。
でもまぁちょっとね、風に当ててあげないと、お部屋の中ばかりいるとね、人間と同じで、ピーちゃんもね、
どうなのかなーということで、朝のこの時間にね、鳥籠出してきて、私もお外でね、日向ぼっこしながら単語、英単語のね、練習してるんですけど、
まぁこの英単語がさ、昔どうしてたんでしょうね、受験の時とかってね、まぁとにかく詰め込んでましたけど、若いのにね、
とにかく最近本当になんかこう覚えられないっていうかね、どんどんどんどん抜けていくというか、
まぁ実践的になんだろうな、本当にそういう対話みたいな、日常会話じゃなくて、そういう対話ができるね、英語で対話ができるお相手がね、近くにいればね、
なんだろう、
ね、英語もね、英単語もね、必要な英単語もどんどんね、更新されていくんじゃないかなって思うんですけど、
まぁなかなかまだまだ引きこもっているのでね、 ちょっとどうしてもこういうふうにコツコツね、英語の勉強しがちですが、
まぁでもそろそろね、ご近所さんになんかそういうね、ちょっとお話しできるようなお仲間なんかもね、増やしていきたいなぁと思ってるんですけど、
まぁなかなかこの1年の引きこもり癖が直らない私でございます。
はい、なわけでね、今日はね、あの声の話をしようかなと思ってて、声ってまぁこのポッドキャストも声なんですけど、
今日ね、私の日文村のお仲間の綾子Pのね、あのポッドキャストの番組の一つである平日回帰ファイルのね、火曜日担当なんですよね、綾子Pが。
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で、今回のエピソードでは彼女が九州のね実家に帰られているということでね、文庁の取り籠、文庁と一緒にね、里帰りされているということで、
なんかね、すごい面白かったんですけど、まぁおじいちゃんもね、おばあちゃんもお母さんも、みんな家族がいるんで、あのお風呂場でね、レコーディングしてるっていうね、面白い回だったんですけど。
で、その綾子Pがですね、最近フィールドレコーディング?フィールドレコーディングって言うんですか、なんか自然の中でね、マイク持ってって、
周囲の音を録ったりとかいうものにはまっているということで、今回そのラジオでね、配信されてたのが、その綾子Pのね、100歳のおばあちゃんをね、囲んだ、いつものね、食卓の風景の音っていうのをね、
あの、ただ配信してらっしゃいまして、本当になんていうのかなぁ、本当普通の家族の日々のね、日常の会話というかね、ご飯食べながらね、これ誰が食べたんだとかね、どうのこうのってね、あの家族がね、なんだろう、いいですよねあれ、めっちゃいいなぁと思って、
なんかこう私たちって会話、誰かと会話するときって、なんかこう有益な情報をね、提供しないといけないとか、面白くしなきゃいけないとかね、
なんだろう、ちょっと間が空いたらちょっと気まずいなぁとか、いろいろあると思うんですけど、家族の中のそれって、家族の中のその会話って、本当にそういう気遣いなく、しょうもないこと思ったことだだ漏れだったりとか、
本当気遣わずに、なんかもう言いたいこと言っちゃったりとか、でそれに対して特にね、気にする様子もなく、はははみたいな、っていうか聞いてなくて、どんどん自分のね、言いたいことばっかり被っていっちゃってるけど、なんとなくそれでね、誰も気にせずね、成り立っちゃってるみたいなね、
なんかそういうね、なんだろう、本当に家族ならではのね、日常の風景がね、そこにあったんですよね、アヤコピーのね、ご実家のお食事風景音声の中にね、
すごい美しい、美しいというかね、なんかいいなぁって思って、すごいいいなぁと思って、で、私一つ思ったのは、私の母は10年前に亡くなっているんですけど、その時iPhoneとかガンガン使っていたはずなのに、なぜか母の声とか、母のビデオとか一切撮ってなかったんですよね。
それをね、私の父とか、私自身もなんか非常にね、なんで撮ってなかったんだろうっていうか、後悔してまして、今はね後悔っていうほどでもないんですけど、なんで撮らなかったんだろうって、不思議なんですよね。
でももちろんね、あの風景とか、あの母の声もね、あともっとずっと前に亡くなったおばあちゃんの声とかも、自分の頭の中では再生されてるんですけど、
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頭の中で再生されてるんだけど、それがなんていうか、その今回のアヤコピーのフィールドレコーディングみたいに、その母だけじゃなく、母の声だけじゃなくて、母とその周囲にいる私たちのその風景そのままみたいなものが、もうこの世のどこにもないっていうね、ことがね、なんかすごい寂しいなぁと思って、まあそれ本当に一つの詩ですよね。
この世界に存在しないっていう、まあもちろん肉体が存在しないことの詩っていうのもあるし、あとはまあ私たちの記憶の中に生きてる、それが私たちがその記憶の中に母を生かしていた私とか父とか弟とかっていうのが、この世の中から全部消えることで、まあ母の記憶自体もなくなっていくっていうね。
母のね、そう、人には二つ詩があるって、肉体の詩と記憶の中にある存在としての詩っていうのが二つあるっていうね。それがまあそのレコーディングなり、ビデオなりっていうもので、そのデジタルでもね、物質なのか、波動なのかちょっとわかんないですけど、デジタルとして残っていれば、何かしらね、その子孫たちがこういう人がいたんだとか、こういう名前のこういう人がね、
これこれこれこれぐらいね、遡ったところのおばあちゃんがこんな風な声でね、話してこんな風にね、人々とね、おしゃべりしてね、こんな風なこと考えてたんだなぁみたいなことが、別になんかこう偉いこと、すごいこと言うわけでもなく、ただそういう人がいたんだっていう記憶が消えてなくなってしまうっていうことのね、
なんか寂しさ、寂しさっていうか、寂しくないんだけど、そういう風に溶けていくんだなーっていうことを実感している次第です。なんだけど、まあこういうふうに私たちみたいにポッドキャストしてたりとか、まあ今なんかね、私も毎日毎日子供の写真とかビデオとかバンバン撮ってるし、
残していくっていうことはね、してるわけなんだけど、10年前になぜそれをしなかったのかなーっていうことをね、しみじみと考えているわけです。いいよね、家族の会話ってね。私もたまにね、その一人暮らしの父のところに1年に1回は里帰りするもんで帰るわけなんですけど、
まあ、父もね、本当に年々年を重ねていって、もうどんどんね、生きる記憶がなくなっちゃってね、昼夜逆転しちゃって、なんだろう本当に、ここに家に耐えないような状況なんですけど、まあ生きてくれてるだけでもね、ありがたいなということで今は見守ってるわけなんですけど、
まあそういう父と会話とかね、里帰りした時の父との食事の風景とかも、なんていうのかな、レコーディング記憶どこかにね、とっておこうかなというふうにね、思ったりしているわけです。
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まあ何なんでしょうね、記憶ってね、本当に。なんかね、母が亡くなった時に父が本当に落ち込んじゃってね、まあリタイアしてたし、他にね、何にもそんなになんていうかな、こういう関係もないし、まあお母さんがいればそれでいいやみたいな感じの人だったんで、
本当にね、お母さんがいないんやったらこの世に生きてる意味はないみたいな感じで、ほんとしょんぼりしちゃってたんですけど、でね、そこで私が、なんだっけ、人は死なないだったかな、八坂直樹さんだったっけ、
臨床心理師じゃなくて、臨獣のホスピスとか、本当に命の末期にいるね、人たちのケアをするお医者さんと、あとすごいね、斬新な葬儀屋さんの対談みたいな本があったんですね、人は死なない、人は死なないだったかな、そういう対談の本がありまして有名な。
それが命っていうのはどういうふうに肉体から離れていくのかとか、そしてその魂っていうのがどういうふうにその残された人たちに影響を与えて、それを儀式としてね、もういないんだよ、いる、その人がいる世界からいない世界へと移行するための儀式としてお葬式っていうのはすごい大事なんだっていう、
だから送られる人のためだけじゃなくて、その送る人のための儀式なんだよっていうお葬式がね、っていうようなそのお二人の対談の本がありまして、それがね非常にいいなっていうのがスピリチュアルすぎず、私たちこの地球に生きている地球人であるところの私たちにとってすごいね、命とは何なのか、その命が肉体から魂が離れた時にどういうふうなことが起こっていくのかっていうのが非常にわかりやすかったんで、
まあそのね、母が亡くなって落ち込んでるお父さんのね、横にね、こういう本あるでって言って置いといたんですよね、こたつの上に、でももちろんそんなもん知るかって言って全然読まないわけなんですけど、最初はね、でもなんかね、ほっといたら、そんな無理しすることなくほっといたら、なんかいつの間にかね、その本を手に取るようになってきて、父が、もともと父本好きなんでね、
である日ね、なんかそれ読み終わったみたいで、でなんかその本の感想っていうよりは、なんか父がね、言ったのが、いやなんかお母さん、この自分の記憶の中にそのお母さんがいるっていうことで、お母さんはまだ生きてる記憶の中でね、それが自分の生きる意味なんじゃないか、みたいなことを言い出してね、お父さんが
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そう、だからスピリチュアルとかね、その魂の話とか本当にまあ、ザ・昭和のね、あの親父さんだしさ、ほんとそういうね、話とかも全然ね、もうシャットアウトするようなタイプ、ザ・昭和のおっちゃんだったんですけど、今おじいちゃんですけど、お母さんが自分の記憶の中にいることでお母さんはまだ生きてる、それがね自分が生きることのね意味なんじゃないか、だから自分は生きる必要がある、生きる意義がね、まだあるっていうことでね、言ってたんですよね、その本読んで
だからもう私は非常にびっくりしたんですけど、そういうふうに人はね、変わっていくもんだなぁと思って、だからまあレコーディングはね、してなかったわけなんですけど、まあまだね、父のね、記憶の中に母はいると、私たちの記憶の中に母は生きてるということなんですよね、そうそうそう
だからまあ父とね、LINEで電話したりとかするんですけど、やっぱね、なんかもう何もかもやる気ないわーみたいな話ばっかりなんですけど、でニュースも変な事件が日本も変な事件が多くても、もうなんかようもスウェアーみたいな話ばっかりしてるんですけど、でもなんかね、母の昔話するとなんかこう笑顔が出たりね、なんだろう、ちょっとね、正気を取り戻すっていうかね
だからやっぱり大事なんですよね、こうやって昔話したり思い出話したり、その記憶の中にあるレコーディングというかね、それを大切にするっていうのは非常に大事なことだなぁというふうに思うわけです。まあそういうふうにね、あの活かされてるんですよね、私たちって
まあ今この瞬間を生きるとかね、未来っていうの、過去も未来もなくてね、今この瞬間の連続なんだよっていうね、いうふうによく言いますけど、でもこの今瞬間の中にね、全てのね、その過去現在未来、そしてね
あのなんだろう、今なんだろう、私の肉体が感じるところの私が感じるだけの現実じゃなくて、ありとあらゆるね、あのポテンシャルっていうものが十方無尽に開かれていて、まあそれをパラレルワールドって言ったりすると思うんですけど、だから過去現在、過去と未来だけじゃなくて、そのパラレルワールドあらゆるね
可能性のあるポテンシャルが開かれたところの多数のね、現実みたいなところも、全部全部全部含めてのギューって凝縮した点が今だと思ってるんで、そこをねずっとね、あの選択しながらね、どっち行く、こっち行く
カツ丼食べる、それとも天丼にする、みたいなところのね、今日何するかのね、選択でね、この点々を渡り歩いているね、私たちなんですけど、だから今ここを生きる私たちを支えてくれているのがそういうね、レコーディング記憶でもあるなーっていうふうに改めて思いました
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でもその食卓の音がね、すごい素敵だなーっていう、そういう風に録音するっていうのも素敵だなーって思って、本当に何気ないように思える、そういうね、日々のね、暮らしとか日々の、私がこうやってピーちゃんとね、椅子に座ってこれを録画しているってこともそうだし、ゆたろうとね、ギャーギャーね、神々母ちゃんなりながらね、過ごしているっていうこともそうだし
過去を懐かしんだり、未来を望んだりするっていうことと同じようにっていうか、それ以上に今ここにあるどんな瞬間も、本当にね、世界の記憶の未来のどこからか見たらね、本当に素晴らしい、めちゃくちゃね、もう恋しい、懐かしい過去かもしれないし
で、過去の私から見たらね、なんか本当に全部の夢が叶ってね、最高の、何だろうな、そう望む世界を体現している状態なのかもしれないし、全部フラクタルだなーというふうに思うわけです。
はい、というわけで、なんてこともないようなことをね、しみじみとおしゃべりしましたが、引き続きライオンズゲート、何だろう、でも別に特別なことするっていうわけじゃないんですけどね。
まあコツコツとね、今日生きていこうと思います。
というわけで、今日も引き続き皆さん、良い1日をお過ごしください。バイバイ。